表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
21/31

第二十話 南へ伸びる糸

天文十四年(1545年)九月下旬


 その夜、惟種は父に呼ばれた。


 評定が終わってしばらくしてからである。門前の市や試し田の収穫、鍛冶場の火、山見の報せ――このところ話すべきことは多く、惟種もまた、宗傳から次の帳面を見せられるものと思っていた。


 だが来たのは別の言葉だった。


 ――惟豊様がお呼びにございます。


 通されたのは、館の奥の小座敷だった。


 評定の広間ではない。広くもない。障子の向こうに人の気配はあるが、遠い。聞かせる相手を選んだ空気が、部屋そのものにこもっている。


 中にはすでに、阿蘇あそ 惟豊これとよ甲斐かい 宗運そううんがいた。


 惟豊は上座に、宗運はその少し脇に座している。二人とも昼の評定とは顔が違った。表の家中へ向ける顔ではない。家の奥で腹を割る時の顔だった。


 惟種は座につき、静かに頭を下げた。


「お呼びと伺いました」


「うむ」


 惟豊の声は低い。


「今宵は、評定では話さぬことを話す」


 惟種は背を正した。


 来たか、と思う。


 収穫は出た。農具も効いた。市も動き始めた。山の話も出た。島津への糸まで見え始めた。ここまで来れば、もう表の話だけでは足りない。


 惟豊はしばらく惟種を見たあと、静かに言った。


「惟種。そなたはもう、ただの幼子ではない」


「……は」


「田を太らせ、市を育て、鍛冶場を立て、山へ目を向けさせた。家中も、外も、そなたを見始めておる」


 惟種は黙って聞いた。


「ゆえに、今日よりは裏も知れ」


 そこで宗運が口を開いた。


「若君。これまで何度か、若君へ近づこうとした手を潰しております」


 惟種は宗運を見た。


 やはり、そうか。


 薄々は感じていた。だが明言されると重さが違う。


「何度か、とは」


「三度、はっきりしたものがありました。細かな探りはその限りではございませぬ」


 宗運の声はいつも通り落ち着いていた。


「ひとつ。若君の膳に触れようとした下女がおりました」


 惟種の背筋が冷えた。


「毒か」


「断じきれませぬ。ですが、銭を握らされておりました。誰に頼まれたかまでは追っております」


「生かしてあるのか」


「いまは」


 短い答えだった。


 惟種はそれ以上を聞かなかった。


 宗運は続ける。


「ふたつ。試し田へ向かわれた折、途中の小橋の板に細工がございました」


「落とすつもりか」


「おそらくは。子どもが足を踏み外した、で済ませるつもりだったのでしょう」


 惟種は膝の上で手を握った。


 派手な刺客ではなく、事故に見せる。戦国らしい。いや、戦国だからこそか。


「みっつ。門前に来た商人の一人が、若君の外出の癖と供回りの順を熱心に聞いておりました」


「誰の手だ」


「そこまでは、まだ断じきれませぬ。旧惟前派に通じる筋か、周辺国衆か、あるいは大友寄りの者の耳か。いずれにせよ、若君の値を測っておりました」


 惟豊がそこで言う。


「大名の家に、耳が一つ二つあっておかしなことはない」


 惟種は父を見た。


「ない方が愚かよ」


 そう言い切る顔は、阿蘇神社の大宮司というより、戦国の当主そのものだった。


「宗運に預けておる。山の耳、市の耳、境目の耳、急ぐ足。皆、名は表へ出ぬ。今までは、そなたに言わなんだ。まだ幼いと思うたからだ」


 惟豊は一拍置いた。


「だが、もう言わねば危うい」


 惟種はゆっくり息を吐いた。


 怖くないと言えば嘘になる。だが、やはりそうか、とも思う。自分がやっていることは、ただ家の銭を少し増やす話ではない。家の形そのものを変え始めている。ならば、狙われぬはずがない。


「……風聞も、ありますか」


 宗運が頷く。


「ございます。狐憑き、神意ならぬ妖しき業、若君を遠ざけよ、といった類いです」


「やはりか」


「刃や毒の前に、人を切り離すための手です」


 惟種は小さく頷いた。


 現代でもそうだ。中身を潰せぬなら評判から削る。時代が違っても、やることは案外変わらない。


 惟豊が低く言う。


「惟種。そなたが家を太らせるほど、そなたを邪魔に思う者も増える。ゆえに知っておけ。これより先、守られるだけでは足りぬ。自らも守りを知れ」


「承知いたしました」


 そこで少し、部屋の空気が変わった。


 惟豊が本題へ入る時の気配だ。


「では、島津のことよ」


 宗運が板図を広げた。肥後南から薩摩へ向かう筋が大まかに記されている。人吉筋、海の道、山の道。露骨な名は伏せてあるが、見る者が見れば十分だ。


「南への糸が一本、細く繋がりかけております」


 宗運が言う。


「商いの筋、僧の筋、縁者の筋。まだ相手の名はここでは申しませぬが、島津方の重き者へ届く可能性が出てまいりました」


 惟種の胸が静かに鳴った。


 ずっと考えてきた相手だ。いよいよ触れるところまで来た。


 惟豊が問う。


「こちらへ来るか、こちらが行くか」


「両様ございます」


 宗運は即答した。


「ひとつは、島津方の重臣、あるいはその手足が境目近くまで出てくる形。ひとつは、こちらから赴く形」


「どちらがよい」


「まずは、こちらからの方が筋は立ちます」


 惟種は宗運を見た。


 宗運は続ける。


「ただし、行くのはわたくしです」


 惟豊が当然のように頷いた。


 惟種は黙っていたが、宗運はその沈黙の意味を見て取っていたらしい。


「若君を出す話も、ございます」


 惟種は少しだけ顔を上げた。


「ありますが、まだ早い」


 やはりそこへ落ちる。


「島津側から見ても、今の若君は値がございます。田を太らせ、市を育て、鍛冶と山を動かし始めた若君となれば、見たがるでしょう。ですが、見せることは狙わせることでもある」


 惟豊が低く言う。


「今は出さぬ」


 強い声だった。


「そなたはもう幼子ではない。だが、まだ若い。道中も、相手も、すべてが重い」


 惟種は小さく頷いた。


 わかる。わかるが、それでも考えてしまう。自分が出れば、相手に与える印象はずっと強い。


「いずれは、私も出るべきかと思います」


 惟種が言うと、二人とも黙った。


 先に口を開いたのは宗運だった。


「ええ。いずれは」


 その“いずれ”が大事だった。


「ですが今は、こちらの形を整える方が先です。島津へ触れるにしても、飢えた家、揺らぐ家としてではなく、実り、銭、鉄の芽を持つ家として触れるべきです」


「そのために宗運が行く、と」


「はい」


 宗運は板図の端を押さえた。


「ただ、今宵お伝えしたかったのはそれだけではございませぬ。若君が以前、島津のことを申されたことがございました。あれを、もう一度聞きとうございます」


 惟種は少しだけ目を細めた。


「何をだ」


「島津はどういう家になるのか、でございます」


 来た、と思った。


 宗運はすでに自分の“夢”を、単なる思いつきではなく情報として扱っている。


 惟豊も黙ってこちらを見ている。ここでの話は、そのまま今後の南方外交の骨になる。


 惟種はゆっくりと言葉を選んだ。


「島津は、ただ南の一族では終わらぬ」


 宗運の目が細くなる。


「どう終わらぬ」

 惟豊が深みをもって問う。。


「家中をまとめる。人をまとめる。戦い方にも家風が出でます。今はまだ、そこまで磨かれてはおらぬかもしれませぬ。だが、いずれそうなります」


 惟豊が聞く。


「何を見てそう言う」


 惟種は少し考えてから答えた。


「家の教えです。家中へ行き渡る短い言葉。子弟にも家臣にも覚えさせるようなもの」


 宗運がそこで静かに問う。


「島津忠良殿のことですか」


「たぶん、そうだ」


 宗運は小さく頷いた。


「忠良殿なら、やりかねませぬな」


 惟種は続けた。


「それだけではない。戦でも、ただ正面から押すだけではない。退くと見せて引き、伏せて噛むような戦いを、いずれ得意にする」


 宗運の視線が鋭くなる。


「……釣って伏せるような」


「そういう戦だ」


 惟豊が低く言う。


「今すぐの癖か」


「今すぐの完成形ではございません。ですが、あの家はそこへ行きます。退き口すら戦にする家になる」


 宗運は黙って聞いていた。


 惟種はさらに言葉を重ねる。


「退くと見せて少人数を残し、追わせ、刻んで逃れる。強いだけでは使えぬが、腹の据わった家ならやる」


 宗運はそこで初めて、はっきりと息を吐いた。


「それは、退く時の戦法としては筋が通る」


「うむ」


「ですが、使う側に胆が要る」


「要る」


「島津なら、持ちうる」


 惟種は頷いた。


 惟豊はしばらく黙っていたが、やがて言った。


「つまり、島津は今の勢いだけで見る家ではない、と」


「そうです」


 惟種は父を見た。


「今の勢力より、これからどういう癖の国になるかで見た方がよろしいかと」


 宗運がそこで問うた。


「国の癖、ですか」


「うむ。人のまとめ方、戦い方、家中への教え方、兵の動かし方。そういうものが揃うと、その家は強い」


 宗運はゆっくり頷いた。


「なるほど。南と結ぶにしても、今の損得だけでなく、その家の癖を見よ、ということですな」


「そうです」


 惟豊は、ふっと小さく笑った。


「相変わらず、そなたは人より先の癖を見る」


 惟種は肩をすくめた。


「夢で見ました」


「便利な言葉よ」


 だが惟豊は否定しなかった。


 宗運は板図へ目を落としたまま、さらに言う。


「ほかに、島津で覚えておくべきことはございますか」


 惟種は少し迷ったあと、口を開いた。


「兵糧も軽んじぬ方がよい」


「兵糧・・・」


「南は戦陣食にも工夫する家になる。日持ちし、持ち運べ、戦の中で食えるものだ」


 宗運が小さく笑った。


「そこまで考えますか」


「戦は腹で決まるところがある」


「まことに」


 惟豊がそこでまとめるように言った。


「よい。島津は、ただ今の勢いで見るな。将来の家風で見よ。宗運、そこを探れ」


「承知いたしました」


「若君の名は匂わせよ。ただし、まだ出すな」


「承知」


 惟種はそこで口を開いた。


「宗運」


「はい」


「私の名を匂わせるなら、ただ若君がいる、では弱い」


 宗運の目がこちらを向く。


「どう匂わせます」


「阿蘇の若君は、田を太らせ、市を育て、物を作る方へ目を向けている。そう伝えろ」


「自分を売りますな」


「売らねば意味がない」


 惟豊がそこで低く笑った。


「よい。だが売れば狙われる」


「だから、まだ行かぬ」


 そう言うと、宗運も少しだけ口元を和らげた。


「そこまでわかっておるならよろしい」


 惟豊は姿勢を少し正した。


「惟種」


「は」


「次の評定より、そなたはもっと近くへ座れ」


 惟種は顔を上げた。


「近く、に」


「端ではある。だが、いままでより近い。家中にも、次を見せねばならぬ」


 惟種は胸の奥が重くなるのを感じた。


 それは誉れであり、同時に危険でもある。


 跡継ぎとして振る舞わせる。つまり、家中にも外にも“次の当主”として見せ始めるということだ。


 惟豊は続けた。


「ただし、今までより黙ることを覚えよ。言うべき時だけ言え。外では若君らしくあれ。中では、次の当主として学べ」


「承知いたしました」


 宗運が補う。


「若君付きも少し改めます」


「供回りを、か」


「はい。惟房、政久、光永はそのまま使えます。ですが外へ出る時は、表の供と裏の目を分ける。寝所まわりも絞ります」


「忍びを付けるのか」


 惟種が問うと、宗運は少しだけ考えてから答えた。


「忍び、というほど派手なものではありませぬ」


 惟豊が口を挟む。


「名は何でもよい。見て、聞いて、走る者がいる。それで足りる」


 宗運も頷いた。


「山の者、市の者、寺の者。皆、使いどころがございます。若君のまわりには、もう少し近く置きましょう」


 惟種はそこで、自分がまた一段、別の場所へ足を踏み入れたのを感じた。


 水飴の頃は、ただ始めるだけだった。玻璃で家中の視線を集めた。鍛冶場と田で評定を動かした。そして今、自分は家の裏まで知る場所へ来た。


「……宗運」


「はい」


「もし島津が、こちらの若君を見たいと言ってきたら」


 宗運はすぐに答えなかった。


 惟豊も黙っている。


 ややあって宗運が言う。


「断りはいたしませぬ」


 惟種は宗運を見た。


「ただ、すぐには応じませぬ。まずは言葉を通す。次に物を通す。顔を見せるのは、その後です」


「物、とは」


「飴でも玻璃でもよろしい。阿蘇の若君が、何を生む家かを示せるものです」


 なるほど、と惟種は思った。


 こちらが出る前に、こちらの像を送る。悪くない。


 惟豊が言う。


「今宵はここまでだ」


 そして最後に、まっすぐ惟種を見た。


「惟種。そなたは、もう守られるだけの子ではない。だが、まだ無理に先頭へ出る時でもない。学び、知り、時を見よ」


「はい」


「そのうえで、いずれ前へ出ろ」


 惟種は深く頭を下げた。


「承知いたしました」


 立ち上がって障子へ向かう時、惟種はふと振り返った。


 父と宗運はまだ座していた。表の評定を支える二人ではない。家の表裏を両方支える二人の顔だった。


 惟種は胸の中で思う。


(ここからだな)


 田を太らせるだけでは足りない。市を育てるだけでも足りない。鉄も山も、島津との外交も、すべてを繋げたうえで、自分は次の当主として立たねばならない。


 そのためには、表だけでは駄目だ。


 裏も知り、裏も使い、それでも家を崩さず進める。


 障子の外へ出ると、夜風が少し冷えていた。


 暗がりの向こうに人の気配がある。宗運の足か、父の耳か、ただの番か。もう惟種にはわからない。


 だが、それでよかった。


 見えぬ者が見ているから、自分はまだ前へ出られる。


 惟種は静かに歩き出す。


 次の評定では、もっと近くへ座る。


 次の一手は、島津だ。


 そしてその前に、自分の言葉を整えねばならない。


 南へ届く、最初の声として。


 九月の夜は深く、館の灯は静かに揺れていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ