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火の山の若君は、未来を夢に見る ~阿蘇家嫡流の若君、名臣甲斐宗運と乱世を切り拓く~  作者: アトラス


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第百九十八話 民惟邦本

 天文二十一年(一五五二年) 正月


 阿蘇の館には、朝から人が集まっていた。


 正月の祝いのためではない。


 年の初めの大評定である。


 広間には、主だった者たちが並んでいた。


 阿蘇惟豊。

 阿蘇惟種。

 甲斐宗運。


 甲斐親英、北里政久、名和行興。

 相良晴広、島津貴久、島津日新斎。

 龍造寺家宗、鍋島信房。

 吉弘鑑理、大友隼人。

 鍋島種茂、島種清、島津義久。


 ほかにも、府内、肥前、筑後、日向、大隅、有馬、大村、平戸、博多筋より、それぞれ重きを担う者が座にいた。


 名を挙げれば、きりがない。


 それだけ、阿蘇が大きくなったということでもあった。


 惟種は、正面に置かれた地図と帳を見た。


 多い。


 人も多い。

 文も多い。

 責も多い。


 できれば、逃げたい。


 だが、今日は逃げられない。


 惟豊が上座で静かに座っているからである。


 惟豊は、場を見渡した後、短く言った。


「今年のこと、惟種より申させる」


 広間の空気が、すっと締まった。


 惟種は、思わず父を見た。


 惟豊は何も言わない。


 ただ、任せた、という顔をしていた。


 惟種は腹を括った。


「では、始める」


 その声に、宗運が深く頭を下げた。


「殿」


 惟種は、一瞬だけ止まった。


 殿。


 いつもの若君ではない。


 種茂も、種清も、義久も、今日だけは同じように頭を下げている。


「まず、外のことだ」


 惟種は、地図の西へ目を向けた。


「大内、陶、毛利、尼子。いずれも火種を抱えておる。山口の名、安芸の動き、出雲の影。小競り合いもある。だが、今すぐ阿蘇の門を叩く火ではない」


 吉弘鑑理が静かに頷いた。


 龍造寺家宗も、鍋島信房も目を伏せている。


「陶からも、毛利からも、こちらを見る文は来ておる。尼子の動きも、商人と寺社筋を通じて入っている。西は見る。だが、こちらから火の中へ手を突っ込む時ではない」


 惟種は、珠光の名を出さなかった。


 大内の血は、阿蘇の内にある。


 だが、この場でそれを重く言えば、話がそちらへ寄りすぎる。


「今は、内を固める」


 宗運が頷いた。


「その通りにございます」


「次に内だ」


 惟種が言うと、宗運が前へ出た。


 板の上に、いくつもの木札が置かれる。


 肥後。

 筑後。

 肥前。

 豊後。

 日向。

 大隅。

 平戸。

 博多。


 そして、道、港、蔵、学び所、警邏方、寺社。


「各地の人別帳、田畑帳、蔵帳は、まだ粗いところもございます」


 宗運は淡々と言った。


「されど、以前よりは明らかに整っております。村ごとの人、田の広さ、出せる米、必要な種籾、夫役の割付、蔵に入るもの、出るもの。いずれも、少しずつ阿蘇の帳へ入っております」


「肥前も、まだ火種はございます」


 鍋島信房が言った。


「旧勢力の名に寄る者、港の利を手放したくない者、南蛮の荷を隠したがる者。おります。されど、大きくは動けませぬ」


「民が乗らぬか」


 惟種が問う。


「はい」


 鍋島信房は、はっきり答えた。


「阿蘇の触れは厳しゅうございます。ですが、飯も出る。薬も入る。道も直る。子は学び所で粥を食う。民は、前よりましだと見ております」


 宗運が、静かに補った。


「武士は名で動きます。民は腹で動きます」


「いつ聞いても身も蓋もないな」


「蓋だけで米は炊けませぬ」


「そうだな」


 座の端で、わずかに笑いが起きた。


 だが、すぐに静まる。


 宗運は次の札を置いた。


 草。


 その一字だけであった。


 惟種は、それを見て少し目を細めた。


「手の者か」


「はい」


 宗運は、声を少し落とした。


「道、港、市、寺社、商家、湯殿。人が集まるところには、耳が要ります。噂は銭より早く動きます。漏れる文は、刃より深く刺さります」


 日新斎が静かに笑った。


「まことに」


 宗運は続けた。


「これまでも手は置いております。されど、阿蘇が大きくなりすぎました。今の人数では足りませぬ。草の者、聞き役、目付、文改め、港の見張り、商人筋の耳。増やすべきかと」


 種茂が真面目な顔で言った。


「殿の動きも、より多くの者に見られております。外からの目も増えました。守るには、先に知ることが肝要です」


「銭は惜しむな」


 惟種は即座に言った。


 場の者たちが、少しだけ顔を上げる。


「神屋の荷は動いている。博多、府内、平戸、有馬、大村の荷も太くなってきた。九州内の税も、今年からは増える。蔵は回る」


 惟種は宗運を見た。


「耳を惜しんで国を失う方が高い」


「承りました」


「だが、一つ忘れるな」


 惟種は、草の札を指した。


「民を縛るための耳ではない。火種を早く知り、火になる前に消すための耳だ。民を疑いすぎれば、国の根が腐る」


 宗運は、深く頭を下げた。


「心得ております」


「ならよい」


 惟種は頷いた。


「次に、銭でございます」


 宗運が言った。


 別の板が出される。


 そこには、阿蘇の印を刻んだ銭の絵と、蔵、替所、道の線が書かれていた。


「殿がかねて申されていた、銭の定めと預り蔵。始める時でございます」


 座が、少しざわついた。


 島津貴久が口を開く。


「銭を定める、とは」


「阿蘇の内で通す銭を、阿蘇が定める」


 惟種が答えた。


「まず名を決める。銭、銀、金、蔵、替所、山の利を束ねる役を置く」


 惟種は、少し考えてから言った。


「阿蘇蔵省……」


「殿」


 宗運が即座に止めた。


「早いな」


「省、は重うございます。朝廷の官の名にも触れます。表向きは阿蘇大蔵方。中の本蔵を阿蘇本蔵といたしましょう」


「また名を削られた」


「整えたのでございます」


 惟種は少し不満そうにしたが、すぐに頷いた。


「よい。阿蘇大蔵方だ」


 宗運は板へ札を置いた。


 阿蘇大蔵方。

 阿蘇本蔵。

 鋳銭方。

 金銀方。

 替所。

 銭改め役。


「これらを立てます」


 宗運は言った。


「阿蘇本蔵に金銀銅を集め、鋳銭方が阿蘇銭を打つ。金銀方が金銀の出入りを改め、替所が古銭、悪銭、他家の銭を阿蘇銭へ替える。銭改め役は、市と港にて欠け銭、薄き銭、偽銭を改めます」


 相良晴広が眉を上げた。


「阿蘇の銭以外は、使わせぬということでございますか」


「いずれは、そうする」


 惟種は、はっきり言った。


 広間が静まった。


「これより先、阿蘇の市、港、蔵、役所で通す銭は、順に阿蘇銭へ移す。他家の悪銭、欠けた銭、薄き銭、重さの合わぬ銭は、市から退ける」


「殿」


 宗運が静かに口を挟んだ。


「一気に禁じれば、市が止まります」


「分かっておる。だから替所を置く」


 惟種は、地図の上に札を置いた。


「博多、府内、肥後、肥前、平戸、日向、大隅。まずは港と大市だ。古銭は持ち込ませ、重さと質を改める。よき銭は相応に替え、悪しき銭は価を落として引き取る。銅は溶かし、使えるものは阿蘇銭へ打ち直す」


 名和行興が、感心したように言った。


「捨てさせるのではなく、吸い上げるのでございますな」


「そうだ。悪銭を市から蔵へ移す。銭の毒を、阿蘇本蔵で抜く」


 惟種は、銭の絵を指した。


「銭は血だ。ならば、濁った血をそのまま流すわけにはいかぬ」


 その言葉に、座の者たちが静かになった。


「年貢の一部、湊役、通行役、蔵の支払い、兵の俸禄、工人への賃銭。これらは順に阿蘇銭へ移す。阿蘇が払う銭は阿蘇銭。阿蘇へ納める銭も阿蘇銭。そうすれば、市も自然と従う」


 鍋島信房が低く問う。


「商人は、手元の銭を安く見られるのを嫌がりましょう」


「当然だ」


 惟種は頷いた。


「だから、最初の替えは急に厳しくしすぎるな。よき銭には相応の価をつける。悪銭も、いきなり紙くずにはせぬ。だが、次第に悪銭の価を落とす。持っていても損だと思わせる」


 宗運が補った。


「悪銭を隠して市で使った者は罰します。偽銭を作った者は、重く裁きます。寺社への寄進銭、港の商い、南蛮銀、明銭の扱いも、別に定めます」


「南蛮銀はどうする」


 吉弘鑑理が問う。


「すぐには排せぬ」


 惟種は答えた。


「大きな商いには銀が要る。だが、阿蘇本蔵で重さを改め、阿蘇の価に直す。銀そのものは使わせても、阿蘇の帳を通す」


「つまり、銭も銀も、阿蘇の蔵を通す」


 日新斎が言った。


「そうだ」


 惟種は頷いた。


「銭の道を、阿蘇が握る」


 その言葉は、重かった。


 兵で土地を押さえるだけではない。

 米を数えるだけでもない。

 銭の流れそのものを、阿蘇の帳へ入れる。


 それは、今までの阿蘇よりさらに一段深く、九州を握るということだった。


「裏付けはございますか」


 島津貴久が問う。


 問いながらも、その顔には少し苦笑があった。


「銀は、大内より入る」


 惟種は答えた。


「山口筋の商い、神屋の荷、博多の筋がある。毛利、陶、大内の火種はあるが、銀の道は見ておる。金は南の山より上がり始めた。霧島筋、大隅の山、薩摩の奥。まだ掘れる」


 そこで、貴久が小さく息を吐いた。


「殿が、霧島筋のあの山を掘れと仰せになった時には、島津の者もたいそう驚きました」


「掘ったら出たであろう」


「出ました」


 貴久は苦笑した。


「ゆえに、なお恐ろしゅうございます。山師より先に山の腹を読まれては、こちらの立つ瀬がございませぬ」


 座に、控えめな笑いが広がった。


 日新斎だけは笑わず、愉快そうに目を細めていた。


「若君……いや、殿は、山の腹の中まで見えるらしい」


「見えてはおらぬ。目星をつけただけだ」


 惟種はそう言ったが、誰も信じていない顔をしていた。


 宗運が静かに言う。


「それを、世では読めると申します」


「宗運」


「はい」


「後で覚えておれ」


「帳に記しておきます」


「そういうところだぞ」


 座に、また小さな笑いが生まれた。


 だが、その笑いはすぐに消えた。


 銭の話は、軽くない。


 宗運が続ける。


「金銀銅の山は、阿蘇大蔵方の下で改めます。山方、金山方を置き、勝手掘りを禁じます。掘る者には賃を出し、村を荒らさぬよう定めを置きます」


「山を掘れば、人も集まる」


 惟種が言った。


「人が集まれば揉める。博打、盗み、女、酒、怪我、病。必ず出る。警邏方と医所も置け。山だけ掘って村を壊すな」


「承りました」


 宗運が頭を下げる。


 惟種は、銭の札を見つめた。


 阿蘇大蔵方。

 阿蘇本蔵。

 阿蘇銭。


 料理や清め玉なら、惟種の名をつけられても笑って済む。


 いや、済んではいない。

 全然、済んではいない。


 だが、銭は違う。


 これは惟種の名で流すものではない。


 阿蘇の信用で流すものだ。


「一つ、言っておく」


 惟種は、宗運を見た。


「これは惟種銭ではないぞ」


 宗運は、ほんの少しだけ目を細めた。


「もちろんにございます」


「本当だな」


「銭は笑いで流すものではございませぬ」


「料理と清玉は笑いで流したのか」


「徳でございます」


「便利な言葉だな」


 宗運は平然としていた。


「阿蘇銭は、阿蘇の信用そのものにございます。殿の御名ではなく、阿蘇の名で通します」


「ならよい」


 惟種は、ようやく少し安心した。


 次に、兵の札が置かれた。


「軍のことに移る」


 惟種は言った。


「阿蘇の兵は、もはや国衆の寄せ集めではない。御直の常備衆を中核に、城番、駐屯、半常備の選抜兵、船手、荷役、工兵、大筒方、鉄砲方まで、阿蘇の帳で組み替える」


 島津義久が、わずかに背筋を伸ばした。


 島津貴久は、表情を変えずに問う。


「家々の兵を取り上げる、という話ではありますまいな」


 座が静まった。


 当然の問いである。


 島津だけではない。


 相良、龍造寺、鍋島、名和、北里、旧大友勢。


 それぞれが家と兵を持ってきた。


 その兵をどう扱うかは、阿蘇の根に関わる。


「取り上げぬ」


 惟種は、はっきり言った。


「正確には少し移ってもらう。家を守る兵は要る。城を守る者も、村を守る者も、道を守る者も要る。だが、外へ振るう刃は一つにする」


 惟種は、地図の上に手を置いた。


「島津の兵、相良の兵、龍造寺の兵、鍋島の兵としてではなく、阿蘇の旗の下で動かす。命じる筋を一つにする。兵糧の筋を一つにする。練兵の型を揃える」


 宗運が続けた。


「陸を守る御直の兵。海を守る御直の船手。この二つをはっきり分けます。陸手には練兵所を置き、船手には船奉行を立てます。大筒方、鉄砲方、兵糧方、荷駄方も、別に帳を立てます」


 義久が小さく頷いた。


「練兵の場所は」


 惟種が答えた。


「肥後、府内、肥前、有馬、大村、日向、大隅。要の地に置く。全てに大きな兵を置くわけではない。だが、阿蘇の兵が動ける足場を作る」


 種清が板に札を置いていく。


 道の要。

 港の要。

 川の要。

 峠の要。


「村や町の見回りもいたします」


 種清が言った。


「ただし、警邏方とは別にございます。警邏方は日々の揉め事、盗み、火付け、道の争いを見る。御直軍は、外からの乱、旧臣の蜂起、大きな火に備える」


「兵に村の裁きをさせるな」


 惟種が言う。


「兵が日々の裁きに手を出せば、必ず乱れる。警邏方、代官、寺社、村役、それぞれ役を分けよ」


「承知しております」


 宗運が答えた。


「次に、城だ」


 その言葉に、何人かが顔を上げた。


 惟種は静かに続ける。


「九州内に、もはや大敵はいない」


 座の空気が、少しだけ揺れた。


「西郷、松浦もこちらへ入った。港も、山も、道も、阿蘇の触れが届き始めている。もちろん火種はある。旧臣、不満、港の利、寺社の顔、山の国衆。すべて消えたわけではない」


 惟種は、あえて言い切った。


「だが、大敵はいない」


 日新斎が、静かに目を細めた。


 相良晴広が、低い声で問う。


「では、城を減らすと」


「そうだ」


 惟種は答えた。


「内へ向けて民を縛るだけの山城。維持に人と米を食うだけの古城。役を終えた砦。順に役を解く」


 座がざわつく。


 城は、ただの建物ではない。


 土地の誇り。

 家の記憶。

 守りの象徴。


 それを解くと言われれば、誰でも身構える。


 北里政久が慎重に言った。


「城を捨てるとなれば、土地の者は不安がりましょう」


「捨てるのではない」


 惟種は即座に返した。


「守る場所を変える」


 座が静まる。


「山の上に籠もる世から、道と市と港を守る世へ移す。峠の押さえ、狼煙台、兵糧蔵、中継の館、港と川筋の守りは残す。だが、古い意地だけで城を残すことはせぬ」


 宗運が続ける。


「解いた城の材は、道、橋、蔵、湯殿、港へ回します。石も木も、人も米も、別の形で使います」


 名和行興が頷いた。


「港は助かりましょう。橋が増えれば、荷が早くなります」


 龍造寺家宗も言う。


「肥前の道も、まだ悪いところが多うございます。城に米を食わせるより、道に米を使った方が利がある地もございましょう」


 島津貴久が静かに言った。


「南も同じにございます。日向、大隅には、山の砦が多い。残すものと解くものを見極めねばなりませぬ」


「そこは島津に任せる部分も多い」


 惟種は頷いた。


「だが、勝手に潰すな。土地の面目もある。寺社を通せ。村へ触れを出せ。古き城に祀るものがあれば、移す。名を残せるなら残す」


 日新斎が、低く笑った。


「城は壊しても、名は殺しすぎぬ。阿蘇らしい」


「名を殺せば、恨みが残る」


 惟種は言った。


「恨みは、道の下に埋めても芽を出す」


「まことに」


 日新斎は、それ以上言わなかった。


 惟種は、最後の札を見た。


 道。


 その一字で、今回の評定の行き着く先は決まっていた。


「道へ銭を入れる。これまで以上に」


 惟種は言った。


「多額になりますぞ」


 宗運が、あえて確認するように言った。


「構わぬ」


 惟種は即答した。


「財が蔵に積み上がるだけなら、使い方を誤っている。道を直せ。橋を架けろ。港を深くしろ。湯殿を整えろ。蔵を置け。馬が通れる道、荷車が通れる道、兵が動ける道を作る」


「今年、急がせるのでございますな」


「急がせる。ただし、潰すな」


 惟種は、工人や夫役のことを思った。


「道を作るために民を飢えさせれば本末転倒だ。飯を出せ。賃を出せ。冬の仕事、農閑の仕事として組め。働いた者の名を帳に残せ。怪我人には薬を出せ」


 宗運が頷く。


「そのように」


「道が良くなれば、米が動く。米が動けば、飢えが減る。薬が動けば、病人が助かる。兵が動けば、火を早く消せる。商いが動けば、銭が回る」


 惟種は、場の者たちを見渡した。


「銭は、蔵に積むためだけのものではない」


 広間が静まり返った。


 惟種は、ゆっくりと言った。


「銭は血だ」


 誰も口を挟まなかった。


「流れれば、国の手足は動く。飯となり、道となり、薬となり、兵糧となり、学びとなる。だが、蔵に積むだけなら腐る。流れねば、手足が死ぬ」


 宗運が、目を伏せる。


 種茂も、種清も、義久も黙って聞いていた。


「ゆえに、流せ」


 惟種の声が、少し強くなった。


「ただばら撒くな。道へ流せ。橋へ流せ。蔵へ流せ。学び所へ流せ。薬方へ流せ。兵の飯へ流せ。湯治場へ流せ。職のない者には仕事を与え、働ける者には役を与え、働けぬ者には支えを置け」


 惟種は、地図の上に置かれた人別帳の札を指した。


「人を数えよ」


 次に、田畑帳の札を指す。


「田を見よ」


 蔵帳。


「米を見よ」


 道の札。


「道を見よ」


 そして、阿蘇銭の札を指した。


「銭を清めよ」


 最後に、座の者たちを見る。


「だが、帳の上だけを見るな。そこにいる民を見るのだ」


 広間に、冷たい正月の空気が流れていた。


 だが、誰も身じろぎしない。


 惟種は、深く息を吸った。


「民惟邦本」


 その言葉を、静かに置いた。


 宗運が、低く続けた。


「本固ければ、邦寧し」


 惟種は頷いた。


「そうだ。民こそ国の本である。これを外せば、阿蘇は大きくなったところで、ただの空の器よ」


 誰も声を出さなかった。


 惟種は続ける。


「兵を整えるのも、銭を定めるのも、道を直すのも、城を解くのも、草の者を置くのも、すべては国の根を太くするためだ。民が飢え、怯え、逃げる国に、どれほど大筒を並べても意味はない」


 惟種は、上座の惟豊へ一度頭を下げた。


 惟豊は、静かに頷いた。


 それで十分だった。


 惟種は、あらためて座の者たちへ向き直った。


「各々、忘れるな」


 声は大きくなかった。


 だが、広間の隅まで届いた。


「阿蘇は、民を本として立つ」


 宗運が、最初に頭を下げた。


「承りました、殿」


 続いて、種茂、種清、義久が頭を下げる。


 島津貴久が。

 相良晴広が。

 龍造寺家宗が。

 鍋島信房が。

 名和行興が。

 北里政久が。

 吉弘鑑理が。

 大友隼人が。


 そして、広間に並ぶ者たちが、一斉に頭を下げた。


「はっ」


 その声が、館の柱を震わせた。


 惟種は、その重さを真正面から受けた。


 重い。


 本当に重い。


 できれば、温泉に戻りたい。


 内牧の湯で、もう一度だらりと沈みたい。


 だが、今はそうもいかない。


 惟種は、地図の上に置かれた無数の札を見た。


 田。

 蔵。

 道。

 銭。

 兵。

 船。

 湯。

 学び所。

 警邏方。

 草の者。

 人別帳。

 阿蘇大蔵方。

 阿蘇本蔵。

 阿蘇銭。


 どれも、もう夢ではない。


 阿蘇の形になりつつある。


 ならば、進めるしかない。


「では」


 惟種は、少しだけ息を吐いた。


「今年も、働くぞ」


 宗運が、涼しい顔で言った。


「すでに、山ほどに」


「言うな」


「殿」


「その呼び方も重い」


「本日は、大評定にございますので」


 惟種は、天井を見上げた。


 逃げ場はない。


 そう悟るには、十分すぎる正月であった。


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