第十九話 実りと銭の勘定
天文十四年(1545年)九月
風が変わった。
夏の熱をまだ地に残しながらも、田の上を渡る風には、もう刈り入れの匂いが混じっている。矢部の山並みは青く深く、その下では稲がいっせいに頭を垂れていた。
今年の試し田は、誰の目にも違って見えた。
穂が揃っている。
粒の入りが違う。
株の張りも、倒れの少なさも違う。
ただ豊かだ、というだけではない。田そのものが、去年より太っているように見えるのだ。
惟種は畦に立ち、刈り入れを見ていた。
鎌の音が続く。刈り取った稲が束ねられ、運ばれ、干し場へ回る。その動きが去年までより明らかに速い。人足の数は変わらぬのに、流れが止まらない。
少し離れたところでは、鍛冶場で作った新しい扱き具が置かれていた。
千歯扱き。
最初の試作品より歯の幅と並びを直し、木枠を強くし、角度も少し変えてある。まだ粗い。だが、もう道具としては十分に働いた。
稲束を持った男が、歯に通す。
ざざざ、と籾が落ちた。
そばで見ていた老農が、何も言わずもう一度やらせる。今度は自分で掴んで通した。ざざ、とまた音がする。
去年までの扱箸や手扱きより、明らかに早い。
その顔が少しずつ変わっていくのを、惟種は見逃さなかった。
最初は怪しむ顔。
次に半信半疑。
そのあとで、黙って繰り返す顔。
最後に、「これは使える」と認める顔になる。
人は、目の前で働くものには勝てない。
「若君」
後ろから宗傳の声がした。
田代 宗傳は帳面を抱えている。横には光永 惟清まで控えていた。あの少年は、もう記録役というより数字役だ。
「どう出た」
「まず試し田は、見込み通りにございます。いや、見込みより少し上かもしれませぬ」
宗傳は畦へ腰を落ち着け、帳面を開いた。
「俵数、刈り取りにかかった人数、脱穀にかかった刻限、どれも控えております。まだ全部ではありませぬが――」
「おおよそでよい」
「はい。田の出来だけなら、二割は固いかと」
惟種は田を見たまま頷いた。
「やはりそこか」
「ただし条件の良い田はもっと伸びております。水の回りがよく、土の揃ったところは三割近くまで見えます」
光永が板を差し出す。
「ここ、ここ、それからここの三枚が、特によろしゅうございました」
書かれた印を見て、惟種はふっと息を吐いた。
均し、水回し、種選り、間の取り方、追肥、草取り、そして今年は脱穀具まで入れた。効くものはやはり効く。
しかも今回は、田だけではない。作業の速さが違う。
「千歯扱きは」
「かなり効いております」と宗傳。「こくのが早い。手数が減る。女や年寄りでも扱いやすい。これは広がります」
「壊れは」
「歯が二本、少し曲がりました」
光永がすぐに答える。
「ですが、根元を太くすれば持つと思われます」
「やる」
「はい」
そこへ北里 政久が走ってきた。顔が赤い。いつものことだが、今日のそれは走ったせいだけではない。
「若君! もう他の村の者まで見に来ております!」
「見に来るだけか」
「いいえ。『あれはいつ貸してもらえる』『来年はうちへも』と言い出しております」
惟種は笑いそうになった。
早い。だが、予想通りでもある。
豊作は口で説くより早い。
千歯扱きのような目に見える道具は、なおさらだ。
高森 惟房が、少し離れたところから言った。
「人が集まりすぎれば揉めます」
「ならぬよう見ておけ」
「承知」
惟房は短く答え、集まった百姓たちの方へ向かった。
惟種は宗傳へ向き直る。
「評定に出せるか」
「はい。今日明日で残りもまとめます」
「数字は控えめに出せ」
宗傳が少しだけ眉を上げた。
「控えめに、でございますか」
「いきなり夢の数字を出せば皆が身構える。まず二割でよい」
宗傳の口元がわずかに緩んだ。
「では、若君はもっと上を見ておられる」
「見ている」
「どれほど」
惟種は少しだけ間を置いた。
言うべきか迷ったが、この男には少し見せてもよい。
「条件が揃えば五割もありうる」
宗傳は声を失わなかった。そこがさすがだった。
ただ、すぐに帳面へ何か書きつけてから言う。
「評定では、まず二割に留めましょう」
「うむ」
「上振れは宗運様と惟豊様だけに」
「それでよい」
宗傳が数字を守り、宗運が筋にし、父が家の方針に変える。その流れは、もうだいぶ固まってきていた。
九月半ばの評定は、矢部の館で開かれた。
前に座った時と同じ広間。だが、前回と少し違うのは、惟種へ向けられる目の色だった。まだ値踏みはある。だが「妙な童を見に来た」目だけではない。
結果を出した若君を見る目が混じっている。
上座には惟豊、右に宗運。田代 快尊、宗傳、合志伊勢守、黒仁田豊後守、そのほか一門や城持ちの者たちが並ぶ。
惟種は今回も末席だった。
だが、ただの見物ではない。自分でもそれがわかる。
惟豊が一座を見渡した。
「始める。今日は三つ。収穫のこと、山のこと、南のことだ」
広間の空気が少し締まった。
宗傳がまず前へ進み、帳面を広げた。
「今年、若君の指図にて試した田と、例年通りの田を比べました」
そう言って、順に数字を読み上げていく。
種選り、水回し、田面均し、植えの間、草取りの回数。試験田で変えたことを一つずつ示し、そのうえで俵数と作業刻限の差を出す。
「……以上より、試し田の出来は、おおよそ二割増しと見てよろしいかと」
ざわ、とわずかなざわめきが走った。
二割。
言葉にすれば短い。だが、石高で考えれば重い。
快尊が腕を組んだまま聞く。
「田一枚、二枚の当たり年ではなくか」
「ではございませぬ」と宗傳。「複数の田で揃っております。ことに水の回りと土の均しが効いております」
合志伊勢守が口を開く。
「田の出来はよいとして、手間はどうだ」
「そこも減っております」
今度は光永が前へ出た。板を抱えている。
「刈り入れ後の扱きに、新しい扱き具を試しました。去年より早く、こぼれも少のうございます」
黒仁田が顔をしかめる。
「若君の歯の多いやつか」
「はい」
「名は何と申した」
「千歯扱きにございます」
一瞬、広間が妙な静けさになった。
千も歯はあるまい、という顔を何人かがしている。
惟種は黙っていた。そこへ宗運が口を添えた。
「名はともかく、働きは確かです。手扱きや扱箸より早く、女や年寄りにも使いやすい」
そこで黒仁田も黙った。
宗運が効くと言えば、ただの若君の遊びではなくなる。
宗傳が続ける。
「よって、田の実りそのものの増えと、収穫・脱穀の速さまで合わせれば、家の余力は数字以上に増すと見ております」
惟豊が頷く。
「石高に直せばどうだ」
来た。
宗傳はあらかじめ用意していたのだろう、迷わず答えた。
「阿蘇家を十一万石ほどと見たとき、すべてがそのまま広がるとは申せませぬ。されど、来年、やりやすい村から広げていけば、まず二割増――」
ここで一度区切る。
「――十三万石を越えるところまでは、狙えます」
広間の空気が、今度ははっきり揺れた。
十三万石。
それはもはや、田の工夫の話ではない。家の大きさの話だ。
快尊が低くうなる。
「二万石増しか」
「すべての田ではありませぬ。まず広げやすいところからにございます」と宗傳。「それでも、そこまでは見込めます」
惟種は黙って聞いていた。
この数字は現実的だ。
だが、もっと上があることも知っている。
宗運が、その沈黙の中に言葉を置いた。
「さらに、条件の良い田では三割近い伸びが出ております。もし水回し、農具、種選りが揃って回れば、なお先も見えます」
快尊がちらりと宗運を見る。
「なお先、とは」
宗運はそこで少しだけ惟種へ目を向け、それから惟豊へ返した。
「夢を申せば、五割も見えぬではありませぬ」
今度こそ、ざわめきが大きくなった。
惟種は内心で(出したか)と思ったが、悪くないとも思った。
父と宗運が言うなら、それはただの童の大言ではなく、「家の上が見ている上振れ」になる。
惟豊が、ざわつく一座を見て静かに言った。
「夢の数である。だが、夢で終わるものでもあるまい」
一座が静まる。
「まず二割を取りにいく。うまく回れば三割。その先は、家の器次第よ」
この言い方がうまい。
大きく見せすぎず、しかし狭くも置かない。
黒仁田が口を開いた。
「ならば来年、どこまで広げる」
惟種はそこで初めて促される前に声を出した。
「全部へはいかぬ」
視線が集まる。
「まずは近い村、まねしやすい田、見せて効く場所からだ。水の回しが取りやすく、田面が整えやすく、鍛冶場から道具を回しやすいところから始める」
合志が頷く。
「欲張らぬか」
「欲張る。だが順を誤らぬ」
惟豊の口元がわずかに動いた。
宗傳がすぐに引き取る。
「来年は数村へ広げます。千歯扱き、爪鍬、均し板を先に回し、種選りと水回しの手順もまとめます。記録役も付け、田ごとの差を見ます」
「よい」
惟豊が言った。
「それを家の方針とする」
そこでひとまず、農の話は結した。
次に宗運が前へ進んだ。
「次に、市と銭のことにございます」
これは惟種も楽しみにしていた話だった。
水飴と玻璃が回り始めてから、門前の空気が変わっている。旅商人が立ち寄るようになり、鍛冶場の噂も流れ、荷を持つ者の往来が増えた。
物が動けば、銭が動く。
銭が動けば、税の話になる。
宗運が帳面を置く。
「このところ、門前を通る商人の数が増えております。飴、玻璃、木工品、布、塩、鉄材まで、少しずつ荷が増えた」
「取れた銭は」と惟豊。
「関銭、市銭ともに、前より上がっております。まだ大きな額ではありませぬが、増えは確かです」
快尊が言う。
「ならば、良いではないか。取れるだけ取れば」
ここだ、と惟種は思った。
宗運は少しだけ目を伏せ、それから静かに言った。
「今は、取るより呼ぶ方が得にございます」
快尊が眉を動かす。
「減らすのか」
「一部を」
宗運はそこで惟種へ視線をやった。
「若君より、以前より申されておりました。門を細めて一文を取るより、門を広げて十文を動かせ、と」
惟種は小さく息を吐いた。
そこまできれいに言われると、さすがに照れる。
だが一座は笑わなかった。
いまはもう、その理が通じるところまで来ている。
宗傳が補う。
「新しく来た商人、鍛冶、木工、阿蘇に利ある品を持ち込む者につきましては、最初の関銭を軽くするのがよいかと。門前に市が立てば、後で取れるものも増えます」
黒仁田が渋い顔をする。
「目先の銭は減るぞ」
「減ります」と宗傳は即答した。「ですが、人が増えれば、宿が潤い、荷が増え、売り買いが増える。税は関銭だけではありませぬ」
惟種がそこで口を開いた。
「人を呼びたい」
「商人を、か」
快尊が聞く。
「商人だけではない。職人もだ。鍛冶も木工も、紙を漉く者も、運ぶ者も、皆、市が立てば寄ってくる。いま阿蘇が欲しいのは、一度きりの取り立てではない」
そこで少し間を置いた。
「流れそのものだ」
宗運が頷く。
「物が流れれば、銭も流れる。銭が流れれば、人が残る」
惟豊が低く言う。
「では、どう始める」
惟種は答えた。
「門前からだ。新しく来る者には、最初のいくらかを軽くする。阿蘇家が欲しい品を持ち込む者も同じく。市日も増やし、乱暴狼藉を禁じる。売り買いがしやすい場にする」
快尊が腕を組む。
「座の者が嫌がるぞ」
「嫌がる」
「それでもやるか」
「やる。だが一度に全部は崩さぬ。まずは新しい市だけだ」
ここが落としどころだった。
いきなり完全な楽市にはしない。だが、新たに立つ市では、古い縛りを軽くする。それなら家中も飲み込みやすい。
惟豊が言った。
「門前の新市に限り、来る者の関銭を軽くする。阿蘇に利ある品はさらに優遇する。揉め事は阿蘇が裁く。これでよいか」
宗運と宗傳が揃って頷く。
快尊も完全には不満そうではなかった。黒仁田はまだ渋い顔だったが、真っ向からは反対しない。
これで、楽市の片鱗ができる。
惟種の胸の中で、また一本線がつながった。
農が増える。余剰が出る。市が立つ。人が来る。税の考え方が変わる。
次は山の話だった。
宗運が今度は板図を広げる。
「黒川、長陽、永水。山見の者より、鉄気ある石、重い砂、赤土の沢筋の報せがありました」
惟種は身を乗り出したいのを堪えた。
「大鉱脈とまでは申せませぬ。されど、押さえる価値は十分にございます。山民、猟師、炭焼きの話も揃ってきた」
「掘れるか」
惟豊が問う。
「それはまだ先にございます。まず試し掘りと試し炉で、石と砂の見極めを」
宗傳が続ける。
「鍛冶場の改良炉で、湿気抜きと送風の具合は良くなっております。これを山の鉄へつなぐことができれば、阿蘇は鉄を外へ頼る分を減らせます」
合志が低く言った。
「鍛冶場、農具、市、山……皆つながってきたな」
「はい」と宗運。「今は別々に見えますが、実は同じ話です。飯が増えれば人が動く。人が動けば市が立つ。市が立てば銭が生まれる。銭があれば鍛冶が育つ。鍛冶が育てば山を掘る意味が出る」
惟種はその言葉を聞きながら、内心で深く頷いた。
ようやく、家中もここまで見え始めた。
そして最後に、南の話が出た。
宗運が声を少し落とす。
「もう一つ。島津のことにございます」
一座の空気がまた変わる。
南の大勢力。まだ正面の敵ではない。だが、遠いだけに今から触れておく意味がある。
宗運が言う。
「露骨な使者を立てるつもりはありませぬ。まだ早い。だが、商いの筋、僧の筋、縁者の筋より、話の通る口を探っております」
惟豊が頷く。
「結ぶためか」
「いずれは」
宗運はそのまま続けた。
「今すぐ誓紙を交わすという話ではありませぬ。されど、南に鉄と火器の流れがある以上、無縁ではおれませぬ。阿蘇が飢えぬ家、銭の回る家、鉄を持ちうる家として見えれば、話も通しやすくなりましょう」
惟種は、その言葉が嬉しかった。
ただ島津と結びたいのではない。
結ぶに足る家になる。
その順が大事なのだ。
快尊が言う。
「ならば、島津に寄るより先に、こちらの腹を太らせねばならぬな」
「そのための田であり、市であり、山です」
宗運が答える。
惟豊はしばらく黙っていた。
広間の誰も口を開かない。
そしてやがて、阿蘇の当主は静かに言った。
「よい。では決める」
その一言で、皆の背筋が伸びた。
「来年は、今年の田の仕方を数村へ広げる。千歯扱き、爪鍬、均し板を増やし、記しも残せ。まず二割増を取りにいく。三割は上振れ。さらに先は、家の器を広げてからよ」
惟種はその言葉を、胸の中で一つずつ刻んだ。
「門前の新市は、関銭を軽くする。来る者を増やし、阿蘇の中で物と銭を回す。乱暴狼藉は許さぬ。阿蘇へ来た方が得だと思わせよ」
宗傳が深く頭を下げる。
「山は、黒川、長陽、永水を押さえる。試し掘りと試し炉を進める。騒ぐな。だが遅れるな」
宗運が応じる。
「承知」
「南は、今は細い糸でよい。だが切らすな」
宗運が再び頭を下げた。
「承知」
そして惟豊は、最後に惟種を見た。
「惟種」
「は」
「そなたの夢は、だいぶ家の形になってきた」
広間が静まる。
「だが、まだ夢のままでもある。ゆえに、次も働け」
惟種は思わず笑いそうになった。
褒められているのか、働けと言われているのか、よくわからない。
たぶん両方だ。
「はい」
そう答えると、惟豊はわずかに口元を和らげた。
「阿蘇は祈る家であるだけでは足りぬ。養い、作り、蓄える家であらねばならぬ」
その言葉は、広間の隅々まで落ちた。
惟種は、胸の奥が熱くなるのを感じた。
阿蘇は神の家だ。
だがそれだけでは、戦国は越えられない。
養い、作り、蓄える。
それが今、父の口から家の言葉になった。
評定が終わり、皆が下がり始める。
去り際、宗運が惟種のそばへ寄った。
「若君」
「うむ」
「島津の糸、一本ばかり、当たりがつきそうにございます」
惟種は顔を上げた。
「早いな」
「早くはありませぬ。細いだけです」
「細くてよい。切れぬなら」
宗運は頷いた。
「そのためにも、まずは阿蘇を太らせねばなりませぬな」
惟種は、広間の向こうを見た。
田は実った。市は動き始めた。鍛冶場は火を保ち、山には鉄の気配がある。そして南へ向かう、まだ見えぬほど細い糸も伸び始めている。
すべてが、少しずつだ。
だが少しずつでいい。
組み上がっていれば、それはいつか大きな力になる。
「次は、冬までにどこまで仕込みを終えるかだな」
惟種がそう呟くと、宗運はほんの少し笑った。
「ええ。仕事は増える一方にございます」
(そこは前世と変わらんか)
だが今度は、積み上げた先に未来がある。
それが、たまらなく違っていた。
九月の風が、開け放たれた障子から静かに吹き込んできた。




