第二十一話 阿蘇の鬼童
天文十四年(一五四五年)十月。
戦は、評定の外で決まることがある。
その夜、惟種が呼ばれたのは、いつもの広間ではなかった。
館の奥にある小座敷。
中にはすでに、阿蘇惟豊と甲斐宗運が待っていた。
灯は二つ。
地図が一枚。
人払いまでされている。
「お呼びと伺いました」
「うむ。座れ」
惟種が座ると、惟豊はすぐに本題へ入った。
「境目が動いた」
宗運が地図の一点を指す。
「年貢道の渡しに手が入りました。新市へ向かう荷を止め、阿蘇へ移ろうとした百姓を脅しております」
「誰だ」
「鹿子木に通じる境目衆にございます。館主は中村左近。鹿子木の名をちらつかせておりますが、本家がどこまで噛んでいるかは、まだ見えておりませぬ」
惟種は地図へ目を落とした。
谷。
渡し。
林。
低い丘。
その奥に小さな館がある。
やっていること自体は小さい。
だが、道を塞ぎ、荷を止め、阿蘇へ来ようとする民を脅している。
放っておけば、同じことをする者が出る。
「面倒だな」
「はい」
「放ってはおけぬ」
「御意」
惟豊が短く言った。
「討つ」
それで決まった。
「兵は」
「七百ほど出しまする」
惟種が顔を上げた。
「多くないか」
「相手は二百五十。多くとも三百には届きませぬ」
宗運は平然としている。
「今回は勝ち戦にいたします」
「そこまでして?」
「若君が出られますので」
「…………」
惟種が止まった。
「わしも?」
「そなたも出る」
惟豊が答えた。
いつかは来ると思っていた。
だが、六つにもならぬ身で実際に戦場へ行くとなれば、話は違う。
「よろしいのですか」
「本陣より前へは出しませぬ」
宗運が答える。
惟豊も頷いた。
「そなたに首を取らせる戦ではない。戦を見せるための戦だ」
「戦を」
「兵がどう動くか。将が何を見るか。戦う前に何を決めておくのか。それを見てこい」
「はい」
惟豊はそこで、惟種をまっすぐ見た。
「それと、そなたの妙な知恵が役立つと思えば使え」
「……承知いたしました」
◇
その夜、惟種はなかなか眠れなかった。
怖くないと言えば嘘になる。
前世では、戦争など本と映像の向こう側だった。
人が槍を持ち、本当に殺し合う場所。
そこへ明日、自分が行く。
(まあ、わしが斬り合うわけじゃない)
そう考えても、眠りは浅かった。
そして寝床の脇には、一本の木筒が置いてある。
惟種はそれへ目を向けた。
(使えるかな)
長さは一尺半ほど。
両端には磨いた玻璃がはめられている。
何度も試作させ、何度も失敗した。
ようやく一つだけ、遠くのものが少し大きく見える物ができた。
倍率は二倍あるかないか。
端は歪み、像もぼやける。
前世で知る望遠鏡と比べれば、出来損ないもいいところだった。
だが。
(肉眼より見えるなら、それでいい)
戦場では、ほんの少しの違いが役に立つかもしれない。
◇
翌朝。
まだ空が暗いうちから、館の外は騒がしかった。
松明。
馬。
槍。
荷駄。
七百余の兵が、門の外まで長く続いている。
その中心で宗運が全体を見ていた。
少し離れたところでは、田代宗傳が兵と荷を次々に捌いている。
「その荷は本陣へ!」
「弓組は先鋒の後ろだ! そこではない!」
「道を空けよ! 馬を先に通せ!」
いつもの宗傳とは少し違った。
普段は帳面を見ながら人と物を動かしている。
戦場でも、人と物を見て置く場所を決める。
(やってることは、案外同じなのか)
惟種が見ていると、宗運が近づいてきた。
「若君。出立いたします」
「うむ。その前に、これを見てみよ」
木筒を差し出す。
「これは?」
「覗く」
宗運が片目を当て、館の門の向こうへ向けた。
しばらく黙る。
「どうだ」
「……近う見えますな」
「だろう」
「端は歪んでおります。少し霞みますが」
「出来損ないだからな」
宗運が木筒から目を離した。
「これで出来損ないなので?」
「うむ」
「もっと良くできますか」
「できる。玻璃の形と磨きをもっと揃えれば、少なくともこれは越えられる」
宗運はもう一度覗いた。
「戦場で使えると思うか」
「使ってみなければ分かりませぬ」
「そうだよな」
「ですので、持ってまいりましょう」
宗運は木筒をそのまま持った。
「最初からそのつもりだ」
「左様で」
そこへ宗傳が来た。
「若君。例の板も積んでおりますぞ」
「十枚?」
「十枚ございます」
宗運が振り返る。
「板?」
「あとで見せる」
「また何かございますか」
「たぶん使える」
「たぶん……」
「たぶんだ」
宗運は少しだけ嫌そうな顔をした。
◇
阿蘇勢は館を出た。
七百人。
言葉にすれば、それだけだ。
だが実際に動かせば長い。
山道では兵の列が延々と続き、坂では詰まり、川では遅れる。
荷駄が一つ止まれば、その後ろまで止まる。
宗運が先を見て、宗傳が列を整える。
惟種は本陣の中から、その様子を眺めていた。
(七百を目的地まで連れていくだけで、これか)
兵を集めれば、それで軍になるわけではない。
食わせる。
歩かせる。
遅れさせない。
道を選ぶ。
休ませる。
戦う前から、もう勝負は始まっている。
(父上が見ろと言ったのは、こういうことか)
少し分かった気がした。
◇
日が昇る前。
阿蘇勢は目的の谷へ入った。
本陣は、谷を見下ろす低い尾根へ置かれた。
正面には小川。
その向こうに田。
さらに雑木林。
敵の館は、その奥にある。
宗運が地形を見ていた。
「早かったな」
「敵が整う前に着きたかったので」
「なるほど」
宗運が宗傳を呼ぶ。
「左を任せる。正面が動いても勝手に前へ出すな。敵が林から動いた時だけ動け」
「承知」
宗傳はすぐに兵の方へ戻った。
惟種が聞く。
「もう何か分かるのか」
「分かりませぬ」
「なら、なぜ待たせる」
「分からぬから待たせます」
「…………」
惟種は少し感心した。
そこで木筒を思い出す。
「宗運。使ってみろ」
宗運が雑木林へ向けた。
裸眼では、人の姿も小さな点にしか見えない。
宗運はゆっくり筒を動かした。
「正面に百五十ほど。館前にもおりますな」
「そこまで見えるか」
「ええ」
さらに右へ動かす。
そして止まった。
「……旗がございます」
「どこだ」
「右の林際。木の間にも兵がおります。数までは分かりませぬが、十や二十ではございませぬ」
宗運の声が変わった。
「宗傳!」
少し離れていた宗傳が戻ってくる。
「右の林に兵が伏せている」
「見えたので?」
「これでな」
宗運が木筒を軽く持ち上げた。
宗傳が惟種を見る。
「若君の?」
「うむ」
「またですか」
「何がだ」
「何でもございませぬ」
絶対に何か言いたそうだった。
だが宗運が続ける。
「右へ二百回せ。林のさらに外だ。姿は見せるな。伏兵が出たところを横から叩け」
「承知」
「正面が動いても待て」
「分かりました」
宗傳は走った。
惟種が林を見る。
「伏兵か」
「おそらく」
「敵はこちらが気づいたことを」
「知りませぬ」
惟種は裸眼で林を見た。
何も分からない。
だが宗運には、もう見えている。
(これは大きいな)
敵は、こちらが知らないと思っている。
こちらだけが知っている。
それだけで戦い方が変わる。
「宗運」
「はい」
「それ、返せ」
「もう少し」
「わしのだぞ」
「存じております」
「…………」
返す気はないらしい。
◇
空が赤くなった。
朝日が山の端から顔を出す。
阿蘇勢の背後から昇り、敵はちょうどこちらを向いている。
(今だな)
「宗傳!」
「何でございます!」
「例の板を出せ!」
「使うので?」
「使う」
ほどなく十枚の銅板が運ばれてきた。
丸く磨かれ、人の顔より大きい。
鏡ほど綺麗ではなく、磨きむらもある。
だが朝日を受ければ、強く光った。
「これを何に使われるので?」
宗運が聞く。
「敵へ向ける」
「それだけで?」
「眩しい」
「…………」
「たぶん」
宗運が惟種を見る。
「たぶん、でございますか」
「試したことがない」
「では、なぜ持ってきたので」
「試すためだ」
宗運が黙った。
敵は二百五十ほど。
こちらは七百。
仮に銅板がただ光るだけでも、それで負けるような戦ではない。
「宗傳。十人に一枚ずつ持たせ、あの丘へ上げろ」
「承知」
「敵の正面へ光を当てる。味方には向けるな」
「何が起きます」
「眩しい」
「……それは先ほど聞きました」
「それ以上はわしも知らん」
宗傳が少し笑った。
「では、試してみますか」
◇
十枚の銅板が丘へ並んだ。
朝日を受ける。
最初は光が空へ逃げた。
次は田へ走った。
「もう少し下だ!」
宗傳が指示を飛ばす。
ぎらり。
一筋が敵前へ届いた。
遠くで兵が顔を背けた。
「お」
惟種が声を漏らす。
「当たりましたな」
宗運も見ている。
「そのまま続けろ!」
宗傳の声が響いた。
ぎらり。
ぎら。
ぎらり。
十枚の光が敵の正面を走る。
狙いは揃わない。
だが、それでいい。
顔。
旗。
槍。
目の前を強い朝日が次々に横切る。
「何だ、あれは!」
敵方から声が上がった。
顔を背ける者。
手をかざす者。
目を細める者。
列がほんの少し揺れる。
(本当に効いた)
惟種自身が一番驚いた。
兵が倒れるわけではない。
目が潰れるわけでもない。
ただ、正面を見続けにくくなる。
それだけだった。
だが宗運は、その一瞬を見逃さない。
「弓、射よ!」
矢が上がった。
朝の空へ黒い筋が走り、敵前へ降る。
光を避け、矢を避け、敵の前列がさらに乱れた。
「先鋒、前へ!」
法螺が鳴る。
阿蘇兵が列を崩さず前へ出る。
敵も槍を構えた。
その時。
右の林が動いた。
「来たな」
宗運が呟く。
伏せていた敵兵が一斉に飛び出した。
阿蘇勢の横腹を突くつもりだったのだろう。
だが、そのさらに外には宗傳の兵がいる。
「今だ! 押せ!」
宗傳の声が響いた。
横から阿蘇兵が叩きつける。
敵の伏兵が止まった。
「なぜ、ここに!」
敵方から声が上がる。
そのまま横から食い込まれた。
宗運は木筒を目に当てたまま、正面と右を見比べる。
「右は潰れます」
「分かるのか」
「もう立て直せませぬ」
宗運が木筒を下ろした。
「正面を押せ!」
阿蘇の先鋒が敵へぶつかった。
槍が揺れる。
叫び声が上がる。
木と鉄がぶつかる。
人が倒れる。
血が出る。
転んだ兵へ、別の兵が槍を突き出した。
惟種は初めて、本物の戦を見た。
(……本物だ)
胸の奥が冷える。
怖い。
気分もよくない。
だが、目は逸らさなかった。
敵の正面が少しずつ下がる。
兵数が違う。
伏兵も先に読まれた。
最初の一手を潰された時点で、立て直すだけの余裕がなかった。
「退け!」
敵のどこかから声が上がる。
一人が下がり、次も下がる。
列が崩れた。
「追いすぎるな! 宗傳、館への道を取れ。逃げる者を深追いするな!」
「承知!」
宗傳の兵が敵の退路へ回る。
敵を皆殺しにするためではない。
館。
渡し。
道。
そこを取るためだ。
(上手いな)
惟種は思った。
自分が作ったのは、遠くを見る筒と光を返す銅板だけだ。
伏兵を見つけ、敵の正面をほんの少し乱した。
それを勝ちへ変えたのは宗運であり、実際に兵を動かしたのは宗傳だった。
(道具だけじゃ戦には勝てない)
当然のことを、初めて実感した。
◇
中村左近の旗が大きく下がった。
宗運が木筒を覗く。
「館主が退きます」
「そこまで見えるか」
「ええ」
「便利だろう」
「非常に」
返事が早かった。
惟種は少し笑った。
敵はそのまま崩れ、抵抗は長く続かなかった。
中村左近は捕らえられた。
渡しも年貢道も阿蘇勢が押さえた。
すべてが終わった頃には、日はすっかり昇っていた。
◇
惟種が館の近くまで出ることを許されたのは、周囲が完全に押さえられてからだった。
宗傳も戻ってきた。
鎧には土がついている。
「宗傳」
「はい」
「怪我は」
「ございませぬ」
「そうか」
「ご心配を?」
「当たり前だろ」
宗傳が少し笑った。
「ありがたきことにございます」
周囲では、兵たちが小声で話していた。
「若君の筒で伏兵を見つけたらしいぞ」
「宗運様が覗いておられた、あれか」
「銅の板も若君らしい」
「あの光か?」
「敵が顔を背けておったぞ」
声は少しずつ広がっている。
惟種は聞こえないふりをした。
「若君」
宗運が声をかける。
「何だ」
「よく働きましたな」
「誰が?」
「若君がお持ちになった物が」
「ああ。銅板は思ったより効いたな」
「思ったより?」
「効かなかったら、ただの銅板だった」
宗運が少し黙った。
「若君は時折、怖いことを軽く申されますな」
「七百対三百だぞ」
「それはそうですが」
惟種は宗運が持っている木筒を見た。
「それ、持っておれ」
宗運の眉が動いた。
「よろしいので?」
「うむ」
「一つしかないのでは」
「だからだ。わしが持っていても仕方ない。戦を見るのはお前だ」
宗運が木筒へ目を落とした。
「若君がお作りになった物でございますぞ」
「また作る」
「同じ物を?」
「もっと良いものを」
宗運が顔を上げる。
「これよりも?」
「これはまだ出来損ないだ」
宗運が黙った。
今日、その出来損ないで伏兵を見つけた。
敵将が退くところまで、肉眼より早く分かった。
「……これが出来損ない」
「うむ。もっと遠くを見たい。歪みも減らす。ぼやけも直す」
「まだ先があるので?」
「そうだな、星々の先までみれるやつがな」
惟種は当然のように答えた。
宗運は何とも言えない顔で木筒を見た。
◇
「若君」
今度は宗傳が聞いた。
「初めての戦はいかがでした」
惟種は少し考えた。
「思っていたより、見えなかった」
「見えなかった?」
「戦場が」
惟種は正面を見る。
「七百もいれば、もっと全部分かるものだと思っていた。だが、少し離れれば前で何が起きているかも分からない。林の中など何も見えん」
宗傳が頷く。
「だから遠くが少し見えるだけでも、あれほど違うとは思わなかった」
「私も、宗運様が伏兵を見つけた時には驚きました」
「言い当てたのではない」
宗運が言う。
「見えただけだ」
「それが恐ろしいのです」
宗傳が笑う。
その時。
少し離れた兵たちの中から声が聞こえた。
「遠くを見通す若君か」
「日の光まで使ったぞ」
「何だ、それは。鬼神の童ではないか」
誰かが笑う。
「鬼の童か」
別の者が、その言葉を拾った。
「阿蘇の鬼童」
惟種の顔が止まった。
「…………」
また別の場所から聞こえる。
「鬼童だ」
「阿蘇の鬼童よ」
「なんだ、その名は」
惟種が露骨に顔をしかめた。
宗傳は笑いを堪えている。
「笑うな」
「申し訳ございませぬ」
「笑っておるではないか」
「少々」
「少々ではない」
宗運は兵たちの方を見た。
「悪くはございませぬ」
「どこがだ」
「敵から見れば、遠くを見通し、日の光まで使う若君です」
「ただの木筒と銅板だぞ」
「敵には分かりませぬ」
「…………」
「そのうえ初陣で勝った」
宗運の口元がわずかに緩む。
「阿蘇の鬼童。なかなかよろしい名では」
「よくない」
惟種は即答した。
だが。
もう遅かった。
◇
戦が終われば、今度は後始末が始まった。
百姓と職人は保護する。
武士と与党は分けて調べる。
塞がれた道を開き、渡しを戻す。
荷が再び通れるようにする。
惟種は、その様子も見ていた。
敵を倒しただけでは何も増えない。
道を戻し、人を戻し、商いを戻して初めて勝った意味が生まれる。
(戦も後始末まで含めてなんだな)
少しだけ、前世の仕事を思い出した。
嫌なところまで似ている。
◇
その日の夕刻。
阿蘇勢は矢部へ向けて戻り始めた。
宗運の腰には、布で包まれた木筒がある。
惟種は馬に揺られながら、それを見た。
(次は、もっとまともに作ろう)
玻璃の形。
磨き。
筒の長さ。
直したいところはいくらでもある。
だが今日は、それよりも初めて本物の戦を見た。
人が死んだ。
血も見た。
自分が作ったものが、少しだけ戦の形を変えた。
その重さは思ったよりもずっと大きかった。
そして惟種がそんなことを考えている間にも、噂は先に走っていた。
遠くを見る若君。
敵の伏兵を見抜いた若君。
日の光を使った若君。
まだ五つ。
だが、ただの童ではない。
阿蘇の鬼童。
その名は惟種本人の知らぬところで、すでに境目へ流れ始めていた。




