第百九十話 剣の兄弟
天文二十年(一五五一年)九月も末。
京の幕府に入った惟種は、まず報告を行った。
善光寺の座。
武田晴信、村上義清、長尾景虎、真田幸綱。
寺への預け人。
荷の道。
真田旧領の扱い。
約を破った時、大義が相手へ移ること。
言葉を選び、余計なことは足さず、必要なことだけを述べた。
義藤は、上座で静かに聞いていた。
その顔は、以前に阿蘇の館で囲碁を打った時よりも、少しだけ楽しげに見えた。
惟種は、それが少し怖かった。
公方様が楽しそうな時は、だいたいこちらに荷が乗る。
すでに学んでいる。
「つまり」
義藤が口を開いた。
「武田と村上は、しばらく大きくは動かぬと見てよいか」
「表向きは、そのようにございます」
「表向きは」
「はい」
惟種は、丁寧に頭を下げた。
「真田の旧領は認められ、武田殿も利を得られました。村上殿は痛みを飲みましたが、長尾殿の後ろ盾を得ました。荷の道も開きます。三年ほどは、息をつけるかと存じます」
「三年か」
「確かなことは申せませぬ」
義藤の眉が、わずかに動いた。
「確かではないか」
「はい。約は結びました。ですが、人の欲と恨みは、文だけでは消えませぬ。三年ほど安息があれば上々。長ければさらによし。短ければ、長尾殿を中心に、東国の皆々でお支えいただくほかございませぬ」
「おぬしは、正直じゃな」
「後で困る嘘は申せませぬ」
「誰が困る」
「私が困ります」
義藤は笑った。
幕府の座に控える者たちも、わずかに目を伏せた。
惟種は、深く頭を下げたまま思った。
報告はした。
あとは帰らせていただきたい。
阿蘇へ帰らせていただきたい。
◇
「大儀であった」
義藤は、ゆっくりと言った。
「阿蘇惟種。此度の働き、まこと見事である」
「恐れ入ります」
「公方の御内書を形にし、武田、村上、長尾を座に着かせた。遠国の若君とは思えぬ働きじゃ」
「過分なお言葉にございます」
惟種は、深く頭を下げた。
そして、慎重に口を開く。
「それでは、阿蘇へ――」
「褒美を取らせる」
義藤が言った。
惟種は固まった。
「……恐れながら」
「官位か、役か、銭か。幕府の名で許すこともできる。望みを申せ」
始まった。
また始まった。
惟種は、内心で身構えた。
「十分なお言葉を頂戴いたしました」
「遠慮するな」
「遠慮ではございませぬ。過分にございます」
「過分ではない。おぬしは働いた」
「公方様の御内書を奉じたまでにございます」
「それを働きと言うのじゃ」
義藤は楽しげに目を細めた。
惟種は、礼を保って答える。
「官位も役も、今の阿蘇には恐れ多きことにございます。銭は、むしろ阿蘇より献上すべきもの。品を頂戴すれば、宗運に何を約したのかと詰められます」
義藤は声を出して笑った。
「宗運とやらは、やはり面白い」
「面白いのではございませぬ。怖いのです」
「おぬしが怖がるか」
「怖がります」
惟種は真顔で答えた。
「それでは、私は阿蘇へ――」
「待て」
また止められた。
惟種は、心の中で舌打ちをした。
表には出さない。
公方様の前である。
「おぬしは、まこと欲が薄い」
「欲はございます」
「ならば申せ」
「阿蘇へ戻り地を安定させとうございます」
義藤が黙った。
惟種も黙った。
幕府の座も黙った。
少しの間、空気が止まった。
義藤は、やがて苦笑した。
「そこまで帰りたいか」
「おそれながら」
「即答か」
「申し訳ございませぬ」
「京は嫌いか」
「嫌いではございませぬ」
「では」
「九州はまだ整っておりませぬ」
義藤は、また笑った。
惟種は、笑われながらも頭を下げた。
「政も滞りかねませぬ。宗運が留守を支えておりますが、私も早く戻らねばなりませぬ」
「宗運がおればよかろう」
「宗運が倒れます」
「大げさじゃな」
「大げさではございませぬ」
惟種は本気であった。
◇
義藤は、しばらく考えた。
官位はいらぬ。
役もいらぬ。
銭もいらぬ。
欲しがるのは帰ることだけ。
これは困る。
義藤にとって、阿蘇惟種はただの遠国の若君ではない。
公方の御内書を奉じて、実際に武田と村上の争いへ口を入れた。
長尾景虎とも縁を結んだ。
大内の名も、博多の銭も、九州の兵も、南蛮の物も、すべて阿蘇の周りに集まりつつある。
阿蘇は、遠い。
遠いが、使える。
使えるなどと口にすれば聞こえが悪い。
だが、義藤は公方である。
使える者を、完全に遠くへ置いたままにする気はなかった。
引き締めねばならぬ。
懐柔せねばならぬ。
阿蘇惟種を、公方の手足として動く者にしておかねばならぬ。
義藤は、ふと思いついたように言った。
「ならば、余とおぬしは兄弟になるか」
惟種の顔が固まった。
「恐れながら」
「早いな」
「あまりに畏れ多きことにございます」
「まだ何も言っておらぬ」
「言われる前に恐縮すべきこともございます」
義藤は愉快そうに笑った。
「そういうことではない。ある意味それでもかまわぬが」
「では、どういうことでございましょう」
「剣じゃ」
惟種は、少し首を傾げた。
「剣…」
「うむ」
義藤の目が、そこで少し輝いた。
「剣の兄弟となるか、ということじゃ」
惟種は、まだよく分かっていなかった。
「剣の兄弟とは」
「同じ師に学ぶ兄弟子、弟弟子ということよ」
義藤は身を乗り出した。
「ちょうどよい折、塚原卜伝を京へ招いておる」
惟種の心が、跳ねた。
塚原卜伝。
その名は、前世でも知っていた。
剣聖。
鹿島の剣。
戦国の剣豪。
伝説と逸話に包まれた名である。
その本人が、京にいる。
しかも、教えを受けられるかもしれない。
惟種は、顔を保とうとした。
保とうとしたが、ほんの少し遅れた。
義藤は見逃さなかった。
「ほう」
「何でございましょう」
「興味がある顔をした」
「しておりませぬ」
「した」
「公方様の見間違いにございます」
「塚原卜伝じゃぞ」
義藤が、わざとゆっくり言った。
惟種は内心で呻いた。
やめていただきたい。
その名を強調しないでいただきたい。
「鹿島の剣をよくし、諸国を巡り、幾多の勝負を経た者と聞く。余もその教えを受けたいと思い、此度京へ招いた」
惟種は、少しだけ息を整え考える。
本来の史実だと義藤に師事するには、時期が早い。
おそらく阿蘇家を懐柔するために、予め準備していたのだろう。
すでに公方様が深く師事しているのではない。
これから学ぶ。
その場に、自分も加えられようとしている。
つまり、これは褒美であると同時に、縁である。
非常に危ない縁である。
「それは、まことに結構なことにございます」
「おぬしも学べ」
「私は阿蘇へ――」
「阿蘇へ帰る前に学べ」
「少しだけでございましょうか」
「少しで剣が分かるなら、世に剣豪があふれておる」
義藤の声が、そこで少しだけ厳しくなった。
「剣は、太刀を振ればよいというものではない。立ち方、歩み、間合い、目付、呼吸。己がどこで死ぬかを知ることも、剣のうちじゃ」
惟種は黙った。
「まして卜伝じゃ。ただ名高き者に一日二日会い、太刀筋を眺めて帰るだけなら、それは学びではない。見物じゃ」
「見物のつもりは、ございませぬ」
「ならば留まれ」
義藤は静かに言った。
「一月。せめて一月は、腰を据えて学べ」
惟種は息を呑んだ。
「……一月」
「うむ」
「それは長うございます」
「短いくらいじゃ」
「本国も放ってはおけませぬ」
「知っておる」
「ならば」
「だから一月じゃ」
義藤は、まっすぐ惟種を見た。
「一年とは言わぬ。半年とも言わぬ。だが、十日で剣を知った顔をして帰られては、卜伝にも失礼であろう」
正論だった。
あまりに正論だった。
惟種は、返す言葉を失った。
◇
「若君」
控えていた鍋島種茂が、静かに声をかけた。
惟種は横目で見る。
種茂の顔は穏やかだった。
だが、その目は言っている。
危ういですぞ、と。
分かっている。
分かっているのだ。
だが、塚原卜伝である。
「種茂」
「はい」
「一月は、長いな」
「長うございます」
「宗運は怒ると思うか」
「それはもう」
「ただ、最後に、塚原卜伝殿なら仕方ないか、と少しだけ思うかもしれぬな」
種茂は、少しだけ目を伏せた。
「思われるかもしれませぬ」
惟種は、少し顔を上げた。
「少しか」
「少しだけにございます」
「かもしれぬ、か」
「はい」
種茂は、少しだけ口元を緩めた。
「某も、若君が興味を持たれるお気持ちは分かります」
「そうか」
「はい。ただし、条件は定めるべきにございます」
種茂の目が、わずかに鋭くなる。
「稽古の場、宿所、供回り、文の往来、京での面会。すべて先に定めねばなりませぬ。阿蘇へ急ぎの文も出すべきにございます。一月を越える約は、なさらぬ方がよろしいかと」
惟種は頷いた。
それが妥協点であった。
戸次鑑連も、低く言った。
「若君。塚原卜伝殿の教え、受けるに値しましょう」
「鑑連もそう思うか」
「思います。されど、京は戦場より厄介にございます」
鑑連の声は硬い。
「剣を学ぶつもりで、政に斬られては意味がございませぬ」
「……分かっている」
「ならば、一月。そこから先は延ばさぬことにございます」
惟種は深く頷いた。
その横で、新納忠元と島津義弘が目を輝かせていた。
「若君」
義弘が、少し身を乗り出す。
「我らも、末席に加わることは叶いませぬか」
忠元も続く。
「護衛として稽古場に侍るなら、ついでに目で学ぶこともできましょう」
惟種は二人を見た。
分かる。
気持ちは分かる。
分かりすぎるほど分かる。
目の前で見られるなら、誰だって見たい。
特にこの二人なら、なおさらである。
義藤は、そのやり取りを楽しげに見ていた。
「よいではないか。武の者が卜伝を見たいと思うは当然じゃ」
「公方様」
「阿蘇の者も、末席にて見ればよい。卜伝が許せば、な」
「その、卜伝殿が許せば、というところが怖いのですが」
「師の言葉は重いぞ」
「まったく安心できませぬ」
義藤は笑った。
◇
惟種は迷った。
帰りたい。
早く阿蘇へ帰りたい。
京に長くいるのは危ない。
義藤は笑いながら荷を載せてくる。
公家は銭を求める。
寺社は顔を求める。
幕府は役を求める。
宗運は遠く阿蘇で胃を痛めているはずである。
だから、ここで食いついてはならない。
絶対に食いついてはならない。
しかし。
前世の記憶を持つ者として、いや武家の子として、剣聖と呼ばれる者から直に剣を学ぶ機会など、そうあるものではない。
帰りたい。
だが、習いたい。
惟種は、必死に表情を整えた。
「剣は、そう早くできるものではない」
「それは承知しております」
「ならば、余とおぬしで学ぼうではないか」
義藤は、柔らかく笑った。
「余が兄弟子、おぬしが弟弟子じゃな」
「公方様が兄弟子であられるなら、私は逃げ場がございませぬ」
「同じ師に学べば兄弟じゃ」
義藤は堂々と言った。
「剣の兄弟じゃ」
惟種は、負けたと思った。
完全にやられた。
「……承知いたしました」
惟種は、丁寧に頭を下げた。
「塚原卜伝殿のご指導を、ありがたく受けさせていただきます。」
義藤の顔が、ぱっと明るくなった。
その声は、公方というより、剣を好む若者のものだった。
「ならば決まりじゃ」
◇
その後の話は早かった。
塚原卜伝への引き合わせの日取り。
稽古の場。
惟種の宿所。
阿蘇方の供の配置。
幕府方との取次。
阿蘇へ送る急ぎの文。
あれよあれよという間に整えられていく。
惟種は、それを横で見ながら思った。
帰るつもりだった。
報告だけして帰るつもりだった。
それが、なぜ剣の稽古になっているのか。
なぜ公方様と剣の兄弟になっているのか。
なぜ京に一月も留まる話になっているのか。
分かっている。
塚原卜伝に釣られた。
それだけである。
情けない。
だが、胸の奥は少し躍っていた。
塚原卜伝に会える。
剣を習える。
それは、どうしようもなく楽しみであった。
「若君」
種茂が、静かに声をかける。
「顔に出ております」
「何が」
「楽しみだという顔にございます」
「出ていない」
「出ております」
「出ていない」
「宗運殿にも、文で正直にお伝えした方がよろしいかと」
「そうだな…」
義藤は、そのやり取りを見て笑っていた。
惟種は、深く、深く頭を下げたまま、心の中で叫んだ。
皆、本当にすまない。
特に宗運。
ごめんな。




