第二十話 南へ伸びる糸
天文十四年(1545年)九月下旬
その夜、惟種は父に呼ばれた。
評定が終わってしばらくしてからである。門前の市や試し田の収穫、鍛冶場の火、山見の報せ――このところ話すべきことは多く、惟種もまた、宗傳から次の帳面を見せられるものと思っていた。
だが来たのは別の言葉だった。
――惟豊様がお呼びにございます。
通されたのは、館の奥の小座敷だった。
評定の広間ではない。広くもない。障子の向こうに人の気配はあるが、遠い。聞かせる相手を選んだ空気が、部屋そのものにこもっている。
中にはすでに、阿蘇 惟豊と甲斐 宗運がいた。
惟豊は上座に、宗運はその少し脇に座している。二人とも昼の評定とは顔が違った。表の家中へ向ける顔ではない。家の奥で腹を割る時の顔だった。
惟種は座につき、静かに頭を下げた。
「お呼びと伺いました」
「うむ」
惟豊の声は低い。
「今宵は、評定では話さぬことを話す」
惟種は背を正した。
来たか、と思う。
収穫は出た。農具も効いた。市も動き始めた。山の話も出た。島津への糸まで見え始めた。ここまで来れば、もう表の話だけでは足りない。
惟豊はしばらく惟種を見たあと、静かに言った。
「惟種。そなたはもう、ただの幼子ではない」
「……は」
「田を太らせ、市を育て、鍛冶場を立て、山へ目を向けさせた。家中も、外も、そなたを見始めておる」
惟種は黙って聞いた。
「ゆえに、今日よりは裏も知れ」
そこで宗運が口を開いた。
「若君。これまで何度か、若君へ近づこうとした手を潰しております」
惟種は宗運を見た。
やはり、そうか。
薄々は感じていた。だが明言されると重さが違う。
「何度か、とは」
「三度、はっきりしたものがありました。細かな探りはその限りではございませぬ」
宗運の声はいつも通り落ち着いていた。
「ひとつ。若君の膳に触れようとした下女がおりました」
惟種の背筋が冷えた。
「毒か」
「断じきれませぬ。ですが、銭を握らされておりました。誰に頼まれたかまでは追っております」
「生かしてあるのか」
「いまは」
短い答えだった。
惟種はそれ以上を聞かなかった。
宗運は続ける。
「ふたつ。試し田へ向かわれた折、途中の小橋の板に細工がございました」
「落とすつもりか」
「おそらくは。子どもが足を踏み外した、で済ませるつもりだったのでしょう」
惟種は膝の上で手を握った。
派手な刺客ではなく、事故に見せる。戦国らしい。いや、戦国だからこそか。
「みっつ。門前に来た商人の一人が、若君の外出の癖と供回りの順を熱心に聞いておりました」
「誰の手だ」
「そこまでは、まだ断じきれませぬ。旧惟前派に通じる筋か、周辺国衆か、あるいは大友寄りの者の耳か。いずれにせよ、若君の値を測っておりました」
惟豊がそこで言う。
「大名の家に、耳が一つ二つあっておかしなことはない」
惟種は父を見た。
「ない方が愚かよ」
そう言い切る顔は、阿蘇神社の大宮司というより、戦国の当主そのものだった。
「宗運に預けておる。山の耳、市の耳、境目の耳、急ぐ足。皆、名は表へ出ぬ。今までは、そなたに言わなんだ。まだ幼いと思うたからだ」
惟豊は一拍置いた。
「だが、もう言わねば危うい」
惟種はゆっくり息を吐いた。
怖くないと言えば嘘になる。だが、やはりそうか、とも思う。自分がやっていることは、ただ家の銭を少し増やす話ではない。家の形そのものを変え始めている。ならば、狙われぬはずがない。
「……風聞も、ありますか」
宗運が頷く。
「ございます。狐憑き、神意ならぬ妖しき業、若君を遠ざけよ、といった類いです」
「やはりか」
「刃や毒の前に、人を切り離すための手です」
惟種は小さく頷いた。
現代でもそうだ。中身を潰せぬなら評判から削る。時代が違っても、やることは案外変わらない。
惟豊が低く言う。
「惟種。そなたが家を太らせるほど、そなたを邪魔に思う者も増える。ゆえに知っておけ。これより先、守られるだけでは足りぬ。自らも守りを知れ」
「承知いたしました」
そこで少し、部屋の空気が変わった。
惟豊が本題へ入る時の気配だ。
「では、島津のことよ」
宗運が板図を広げた。肥後南から薩摩へ向かう筋が大まかに記されている。人吉筋、海の道、山の道。露骨な名は伏せてあるが、見る者が見れば十分だ。
「南への糸が一本、細く繋がりかけております」
宗運が言う。
「商いの筋、僧の筋、縁者の筋。まだ相手の名はここでは申しませぬが、島津方の重き者へ届く可能性が出てまいりました」
惟種の胸が静かに鳴った。
ずっと考えてきた相手だ。いよいよ触れるところまで来た。
惟豊が問う。
「こちらへ来るか、こちらが行くか」
「両様ございます」
宗運は即答した。
「ひとつは、島津方の重臣、あるいはその手足が境目近くまで出てくる形。ひとつは、こちらから赴く形」
「どちらがよい」
「まずは、こちらからの方が筋は立ちます」
惟種は宗運を見た。
宗運は続ける。
「ただし、行くのはわたくしです」
惟豊が当然のように頷いた。
惟種は黙っていたが、宗運はその沈黙の意味を見て取っていたらしい。
「若君を出す話も、ございます」
惟種は少しだけ顔を上げた。
「ありますが、まだ早い」
やはりそこへ落ちる。
「島津側から見ても、今の若君は値がございます。田を太らせ、市を育て、鍛冶と山を動かし始めた若君となれば、見たがるでしょう。ですが、見せることは狙わせることでもある」
惟豊が低く言う。
「今は出さぬ」
強い声だった。
「そなたはもう幼子ではない。だが、まだ若い。道中も、相手も、すべてが重い」
惟種は小さく頷いた。
わかる。わかるが、それでも考えてしまう。自分が出れば、相手に与える印象はずっと強い。
「いずれは、私も出るべきかと思います」
惟種が言うと、二人とも黙った。
先に口を開いたのは宗運だった。
「ええ。いずれは」
その“いずれ”が大事だった。
「ですが今は、こちらの形を整える方が先です。島津へ触れるにしても、飢えた家、揺らぐ家としてではなく、実り、銭、鉄の芽を持つ家として触れるべきです」
「そのために宗運が行く、と」
「はい」
宗運は板図の端を押さえた。
「ただ、今宵お伝えしたかったのはそれだけではございませぬ。若君が以前、島津のことを申されたことがございました。あれを、もう一度聞きとうございます」
惟種は少しだけ目を細めた。
「何をだ」
「島津はどういう家になるのか、でございます」
来た、と思った。
宗運はすでに自分の“夢”を、単なる思いつきではなく情報として扱っている。
惟豊も黙ってこちらを見ている。ここでの話は、そのまま今後の南方外交の骨になる。
惟種はゆっくりと言葉を選んだ。
「島津は、ただ南の一族では終わらぬ」
宗運の目が細くなる。
「どう終わらぬ」
惟豊が深みをもって問う。。
「家中をまとめる。人をまとめる。戦い方にも家風が出でます。今はまだ、そこまで磨かれてはおらぬかもしれませぬ。だが、いずれそうなります」
惟豊が聞く。
「何を見てそう言う」
惟種は少し考えてから答えた。
「家の教えです。家中へ行き渡る短い言葉。子弟にも家臣にも覚えさせるようなもの」
宗運がそこで静かに問う。
「島津忠良殿のことですか」
「たぶん、そうだ」
宗運は小さく頷いた。
「忠良殿なら、やりかねませぬな」
惟種は続けた。
「それだけではない。戦でも、ただ正面から押すだけではない。退くと見せて引き、伏せて噛むような戦いを、いずれ得意にする」
宗運の視線が鋭くなる。
「……釣って伏せるような」
「そういう戦だ」
惟豊が低く言う。
「今すぐの癖か」
「今すぐの完成形ではございません。ですが、あの家はそこへ行きます。退き口すら戦にする家になる」
宗運は黙って聞いていた。
惟種はさらに言葉を重ねる。
「退くと見せて少人数を残し、追わせ、刻んで逃れる。強いだけでは使えぬが、腹の据わった家ならやる」
宗運はそこで初めて、はっきりと息を吐いた。
「それは、退く時の戦法としては筋が通る」
「うむ」
「ですが、使う側に胆が要る」
「要る」
「島津なら、持ちうる」
惟種は頷いた。
惟豊はしばらく黙っていたが、やがて言った。
「つまり、島津は今の勢いだけで見る家ではない、と」
「そうです」
惟種は父を見た。
「今の勢力より、これからどういう癖の国になるかで見た方がよろしいかと」
宗運がそこで問うた。
「国の癖、ですか」
「うむ。人のまとめ方、戦い方、家中への教え方、兵の動かし方。そういうものが揃うと、その家は強い」
宗運はゆっくり頷いた。
「なるほど。南と結ぶにしても、今の損得だけでなく、その家の癖を見よ、ということですな」
「そうです」
惟豊は、ふっと小さく笑った。
「相変わらず、そなたは人より先の癖を見る」
惟種は肩をすくめた。
「夢で見ました」
「便利な言葉よ」
だが惟豊は否定しなかった。
宗運は板図へ目を落としたまま、さらに言う。
「ほかに、島津で覚えておくべきことはございますか」
惟種は少し迷ったあと、口を開いた。
「兵糧も軽んじぬ方がよい」
「兵糧・・・」
「南は戦陣食にも工夫する家になる。日持ちし、持ち運べ、戦の中で食えるものだ」
宗運が小さく笑った。
「そこまで考えますか」
「戦は腹で決まるところがある」
「まことに」
惟豊がそこでまとめるように言った。
「よい。島津は、ただ今の勢いで見るな。将来の家風で見よ。宗運、そこを探れ」
「承知いたしました」
「若君の名は匂わせよ。ただし、まだ出すな」
「承知」
惟種はそこで口を開いた。
「宗運」
「はい」
「私の名を匂わせるなら、ただ若君がいる、では弱い」
宗運の目がこちらを向く。
「どう匂わせます」
「阿蘇の若君は、田を太らせ、市を育て、物を作る方へ目を向けている。そう伝えろ」
「自分を売りますな」
「売らねば意味がない」
惟豊がそこで低く笑った。
「よい。だが売れば狙われる」
「だから、まだ行かぬ」
そう言うと、宗運も少しだけ口元を和らげた。
「そこまでわかっておるならよろしい」
惟豊は姿勢を少し正した。
「惟種」
「は」
「次の評定より、そなたはもっと近くへ座れ」
惟種は顔を上げた。
「近く、に」
「端ではある。だが、いままでより近い。家中にも、次を見せねばならぬ」
惟種は胸の奥が重くなるのを感じた。
それは誉れであり、同時に危険でもある。
跡継ぎとして振る舞わせる。つまり、家中にも外にも“次の当主”として見せ始めるということだ。
惟豊は続けた。
「ただし、今までより黙ることを覚えよ。言うべき時だけ言え。外では若君らしくあれ。中では、次の当主として学べ」
「承知いたしました」
宗運が補う。
「若君付きも少し改めます」
「供回りを、か」
「はい。惟房、政久、光永はそのまま使えます。ですが外へ出る時は、表の供と裏の目を分ける。寝所まわりも絞ります」
「忍びを付けるのか」
惟種が問うと、宗運は少しだけ考えてから答えた。
「忍び、というほど派手なものではありませぬ」
惟豊が口を挟む。
「名は何でもよい。見て、聞いて、走る者がいる。それで足りる」
宗運も頷いた。
「山の者、市の者、寺の者。皆、使いどころがございます。若君のまわりには、もう少し近く置きましょう」
惟種はそこで、自分がまた一段、別の場所へ足を踏み入れたのを感じた。
水飴の頃は、ただ始めるだけだった。玻璃で家中の視線を集めた。鍛冶場と田で評定を動かした。そして今、自分は家の裏まで知る場所へ来た。
「……宗運」
「はい」
「もし島津が、こちらの若君を見たいと言ってきたら」
宗運はすぐに答えなかった。
惟豊も黙っている。
ややあって宗運が言う。
「断りはいたしませぬ」
惟種は宗運を見た。
「ただ、すぐには応じませぬ。まずは言葉を通す。次に物を通す。顔を見せるのは、その後です」
「物、とは」
「飴でも玻璃でもよろしい。阿蘇の若君が、何を生む家かを示せるものです」
なるほど、と惟種は思った。
こちらが出る前に、こちらの像を送る。悪くない。
惟豊が言う。
「今宵はここまでだ」
そして最後に、まっすぐ惟種を見た。
「惟種。そなたは、もう守られるだけの子ではない。だが、まだ無理に先頭へ出る時でもない。学び、知り、時を見よ」
「はい」
「そのうえで、いずれ前へ出ろ」
惟種は深く頭を下げた。
「承知いたしました」
立ち上がって障子へ向かう時、惟種はふと振り返った。
父と宗運はまだ座していた。表の評定を支える二人ではない。家の表裏を両方支える二人の顔だった。
惟種は胸の中で思う。
(ここからだな)
田を太らせるだけでは足りない。市を育てるだけでも足りない。鉄も山も、島津との外交も、すべてを繋げたうえで、自分は次の当主として立たねばならない。
そのためには、表だけでは駄目だ。
裏も知り、裏も使い、それでも家を崩さず進める。
障子の外へ出ると、夜風が少し冷えていた。
暗がりの向こうに人の気配がある。宗運の足か、父の耳か、ただの番か。もう惟種にはわからない。
だが、それでよかった。
見えぬ者が見ているから、自分はまだ前へ出られる。
惟種は静かに歩き出す。
次の評定では、もっと近くへ座る。
次の一手は、島津だ。
そしてその前に、自分の言葉を整えねばならない。
南へ届く、最初の声として。
九月の夜は深く、館の灯は静かに揺れていた。




