第百九十三話 白紙の文
帰る支度は、何度も整えた。
まず、従二位の御礼を済ませた。
改元の件については、朝廷へ「阿蘇としてできることを考える」とだけ返し、余計な約は避けた。
塚原卜伝の阿蘇行きについても、一行の人数、道中の守り、船での扱いを決めた。
京で世話になった者たちへ挨拶もした。
土産も整えた。
さあ帰るぞ。
そう思った。
だが、京は帰らせてくれなかった。
「阿蘇殿、明日は茶の席がございましてな」
「阿蘇殿、せっかくですので歌の会にも」
「阿蘇殿、公方様が剣のことで少し」
「阿蘇殿、従二位の御礼の形について」
「阿蘇殿、改元のことはまだ内々ながら」
呼ばれる。
呼ばれる。
また呼ばれる。
公家から呼ばれ、幕府から呼ばれ、寺社から挨拶が入り、商人が顔を出し、取次が文を持ってくる。
惟種は、毎朝思った。
今日こそ帰る。
そして夕方には思った。
明日こそ帰る。
それを繰り返すうちに、ひと月が過ぎた。
天文二十年、十一月下旬である。
「おかしい」
惟種は、京の宿所で呟いた。
「私は帰る支度をしていたはずだ」
鍋島種茂が、静かに答える。
「支度は整っております」
「では、なぜまだ京にいる」
「呼び出しが多うございましたので」
「多すぎる」
「はい」
「京は罠だ」
「否定はいたしませぬ」
種茂は穏やかだった。
だが、目の奥には疲れが見える。
戸次鑑連も、いい加減に帰りたそうな顔をしていた。
新納忠元は、京の面倒さを面白がる時期を過ぎた。
島津義弘だけは、卜伝との稽古や京の武者を見ることにまだ少し目を輝かせていたが、それでも阿蘇へ戻る日を待っている。
卜伝は卜伝で、阿蘇へ行くことを楽しみにしていた。
その様子を見るたび、惟種は宗運の顔を思い出した。
無感情な文。
礼を失わず、しかし完全に怒っている文。
あれからさらにひと月である。
どうなっているのか。
考えたくなかった。
◇
その日の昼、阿蘇から文が届いた。
差出は、甲斐宗運。
惟種は、封を見た瞬間、背筋を伸ばした。
「来た」
種茂も表情を改める。
「宗運殿からにございますか」
「そうだ」
「急ぎの印は」
「ある」
惟種の口の中が乾いた。
急ぎ。
宗運から。
ひと月帰れなかった後に。
これはまずい。
非常にまずい。
惟種は恐る恐る封を切った。
文を開く。
そして、固まった。
何も書かれていなかった。
白い。
ただ、白い。
紙だけである。
字がない。
挨拶もない。
問いもない。
叱責もない。
無事を祈る言葉すらない。
白紙であった。
惟種の顔から、血の気が引いた。
「若君?」
種茂が覗き込み、同じように沈黙した。
戸次鑑連も近づく。
新納忠元も、島津義弘も見る。
誰も、すぐには言葉を発しなかった。
白紙。
宗運の白紙。
それは、どんな長文の叱責よりも重かった。
惟種は、震える声で言った。
「急ぎ戻る」
「はい」
種茂が即答した。
いつもの穏やかさはそのままだが、判断は早かった。
「若君、すぐに若狭へ向かいましょう」
「船は」
「若狭にございます」
「荷は」
「必要なものだけ先に。残りは後続へ」
「卜伝殿は」
「同行の支度を」
「よし。今すぐだ」
惟種は白紙の文を丁寧に畳み、懐へ入れた。
まるで呪符のようであった。
いや、実際に呪符に近い。
宗運の無言の圧が、紙から立ち上っている。
惟種は、口の中で呟いた。
「宗運、ごめん。今帰る。本当に帰る」
誰に聞かせるでもない言葉であった。
◇
出立の報せを聞いた義藤は、すぐに惟種を呼んだ。
「惟種」
義藤は、不満げだった。
「もう帰るのか」
「はい」
惟種は深く頭を下げた。
「阿蘇の政務が、いよいよ差し迫っております」
「宗運がおるではないか」
「宗運から文が参りました」
「どのような」
「白紙にございます」
義藤は、少し目を瞬いた。
「白紙」
「はい」
「それは……怒っておるのか」
「怒っております」
惟種は即答した。
「かなりか」
「かなりにございます」
義藤は少し笑いかけたが、惟種の顔を見て笑うのをやめた。
惟種は本気だった。
「ならば仕方ないか」
「仕方ないにございます」
「だが、もう少しおってもよいではないか。卜伝の稽古も、余との話も、まだ足りぬ」
「私は足りました」
「余が足りぬ」
義藤は、むっとしたような顔をした。
だが、すぐに苦笑する。
「おぬしは本当に帰りたがるな」
「帰りとうございます」
「京は嫌か」
「嫌ではございませぬ」
「また面倒と言うのか」
「はい」
義藤は声を出して笑った。
惟種は笑えなかった。
懐の白紙が重い。
今は、とにかく帰らねばならない。
帰る。
絶対に帰る。
これ以上捕まってはならない。
義藤はなおも言った。
「では、次はいつ来る」
「しばらくは難しゅうございます」
「つれぬな」
「阿蘇は遠うございます」
「ならば、余が行くか」
惟種の心臓が跳ねた。
まずい。
非常にまずい。
ここで否定しすぎても角が立つ。
肯定すれば宗運が倒れる。
だが、惟種には今、余裕がなかった。
懐の白紙が全ての判断を急がせている。
「今度は」
惟種は、ほとんど反射で言った。
「今度は阿蘇にて、お話しさせていただきます」
言ってから、しまったと思った。
義藤の顔が明るくなった。
「そうか」
とても上機嫌である。
「そうか、阿蘇でか」
「ええと」
「阿蘇は余にとっても、第二のふるさとだからな」
意味深なことを言った。
非常に意味深であった。
惟種は本来なら、ここで慎重に言葉を選ぶべきだった。
だが、今は白紙の文が怖い。
宗運の笑っていない顔が頭に浮かんでいる。
考える余裕がなかった。
「ありがたく!」
惟種は深く頭を下げた。
「では、これにて失礼仕ります!」
「お、おう」
義藤が少し驚くほどの勢いだった。
惟種は礼を失わぬぎりぎりの速さで退出した。
背後で義藤が楽しげに笑っている。
「阿蘇か。よいな。阿蘇はよい」
その声が聞こえたが、惟種は振り返らなかった。
振り返れば、また何かを約してしまいそうだった。
◇
若狭へ向かう道は、急ぎに急いだ。
余分な荷は後に回した。
急ぐ者だけ先へ出した。
卜伝も同行する。
その足取りは軽かった。
「若君」
卜伝が言った。
「阿蘇は、それほど急がねばならぬ所にございますか」
「今は急がねばならぬのです」
「白紙の文ゆえに」
「はい」
「宗運殿という方、実に興味深い」
「興味を持たれぬ方が身のためです」
「そう言われると、ますます会いたくなりますな」
「皆、なぜそうなる」
惟種は頭を抱えたくなった。
島津義弘は、卜伝が阿蘇へ来ることを喜んでいる。
新納忠元は、宗運の白紙文の威力に感心している。
戸次鑑連は、若君がようやく本気で帰る気になったことをよしとしている。
種茂は、道中の手配を淡々と進めている。
惟種だけが、懐の白紙に怯えていた。
若狭に着くと、すぐに船を出す支度に入った。
風を読む。
水を積む。
食糧を積む。
卜伝一行の場所を整える。
護衛を割り振る。
使者を後に残し、京への礼を保つ。
すべてを急がせた。
「親英」
「は」
「最短で阿蘇へ」
「承知いたしました」
「多少揺れてもよい」
「若君が吐かれぬ範囲で」
「それは考慮してくれ」
「承知いたしました」
船が出た。
京が遠ざかる。
若狭も遠ざかる。
ようやく西へ向かう。
惟種は甲板に立ち、風を受けた。
帰る。
今度こそ帰る。
いや、帰らされている。
宗運の白紙一枚で。
惟種は、懐を押さえた。
「怖い」
ぽつりと言った。
種茂が横で頷く。
「怖いですな」
「種茂もか」
「はい」
「お前でも怖いか」
「宗運殿の白紙は、怖うございます」
「だよな」
二人は、しばらく海を見た。
◇
船旅の間、惟種は何度も帰国後の言い訳を考えた。
善光寺の報告で京へ呼ばれた。
これは仕方ない。
従二位を賜った。
これも断れなかった。
改元の話を聞かされた。
これは聞かされただけである。
剣の兄弟になった。
これは、塚原卜伝が悪い。
いや、義藤が悪い。
いや、自分も悪い。
卜伝が阿蘇に来る。
これは悪い話ではない。
むしろ良い話である。
公方様へ、今度は阿蘇で話すと約した。
これは。
これは。
惟種は目を逸らした。
そこが一番まずい。
絶対にまずい。
宗運に何と言われるか分からない。
やがて、肥後の湊が見えた。
九州の風である。
京の湿った雅な風ではない。
越後の冷たい風でもない。
阿蘇へ帰ってきた。
惟種は、ほっとした。
ほっとしたのは一瞬だった。
湊に、人影があった。
多くの者が出迎えている。
その先頭に、甲斐宗運がいた。
惟種は目を凝らした。
宗運は、笑っていた。
満面の笑みであった。
惟種の背筋に、冷たいものが走る。
怒鳴っていない。
無表情でもない。
笑っている。
終わった。
惟種は、船上でそう思った。
湊には、笑みを浮かべた宗運がいた。




