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火の山の若君は、未来を夢に見る ~阿蘇家嫡流の若君、名臣甲斐宗運と乱世を切り拓く~  作者: アトラス


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第百八十九話 帰路ならず

 善光寺の座は、ひとまず成った。


 完全な和睦ではない。


 武田晴信も、村上義清も、心から満足したわけではない。

 真田の旧領は認められ、武田の押し込みには線が引かれた。

 村上は痛みを飲み、長尾はその後ろに立つ。

 寺へ人を預け、荷の道を守る。

 約を破れば、大義は相手へ移る。


 すべてが盤石というわけではない。


 むしろ、どこかで必ず軋むだろう。


 だが、惟種にとっては十分だった。


 公方様の御内書は形になった。

 武田も村上も座を立てた。

 長尾景虎も東国の後ろ盾として動く。

 阿蘇はやるべきことをやった。


 やった。

 やったのである。


 だから、帰れる。


 越後へ戻った惟種は、久しぶりに心が軽かった。


「さあ、帰るぞ」


 港へ戻る道中、惟種は明るく言った。


 戸次鑑連が、少しだけ目を細める。


「ようやく阿蘇へ戻れますな」


「戻る。戻るぞ。戻って、宗運に叱られて、帳を見て、加世と珠光に土産を渡して、黒松の顔を見る」


「叱られるのは確定でございますか」


「確定だ」


 惟種は即答した。


「だが、今回は二人きりを避けた。種茂が止めてくれた。だから叱責は半分で済むはずだ」


 鍋島種茂が、横で穏やかに言った。


「半分で済むかどうかは、宗運殿次第かと」


「やめろ。希望を削るな」


 新納忠元が笑った。


 島津義弘も、どこか楽しげである。


 甲斐親英は、すでに帰りの風と海を考えていた。


「若君」


「親英、どうした」


「風を見まするに、数日内に出るのがよろしいかと」


「よし。すぐ出よう。今すぐでもよい」


「荷と水と食糧を改めねばなりませぬ」


「では、それが済み次第だ」


 惟種は、力強く頷いた。


 阿蘇へ帰る。


 九州へ帰る。


 東国の山も川も、武田も村上も、しばらくは東国の者に任せる。


 自分は阿蘇へ戻る。


 そう思うだけで、胸が軽くなった。


 その時である。


 越後の館へ、幕府の使者が来た。


     ◇


 使者は、丁重だった。


 丁重すぎるほど丁重であった。


 惟種は、その時点で嫌な予感がした。


 丁重な者ほど、重い荷を持ってくる。


 烏丸光康で学んだ。


 公方様でも学んだ。


 そして、使者は深く頭を下げて言った。


「阿蘇惟種様」


「はい」


「公方様よりの御意にございます」


 惟種の心が、一段重くなった。


「此度の善光寺における調停の件、誠に大儀とのこと。つきましては、京の公方様へ直に御報告いただきたく」


 惟種は黙った。


 聞き間違いかもしれない。


 そう思った。


「……京?」


「京にございます」


「阿蘇ではなく?」


「京にございます」


「越後から、若狭へ出て、京へ?」


「仰せの通りにございます」


 惟種は、絶望した。


 とにかく絶望した。


 心の中で、何かが崩れ落ちた。


 阿蘇へ帰るはずだった。


 船に乗って、九州へ帰るはずだった。


 宗運に叱られ、加世に呆れられ、珠光に心配され、黒松に鼻で押されるはずだった。


 それが京。

 京である。


 公方様は、今や京におられる。


 それは、本来ならば喜ばしいことであった。


 少し前まで、公方様と三好の間は厄介極まりないものであった。


 それを、惟種はどうにか形にした。


 調停し、筋を立て、銭と文と面子を並べ、公方様を京へ戻す道を作ってしまった。


 作ってしまったのである。


 つまり、京に公方様がいる。


 京に公方様がいるから、呼ばれれば京へ行かねばならない。


 自業自得であった。


 分かっている。


 分かってはいる。


 だが、嫌なものは嫌である。


 公方様。

 公家。

 朝廷。

 寺社。

 三好。

 松永。

 商人。

 献金。

 御礼。

 上洛。


 面倒事の塊。


 惟種は、ゆっくりと使者を見た。


「どうしても、京でなければなりませぬか」


「公方様が、直にお聞きになりたいとのことにございます」


「文では」


「直に、とのことにございます」


「代使では」


「阿蘇惟種様、直に、とのことにございます」


 逃げ道がない。


 惟種は、深く、深く息を吐いた。


 戸次鑑連が横から静かに言う。


「若君」


「分かっている」


 公方様の御内書を奉じて調停をした。


 その報告を求められている。


 断れば、せっかく立てた幕府の顔を自分で潰すことになる。


 阿蘇は幕府忠義を掲げている。


 ここで報告を拒むわけにはいかない。


 しかも、公方様を京へ戻す筋に、自分は関わっている。


 京にいる公方様から呼ばれたなら、京へ行くほかない。


 分かっている。


 分かっているが、嫌なものは嫌だった。


「……承知した」


 惟種は、絞り出すように答えた。


「公方様へ、直にご報告申し上げる」


 使者は、安堵したように深く頭を下げた。


 惟種は、心の中で泣いた。


     ◇


 長尾景虎は、その報せを聞いて、しばらく惟種を見ていた。


「京へ行くか」


「行きたくはない」


「顔に出ておる」


「出している」


「潔いな」


「隠す気力がない」


 景虎は低く笑った。


 だが、その笑みには、少しだけ残念そうな色があった。


「つまらぬな」


「私はまったくつまらない」


「まだ、奈落の政を聞き足りぬ」


「もう十分だ」


「足りぬ」


「私が足りた」


 景虎は、なお笑っている。


 しかし、その目の奥には、港で初めて見た光と、正式の座で見た主君の面が重なっていた。


 惟種は、少しだけ真面目な顔になった。


「長尾殿」


「何じゃ」


「此度は世話になりました」


 景虎は黙った。


「今後の東国は、長尾殿に頼みます」


「押しつけるか」


「東国のことは、東国の者へ返すだけにございます」


「都合のよいことを申す」


「阿蘇は九州で手一杯です」


 惟種は正直に言った。


「村上殿の道、公儀の座、武田殿への線。どれも、ここから先は長尾殿がいなければ保てませぬ」


「わしが背負えと」


「一人で背負うな、と言ったはずです」


 景虎の眉が、わずかに動いた。


 惟種は続けた。


「宇佐美殿にも、斎藤殿にも、柿崎殿にも、小島殿にも、背負わせなされ。長尾殿一人で立てば、また越後が長尾殿を食います」


 景虎は、しばらく惟種を見ていた。


 やがて、口の端を上げる。


「最後まで痛いところを突く」


「早く帰りたいので、言うべきことは言っておく」


「京へ行くのだろう」


「そこは突くな」


 景虎は声を出して笑った。


 その横で、宇佐美定満が深く頭を下げる。


「惟種殿」


「宇佐美殿」


「越後にては、こちらこそ大変お世話になりました」


「世話になったのはこちらです」


 惟種は軽く首を振った。


「長尾殿を、頼みます」


 宇佐美の目が、少しだけ柔らかくなった。


「それが、某の役目にございます」


「知りすぎると苦労します」


「すでに苦労しております」


「それは……申し訳ない」


「いえ」


 宇佐美は、わずかに笑った。


「阿蘇殿のおかげで、殿の別の面も見えました」


「見えすぎると、本当に苦労します」


「心得ております」


 景虎が不満げに言う。


「二人で何を分かったような顔をしておる」


「長尾家の話だ」


「ならば、わしにも聞かせよ」


「本人には聞かせられぬ」


「わしの話であろうが」


 景虎は、また笑った。


 そして、ふと思いついたように言った。


「ならば今度は、こちらから阿蘇へ行こう」


 惟種は即答した。


「はっはっは、お断り申す」


「早いな」


「本気だぞ」


「わしが行けば、歓待するであろう」


「するだろう。だが、その前に宗運が倒れるな」


「宗運とやらは、そこまで弱いか」


「弱くはないぞ。あのような老獪な手合いは他に知らん。ただ、長尾景虎殿を阿蘇へ迎える準備を想像しただけで、胃を押さえるだろうな」


「ならば見てみたい」


「はは、面白い冗談だ」


 景虎は、楽しげに笑った。


「必ず、いつか行く」


 二人のやり取りを、宇佐美定満は静かに見ていた。


 阿蘇惟種と長尾景虎。


 奇妙な縁ができたものだと思う。


 だが、悪い縁ではない。


 少なくとも、景虎があれほど素直に笑う相手は多くない。


 宇佐美は、静かに頭を下げた。


「惟種殿。ご武運を」


「ありがとうございます」


 惟種も、深く礼を返した。


     ◇


 阿蘇の大船は、越後を離れた。


 今度こそ帰りたい。


 だが、船首は九州ではなく若狭へ向いている。


 惟種は甲板に立ち、海を見た。


「阿蘇へ帰る船ではない」


 ぽつりと言った。


「京へ近づく船だ」


 戸次鑑連が横に立つ。


「公方様への報告が済めば、今度こそ帰れましょう」


「その言葉、信じてよいか」


「願いとして申し上げました」


「願いか」


「はい」


 惟種は、遠い目をした。


 鍋島種茂が穏やかに言う。


「若君。京では、くれぐれもお言葉にお気をつけください」


「分かっている」


「公方様をとっちめるなどと、思っても顔に出してはなりませぬ」


「なぜ分かる」


「顔に出ております」


 惟種は、両手で顔を覆いたくなった。


 新納忠元が笑いをこらえている。


 島津義弘は、京へ行くことに少し目を輝かせていた。


「京とは、どのような所なのでしょう」


「面倒な所だ」


 惟種は即答した。


「雅で、古くて、偉い者が多くて、銭が消えて、文が増えて、頼み事が降ってくる」


「それは……」


「面倒な所だ」


 甲斐親英が、淡々と口を挟んだ。


「若狭までは、天候次第にございます。京へ入る道も、使者と相談せねばなりませぬ」


 惟種は、海へ向かってため息をついた。


 船は進む。


 波は白く割れる。


 越後は遠ざかり、若狭が近づいていく。


 阿蘇は、まだ遠い。


     ◇


 若狭へ入り、そこから京へ向かった。


 道中も、惟種の気は重かった。


 京に近づくほど、人も物も文も増える。

 寺社の名。

 公家の名。

 幕府の名。

 商人の名。

 三好の名。

 松永の名。


 どれも絡まる糸のようである。


 惟種は、何度も心の中で唱えた。


 報告だけ。

 報告だけで帰る。


 余計な約束はしない。

 余計な献金もしない。

 余計な荷は背負わない。


 宗運がいない。


 宗運がいないのだから、なおさら気をつける。


 そう自分に言い聞かせた。


 だが、相手は公方様である。


 前回も、囲碁で見事に捕まった。


 天元。

 忠義。

 甲斐の辺りが騒がしくてな。

 思い出すだけで、腹の奥が重くなる。


 今度は京である。

 相手の庭である。


 さらに危ない。


 しかも、その庭を整える手伝いをしたのは、自分である。


 惟種は、真顔で思った。


 今度こそ、絶対に余計なことは言わない。


 きっと。


     ◇


 やがて、幕府の門が見えた。


 京の空気は、阿蘇とも越後とも違う。


 華やかで、古く、湿っていて、どこか油断ならない。


 惟種は馬上で門を見上げた。


 ここまで来てしまった。


 来たくなかった。


 だが、来てしまった。


 公方様へ報告しなければならない。


 惟種は静かに息を吐いた。


 公方様。


 よくも、わしをここまで引っ張り回してくださったな。


 信濃へ向かわせ、長尾景虎と引き合わせ、武田晴信と座を組ませ、その上で京へ報告に来いとは。


 いや。


 そもそも、公方様を京に戻す筋を作ったのは、わしである。


 京に戻った公方様が、京へ呼ぶ。


 筋は通っている。


 通っているからこそ、腹立たしい。


 一度くらい、とっちめてやろうか。


 そんな不敬極まりない思いを胸に、阿蘇の若君は幕府の門をくぐった。


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こちらも覗いていただけると嬉しいです。

― 新着の感想 ―
最初から京には寄らないと、直に伝えていたので、断ることができると思うが???
他人の仕事の邪魔だけをする上司とかそら人柄無関係に邪魔だわ。 消されても同情の余地がない。
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