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第二話 宗運は夢を疑い、夜を預かる

 **甲斐かい 宗運そううん**は、若君の病室へ向かう廊下を早足で進んでいた。


 館の中は静かだった。

 だが、その静けさは安らぎではない。

 息を潜める者たちが作る、薄く張り詰めた膜のようなものだった。


 病は館を弱らせる。

 とりわけ、それが若君のものであればなおさらだ。


 しかも今の**阿蘇家あそけ**には、ただの病では済まされぬ事情があった。


 **阿蘇あそ 惟将これまさが、一か月前に死去している。

 本来ならば家を支えるべき嫡流の一角が失われ、残る嫡子は阿蘇あそ 惟種これたね**ただ一人。

 その惟種まで失えば、家中は必ず揺らぐ。

 国衆は様子を見始め、外の敵は必ず肥後へ手を伸ばす。


 北には大友家おおともけ

 南には相良家さがらけ

 さらにその向こうでは**島津家しまづけ**が力を蓄えている。


 火の山の下にあるこの国は、神に守られた地であると同時に、誰もが欲しがる地でもあった。


 宗運は、夢を見る男ではない。


 理を量り、損得を見、米と兵を数え、敵味方の心を読む。

 そうしてようやく一手を決める。

 それが己の役目であり、性分でもあった。


 だからこそ、病床から目覚めた若君が、最初に「宗運を呼べ」と言ったと聞いた時、胸に浮かんだのは安堵よりも警戒だった。


 ――何を見た。


 それだけが気にかかった。


 高熱のあと、人は変わることがある。

 命を拾った代わりに心が壊れることもある。

 熱に浮かされて何を口走るか分からぬ。


 若君が生き延びた。

 それは良い。

 だが、生き延びた先に何が残ったのかは、これから見定めねばならない。


 襖の前で一度、息を整える。


 中から泣き声は聞こえない。

 それだけで、宗運の胸の奥がわずかに軽くなった。


 襖が開く。


 灯火の揺れる病室。

 その中に、病み上がりの若君がいた。


 細い。

 青白い。

 まだ熱の名残が頬に残っている。


 だが、その目だけは妙に澄んでいた。


 宗運は膝をつく。


「若君。ご快復あそばされたか」


 若君――**阿蘇あそ 惟種これたね**は、宗運をまっすぐ見た。


「快復、かどうかは分からぬ」


 その声音に、宗運は内心で小さく眉をひそめた。


 落ち着きすぎている。


 死の淵から戻った幼子の声ではない。

 怯えも甘えも薄く、まるで何かを見終えて帰ってきた者のようだった。


「されど、夢を見た」


 夢。


 宗運は半ば納得した。

 熱の名残だろう。

 病に伏した者が、神や死者や山の夢を見るのは珍しくない。


「ただの夢ではない。火の山が鳴り、田が枯れ、人が飢え、鉄が火を噴く夢だ」


 火の山。

 田。

 飢え。

 鉄。


 宗運は静かに若君を見返した。


 もし単なる悪夢なら、もっと散らかった言葉になる。

 だが今の惟種の言葉には、不思議な筋があった。


「熱のうちの、うわ言かもしれませぬ」


「かもしれぬ」


 若君はあっさりと認めた。


 宗運の目がわずかに細くなる。


 神託だと言い張らぬ。

 押し通そうともせぬ。


 それがかえって厄介だった。


「だが、その中に、捨ててはならぬものがあった」


 宗運は黙る。


 この若君は、夢を信じろと言っているのではない。

 夢の中から使えるものを拾え、と言っているのだ。


宗運そううん。そなたにだけ話す」


 宗運は障子際の気配へ目をやった。

 侍女も近習も、皆が固唾を呑んでこちらを見ている。


「皆、下がれ。若君の御前である。聞かなかったことは口にするな」


 人払いが済むと、部屋には灯火の揺れる音と、若君の浅い呼吸だけが残った。


 宗運は改めて膝を進める。


「これで、内々の話にございますな」


 惟種は、小さくうなずいた。


「……宗運。わしは、おかしなことを申すぞ」


「若君がおかしなことを申されるのは、病み上がりゆえでございましょう」


「だが、聞くか」


「**阿蘇家あそけ**の先を思う言葉であれば」


 若君は、そこで少し黙った。


 灯火が揺れる。

 その光が、まだ幼い頬の赤みを浮かび上がらせていた。


「わしはな。未来の景色を見た」


 未来。


 宗運はすぐに否定しなかった。

 世は理だけで動くわけではない。夢や兆しを恐れ、神意を読み、山鳴りの一つにも意味を見いだして動く者たちを、宗運は幾度も見てきた。


 大事なのは、その夢が真か偽かではない。

 それが使えるかどうかだ。


「その未来とやらで、若君は何をご覧になりました」


 惟種は静かに答える。


「田は増やせる」


 宗運の眉がわずかに動く。


「飢えは減らせる。市はもっと賑わう。兵も、今より強くできる」


 田。

 市。

 兵。


 夢の話にしては、ずいぶんと地に足がついている。


「……ほう」


「だが、いきなりはできぬ」


 宗運は何も言わなかった。


「ひとつずつ試すしかない。小さく、誰にも悟られぬように」


 宗運の胸の内で、何かがわずかに鳴った。


 この幼子は、本当に幼子か。

 そう疑うほど、物の言い方が整いすぎている。


「若君」


「何だ」


「夢をそのまま信ずるほど、私は甘くありませぬ」


「うむ」


「されど、夢の中に理があるなら、試す価値はございましょう」


 惟種の目が、ほんの少しだけ和らいだ。


 その顔を見て、宗運は逆に確信する。

 この若君は、最初から自分に全面の信を求めてはいない。

 ただ、ひとつでも現実に下ろしてみろと言っているのだ。


「田の話なら、小さく試せます。水のことも同じ。市も、まずは一つ二つの役を軽くするところから始められましょう」


「そうだ」


「兵のことは、その先にございます」


「……うむ」


 惟種の返事が、そこで少し鈍った。


 宗運は気づく。

 声の張りが落ちている。

 さきほどまでの張り詰めた眼差しの奥に、疲れがにじみ始めていた。


 当然だ。

 病み上がりなのだ。

 いくら口が達者でも、身体はまだ幼く、熱も抜けきっていない。


「これを御屋形様おやかたさま――**阿蘇あそ 惟豊これとよ**様にどう申し上げるかは、別の話にございます」


 惟種は、小さくうなずいた。


「父上には、まだ全ては申さぬ」


「賢明にございます」


「まずは……試せるものを試す」


「左様」


「宗運、おぬしがやれ」


 宗運は、深く頭を下げた。


「承りました」


 そこで惟種は、ほんの少しだけ息を吐いた。

 張っていた糸がゆるむような、そんな息だった。


 宗運は若君の顔を見つめる。


 疲れている。

 いや、疲れ果てている。


 だが、それでもなお、惟種の目は遠くを見ていた。


「若君が見た未来、その先には何がございます」


 宗運は、試すように問うた。


 惟種はしばらく黙っていたが、やがてゆっくりと口を開いた。


「……強き敵がいる」


「**大友おおとも**にございますか。**島津しまづ**にございますか」


「もっと先だ」


 宗運は目を細める。


「先」


「いずれ、都をうかがうほどの男が現れる」


 都。


 この肥後の山中から見れば、遠すぎる話だった。

 だが若君は熱に浮かされた顔をしていない。


「その男と、戦うのでございますか」


 惟種は首を小さく横に振った。


「まだ分からぬ。戦うやもしれぬ。語るやもしれぬ」


「語る、にございますか」


「……だが、見上げるだけでは終わらぬ」


 宗運は声に出さなかったが、内心で小さく息を呑んだ。


 大きすぎる話だ。

 笑い飛ばしてもよいはずだった。


 だが笑えない。


 この若君は、本気で遠くを見ている。

 いまはただ、そこへ至る道筋が見えぬだけなのだ。


「若君は、まず何をなさるおつもりで」


 惟種は答える。


「最初は、**阿蘇あそ**を守る」


「はい」


「次に、肥後をまとめる」


 そこまで言って、惟種の瞼がわずかに落ちた。


 宗運はすぐに悟る。

 限界だ。


 話を続けさせるべきではない。

 どれほど中身があろうと、この若君はいま病み上がりの幼子でしかない。


「若君」


「……何だ」


「今宵は、もうお休みくだされ」


 惟種はわずかに眉を寄せた。

 まだ話したいのだろう。

 だがその強情も、次の瞬間には身体の重さに押し流されたらしい。


「宗運……」


「は」


「次は、田の話をする」


 宗運は、思わず口元をゆるめかけた。


「田、にございますか」


「国は……まず、飯からだ……」


 そこまで言うと、惟種の声はほどけるように細くなった。


 目を閉じる。

 浅かった呼吸が、少しずつ眠りのものへ変わっていく。


 宗運はしばらく、その寝顔を見ていた。


 病み上がりの子どもだった。

 頬はまだ赤く、指は細く、布団の中の身体はあまりにも頼りない。


 だがその口から出た言葉は、頼りないどころか厄介なほどに重かった。


 田を増やす。

 市を育てる。

 兵を変える。

 阿蘇を守る。

 肥後をまとめる。

 見上げるだけでは終わらぬ。


 宗運は静かに立ち上がった。


 夢か、うわ言か。

 そんなものはまだ分からない。


 だが、試せる言葉ではあった。

 それが何より厄介で、何より面白かった。


 襖の前で一度振り返る。


 病床の若君は、もう深く眠っている。

 けれど宗運には分かっていた。


 この夜、ただ若君が助かっただけではない。

 **阿蘇家あそけ**の行く末に、ひとつ別の道が生まれたのだ。


 ならば自分は、その道が本当に道となるかどうかを量らねばならぬ。


 宗運は襖を静かに閉めた。


 まずは田。

 次いで市。

 それから兵。


 馬鹿げた夢だ。

 だが、馬鹿げた夢ほど、人を動かす。


 廊下の冷えた空気の中で、宗運は小さく息を吐いた。


「……さて、どこまで本物やら」


 そう呟いた声の奥に、ほんのわずかな昂りが混じっていたことを、宗運自身だけが知っていた。

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