第十九話 実りと銭の勘定
天文十四年(一五四五年)九月。
矢部の館で評定が開かれた。
この日の議題は一つではない。
春から試してきた田や水飴と玻璃、新しく設けた鍛冶場、千歯扱き、それによって生まれる人の働き口まで、それらが実際にどれほどの銭と米を生み始めているのか。
惟種がこの半年ほどで次々と手を付けてきたものを、一度まとめて確かめるための評定だった。
上座には阿蘇惟豊。
その脇に甲斐宗運。
田代快尊、田代宗傳、合志伊勢守、黒仁田豊後守らが並び、そのほか一門や重臣たちも顔を揃えている。
惟種は、いつものように宗運に近い端の席へ座っていた。
「では、始める」
惟豊の声で、広間が静まる。
最初に前へ出たのは宗傳だった。
「まず、今年の試し田についてにございます」
帳面を開く。
「若君の指図にて、種籾、水、肥やし、田の均し方、植え方などを変えて比べてまいりましたが、いずれも昨年を上回っております」
「どれほどだ」
快尊が尋ねる。
「平均すれば、おおむね二割ほど」
ざわり、と小さな声が起きた。
「二割?」
「はい。土地のよいところでは三割ほど増えた田もございます」
「三割……」
黒仁田が思わず呟く。
宗傳は帳面へ目を落としたまま続けた。
「まだ全てを揃えたわけではございませぬ。種選り、水の管理、肥やし、田の均し、植え方。それぞれで結果に差が出ておりますゆえ、良かったものを組み合わせれば――」
一度、惟種を見る。
「五割ほど増える田も、今後は出るかと」
今度は、広間がはっきりざわついた。
「五割だと」
「まことか」
「田が半分増えるのと同じではないか」
惟種は黙って聞いていた。
自分としては、それほど不思議ではない。
種を選び、水を管理し、田を均し、肥やしや植え方まで変えてきた。未来の知識の中から、この時代でもできるものを選び、実際に試して記録してきたのだ。
(これだけやって、何も変わらん方がおかしい)
もちろん、五割増がすべての田で出るとは思っていない。
土地も水も違えば、天候にも左右される。それでも全体で二割、三割と底上げできるだけで十分だった。
「千歯扱きも働いております」
宗傳が続ける。
「例の、歯がたくさん並んだものか」
黒仁田が尋ねた。
「はい。収穫後の手間が大きく減りました」
「どれほど違う」
「扱箸とは比べものになりませぬ。まだ数が少ないため一部でしか使っておりませぬが、広げれば相当な人手が浮くものと思われます」
黒仁田の眉が少し動いた。
「人手が浮く、か」
「その者らについては」
今度は宗運が口を開いた。
「別の働き口へ移せるよう、先に算段を始めております」
「御家で雇うのか」
快尊が宗運を見る。
「すべてではございませぬ」
宗運は淡々と答えた。
「鉱山、炭焼き、荷運び、道普請、工房。それぞれに人が要ります。また、産婆の補助、子守、年寄りを見る者など、これまで人手を割けなかったところへ回すことも考えております」
「産婆まで?」
「若君の御考えにございます」
何人かの視線が惟種へ向く。
惟種は頷いた。
「子が死にすぎる。母もだ。助けられる者を増やしたい」
「それも家で?」
「できるところからだ」
惟種はそう答えた。
「それに、年寄りだから何もできぬわけでもない。村の昔を知る者もおるし、山や水、人を知る者もいる。そういう知恵は残した方がいい」
快尊が感心したように顎を撫でる。
「なるほど」
「さらに、村々を回り、市の日や仕事のある場所、新しい農具などを知らせる者も考えております」
宗運が加える。
「その者らには、帰った際に各地で見聞きしたことも申させまする」
黒仁田が宗運を見る。
「知らせるだけではないのか」
「せっかく村々を回るのです。見知らぬ者がいた、妙な噂がある、病や揉め事が起きた。その程度は聞いて戻らせた方がよろしいでしょう」
「……なるほどな」
惟種は横で小さく息を吐いた。
自分は、こちらから情報を伝えるために考えた。
宗運は、すぐに向こうから情報を拾う仕組みに変えた。
(やっぱり、この辺りは宗運に任せて正解だな)
しかも宗運は、それを当然のようにやる。
◇
「鍛冶場はどうだ」
惟豊が尋ねた。
「順調にございます」
宗傳が答える。
「鍬、鎌、釘、金具。どれも注文は増えております。玻璃工房からの工具修理もございます」
「水飴は」
「変わらず売れております」
「玻璃もか」
「はい。数を出しすぎぬよう抑えておりますが、それでも注文は続いております」
「……全部うまくいっておるではないか」
誰かが呆れたように言った。
宗傳が苦笑する。
「はい。少々、困るほどに」
広間に小さな笑いが広がる。
だが、宗運だけは笑わなかった。
帳面へ目を落としながら、別のことを考えていた。
田の収穫は二割、場所によっては三割増え、さらに五割も狙える。水飴と玻璃で銭を得て、その利益で鍛冶場を起こし、今では山を調べて鉄を探し、製鉄まで始めようとしている。
しかも、人手が余れば別の仕事へ移し、子を助け、老人まで支えるという。
(一つ一つならば、小さな話に見えるが……)
宗運は僅かに目を細めた。
全部を並べれば違う。
(大友に、正しく知られるのはまずいか…)
阿蘇が農具を作り、若君が珍しい飴を売った程度なら、まだ笑って済む。
だが、農業の収量が二割、三割と増え、年貢を軽くしても人が戻って耕地が広がり、殖産で得た銭を再び次の産業へ回しているところまで数字を揃えて知られれば、大友も阿蘇を見る目を変える。
それは、まだ早い。
◇
「御屋形様」
宗運が前へ出た。
「もう一つ、お耳に入れたいことがございます」
「例の村か」
「はい」
惟種も顔を上げた。
試しに、一つの村だけ年貢を軽くしている。
三公七民、つまり取るのは三で、百姓へ七を残す。
始める時には、当然反対もあった。本来なら取れる米を、わざわざ残すのだから無理もない。
「結果は」
惟豊が尋ねた。
「村が、明らかに変わっております」
宗運が答える。
「逃げていた者の一部が戻り始めました」
「ほう」
「荒れていた田を起こす者もおります。牛馬を買う者、農具を直す者、市へ物を持ち込む者も増えておりまする」
快尊が眉を寄せた。
「だが年貢を減らしたのだろう」
「はい」
「ならば、阿蘇へ入る米は減ったはずだ」
「今年だけを見れば」
宗運は素直に頷いた。
「されど、耕す田そのものが増えております」
「……なるほど」
「三年、五年と続ければ、取る割合を減らしても、取れる米の総量は増えるやもしれませぬ」
広間が静かになる。
惟種は内心で頷いた。
(そりゃそうだ)
働いても多く取られる村と、働くほど手元に残る村なら、どちらへ人が集まるかは考えるまでもない。
「御屋形様」
宗運が惟豊を見る。
「この仕方を、阿蘇全体へ少しずつ広げてはいかがでしょう」
何人かの重臣が宗運を見る。
「三公七民をか?」
「すべて一度にとは申しませぬ。田の仕方、農具、働き口。それらと合わせ、受け入れられる村から広げまする」
惟豊が少し考える。
「それをすれば」
広間を見渡した。
「阿蘇は、どれほどになる」
宗運はすぐには答えなかった。
宗傳から別の帳面を受け取り、数字を確かめる。
「今の阿蘇を、おおよそ十一万石と見ますれば」
一座の目が集まる。
「まず、十三万石は越えましょう」
沈黙が落ちた。
「十三万……」
快尊が呟く。
「二万石以上、増えるというのか」
「まずは、にございます」
「まず?」
「全体で二割増を取れれば、それだけで十三万石を越えまする」
宗運は惟種を見る。
「若君の申されるように、三割、あるいは五割増える田が増えれば」
「まだ上がる」
「はい」
今度は、広間の視線が一斉に惟種へ向いた。
「…………」
(なんでこっちを見る)
惟種にとって、農業も鍛冶も玻璃も製鉄も、まだ始めたばかりだった。むしろ、これから手を入れることの方が多い。
だが周囲から見れば違う。
五歳の若君が病から起き上がって、まだ半年ほど。
その間に田へ手を入れ、新しい農具を作り、水飴と玻璃を売り、鍛冶場を起こし、税まで変えた。
その結果、阿蘇の石高が一気に二万石以上伸びる可能性がある。
「若君……」
誰かが小さく呟いた。
先ほどまであった笑いはない。
何人かの武将が、惟種を見る目を明らかに変えていた。
惟豊だけは違う。
「そうか」
短く言う。
だが、口元がほんの僅かに上がっている。
快尊が気づいた。
宗傳も気づいた。
宗運など、とっくに気づいている。
誰も何も言わなかった。
◇
「では」
惟豊が言った。
「これを家の方針とする」
広間が締まる。
「田の仕方を広げよ」
「は」
「一度に全部ではない。結果のよいものからだ」
「は」
「農具も回せ。鍛冶場には増産させよ」
「承知しました」
「水飴と玻璃も続ける」
「は」
「三公七民も、まず広げられるところから試せ」
快尊が口を開いた。
「御屋形様」
「何だ」
「年貢を減らすことに、不安を持つ者は出ましょう」
「出るだろうな」
惟豊はあっさり答えた。
「ならば結果を見せればよい」
惟種が父を見る。
「豊かになった村を見せる。米が増えた田を見せ、銭が回る市を見せる」
そして、一座を見回した。
「それでも嫌だという者には、無理に飲ませぬ」
「よろしいので?」
「いずれ向こうから言ってこよう」
惟豊が少し笑った。
惟種も内心で笑う。
(父上も悪い顔をするようになったな)
だが、理にかなっている。
無理に変えるより、隣の村が豊かになるところを見せた方が早い。
「御意」
宗運が深く頭を下げた。
その頭の中では、すでに別の算段まで始まっていた。
結果は見せる。
だが、外へは正確には見せない。
◇
「さて」
惟豊が言った。
「次だ」
宗運が別の書付を取り出す。
惟種には、その時点で何の話か分かった。
(南だな)
「島津とのことにございます」
広間の空気が僅かに変わる。
薩摩の島津は、今すぐ戦う相手ではないが、無視できる家でもない。
「どうなった」
惟豊が尋ねる。
「まだ正式な話ではございませぬ」
宗運が答えた。
「されど、縁をつなぐための筋が一つ見え始めております」
惟種が思わず身を乗り出した。
「本当か」
一座の視線が集まる。
「…………」
惟種は少し座り直した。
「……本当でございますか」
宗傳が横を向く。
肩が動いていた。
宗運は何事もなかったように続ける。
「まだ細い糸にございます。ただ、つながる見込みはございます」
「それでよい」
惟豊が言った。
「今は細くてよい。切らすな」
「承知」
宗運が頭を下げる。
惟豊はそこで、一度広間を見渡した。
田や年貢、水飴、玻璃、鍛冶、働き口、そして南へ伸び始めた細い糸。
ほんの半年前まで、どれも評定で家の方針として語るものではなかった。
「惟種」
「はい」
惟豊は端に座る小さな息子を見る。
「よくやった」
「…………」
惟種が目を瞬かせた。
予想していなかったらしい。
「ありがとうございます」
少し遅れて頭を下げる。
惟豊はその姿を見ながら、ほんの少し笑った。
ついこの間まで病の床に伏していた子だ。
それが今では田を語り、銭を語り、人の働き口を考え、国の先まで見ようとしている。
(大きくなったものだ)
そう思う。
ただ、
(……少しばかり、早すぎる気もするがな)
まだ五つなのだ。
五つでこれなら、十になればどうなる。
二十になれば、どこまで行く。
父である惟豊にも分からない。
だが、それでいい。
子が育ち、父より先へ進もうとする。
それは喜ぶべきことだった。
「本日の評定は、これまでとする」
「はっ」
一同が頭を下げた。
◇
評定が終わり、重臣たちが一人、また一人と広間を出ていく。
宗運は、その場に残って書付を整理していた。
田の広げ方、三公七民を試す村、増やす農具、浮く人手とその働き口、産婆の補助、村々を回る者、鍛冶場、水飴、玻璃、鉱山、製鉄、そして島津へ伸ばす細い糸。
明らかに、仕事が増えていた。
宗運は僅かに息を吐いた。
だが、それより気になることが一つあった。
(さて……)
もし今日の評定の中身を、大友が知ればどう思う。
十一万石ほどの阿蘇が田の出来を二割、三割と増やし、税を軽くして人を戻し、新しい産業を起こして銭を稼ぎ、鍛冶を集めて山を掘り、鉄まで作ろうとしている。
そして将来、十三万石どころではなくなる可能性がある。
(……知れば、放ってはおきますまい)
大友は今の阿蘇を、頭を低くしておる家として見ている。
その阿蘇が急に力を蓄え始めたと知れば、問いただすか、探りを入れるか、あるいはもっと直接的に口を出してくるかもしれない。
隠す必要がある。
だが。
(隠し切るのは、無理か…)
農民も商人も知っており、水飴も玻璃も外へ売っている。鍛冶場では毎日槌の音が響き、田の実りまで隠すことなどできない。
ならば。
宗運の指が、帳面の上で止まった。
(逆をいく)
隠すのではない。
広める。
ただし、一つの話としては広めない。
田は二割増えたとも三割増えたとも、いや五割、倍になったとも言わせる。
若君が田へ妙な水を撒いた。阿蘇の神の加護だ。火の山から出た灰を撒けば米が増える。若君は夢で田の作り方を神から教わった。
そんな話も混ぜればいい。
玻璃も同じだ。
火山の石を溶かして作った、南蛮人が密かに阿蘇へ来ている、唐人の職人を囲ったらしい。
どれが本当で、どれが嘘か。
分からなくしてしまえばいい。
宗運の口元がほんの僅かに動いた。
(真を一つ隠すより、百の噂へ紛れさせる方が早い)
本当にあった話。
少し膨らませた話。
まるで違う話。
それらを一緒に流す。
「五歳の若君が田の実りを増やした?」
「砂から玻璃を作った?」
「山を掘れば鉄の場所まで分かる?」
そんな話が一度に並べば、大半の者は笑うだろう。
そんな馬鹿な話があるか、と。
それでいい。
むしろ、そう思ってもらった方がいい。
(正しい数字だけは、掴ませぬ)
宗運はそう決めた。
そこで視線を上げる。
少し離れたところで、惟種が宗傳と何やら話していた。
楽しそうだった。
(この若君は)
田を豊かにするだけでなく、浮いた人手まで次の力へ変え、稼いだ銭を次の産業へ回し、ついには戦わずして人を阿蘇へ寄せる道まで考え始めている。
(このまま育たれれば)
宗運は目を細めた。
阿蘇の先は、確かに明るい。
今までとは違う阿蘇になる。
そんな未来が、少しずつ見え始めている。
そして、もう一度手元の書付を見る。
農政、年貢、雇用、鍛冶、鉱山、製鉄、島津。
そこへ今度は、村々を回る者や商人、市、旅人、寺社を使った噂と情報の流れまで加わる。
どこから何を流し、どこまで届かせ、戻った者から何を聞くのか。
「…………」
宗運は筆を止めた。
(また、仕事が増えましたか)
止める理由はない。
むしろ、やらなければ危険だ。
それが一番困る。
「……やれやれ」
誰にも聞こえぬほど小さく呟き、宗運はまた筆を動かした。
◇
「宗傳」
「はい」
「次は何からやる」
「若君」
「何だ」
「評定は終わりましたぞ」
「知っておる」
「でしたら、少しくらい休まれては」
「まだ早い」
惟種は立ち上がった。
まだ始まったばかりだ。
やりたいことは、いくらでもある。
田をもっと豊かにし、銭を稼ぎ、人と産業を増やして兵を養う。
そしていつか、大友へ頭を低くせずとも済むだけの家にする。
(よし)
惟種は小さく拳を握った。
(ここからだ)
五歳の若君は、次にやることを考えながら勢いよく広間を出ていく。
その後ろで、甲斐宗運だけが増えた書付を前に、もう一度小さく息を吐いた。




