第百九十二話 だから京は嫌なのだ
天文二十年(一五五一年)十月下旬。
京の風は、すっかり秋のものになっていた。
惟種が京へ入ってから、気づけばひと月が過ぎている。
報告だけのはずであった。
公方様へ善光寺の座のことを申し上げ、武田、村上、長尾の約を伝え、礼を受けて、すぐ阿蘇へ帰る。
そのはずだった。
それが、塚原卜伝の指南を受けることになった。
剣の兄弟などという妙な縁を結ばされた。
卜伝は阿蘇へ行きたいなどと言い出した。
義藤は楽しげに笑い、幕府の者は手配を始め、阿蘇方は帰り支度と京での始末に追われた。
惟種は、もう深く考えることをやめていた。
考えると頭が痛くなる。
宗運の文も届いた。
礼は尽くされていた。
だが、感情がなかった。
あの文面を思い出すたび、惟種の背筋は少し寒くなる。
それでも、ようやく帰れる。
卜伝の阿蘇行きについては、公方様の許しも一応得た。
京での挨拶も、必要なものは済ませた。
土産も整えた。
船へ戻る手筈も進んでいる。
今度こそ。
今度こそ、阿蘇へ帰れる。
「若君」
鍋島種茂が、控えめに声をかけた。
「荷の始末はおおむね整いました。卜伝殿の一行についても、道中の割り振りは済んでおります」
「よし」
惟種は頷いた。
「帰るぞ」
「はい」
「絶対に帰るぞ」
「はい」
「誰が何と言おうと帰る」
「はい」
種茂は穏やかに頷く。
その時、取次の者が入ってきた。
「阿蘇様」
惟種の心が、嫌な音を立てた。
「烏丸光康様より、お呼びにございます」
惟種は黙った。
種茂も黙った。
戸次鑑連が、わずかに眉を動かす。
島津義弘は、何事か分からず惟種を見ている。
新納忠元は、口元を押さえた。
惟種は、ゆっくりと目を閉じた。
帰れない気がしてきた。
◇
烏丸光康は、いつものように穏やかだった。
穏やかで、柔らかく、雅で、実に恐ろしい。
「いやはや、阿蘇殿。此度もまこと大儀にございましたな」
光康は、ほっほっほと笑った。
「越後へ入り、長尾殿と語らい、善光寺に座を設け、武田、村上をまとめる。いや、京でも阿蘇殿の名はよく聞こえておりますぞ」
「恐れ入ります」
惟種は丁寧に頭を下げた。
内心では身構えていた。
来た。
これは来た。
絶対に銭の話だ。
前もそうだった。
雅な世間話から始まり、朝廷の御為、儀の整え、御志、御心ざし、そういう言葉で包みながら、最後は財布を開かせにくる。
今回は簡単には出さない。
阿蘇にも銭は要る。
船も要る。
学び所も要る。
薬も要る。
道も蔵も警邏も要る。
京にばかり銭を吸われてはたまらない。
惟種は、心の中で財布の紐を両手で握った。
「九州も、いよいよ盤石でございましょうな」
光康は笑みを崩さない。
「いえ、まだまだにございます」
「またまた。大友を押さえ、島津、相良、龍造寺、鍋島、名和を柱とし、博多も動かす。阿蘇殿の御威勢は、都の童でも聞くほどにございますぞ」
「過分な噂にございます」
「ほっほっほ。謙虚でいらっしゃる」
惟種は笑わなかった。
こういう時の公家は、褒める。
褒めて、褒めて、逃げ道を塞ぐ。
そして最後に、ではその御威勢に相応しい御志を、と来る。
惟種は、心の中で財布の紐をさらに締めた。
出さんぞ。
簡単には出さんぞ。
「公方様のお覚えもめでたく、陛下への御志も厚い。まこと阿蘇殿は、今の世に得がたき忠臣にございます」
「恐れ多きことにございます」
「そうそう、御志と申せば」
来た。
惟種は、腹に力を入れた。
「京の儀というものは、なかなかに物入りでしてな」
やはり来た。
「衣冠、奏上、使い、祝儀、御礼。形を整えるにも、人と物が要りまする」
完全に来た。
「もちろん、阿蘇殿に何かを申すわけではございませぬ」
申している。
ものすごく申している。
惟種は、表情を崩さずに答えた。
「必要な儀については、阿蘇より相応に整えましょう」
「相応」
光康は目を細めた。
「結構にございます。実に結構」
相応という言葉を、どこまで広げる気だ。
惟種は警戒を強めた。
だが、光康はそこからすぐ本題へ入らなかった。
茶が出る。
菓子が出る。
京の噂が出る。
公家の話が出る。
朝廷の儀が出る。
公方様の剣の話まで出た。
「公方様と剣の兄弟になられたとか」
「そのような形に、なってしまいました」
「ほっほっほ。なってしまった、とは」
「光栄にございます」
「顔と声が合っておりませぬな」
「恐れ入ります」
光康は楽しげに笑った。
◇
しばらくして、光康は扇を静かに置いた。
空気が、ほんの少し変わった。
「さて、阿蘇殿」
「はい」
「本日は、ただ世間話をしたかっただけではございませぬ」
知っていた。
惟種は、心の中でそう呟いた。
「このたび、朝廷にて沙汰がございました」
「沙汰」
「はい」
光康は、いつもより少しだけ改まった顔になった。
「阿蘇惟種殿に、従二位の官位を賜るとの内々に御沙汰がございました」
惟種は、すぐには答えられなかった。
従二位。
重い。
あまりにも重い。
九州の若君に与えるには、破格である。
それは褒賞であり、栄誉であり、同時に縄でもある。
朝廷から高い位を受ければ、阿蘇の名はさらに上がる。
諸家も見る。
寺社も見る。
商人も見る。
敵も見る。
そして、京も見る。
惟種は、断れないことを悟った。
官位は銭や品とは違う。
いらぬとは言えない。
言えば、朝廷の顔を潰す。
これまで朝廷へ志を示し、幕府への忠義を掲げてきた阿蘇が、ここで賜る位を拒むわけにはいかなかった。
惟種は、深く頭を下げた。
「恐れ多きことにございます」
声は静かに保った。
「謹んで承ります」
光康は満足げに頷いた。
「さすが阿蘇殿。御心得がよろしい」
「過分なる御沙汰、身に余ります」
「余りませぬ。此度の善光寺の件、九州での働き、朝廷への御志。いずれも重うございます。位は、その働きに報いるものにございます」
「ありがたきことにございます」
惟種は頭を上げた。
表では礼を崩さない。
内心では宗運へ謝っていた。
宗運。
また報告が増えた。
従二位だそうだ。
どう説明すればよい。
いや、説明も何も、朝廷からの沙汰である。
受けるしかない。
受けるしかないのだが、絶対に怒る。
あの無感情の文が、さらに無へ近づく。
惟種の胃も、少し痛くなった。
「従二位ともなれば、京での儀も相応に整えねばなりませぬな」
光康が、さらりと言った。
来た。
また来た。
「使い、礼、装束、奏上。いやはや、めでたきことには、めでたきだけの形がございます」
「相応に、整えます」
惟種は同じ言葉で返した。
これ以上は広げない。
光康は、ほっほっほと笑った。
「相応。よき言葉ですな」
「便利な言葉にございます」
「阿蘇殿も腹芸を覚えられましたな」
「京におりますと、覚えざるを得ませぬ」
「それはそれは」
光康は楽しそうだった。
◇
惟種は、この話で終わりだと思った。
従二位。
重いが、受けた。
儀礼の銭も、相応で押し留めた。
これで阿蘇へ帰る。
そう思った。
だが、烏丸光康は、まだ扇を持ち直していなかった。
つまり、話は終わっていない。
惟種の背筋が、また冷えた。
「阿蘇殿」
「はい」
「もう一つ、耳に入れておきたきことがございます」
やめてほしい。
心からやめてほしい。
だが、顔には出せない。
「何でございましょう」
光康は、少し声を低めた。
「陛下は、そう遠くない未来に、改元をお考えにございます」
惟種は、動かなかった。
動けなかった。
改元。
年号を改める。
それは、ただ暦の名を変えるだけではない。
朝廷の権威が動く。
幕府も動く。
公家も動く。
寺社も動く。
儀が要る。
銭が要る。
名が要る。
そして、今の阿蘇は朝廷にとって、頼れる財布であり、遠国にありながら大きな名を持つ忠臣である。
惟種は、一瞬で理解した。
これは金の話だ。
いや、金だけではない。
名の話だ。
朝廷の大事に、阿蘇の名が絡む。
一度絡めば、後々まで残る。
また荷が増える。
宗運の文が、さらに無になる。
惟種は、光康を見た。
光康はいつものように穏やかに笑っている。
「無論、まだ表の沙汰ではございませぬ」
「左様でございますか」
「されど、世の乱れも長うございます。大内殿のこともあり、東国も騒がしく、京もまた安らかとは言えませぬ。悪しき気を改め、新たな御代の名を立てることも、いずれ必要となりましょう」
「まこと、畏れ多きことにございます」
「その折には、阿蘇殿のお力も、いずれ」
光康はそこで言葉を切った。
最後までは言わない。
言わずとも分かる。
分かるから恐ろしい。
惟種は、深く頭を下げた。
「朝廷の御為に、阿蘇としてできることは考えましょう」
「ありがたきことにございます」
光康は、満足そうに頷いた。
勝った顔であった。
惟種は、負けた顔をしないよう努めた。
◇
屋敷を出た時、京の空は薄く曇っていた。
風が冷たい。
種茂がそばに控えている。
「若君」
「種茂」
「いかがでございましたか」
「従二位だそうだ」
種茂の目が、少しだけ大きくなった。
「それは、まことに」
「受けた。断れぬ」
「はい」
「それと、改元の話があるそうだ」
種茂は黙った。
その沈黙だけで、すべてを察したようだった。
「朝廷の大事にございますな」
「そうだ」
「銭も、儀も、名も要りますな」
「そうだ」
「阿蘇の御名も、さらに重くなりますな」
「そうだ」
惟種は、空を見上げた。
帰るはずだった。
本当に帰るはずだった。
善光寺の報告だけして帰るはずだった。
それが、剣の兄弟になり、塚原卜伝が阿蘇へ来ることになり、従二位を賜り、改元の話まで聞かされた。
惟種は、心の底から思った。
だから京には行きたくなかったんだ……。
口には出さない。
出してはならない。
だが、心の声ははっきり響いた。
今度から、絶対に別の者を立てよう。
公方様への報告も、朝廷への御礼も、公家との世間話も、誰か別の者に任せる。
自分が京へ来ると、必ず荷が増える。
絶対に増える。
烏丸光康の穏やかな笑みを思い出しながら、阿蘇の若君は固くそう決めた。
京の空は、相変わらず雅で、冷たく、面倒であった。




