第百九十六話 三人の冬日
天文二十年(一五五一年) 十二月
阿蘇の冬は、白い息を吐く。
山から下りる風は冷たく、朝の庭には薄く霜が降りた。屋根の端には氷の粒が光り、井戸端の水を汲む女たちも、手をこすり合わせながら動いている。
だが、館の中は思ったほど冷えなかった。
黒石を焚く小さな炉がある。
煙を逃がす道も作ってある。
灯も以前より明るく、夜でも文が読める。
もっとも、それがあるせいで、宗運は夜でも文を読める。
それはそれで、惟種にとって恐ろしいことであった。
「今日は、休む」
惟種は朝一番にそう宣言した。
目の前には加世と珠光がいた。
二人とも、少し驚いた顔をしている。
「本当に、でございますか」
加世が尋ねた。
「本当にだ」
「宗運様は」
「宗運は働いておる」
「種茂様、義久様、種清様は」
「働いておる」
惟種は、力強くうなずいた。
「皆、荷馬のように働いておる。ならば、わしが一日くらい休んでも、阿蘇は沈まぬ。それに少し疲れた。今日ぐらいは休みたい」
宗運が聞けば、沈ませませぬ、と静かに言うだろう。
種茂、種清、義久辺りは仕方ないなと苦笑するだろう。
加世は、くすりと笑った。
「では、今日はわたくしたちで若君をお預かりいたします」
「預かられるのか、わしは」
「はい。逃げ出さぬように」
珠光も、袖で口元を隠して笑った。
「わたくしもお手伝いいたします」
「二人がかりか」
「はい」
惟種は大げさに肩を落とした。
「宗運よりは優しく頼む」
「それは、もちろん」
加世はにこやかに言った。
その笑顔を見て、惟種は少しだけ息を抜いた。
◇
三人は、奥の間へ移った。
部屋には、黒石の炉が置かれている。火は強すぎず、弱すぎず、じんわりと空気を温めていた。
障子の向こうには冬の光が差している。
膳には温かい茶と、先日作った卵の菓子が少し。
それと、薄く切った鶏の肉を炙ったものが添えられていた。
「……また鶏か」
惟種は箸を取りながら呟いた。
「卜伝様が、若君には肉と卵が要ると仰せでした」
加世が平然と言う。
「卜伝殿め。余計なことを広めたな」
「よいことではございませんか。お身体を作らねば」
珠光も頷いた。
「わたくしも、そう思います。惟種様は、お忙しすぎます」
「わしより宗運の方が忙しい」
「宗運様は、宗運様です」
「その言い方はずるい」
惟種は鶏肉を口に入れた。
香ばしい。
昔なら、鶏は卵を取るものであり、肉として回すにはまだ惜しかった。
だが、今の阿蘇では少しずつ違う。
餌を分け、雛を増やし、卵を取る鶏と肉に回す鶏を分け始めている。
まだ十分とは言えぬ。
それでも、ここまで来た。
惟種は茶を一口飲み、ふうと息を吐いた。
「今年も、色々あったな」
そう口にした瞬間、自分でも少し笑いたくなった。
色々。
その一言で済ませてよい量ではない。
だが、思い出しただけで、肩が重くなる。
「本当に、色々でございました」
加世が静かに言った。
「お帰りになられた時、館の空気が変わりました」
「悪い方にか」
「いいえ。ほっとした方に」
惟種は箸を止めた。
「そうか」
「はい。皆、若君が戻られて安心したのです」
「文の山を押しつけるためではなく?」
「それも、少しは」
「加世」
加世は涼しい顔で茶を飲んだ。
珠光が、小さく笑う。
その笑い方は、大内にいた頃の姫としてのものより、少し柔らかくなっている気がした。
「珠光は、阿蘇に来てどうだ」
惟種は何気なく尋ねた。
珠光は、すぐには答えなかった。
少し目を伏せ、言葉を探すように指先を重ねる。
「珍しいことばかりでございます」
「珍しい?」
「はい。珍しい、という言葉では足りませぬが……ほかに、うまく申せませぬ」
珠光は、障子の向こうへ目を向けた。
「山口にいた頃、わたくしは大内の国は豊かであると思っておりました。寺社も、市も、文も、歌も、人の行き来もありました。唐物も南蛮の品も、見ようと思えば見ることができました」
「大内は豊かであったからな」
「はい。けれど、阿蘇は……違います」
珠光は、少し困ったように笑った。
「雅、ではございません」
「うむ。雅ではないな」
「でも、強いのです。蔵が動きます。道が動きます。田が増え、鶏が増え、卵が増え、薬が作られます。学び所では子らが字を覚え、警邏方が道を見る。鍛冶場では鉄が鳴り、湊では荷が動く」
言いながら、珠光はだんだん真剣な顔になった。
「黒石で部屋が温まり、夜も灯が明るい。雨の日にも足が濡れにくい履物がある。草鞋ではなく、柔らかく、泥を通しにくい履物です」
加世が頷いた。
「わたくしも、初めはそうでした」
「加世様も、でございますか」
「はい。島津にいた頃も、不自由をしていたわけではありません。武の家として誇りもございました。ですが、阿蘇に来て、まず驚いたのは、民が豊であることでした」
「豊でございますか」
「ええ。年貢や税が軽く、それにより食に困っておりませんでした」
加世は、惟種を見た。
「戦の世なのに、惟種様は暮らしのことばかり考えておられます」
「戦のことも考えておるぞ」
「ええ。大筒も船も鉄砲も、皆、恐ろしいものです」
加世は少しだけ目を細めた。
「けれど、それだけではございません。惟種様のなさることは、いつも飯と道と蔵につながっております」
「宗運のようなことを言う」
「似てこられたのでは」
「やめよ。心に刺さる」
珠光が堪えきれずに笑った。
惟種も、つられて少し笑った。
笑ってから、茶碗を置いた。
「わしは、すごいことをしているつもりはない」
「それは、無理がございます」
珠光が即座に言った。
「早いな」
「本心でございます」
珠光の声に、おべっかの響きはなかった。
だからこそ、惟種は少し困る。
「わたくしは、阿蘇へ来るまで、惟種様のことを詳しくは存じませんでした。恐ろしい方かもしれぬと思っておりました。大内の血を使うために、わたくしを迎えたのだとも」
惟種は黙った。
それは、完全に否定できる話ではない。
大内の名を守るため。
陶への牽制。
大内の残り香を阿蘇へ引き込むため。
珠光を迎えたことには、政の意味があった。
「ですが、今は違います」
珠光は静かに続けた。
「惟種様は、名や血だけを見ておられるのではありません。人の腹を見ておられます。寒さを見ておられます。病を見ておられます。道を歩く者の足元まで見ておられます」
「足元か」
「はい。履物まで変えてしまわれるのですから」
加世が笑った。
「それは、わたくしも助かっております。雨の日の庭歩きが、ずいぶん楽になりました」
「草鞋が悪いわけではない。だが、泥と冷えは侮れぬ」
惟種は、少しだけ真面目な声になった。
「冷えれば病む。病めば働けぬ。働けねば食えぬ。食えねば、また病む。だから、冷えを減らす。飯を増やす。道を乾かす。湯を使う」
「湯、でございますか」
珠光が反応した。
加世の目も、少し明るくなった。
惟種は、その変化を見逃さなかった。
「そういえば、内牧の湯殿がそろそろ形になる」
「内牧の」
加世が身を乗り出した。
「以前より、宗運様とお話しされていた湯でございますね」
「うむ」
内牧。
阿蘇の北側、湯の気が上がる地。
惟種は、以前からそこに湯殿を整えるつもりでいた。
ただ湯に入るだけではない。
客人を迎える湯。
家臣に褒美として与える湯。
傷を癒やす者、疲れた者、年寄り、病み上がりの者が通える湯。
そして、宿と飯と市を呼ぶ湯である。
「今はまだ、工人が木を組んでおる。石も据えておる。湯を通す樋も試しておる。完成にはもう少しかかるが、湯気は上がっておるはずだ」
「湯を通す樋」
珠光は珍しいものを聞いたように呟いた。
「湯の出るところから、そのまま使いやすい場所へ引く。ぬるくなりすぎぬよう、近すぎず遠すぎずだ」
「そのようなことまで」
「湯は、ただ湧けばよいものではない。熱すぎれば入れぬ。ぬるすぎれば身体が温まらぬ。泥が混じれば嫌がられる。客人を呼ぶなら、湯殿は清くせねばならぬ」
言いながら、惟種は自分でも少し嫌になった。
休むと言ったのに、もう仕組みの話をしている。
加世が、その顔を見て微笑んだ。
「惟種様」
「何だ」
「楽しそうでございます」
「そう見えるか」
「はい」
惟種は少し黙り、頭をかいた。
「……まあ、湯は好きだ」
「それは、わたくしもです」
加世が即答した。
「わたくしもでございます」
珠光も即答した。
「早いな」
二人はそろって笑った。
惟種は、少し気を良くして話を続けた。
「内牧の湯は、いずれ阿蘇の顔の一つにする」
「顔、でございますか」
「うむ。戦で功を立てた者、長く帳を支えた者、道を守った者、学び所を作った者に、米や銭だけでなく湯治を与える。数日、湯に入り、よい飯を食い、身体を休める。それも褒美になる」
「それは、喜ばれましょう」
加世が頷く。
「それに、使者にも使える」
惟種は指を折った。
「公家、幕府、寺社、商人、遠国の者。阿蘇に来た者を、ただ館に泊めるだけではつまらぬ。湯に入れ、温め、よい飯を出す。黒石の灯を見せ、清い湯殿を見せ、阿蘇の米と鶏と卵を食わせる」
「それは……」
珠光が息を呑んだ。
「忘れられませぬね」
「そうだ。人は、腹と肌で覚える」
惟種は少し得意げに言った。
「よき文も、よき太刀も、よき贈物も大事だ。だが、寒い日に温かい湯へ入り、うまい飯を食えば、阿蘇の名は身体に残る」
加世が感心したように頷いた。
「惟種様は、湯まで道と蔵につなげてしまわれるのですね」
「……本当に宗運に似てきた気がする」
「よいことではございませんか」
「少し嫌だ」
その時、廊下の向こうで足音がした。
侍女が控えめに顔を出す。
「若君、宗運様より文でございます」
惟種の顔が引きつった。
「白いか」
「いえ、文字がございます」
「ならば、まだよい」
惟種は文を受け取り、開いた。
そこには、整った字でこう書かれていた。
内牧湯殿、客人用の館割り、湯番、湯銭、褒美札、警固、道普請、膳の定めにつき、後ほどご相談申し上げたく。
惟種は、文を閉じた。
「……あやつ、わしの頭の中に住んでおるのか」
加世と珠光が、そろって文を見る。
そして、そろって笑った。
「宗運様ですもの」
「宗運様でございますから」
「二人とも、納得が早すぎる」
惟種は文を脇に置いた。
「今日は休むと言った」
「はい」
「政の話はせぬ」
「はい」
「湯殿の帳も、戻ってからだ」
「はい」
惟種は、二人を見た。
加世は、どこか期待するようにこちらを見ている。
珠光も、落ち着いているようで、目だけは明らかに輝いている。
惟種は、ため息をついた。
「……ならば、今日は見に行くか。内牧の湯殿も、そろそろ形になっておる」
その瞬間、二人の顔がぱっと明るくなった。
「参ります」
「ぜひ、参りとうございます」
「早い」
「湯でございますから」
加世がにこりと笑った。
「湯でございますもの」
珠光も深く頷いた。
惟種は、二人の様子を見て、とうとう笑った。
今年は本当に色々あった。
戦も、政も、京も、人の縁も、厄介事も、数えればきりがない。
だが、こうして三人で湯を見に行ける。
それだけでも、悪くない。
「では、支度をせよ」
「はい」
「すぐに」
二人は、今にも立ち上がりそうな勢いだった。
惟種は、肩の力を抜いた。
「……宗運たちには、少しだけ長く働いてもらうか」
そう呟いたところで、廊下の向こうから種茂の声がした。
「若君。宗運様より、内牧へ向かわれるなら護衛を増やすようにとのことです」
惟種は天井を見上げた。
「やはり、頭の中に住んでおるな」
加世と珠光は、また楽しげに笑った。
冬の阿蘇に、白い湯気が立つ。
内牧の湯殿は、もうすぐ形になる。
それは、ただの湯ではない。
阿蘇の疲れを癒やし、人を呼び、腹を満たし、道を太くする湯である。
そして今日だけは。
政の道具である前に、三人で向かう楽しみな湯であった。




