第百九十五話 惟種揚げ
天文二十年(一五五一年) 十二月
阿蘇へ戻った惟種を待っていたのは、山であった。
比喩ではない。
文の山である。
蔵の帳。
人別帳。
学び所の報せ。
寺社からの願い。
警邏方の始末書。
府内、肥前、日向、大隅、有馬、大村より届いた荷の道の報せ。
さらに京より持ち帰った厄介事がある。
従二位。
改元。
塚原卜伝の阿蘇滞在。
公方様の「阿蘇は第二のふるさと」発言。
惟種は、筆を持ったまま、しばらく天井を見上げた。
「帰ってきたはずなのだがな」
「帰ってこられましたな」
宗運が静かに答えた。
「その結果、止まっていたものが動きます」
「……うむ」
「若君」
「はい」
「お手を」
「はい」
逆らわぬ。
ここで逆らえば、また六刻である。
惟種は、ひたすら文に目を通した。
決めるものは決め、父である惟豊へ上げるものは上げ、宗運に任せるものは任せる。
従二位の礼については、丁寧に。
改元については、出しすぎず、引きすぎず。
塚原卜伝については、客人ではあるが、ただの客ではない。武芸指南役として扱う。滞在の館、稽古の場、警固、膳、湯、礼金、すべて帳に入った。
公方様については、惟種が何も言わぬうちから、宗運が一枚の紙を置いた。
そこには、ただ一言。
京取次。
惟種は、そっと目を逸らした。
「若君」
「……必要だな」
「ようやくお気づきに」
「言うな。胸に刺さる」
「刺さるうちが華にございます」
宗運は笑わなかった。
それが一番怖かった。
昼を過ぎ、夕に近づく頃、ようやく一つの山が崩れた。
惟種は筆を置き、両肩を回した。
「少し、外へ出る」
「逃げませぬな」
「逃げぬ。稽古場へ行くだけだ」
「それならば、よろしいかと」
許しが出た。
惟種は、逃げるようにではなく、堂々と立ち上がった。
堂々とである。
決して逃げてはいない。
◇
稽古場には、乾いた木の音が響いていた。
塚原卜伝は、静かに立っていた。
木刀を構えた島津義弘が、目を輝かせている。
その脇では、鍋島種茂が真面目な顔で足さばきを見ており、島種清も腕を組んで唸っていた。
卜伝は声を荒らげない。
だが、一歩進むだけで場の空気が変わる。
「島津殿、そこは力ではありませぬ」
「む」
「斬ろうとするほど、太刀は遅れます」
「では、どうすれば」
「すでに斬れているところへ、身体を運ぶのです」
義弘の目がさらに輝いた。
惟種は、その目を見て、少し引いた。
あれは危ない。
絶対に楽しいと思っている。
「若君」
卜伝がこちらを向いた。
「おお。わしは見ているだけで」
「見ているだけでは、肉はつきませぬ」
「肉?」
「はい」
卜伝は惟種の肩や腕を見た。
「若君は、年の割には肉付きがよろしい。よく食べ、よく寝ておられるのでしょう」
「寝ておるかどうかは、宗運に聞かぬでくれ」
「ですが、まだ足りませぬ」
「足りぬか」
「成長の時でございます。骨が伸びる時には、血も肉も要ります。剣を振るにも、馬に乗るにも、長く政をするにも、身体がもたねばなりませぬ」
政にも身体が要る。
それは分かる。
分かるが、惟種としては少し不満であった。
「つまり、もっと食えと」
「はい。とくに、肉と卵を」
肉と卵。
その言葉に、惟種の目が少し変わった。
阿蘇では、鶏を増やしている。
ただ放すのではなく、餌を定め、卵を取る鶏、肉に回す鶏、雛を残す鶏を分けていた。
鶏糞は畑へ回す。
卵は病人や子ども、鍛錬する者にも使う。
ようやく、目に見えるほど成果が出始めていた。
「……ならば、飯だな」
「飯、でございますか」
「うむ。身体を作るには飯だ」
惟種はうなずいた。
「台所へ行く」
義弘が木刀を下ろした。
「若君が、飯を作られるのですか」
「たまにはな」
種茂が眉をひそめた。
「若君、お側に」
「よい。台所だぞ」
「宗運様より、二人きりにするなと」
「台所で誰と二人きりになるのだ」
「油と火でございます」
「それは確かに危ないな」
惟種は妙に納得した。
結局、卜伝、種茂、義弘、種清までついて来た。
◇
台所の者たちは、若君が現れたことで一度固まった。
さらに塚原卜伝までいる。
完全に固まった。
「騒ぐな。少し作るだけだ」
惟種は袖をくくった。
「若鶏を出せ。卵も多めに。飯は冷めたものがよい。醤、塩、酒、生姜、葱、葛粉、それと油」
台所の者たちが慌ただしく動く。
鶏を増やしてから、鳥の油も少しずつ台所へ回るようになっていた。
惜しまず使えるほどではない。
だが、今日の試しには足りる。
惟種は若鶏を一口大に切らせ、醤と酒、生姜で揉んだ。
少し置いて、粉をまぶす。
鍋に油を張ると、台所の者たちが息を呑んだ。
「若君、これほど油を」
「今日は試しだ。揚げる。油の中で火を通すのだ」
熱した油へ、鶏を落とす。
じゅわり、と音が立った。
香ばしい匂いが台所に広がる。
義弘が一歩前に出た。
種茂が無言でその袖を掴む。
「まだだ」
「分かっておる」
「目が分かっておりませぬ」
卜伝は静かに見ていた。
太刀を見る目ではない。
だが、何かを測るような目であった。
揚がった鶏を上げ、少し置く。
その間に、惟種は別の鍋を出させた。
油を少し。
卵を落とし、飯を入れる。
刻んだ葱、塩、醤。
ほぐすように混ぜ、飯粒に卵と油をまとわせる。
「飯を焼くのですか」
背後から声がした。
珠光姫であった。
通りかかっただけらしいが、匂いに誘われたのだろう。
侍女を連れ、興味深そうに中を覗いている。
「珠光。台所は油が跳ねるぞ」
「では、少し離れて見ております」
そう言いながら、珠光は帰らなかった。
惟種は苦笑し、さらに卵を割った。
今度は、多めの卵をふんわり焼く。
別に、鶏の出汁と醤、少しの酢、葛粉を合わせ、とろみをつける。
焼いた卵を飯に乗せ、その上から熱い餡をかけた。
湯気が立つ。
珠光が小さく目を丸くした。
「まあ」
惟種は三つの皿を並べた。
一つは、揚げた鶏。
一つは、卵入りの焼き飯。
一つは、卵に餡をかけた飯。
「名はどうされますか」
台所の者が尋ねた。
惟種は少し考えた。
「阿蘇揚げ。阿蘇焼飯。阿蘇あんかけ。そのあたりでよかろう」
「阿蘇揚げ、阿蘇焼飯、阿蘇あんかけ」
台所の者が繰り返す。
うむ、と惟種は満足げに頷いた。
これならよい。
阿蘇の名物として広めればよい。
鶏も卵も市に回る。
油の使い道も増える。
客人に出せば、阿蘇の豊かさも示せる。
完璧である。
そう思ったところで、珠光が袖で口元を隠した。
「惟種揚げ、と呼ばれそうですね」
惟種は固まった。
「宗運のようなことを申すな……」
「まあ。宗運様なら、そうなさいますか」
「する。あの男はする」
断言できた。
惟種は深く息を吐き、皿を示した。
「まずは食え。名の話は後だ」
最初に手を伸ばしたのは義弘である。
熱い阿蘇揚げを頬張り、目を見開いた。
「これは」
「熱いぞ」
「熱い。だが、うまい」
義弘はもう一つ取ろうとして、種茂に止められた。
「皆で味を見るものです」
「分かっておる」
「手が分かっておりませぬ」
種清も阿蘇焼飯を口にした。
「飯がほどけておりますな。粥でも握り飯でもない。だが、食いやすい」
種茂は阿蘇あんかけを静かに食べ、少し驚いた顔をした。
「卵が柔らかい。飯に絡む。病み上がりにもよさそうです」
「そうだ。歯の弱い者にも使える。酢を強くせねば、子にも食える」
珠光も少しずつ口にした。
そして、ふっと笑った。
「雅な膳とは違います」
「うむ」
「けれど、人が喜ぶ膳です」
惟種は、その言葉に少し照れた。
「ならば、よかった」
卜伝は最後に箸を取った。
阿蘇揚げを一つ、静かに噛む。
次に阿蘇焼飯。
最後に阿蘇あんかけ。
そして、しばらく黙った。
「どうだ、卜伝殿」
「奇妙ですな」
「奇妙か」
「はい。油を使い、卵を使い、飯を焼く。どれも、私の知る膳とは違います」
卜伝は、惟種を見た。
「けれど、無駄ではない」
その声は低かった。
「腹を満たし、身体を作り、喜ばせる。しかも、鶏を飼い、卵を取り、油を使い、市へ流すところまで見ておられる」
「そこまで大げさなものではないぞ」
「若君は、そうお思いなのでしょう」
卜伝は薄く笑った。
「ですが、これが私の感じたことかもしれませぬ」
「感じたこと?」
「若君の太刀は、まだ幼い。ですが、若君の目は、太刀の外を見ておられる」
惟種は少し困った。
褒められているのか、剣が駄目だと言われているのか、どちらとも取れる。
「つまり、わしは剣が下手だと」
「これからですな」
「そこは否定してほしかった」
義弘が笑い、種茂も口元を緩めた。
珠光は静かに惟種を見ている。
「相変わらず、すごい御方です」
「飯を作っただけだ」
「その飯が、人を笑顔にしました」
そう言われると、惟種は返す言葉がない。
◇
その日のうちに、台所では三つの膳の作り方が控えられた。
ただし、惟種は何度も念を押した。
「よいか。名は阿蘇揚げ、阿蘇焼飯、阿蘇あんかけだ」
「はい」
「惟種揚げではないぞ」
「はい」
「惟種焼飯でもない」
「はい」
「惟種あんかけなど、もってのほかだ」
「はい」
台所の者たちは、真面目に頭を下げた。
惟種は満足した。
満足してしまった。
後に宗運は、何食わぬ顔でそれらを市へ流した。
帳の名は、阿蘇揚げ、阿蘇焼飯、阿蘇あんかけ。
だが、市の者、旅の者、学び所の子ら、湊の荷運びたちは、いつしかそれを別の名で呼ぶようになった。
惟種揚げ。
惟種焼飯。
惟種あんかけ。
若君が民の腹を満たす。
若君の名を、民が笑いながら口にする。
これほど扱いやすい徳はございませぬ、というのが宗運の言い分であった。
その話を聞いた惟種は、しばらく何とも言えぬ顔をした。
そして、ぽつりと呟いた。
「宗運め……飯にまでわしを混ぜるな」




