第百九十七話 内牧の湯
内牧へ向かう道は、よく踏み固められていた。
冬の阿蘇である。
風は冷たい。
山の端には白いものが残り、草の葉には霜が光っていた。馬の吐く息も白く、護衛の者たちはそれぞれ外套を引き寄せている。
だが、道そのものは悪くない。
ぬかるみには石が入れられ、危ない曲がりには杭が打たれていた。水が溜まりやすいところには細い溝が掘られ、荷車の轍も深くなりすぎぬよう直されている。
惟種は馬上でそれを眺め、少し満足した。
「宗運め、きっちりやっておるな」
隣を進む加世が、少し笑った。
「宗運様ですもの」
「その言い方で大体のことが済むのは、どうなのだ」
「済んでしまいますから」
後ろの輿から珠光も微笑んだ。
「道まで、きれいに整っているのですね」
「湯へ人を呼ぶには、道が要る。客人を呼んで、途中で泥に沈ませるわけにはいかぬ」
「湯のための道、でございますか」
「湯のためでもあり、市のためでもある。道があれば、飯も布も薪も炭も運べる。人が来れば、銭も動く」
そう言ってから、惟種は顔をしかめた。
「……休みに来たのに、また政の話をしておる」
加世が、くすりと笑った。
「惟種様ですもの」
「その言い方もやめよ」
護衛は多かった。
表に見えるだけでも、種茂が選んだ者たちが左右を固めている。さらに少し離れたところに、警邏方の者がいる。湯殿へ通じる道の先にも、早馬を出せるよう馬が用意されているはずだ。
そして、それだけではない。
惟種は、道端の雑木林へちらりと目を向けた。
鳥が一羽、枝から飛び立つ。
その下の影が、ほんのわずかに動いた気がした。
別の場所では、薪を背負った男が道を横切った。顔は普通の百姓に見える。だが、足の運びがやけに軽い。
宗運の手の者だ。
忍び、と呼ぶには少し違う。
草の者。
手の者。
山と道に紛れ、聞き、見て、必要なら知らせる者たち。
昔の惟種なら、気づかなかった。
今は、何となく分かる。
見えているのではない。
そこだけ空気が薄く揺れるような、そういう感じがある。
「若君?」
種茂が近づいてきた。
「どうされました」
「いや」
惟種は前を向いた。
「行き帰りは、問題なさそうだと思ってな」
種茂は一瞬だけ目を細めた。
そして、静かに頭を下げた。
「はい。宗運様も、そのように」
「やはりか」
「はい」
「宗運め、湯に入る前から湯気より濃い」
「備えにございます」
「分かっておる」
分かっているから、文句を言いにくい。
それがまた腹立たしい。
しばらく進むと、湯気が見えた。
白い湯気が、冬の空へ細く上がっている。
その周りに、木の香りがあった。
新しく削った柱。
打ち込まれた杭。
敷き詰められた石。
小さな橋。
水を流す溝。
湯を通す樋。
そして、道の両側には黒石の油を使う灯が並び始めていた。
昼なので火は入っていない。
だが、夜になれば、そこに小さな灯が並ぶのだろう。
「まあ……」
加世が声を漏らした。
珠光も輿の簾を少し上げ、目を丸くしている。
そこは、まだ大きな町ではなかった。
完成もしていない。
工人たちは木槌を振るい、湯番らしき者が桶を運び、女たちが布を干している。
旅人を迎えるための旅亭は三つほど。
客人用の少し上等な館が一つ。
家中の者が使う湯殿。
湯治の者を受け入れる長屋。
薬方の小屋。
飯を出す台所。
馬を休める小さな厩。
まだ小さい。
だが、形になっていた。
湯があり、宿があり、飯があり、灯がある。
これなら、人は来る。
来た者は、また来たいと思う。
惟種はそれを見て、胸の奥が少し熱くなった。
「……ここまでできたか」
種茂が横に立つ。
「宗運様が、かなり急がせておりました」
「だろうな」
「ただ、無理はさせぬようにとも」
「そこも宗運らしい」
財だけでは、こうはならない。
銭を積んでも、湯は勝手に人を癒やさぬ。
湯を引く樋。
湯を捨てる溝。
清い水。
薪と炭。
洗い布。
湯番。
客人を迎える膳。
湯に入る順。
男女を分ける囲い。
病の者と客人を分ける決まり。
湯銭の帳。
褒美札。
警固。
道。
一つ欠けても、面倒になる。
全部を整えるから、湯は湯治場になる。
湯治場が整えば、市になる。
惟種は、加世と珠光を振り返った。
「どうだ」
「すばらしゅうございます」
加世は素直に言った。
「ここへ来れば、皆、喜びましょう」
珠光も頷いた。
「山口にも、湯の話はございました。けれど、これは……湯だけではないのですね」
「うむ。湯だけでは、もったいない」
惟種は目の前の湯気を見た。
「湯は人を呼ぶ。人が来れば、飯が要る。飯が要れば米と鶏と野菜が動く。泊まれば布と炭と薪が要る。湯治となれば薬方も動く。つまり、湯は市になる」
「湯が市に」
珠光が、感心したように呟いた。
加世は少し笑った。
「やはり、惟種様は何でも道と蔵につなげてしまわれます」
「今日は休みだ」
「はい」
「休みなのだ」
「はい」
「なのに、なぜわしは湯銭の帳のことを考えておる」
「惟種様ですもの」
「それで済ませるな」
案内役の湯番が、深々と頭を下げた。
「若君、奥の湯殿を整えてございます」
「奥か」
「はい。加世様、珠光様のお支度も、侍女の方々とともに整えております」
惟種は、ちらりと種茂を見た。
種茂は真顔で頷いた。
「宗運様より、湯殿の周りはすでに改めております」
「分かった。もう何も言わぬ」
言えば言うほど、宗運が出てくる。
惟種は観念して、奥の湯殿へ向かった。
◇
奥の湯殿は、まだ新しい木の香りがした。
床には滑りにくい板が張られ、湯の縁には石が据えられている。天井は高く、湯気がこもりすぎぬよう小さな開きがある。外には白い湯気が流れ、遠くに阿蘇の山が見えた。
男女の湯は、板塀と几帳でしっかり分けられていた。
三人で同じ場所に来てはいるが、湯に入る場所は別である。
そのあたりも、宗運が抜かるはずがない。
湯に入る前、惟種は小さな木箱を二つ、加世と珠光に渡した。
「これは?」
加世が首を傾げる。
珠光も興味深そうに覗き込んだ。
中には、白っぽい小さな玉と、とろりとした薬を入れた小壺が二つあった。
「阿蘇清玉と、阿蘇髪洗薬と、阿蘇髪軟膏だ」
惟種は、まず名を口にした。
大事なことなので、先に言った。
「阿蘇清玉」
「阿蘇髪洗薬」
「阿蘇髪軟膏」
加世と珠光が、それぞれ繰り返す。
惟種は満足げに頷いた。
「そうだ。阿蘇だ。阿蘇の湯殿で使うものゆえ、阿蘇の名でよい」
「惟種様」
珠光が、静かに言った。
「何だ」
「惟種清玉、ではございませんの?」
惟種は固まった。
加世が、そっと口元に袖を当てる。
「惟種髪洗薬、惟種髪軟膏と呼ばれそうでございますね」
「言うな」
惟種は低い声で言った。
「宗運のようなことを申すな」
「宗運様なら、なさいますね」
珠光が言う。
「宗運様でございますもの」
加世も言う。
「する。あの男は必ずする」
惟種は深く息を吐いた。
「だが、今日この場では阿蘇清玉だ。阿蘇髪洗薬だ。阿蘇髪軟膏だ。よいな」
「はい」
「はい」
二人の返事は素直だった。
素直すぎて、逆に不安になった。
惟種は気を取り直し、白っぽい玉を指した。
「これは身体を洗うものだ。灰と油を合わせ、香り草を少し入れてある。垢を落としやすくする」
「こちらは」
「髪洗薬。髪と地肌を清くする。こっちは髪軟膏だ。洗った後、少しなじませると、櫛の通りがよくなる……らしい」
「らしい、でございますか」
珠光が笑う。
「わしの髪で試しても分からぬ。女たちに試してもらったら、評判は良かった」
「肌にもよいのですか」
加世が真剣な声で聞いた。
「たぶん。清く保つのと、荒れを減らすために作った。髪や肌に、こう……艶と張りが出るらしい」
「艶と張り」
加世が繰り返した。
珠光も繰り返した。
「艶と張り」
「そこに食いつくのか」
二人は顔を見合わせた。
そして、同時に惟種へ向き直った。
「惟種様」
「何だ」
「これは、増やせますか」
「増やす?」
「日ごろ、使えますか」
珠光の声も真剣だった。
「この清玉と髪洗薬と髪軟膏、作れる者は限られておる。油と灰の扱いもあるし、香り草も要る。まだ試しだ」
「増やせますか」
加世が一歩詰める。
「いや、だから」
「増やせますか」
珠光も一歩詰める。
惟種は少し後ろへ下がった。
「そこまでか?」
「そこまででございます」
「そこまででございます」
二人の声が揃った。
惟種は、初めて戦場とは別の圧を感じた。
これは、まずい。
武田晴信よりも逃げ場がない。
「宗運には話してある」
惟種がそう言った瞬間、二人の目がさらに輝いた。
「では、もう作っておられるのですね」
「たぶん」
「日ごろ、届けていただきましょう」
加世が言う。
「珠光にも、分けていただけますか」
珠光が続ける。
「待て。わしが決める前に、なぜ話が進んでおる」
「惟種様が作られたのでしょう」
「宗運様が関わっておられるのでしょう」
「そうだが」
「ならば、できます」
「宗運への信が厚すぎぬか」
加世と珠光は、にこりと笑った。
惟種は諦めた。
「分かった。戻ったら、宗運に言う。いや、言わずとも帳に入っている気がする」
「宗運様ですもの」
「宗運様でございますから」
「もうその言い方が怖い」
◇
やがて、三人はそれぞれ湯へ入った。
惟種は男湯の方で、湯に肩まで沈んだ。
「……ああ」
声が漏れた。
熱すぎず、ぬるすぎず。
身体の芯に、じんわりと熱が入る。
黒石の炉とも違う。
茶とも違う。
湯は、身体の外から心までほぐしてくる。
惟種は目を閉じた。
今年は、本当にいろいろあった。
思い出すたび、肩が沈む。
だが今は、湯がある。
遠くで加世と珠光の声が聞こえた。
はっきりとは聞こえない。
ただ、楽しそうな声だった。
侍女たちの控えめな笑いも混じっている。
どうやら、阿蘇清玉と阿蘇髪洗薬は好評らしい。
「……よかった」
惟種は湯の中で呟いた。
政のために作った。
清潔のために作った。
湯治場のために作った。
贈答にも使えるだろうと考えた。
だが、加世と珠光が喜んでいるなら、それで十分な気もした。
湯から出た惟種は、湯上がりの間で畳に沈んだ。
身体が重い。
いや、軽いのかもしれぬ。
よく分からない。
とにかく、動きたくなかった。
しばらくして、加世と珠光が戻ってきた。
惟種は顔を上げた。
そして、少し目を瞬いた。
二人とも、明らかに機嫌がよい。
加世の肌は湯上がりでほんのり赤く、髪にはいつもより艶がある。珠光も、何度も自分の髪に指を通しては、嬉しそうにしていた。
「どうだ」
惟種が尋ねると、加世が即答した。
「すばらしゅうございます」
珠光も続いた。
「これは、すぐに増やすべきです」
「またそれか」
「惟種様」
「何だ」
「これは、女たちが放っておきませぬ」
加世の声は真剣だった。
「湯も、清玉も、髪洗薬も、髪軟膏も。知れば必ず欲しがります」
「公家の女房方などに知られたら、大変かもしれませぬ」
珠光も真剣だった。
「大内にいた頃でも、これほど髪が軽くなったことはございません」
「そこまでか」
「そこまででございます」
二人の声が、また揃った。
惟種は畳に沈み直した。
「分かった。分かったから、宗運に言う。いや、宗運はもう知っておる。たぶん値も決めておる」
「贈り物にもなりますね」
「褒美にもなります」
「湯治の支度にも入れられます」
「客人の膳ならぬ、客人の湯支度でございますね」
二人が楽しそうに話し始める。
惟種は、それを見て苦笑した。
「おぬしたちも、だいぶ阿蘇に染まってきたな」
「惟種様のせいです」
加世が言う。
「惟種様のせいでございます」
珠光も言う。
「二人して責めるな」
その時、種茂が控えめに顔を出した。
「若君、宗運様より文が届いております」
惟種は、湯上がりの顔のまま固まった。
「白紙か」
「いえ、文字がございます」
「ならば、まだよい」
そう言いつつ、惟種は文を受け取った。
開く。
整った字が並んでいた。
内牧湯殿にて用いる清玉、髪洗薬、髪軟膏につきましては、惟種清玉、惟種髪洗薬、惟種髪軟膏の名にて、まず奥向き、湯治場、客人向けの支度に入れたく存じます。
若君の名が、民の腹のみならず肌と髪まで清めるとなれば、徳として大いに扱いやすく。
惟種は文を閉じた。
無言で閉じた。
加世と珠光が、そっと視線を合わせる。
「……惟種清玉」
「……惟種髪洗薬」
「……惟種髪軟膏」
二人が小さく呟いた。
「言うな」
惟種は低く言った。
「絶対に言うな」
「ですが」
加世が、耐えきれず笑った。
「もう宗運様が」
「決めておられますね」
珠光も笑った。
惟種は天井を見上げた。
「阿蘇清玉でよかったではないか……」
「宗運様は、そうは思われなかったのでしょう」
「若君の御名がある方が、皆、欲しがるのではございませんか」
「欲しがらなくてよい」
「欲しがります」
「欲しがるでしょうね」
二人の声に、まったく遠慮がなかった。
惟種は、深く、長く息を吐いた。
「もうよい。負けた。宗運には勝てぬ。名は好きにせよ。ただし、変な歌にするなと伝えよ」
種茂が真面目な顔で頭を下げた。
「承知いたしました」
「本当に承知しておるか」
「宗運様には、そのままお伝えいたします」
「それが一番怖い」
◇
湯上がりの膳が運ばれてきた。
白い飯。
鶏の出汁の吸い物。
卵を使った柔らかい焼き物。
山菜。
少しの漬物。
そして、甘い茶。
温泉に入った後の飯は、なぜこれほど旨いのか。
惟種はしみじみと思った。
「これは危ないな」
「何がでございますか」
加世が尋ねる。
「帰りたくなくなる」
珠光が、すぐに頷いた。
「分かります」
「分かるのか」
「はい。帰りたくございません」
加世も、柔らかく笑った。
「わたくしも、もう少しここにいたいです」
「明日からまた政務だぞ」
惟種は膳を見つめた。
「文が待っておる。宗運が待っておる。種茂が待っておる。義久も種清も、たぶん目を虚ろにしておる」
「では、また来ましょう」
加世が言った。
「今度は、もっと長く」
珠光が続けた。
「もっと長く、か」
惟種は湯気の向こうを見る。
内牧の湯殿。
まだ小さい。
だが、ここは大きくなる。
湯を求め、人が来る。
人が来れば、飯が出る。
飯が出れば、米も鶏も卵も野菜も動く。
布が売れ、炭が売れ、薬が売れ、宿が増える。
功ある家臣が湯で休み、遠国の使者が阿蘇の豊かさを肌で覚える。
そして、なぜか惟種清玉、惟種髪洗薬、惟種髪軟膏まで売れる。
惟種は、そこで小さく笑った。
「また政のことを考えてしまった」
「惟種様ですもの」
「惟種様でございますから」
「……もうよい」
惟種は観念して茶を飲んだ。
温かい茶が、湯上がりの身体に染みる。
「では、また来よう」
加世と珠光の顔が、ぱっと明るくなった。
「はい」
「必ず」
「今度は、もっと長くな」
二人の返事は、今までで一番早かった。
惟種は、その早さに少し笑い、畳に背を預けた。
外では、白い湯気が冬の空へ上がっている。
帰りたくない。
心からそう思った。
だが、明日にはまた文が来る。
宗運が笑わずに待っている。
それでも。
今日だけは、湯の温かさをもう少しだけ覚えていたかった。




