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火の山の若君は、未来を夢に見る ~阿蘇家嫡流の若君、名臣甲斐宗運と乱世を切り拓く~  作者: アトラス


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第二十話 南へ伸びる糸

 天文十四年(一五四五年)九月下旬。


 その夜、惟種は父に呼び出された。


 通されたのは、館の奥にある小座敷だった。昼の評定とは違い、人払いまでされている。


 中にいたのは、阿蘇惟豊と甲斐宗運だけだった。


「座れ」


「はい」


 惟種が腰を下ろしても、惟豊はすぐには本題へ入らなかった。


 しばらく息子の顔を見たあと、静かに口を開く。


「惟種。今宵は、表では話さぬことを教える」


「はい」


「宗運」


「では、私から」


 宗運が惟種へ向き直った。


「若君。これまでに何度か、若君へ害をなそうとしたと思われる者を止めております」


「…………」


 惟種の動きが止まった。


「何度か?」


「はっきり怪しいと見てよいものだけで三つにございます」


 宗運は淡々と告げた。


「御膳へ近づこうとした女。細工されていた橋。それと、若君がいつ館の外へ出るかを探っていた商人」


「……そんなことがあったのか」


「ございました」


「誰の手だ」


「まだ分かりませぬ。家中に通じる者か、周囲の国衆か、あるいは他家の耳か。そもそも三つすべてが同じ者の仕業とも限りませぬ。今も調べさせております」


 惟種は黙った。


 毒に、事故を装った細工、そして間者。


 前世では、どれも自分とは無縁のものだった。こちらへ来てからも、実際に襲われた覚えはない。


「全部、止めたのか」


「はい」


「そうか」


 宗運が珍しく目を瞬かせた。


「……若君?」


「何だ」


「もう少し驚かれるかと」


「驚いてはおる」


 惟種はそう答えた。


「だが、わしに毒を見分けろと言われても分からん」


「それは、まあ」


「橋に細工があるかも分からん。怪しい商人など、もっと分からん」


 惟種は宗運を見る。


「だから、おぬしに任せる」


「…………」


「今まで止めてきたのであろう?」


「左様にございます」


「なら、これからも頼む」


 宗運はしばらく惟種を見つめたあと、小さく頭を下げた。


「承知いたしました」


 怖くないわけではない。


 自分を害そうとしている者がいると聞けば、腹の底が冷えるものはある。


 それでも、どこか遠い話のようにも感じていた。


 自分が夜通し起きて見張ったところで、どうにかなる話でもない。むしろ、今まで惟種が何一つ気づかなかったということは、それだけ宗運たちが先に潰していたということだ。


(なら、任せるしかないな)


 自分にできないことまで、すべて自分で抱える必要はない。


「ただし」


 惟豊が口を挟んだ。


 惟種が父を見る。


「任せることと、知らぬことは違う」


「はい」


「宗運より上手くできぬことを、おぬしが無理にやる必要はない。だが、誰がおぬしを狙うのか、なぜ狙われるのか、宗運が何をしておるのか。それは知っておけ」


「……なるほど」


「家が大きくなれば、味方だけが増えるのではない」


 惟豊は息子をまっすぐ見た。


「敵の目も増える」


「はい」


「覚えておけ」


「承知しました」


 宗運が横から付け加える。


「もっとも、若君の場合は目立つのが少々早すぎましたが」


「そうなのか」


「病より起きられて、まだ一年も経っておりませぬ。それなのに田が変わり、銭が増え、鍛冶場ができ、山から鉄まで取り始めております」


「…………」


「外から見れば、十分異様にございます」


 惟種は少し考えた。


 自分にとっては、知っているものを順番に形へしているだけだ。


 だが、他家から見れば違う。


 何も変わらなかった阿蘇が、急に動き始めたように映るのだろう。


「それでも」


 惟種が言った。


「今までは防げたのであろう」


「はい」


「なら、わしは宗運を信頼している」


「若君。少しは恐れてくだされ」


「恐れれば毒が見えるようになるのか」


「……なりませぬな」


「なら頼む」


 宗運は小さく息を吐いた。


「承知しました」


 惟豊の口元が、ほんの僅かに緩んだ。


     ◇


「さて」


 惟豊が姿勢を変えた。


「次だ」


 宗運が一枚の書付を置く。


「島津との件にございます」


 惟種はすぐに顔を上げた。


「進んだのか」


「はい。先方も、まず話をすることには異存がないようにございます」


「本当か」


「まだ盟約などという段階ではございませぬ。まずは双方に縁のある寺を介し、互いに人を出します」


「こちらは?」


「私が参ります」


「なら任せる」


「惟種」


 すぐに父の声が飛んだ。


「……はい」


「先ほど申したばかりであろう」


「ですが、宗運の方が上手いでしょう」


「無論だ」


「なら」


「任せるのはよい」


 惟豊は呆れたように息を吐いた。


「何を話すのか、何を渡すのか、こちらが何を得たいのか。それすら知らずに任せるなと言っておる」


「……ああ」


 惟種はようやく意味を理解した。


「そこまでが、わしの仕事ですか」


「そうだ」


(当主というのも面倒だな)


 自分よりできる者へ任せれば、それで終わり。


 そういうわけにはいかないらしい。


 だが、それも上に立つ者の仕事なのだろう。


「それで」


 惟種は宗運を見る。


「何を持っていく」


「こちらを」


 宗運が脇へ合図すると、箱が一つ運び込まれた。


 蓋を開ける。


 中には玻璃の器が収められていた。


 最初に作った歪な玉とは比べものにならない。まだ完全な無色透明とはいかないものの、形は整い、光を通した器の表面には艶がある。


「これを贈るのか」


「はい」


「これだけのものなら、かなりの銭になるぞ」


「高いからこそ、贈る意味がございます」


 宗運は平然と答えた。


「阿蘇には、このような品を作る力がある。それだけでも、先方の見る目は変わりましょう」


「田や鍛冶のことまで話すのか」


「いいえ」


 宗運は即答した。


「見せるものと、隠すものは分けまする」


「……なるほど」


「全ての札を、机へ並べる必要はございませぬ」


 玻璃一つで、阿蘇には他家にないものを作る力があると示せる。


「この家とは、今から付き合っておいても悪くない。そう思わせるための品にございます」


「なるほど」


 惟種にも、その意味はよく分かった。


     ◇


「では、惟種」


 惟豊が尋ねた。


「はい」


「おぬしは島津と、どうありたい」


「どう、と申されますと」


「そのままだ。商いだけか、争わぬだけでよいのか。その先まで望むのか」


 惟種は少し黙った。


 外交のやり方は分からない。


 どんな言葉を使い、誰へ何を渡し、どこまで譲れば相手の心が動くのか。それは宗運に学びながら任せたい。


 だが、欲しい結果なら分かっている。


「できるなら」


 惟種は口を開いた。


「盟を結びたいです」


 惟豊の眉が僅かに動いた。


「同盟か」


「はい」


「そこまで考えておったか」


「それと」


 惟種は一度言葉を止めた。


 宗運もこちらを見る。


「できるなら、その先で縁も結びたい」


「縁?」


「婚姻です」


 今度こそ、惟豊の表情が変わった。


「……婚姻まで考えるか」


「はい」


「おぬしが?」


「はい」


 惟種は阿蘇家の嫡子だ。


 つまり、自分自身の婚姻ということになる。五歳の自分が口にするには妙な話だったが、必要なら仕方がない。


 惟豊はしばらく何も言わなかった。


「そこまでの相手と見るのか」


「見ています」


「なぜだ」


 惟種は父を見た。


「未来の景色では、島津は九州全体を揺らすほどの家になります」


 惟豊の目が僅かに細くなる。


「そこまでか」


「はい」


 惟種の頭には、前世で知った島津貴久と、その後を担う義久、義弘、歳久、家久らの名が浮かんでいた。


 今はまだ、後世の島津ほど巨大ではない。


 だが、この家はここから薩摩をまとめ、大隅へ進み、日向へ伸び、いずれ九州全体を揺らすほどの勢力になる。


「島津が強くなってから縁を求めたのでは遅いです」


「なぜだ」


「その時には、こちらが頼む側になります」


 惟豊は黙る。


「今なら、まだ先に手を伸ばせます。大きくなってから近づいてきた家と、昔から付き合っていた家では、同じではないでしょう」


 惟豊の目が僅かに動いた。


「なるほど」


「今すぐ婚姻しろとは申しません」


「当たり前だ。おぬしは五つだぞ」


「それは分かっております」


「……本当か」


「分かっております!」


 宗運の口元が、ほんの少し動いた。


「ただ、今のうちに付き合いだけは始めたい。商いでもいい。贈り物でもいい。人を行き来させてもいい」


「島津が大きくなる前から、阿蘇とは付き合いがある。それを作っておきたいと」


「そうです」


 惟豊は腕を組んだ。


「ふむ……」


 しばらく考える。


「おぬしの考えは分かった」


「では」


「待て」


 惟豊が手で制した。


「婚姻となれば、話は別だ」


「はい」


「惟将はもうおらぬ」


 その名が出て、惟種も僅かに表情を変えた。


 兄。


 すでに亡くなった阿蘇惟将。


「今の当家は、一門が薄い」


「はい」


「だからこそ、おぬしの婚姻は重い。大友と縁を結べば今の阿蘇を守る力になろうし、相良なら南の境を安んずることにつながるやもしれぬ。名のある家との縁そのものにも使い道はある」


 惟種は黙って聞く。


「おぬし一人が誰を好くか、嫌うかという話ではない」


「はい」


「阿蘇家が持つ、大きな札の一つだ」


 嫡子の婚姻は、ただ妻を迎えるだけではない。


 その実家と縁ができ、それが戦を止めることもあれば、逆に争いへ巻き込まれることもある。


「その札を」


 惟豊は惟種を見る。


「今の島津へ切るほどか、とわしは聞いておる」


「…………」


 惟種は一度だけ息を吐いた。


 父の問いも理解できる。


 今の島津だけを見れば、大友との縁の方が目の前の危険を減らせるかもしれない。相良なら、すぐ隣との関係に使える。


 他にも、阿蘇家の嫡男という立場を利用できる相手はいくらでもいる。


 それでも。


「島津へ縁をつないでおきたいです」


 惟豊がじっと見る。


「未来の景色だけを根拠にか」


 惟種は少し黙った。


 未来の景色では、そうなっている。


 だが、それだけを根拠に、父へ嫡子の婚姻という大きな札を切らせるわけにはいかない。


 それは惟種自身にも分かった。


「それだけでは足りぬと思います」


 惟豊の眉が僅かに動いた。


「分かっておるのか」


「はい」


「ならば?」


「今は道だけ作ってください」


 惟種は答えた。


「島津と話せる道を作って、相手を見る。それで本当に縁を結ぶ価値があるのかも確かめたいです」


 惟豊はすぐには返事をしなかった。


 やがて静かに口を開く。


「分かった」


 惟種が顔を上げる。


「島津との道は作る」


「はい」


「だが、婚姻についてはまだ決めぬ」


「……はい」


「島津が本当におぬしの申す通り伸びる家なのか、それも見ねばならぬ」


「分かりました」


「それから」


 惟豊は少しだけ笑った。


「今後のおぬしの働き次第だ」


「わしの?」


「当然だ」


「…………」


「島津はこれから大きくなる。ゆえに、その前から縁を結ぶべきだ。そう申したのはおぬしであろう」


「はい」


「ならば、その読みをわしに信じさせてみせよ」


 惟種は父を見る。


「ここまで田を変え、水飴と玻璃で銭を生み、鍛冶場まで起こした。それは認める」


「はい」


「だが、おぬしの婚姻という大きな札を、その読みへ賭けるにはまだ足りぬ」


「…………」


「阿蘇を、もっと強くしてみせよ」


 惟種の目が僅かに開く。


「おぬしの知る未来が本当に使えるものなのか、これからも結果で示せ」


 惟豊は息子をまっすぐ見た。


「そうすれば、その時は改めて考えよう」


 惟種は少しだけ黙った。


 それから、深く頭を下げる。


「分かりました」


「うむ」


 惟豊が頷く。


「励め」


「はい」


     ◇


「では、島津への最初の話は」


 宗運が確認する。


「玻璃を贈れ」


 惟豊が答えた。


「こちらのすべてを見せる必要はない。先方を見ながら、こちらも少しだけ見せよ。無理に盟約を求めるな」


「承知しました」


「商いの話ができれば、それでもよい」


「は」


「まずは、阿蘇という家を覚えさせろ」


 宗運が深く頭を下げた。


「承知いたしました」


 これで南へ一本、細い糸を伸ばすことになった。


 まだ盟約でも婚姻でもない。


 ただ、島津が大きくなりきっていない今から、阿蘇と島津の間に一つの道を作る。


 惟種にとっては、それで十分だった。


「今宵はここまでだ」


 惟豊が言った。


「惟種」


「はい」


「戻ってよい」


「失礼いたします」


 惟種は二人へ頭を下げ、小座敷を出た。


     ◇


 障子が閉まる。


 残ったのは、惟豊と宗運だけだった。


 宗運は箱の中に収められた玻璃の器へ目を落とす。


「宗運」


「はい」


「どう見る」


「島津を、でございますか」


「いや」


 惟豊は閉じた障子を見る。


「惟種だ」


 宗運は少しだけ黙った。


「先を見る目は、ございますな」


「あるな」


「少なくとも、これまで申されたことの多くは形になっておりまする」


 惟豊は小さく笑った。


「それが困る」


「困る、と」


「信じてやりたいと思う自分がおる」


 宗運の目が僅かに動いた。


「これまでの結果が、そう思わせておりまする」


「分かっておる」


 惟豊は閉じた障子を見たまま、少し目を細めた。


「五つの子が未来を見たと申す。その言葉だけなら、笑って終わりだ」


「はい」


「だが、あれは結果を持ってくる」


「左様にございます」


「なら、これからも持ってくるのであれば」


「その時は?」


 惟豊はすぐには答えなかった。


 やがて、ほんの少し楽しそうに笑う。


「無視する方が、愚かになろうな」


 南へ伸びた糸は、まだ細い。


 玻璃の器一つを携えた使者が、これから初めてその糸を手繰ろうとしているだけだ。


 それがいつか何につながるのか。


 今はまだ、誰にも分からなかった。

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