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火の山の若君は、未来を夢に見る ~阿蘇家嫡流の若君、名臣甲斐宗運と乱世を切り拓く~  作者: アトラス


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第百九十一話 一の太刀

 塚原卜伝は、静かな男であった。


 声を荒らげることはない。


 目を怒らせることもない。


 だが、木刀を持って向かい合うと、そこに立っているだけで逃げ場がなくなる。


 惟種は、初めてそれを味わった。


 京の一角に設けられた稽古の場。


 義藤は上機嫌であった。


 公方自らも剣を好み、卜伝の教えを受ける。


 その同じ場に惟種を立たせ、剣の兄弟などと称して笑っている。


 惟種としては、釣られた悔しさがある。


 だが、目の前に塚原卜伝がいる。


 それだけで、胸の奥が少し浮いた。

 鹿島の塚原卜伝。

 後の世にまで名を残す男が、目の前にいる。


 惟種は木刀を握った。


 卜伝は、ゆっくりと頷く。


「では、若君。構えてみなされ」


「はい」


 惟種は構えた。


 自分なりには、きちんと構えたつもりである。


 阿蘇でも武芸は学んできた。


 子どもとはいえ、まったくの素人ではない。


 だが、卜伝は惟種をしばらく眺め、それから穏やかに言った。


「まあ、これからですな」


 惟種は固まった。


「これから、でございますか」


「はい。これからにございます」


 卜伝はにこやかだった。


 にこやかであるが、容赦はない。


 言外に、今はまだ見るべきところが少ない、と言われている。


 義藤が横で少し笑った。


「卜伝、随分とはっきり申すな」


「剣において、曖昧は怪我のもとにございます」


 卜伝は平然と答えた。


 惟種は、ぐっと奥歯を噛んだ。


 悔しい。

 非常に悔しい。

 政や帳ならば、多少は人を驚かせられる。

 だが、剣ではそうはいかない。


 惟種には、剣の天稟はなかった。


 卜伝の目は、それをあっさり見抜いている。


「若君」


「はい」


「まずは、振ることです」


「振る」


「はい。剣を知る前に、己の手足を知らねばなりませぬ。己の手足を知らぬ者が、相手の間合いを知ることはできませぬ」


 卜伝は惟種の手の内を直した。


「力が入っております」


「入れてはならぬのですか」


「入れねば剣は落ちます。入れすぎれば剣が死にます」


「難しいことを」


「剣とは、だいたい難しいものにございます」


 卜伝はさらりと言った。


 それから、素振りを命じた。


 上げる。

 下ろす。

 上げる。

 下ろす。


 ただ、それだけ。


 だが、ただそれだけが難しい。


 手が乱れる。

 足が乱れる。

 息が乱れる。

 腰が浮く。

 肩が張る。


 卜伝はそのたびに、静かに直した。


「肩」


「はい」


「腰」


「はい」


「目が先へ行っております」


「目もですか」


「目もにございます」


 惟種は、ひたすら振った。


 義藤はしばらく見ていたが、途中から自らも稽古へ入った。


 義藤の剣は、惟種よりはるかに鋭い。


 悔しいが、認めざるを得ない。


 この公方様は、本当に剣が好きで、そして相応に鍛えている。


 惟種はさらに悔しくなった。


 だから振った。


 ただ、振った。


     ◇


 一日が過ぎた。

 二日が過ぎた。

 三日が過ぎた。


 最初の頃、惟種の腕は悲鳴を上げた。


 手の皮がむけ、肩が重くなり、夜には箸を持つのも少し億劫になった。


 戸次鑑連は、鍛錬としては良いことだと頷いた。


 島津義弘は、自分も稽古を受けたいと目を輝かせた。


 新納忠元は、惟種の様子を見て笑いをこらえた。


 鍋島種茂は、薬と湯と手拭いを整えた。


「若君、無理をされませぬよう」


「無理をせぬと、卜伝殿の前に立てぬ」


「ですが、倒れては阿蘇へ帰れませぬ」


「それは困る」


「では、ほどほどに」


「ほどほどに上手くなる方法はないか」


「ないかと」


「世は厳しい」


 惟種は呻いた。


 だが、稽古へは出た。


 悔しさがあった。


 そして、面白さもあった。


 卜伝の教えは、余計な言葉が少ない。


 けれど、ひとつ言われると、体のどこかが変わる。


 足の置き方。

 剣の上げ方。

 息の入れ方。

 相手を見る目。


 それらが、少しずつ一本の線になっていく。


 一週間ほど経つ頃には、形の、かの字くらいは見えてきた。


 惟種はそれを自覚した。


 上手くなった、とは言えない。


 まだまだ未熟である。


 だが、初日に比べれば、木刀が手の中で暴れなくなった。


 足が少しだけ地に残るようになった。


 目だけが先走ることも減った。


 やはり塚原卜伝である。


 惟種は素直にそう思った。


 才がない者にも、進む道筋を見せる。


 それは恐ろしいことだった。


     ◇


 その頃、阿蘇から文が届いた。


 差出は甲斐宗運である。


 惟種は、封を見ただけで少し背筋を伸ばした。


 嫌な汗が出た。


 種茂が横に控えている。


「若君」


「開けるぞ」


「はい」


「怒っていると思うか」


「おそらく」


「だよな」


 惟種は封を切った。


 文面は、きわめて丁重であった。


 京において公方様の御前にて務めを果たされたこと、大慶至極に存じます。


 塚原卜伝殿の御指南を受けられる由、若君の健やかなる御成長を、家中一同、心より願い奉ります。


 阿蘇の政務につきましては、島津義久殿にも助けを得、滞りなく進めております。


 どうか御身を大切になされ、一日も早く、無事に御帰国くださいませ。


 礼は失っていない。

 少しも失っていない。

 むしろ、完璧な文である。


 だからこそ怖かった。


 感情がない。


 あまりにも整いすぎている。


 惟種は文を読み終え、しばらく黙った。


「種茂」


「はい」


「怒っているな」


「怒っておられますな」


「かなりか」


「かなりかと」


「義久を使っているとある」


「そのようです」


「義久殿、ごめん」


 惟種は、遠く阿蘇にいるであろう島津義久へ心の中で謝った。


 そして、宗運へも謝った。


 帰るつもりだったのだ。


 本当に帰るつもりだった。


 ただ、塚原卜伝に釣られた。


 それが一番悪いのだが。


 惟種は文を丁寧に畳み、懐へ入れた。


 その日の素振りは、少し乱れた。


 すぐに卜伝が言った。


「若君」


「はい」


「邪念がございますな」


 惟種は木刀を止めた。


「邪念」


「はい。剣の中に、誰かへの言い訳が混じっております」


 惟種は黙った。


 卜伝は穏やかに続ける。


「文でも届きましたかな」


「……阿蘇より」


「なるほど」


「礼は尽くされております」


「それは何より」


「ですが、恐ろしく怒っている文でした」


 卜伝は、少しだけ笑った。


「それもまた、よき家臣をお持ちということにございます」


「ありがたいことです」


「では、そのありがたさを今は脇へ置きなされ」


「置けませぬ」


「ならば、振りなされ。邪念ごと振ればよい」


 卜伝は木刀を示した。


「ただし、振り方が乱れれば、さらに振っていただきます」


「厳しい」


「剣にございますので」


 惟種は観念して、また振った。


 ごめんね、宗運。


 そう思いながら振る。


「邪念」


 卜伝が言う。


 惟種はさらに振る。


 ごめんね、義久殿。


「邪念」


 卜伝は容赦なく言う。


 惟種は腕が重くなるまで振った。


     ◇


 十日目が近づいた頃、卜伝は惟種に尋ねた。


「若君」


「はい」


「剣とは、何でございましょうな」


 惟種はすぐには答えられなかった。


 剣とは何か。


 武器。

 術。

 命を奪うもの。

 身を守るもの。

 主を支えるもの。

 己を測るもの。


 答えはいくつも浮かぶ。


 だが、卜伝が問うているのは、おそらくそういうことではない。


 惟種は、木刀を手にしたまま考えた。


「無駄を」


 ふと、言葉が漏れた。


 惟種自身も、なぜその言葉が出たのか分からなかった。


「無駄を削ぎ、初太刀に己を尽くす」


 卜伝の目が、わずかに変わった。


 惟種は、続けてしまった。


「二の太刀、三の太刀を要せぬところまで至れば、それが……」


 そこで止まるべきだった。


 止まるべきだったのに、口が先に動いた。


「一の太刀」


 言ってから、惟種は固まった。


 しまった。


 完全にしまった。


 卜伝は、静かに惟種を見ていた。


 その目から、先ほどまでの穏やかな笑みが消えている。


「若君」


「はい」


「それを、どこで」


 声は静かだった。


 だが、稽古場の空気が一瞬で張り詰めた。


 種茂も、少しだけ身を固くする。

 義藤も、その場にいた。

 公方の顔から、戯れの色が薄れる。


 惟種は、慌てた。


「い、いや」


「一の太刀、と申されましたな」


「申したような気がいたします」


「申されました」


「ふと、出たのです」


「ふと」


「はい。詳しくは知りませぬ。今、剣とは何かと問われ、考えているうちに、なぜか言葉が出たのです」


 苦しい。


 非常に苦しい。


 だが、これ以外に言いようがない。


「私はまだ、卜伝殿に剣を習い始めたばかり。奥義など分かるはずもございませぬ」


「では、なぜその名が出たのでしょうな」


「それが分からぬのです」


 惟種は本気で困った顔をした。


「むしろ、こちらが聞きたいくらいにございます」


 卜伝は黙った。


 長い沈黙であった。


 惟種は、自分の心臓の音が聞こえる気がした。


 一の太刀。


 その名を、惟種は前世で知っていた。


 だが、この時の卜伝にとって、それがどれほど重い言葉であるかまでは考えていなかった。


 ただ、今の卜伝の目を見る限り、軽々しく口にしてよい言葉ではなかった。


 まずい。

 非常にまずい。


 宗運。


 ごめん。


 これは本当にごめん。


     ◇


 卜伝は、木刀を静かに下ろした。


「無駄を削ぎ、初太刀に己を尽くす」


 小さく、惟種の言葉を繰り返す。


「二の太刀、三の太刀を要せぬところまで至る」


 そして、目を閉じた。


 卜伝の中で、何かが動いていた。


 惟種にも、それは分かった。


 卜伝は剣の才ある者である。


 ただ強いだけではない。


 剣を言葉にし、道にし、形にしてきた者である。


 その卜伝が、すでに己の内に深く納めていたもの。


 惟種は、その秘された名と芯に、うっかり触れてしまったのかもしれない。


 しばらくして、卜伝は目を開けた。


「若君」


「はい」


「若君は、剣の才においては、正直に申せばまだまだにございます」


「はい」


 そこはもう刺さった。


「されど、時折、剣の外から剣を見る目をなさる」


「剣の外」


「はい」


 卜伝は惟種を見た。


「それがどこから来るものか、某には分かりませぬ。神仏の加護か、夢か、あるいは若君の政の目か」


 惟種は何も言えない。


「ですが、今の言葉は、聞き流すことができませぬ」


「忘れていただいても」


「無理にございます」


 卜伝は、きっぱり言った。


 惟種は頭を抱えたくなった。


 義藤が、じっと卜伝を見ている。


「卜伝」


「は」


「今のは、それほどのものか」


「はい」


 卜伝は静かに答えた。


「言葉だけならば、ただの理屈に聞こえましょう。されど、若君は今、某が人に軽々しく語らぬものの名を、何気なく口にされました」


 義藤の目が輝いた。


 まずい。


 この公方様が輝く時は、だいたい面倒である。


「若君」


 卜伝は惟種に向き直った。


「な、何でしょう」


「しばらく、阿蘇家にてお世話になりとうございます」


 惟種は固まった。


 完全に固まった。


「……阿蘇に?」


「はい」


「卜伝殿が?」


「はい」


「なぜ」


「若君のそばにあれば、今の言葉がどこより出たものか、見極められるやもしれませぬ」


「見極める」


「はい」


 卜伝の声は穏やかだった。


 だが、そこには先ほどまでの師としての柔らかさとは別のものがあった。


 兵法者の目である。


 不可解なものを見た者の目である。


「若君が何者であるか、という意味ではございませぬ。されど、若君の目は、時に剣の内におらぬ者の目にございます。そこから見えるものが、某には少し気になります」


 惟種は焦った。


 とても焦った。


 塚原卜伝が阿蘇に来る。


 それはすごい。


 武芸の師としても、名声としても、人材育成としても、悪い話ではない。


 むしろ良い。

 ものすごく良い。


 だが、宗運の無感情な文が、さらに無へ近づく。


 阿蘇の館に卜伝が来る。


 公方様の剣の師が来る。


 京との縁がさらに深まる。


 仕事が増える。

 説明が増える。

 警備が増える。

 文が増える。

 宗運の胃が減る。


 惟種は、必死に逃げ道を探した。


「公方様が、お許しくだされば」


 義藤へ投げた。


 すると義藤は、実に楽しそうに笑った。


「余としては、惜しい」


 惟種は少し安堵しかけた。


「だが、阿蘇で卜伝が何を見るかも気になる」


 安堵は砕けた。


「公方様」


「それに、余とおぬしは剣の兄弟じゃ。兄弟子の師が、弟弟子の家へしばし行く。おかしな話ではあるまい」


「かなりおかしな話にございます」


「そうか?」


「はい」


 義藤は笑った。


「では、面白い話じゃ」


 惟種は、深く息を吐いた。


 逃げられない。


 また何かを背負うことになった。


 だが、卜伝が阿蘇に来ること自体は、悪くない。


 悪くないどころか、阿蘇の武の底を上げるかもしれない。


 島津義弘など、目を輝かせて喜ぶだろう。


 戸次鑑連も関心を持つに違いない。


 若い者たちにも良い刺激になる。


 そう考えると、断り切る理由が弱い。


 惟種は、諦めた。


「卜伝殿」


「は」


「阿蘇は遠うございます。京のように雅ではありませぬ」


「承知しております」


「山も多く、道も険しい」


「旅は慣れております」


「宗運という、非常に怖い者がおります」


「それはぜひお会いしたい」


「会えば分かります」


 惟種は、もう一度ため息をついた。


「それでもよろしければ、阿蘇にてお迎えいたします」


 卜伝は、静かに頭を下げた。


「ありがたきことにございます」


 義藤は満足げに頷いている。


 種茂は、横で少しだけ遠い目をしていた。


 惟種は、懐の宗運の文を思い出した。


 感情のない、完璧な文。


 あれへの返事に、何と書けばよいのか。


 塚原卜伝殿が、阿蘇へ参りたいと仰せです。


 そう書いた時の宗運の顔を想像し、惟種は思わず木刀を握り直した。


「若君」


 卜伝が言った。


「はい」


「また邪念がございますな」


「ございます」


「では、振りなされ」


「はい」


 惟種は振った。


 宗運、すまん…。


 今度のこれは、たぶん悪い話ではない。


 おそらく…きっと…。


 そう心の中で言い訳をしながら、阿蘇の若君はまた木刀を振り下ろした。


ここまで続けてこられたのは、読んでくださる皆様のおかげです。

本当に励みになっております。


なお、私事ですが、太閤立志伝のエンディングはまだ八つです。

人斬りエンディングが達成できないバグと、医師の調合エンディングが発生しないバグに悩まされております。


今回、塚原卜伝が少し出てきましたが、話の流れ自体は本作の展開によるものです。

ただ、私の中の塚原卜伝像には、太閤立志伝で「この人、強すぎないか」と思わされた記憶が若干影響しております。

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同作者の別連載
『異世界エンゲージ ~毎日のパック開封でカード使いは帰還を目指す~』
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― 新着の感想 ―
阿蘇の政を面白くないと在野にいた連中も塚原卜伝ときけばやってくるのがもう目に見える
流石にこれ以上は伸びないよね・・・。
塚原卜伝が九州にか。のちの薩摩示現流とか九州の流派に影響を与えそうですね
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