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火の山の若君は、未来を夢に見る ~阿蘇家嫡流の若君、名臣甲斐宗運と乱世を切り拓く~  作者: アトラス


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第百八十八話 奈落の統治者

「阿蘇惟種殿」


 武田晴信は、惟種を見据えていた。


「貴殿は、何だ」


 別室の空気が、静かに沈んだ。


 誰だ、ではない。


 何だ。


 人を問う言葉ではない。


 奇妙なものを見た者が、その正体を測るような問いであった。


 惟種は、少しだけ黙った。


 面倒だ。


 心底、面倒であった。


 晴信は、明らかにこちらを値踏みしている。


 阿蘇は東国に何を望むのか。


 武田を敵と見るのか。


 長尾景虎をどう動かしたのか。


 公方様とどこまで結んでいるのか。


 大船、大筒、銭、博多、堺、朝廷、幕府。


 どこまでが実で、どこからが虚か。

 それを探ろうとしている。

 まともに答えれば、足元をすくわれる。

 黙れば、余計に怪しまれる。

 ふざければ、格を落とす。

 逃げれば、弱く見える。


 惟種は、心の中で深くため息をついた。


 仕方ない。


 まともに答えぬまま、礼を保つしかない。


 惟種は、ゆっくりと顔を上げた。


「奈落の統治者だ」


 晴信の目が、わずかに細くなった。


 山本勘助は動かない。


 鍋島種茂は、静かに惟種の横顔を見ている。


 長尾景虎だけが、横で肩を揺らした。


「くっくっく」


 楽しそうである。


 惟種は少しだけ横目で見た。


 笑うな。


 そう思った。


「奈落の統治者、か。なるほど、そう来たか」


 晴信は、景虎を一瞥した。


「長尾殿は、分かるのか」


「分かるようで、分からぬ」


「ならば笑うな」


「面白いから笑うのじゃ」


 景虎は悪びれない。


 惟種は、ますます面倒になった。


 晴信は、再び惟種へ視線を戻す。


「奈落とは、穏やかではないな」


「とあるうつけの水夫と、そのような話をしていた」


「うつけの水夫、か」


 晴信は、薄く笑った。


「越後の水夫は、ずいぶん妙な話をするらしい」


「まことに」


 惟種は、淡々と答えた。


「その水夫に奈落へ向かうと言われましたので、ならば治め方を考えねばならぬと思っただけだ」


「奈落を治めるか」


「そうだな」


「貴殿は、この世が奈落だと申すか」


 晴信の声は静かだった。


 だが、その奥には探る刃がある。


 惟種は、少しだけ考えた。


「そこまでは申さぬ」


「では」


「ただ、人が簡単に死ぬ世など、奈落以外の何になるというのです」


 別室が静まった。


「飢えで死ぬ。病で死ぬ。戦で死ぬ。道で斬られて死ぬ。赤子は育つ前に死に、母も産む時に死ぬ。村が焼かれ、田が荒れ、荷が奪われ、親を失った子が道端に座る」


 惟種の声は荒くない。


 ただ、淡々としていた。


「そのような世を、極楽とは申さん」


 晴信は黙った。


 勘助も黙っている。


 種茂は、惟種の言葉に少しだけ目を伏せた。


 これは若君の本音である。


 煙に巻くための言葉でありながら、芯は嘘ではない。


 景虎も、笑うのをやめていた。


 倉陰で聞いた地獄の帳、飯、道。


 あれは戯れのようでいて、惟種の底にあるものでもあった。


     ◇


 晴信が問うた。


「ならば、惟種殿」


「うむ」


「貴殿なら、極楽を作れるとでも申すか」


 惟種は、思わず笑った。


 小さく、乾いた笑いである。


「無理だな」


「即答か」


「極楽など、五百年先でも無理だ。人は争う。国の違い、言葉の違い、身分の違い、信じるものの違い。理由など、いくらでも作る」


 その瞬間、山本勘助の指が、ほんのわずかに動いた。


 五百年先。


 ただの例えにも聞こえる。


 だが、今の惟種の口ぶりは、少し違った。


 まるで、遠い未来を絵巻の向こうに見てきたかのような響きがあった。


 勘助は、惟種を見た。


 この子どもは、何を知っている。


 まさか。


 勘助は、すぐにその考えを打ち消した。


 未来を知る。


 そのようなことがあるはずがない。


 あったとすれば、それは神仏か、物の怪か、天より落ちた何かに近い。


 人の口で語る話ではない。


 だが、違和感だけは残った。


 惟種は続けた。


「極楽は作れん。人は欲を持ち、怒り、争い、嘘をつき、奪う。どれほど道を通しても、帳を整えても、米を配っても、薬を作っても、極楽には届かん」


 晴信は、惟種を見る。


「ならば、何を作る」


「少なくとも、人が、子どもが、簡単に死なぬ世は作れる」


 惟種の声は、少しだけ低くなった。


「いや、作れるはずだ。わしの代でできるかは、はなはだ疑問だがな」


 景虎の目が、わずかに変わった。


 種茂は、静かに息を吐く。


 勘助は、なお惟種を見ていた。


 五百年先。


 子どもが簡単に死なぬ世。


 極楽ではない未来。


 この若君は、何を基準にそれを語っている。


 ただの夢か。

 ただの理想か。


 違う。


 勘助の奥で、何かが警鐘を鳴らしていた。


 危険。


 あまりにも。


 晴信は、勘助ほど深くは反応しなかった。


 だが、惟種がまともに腹を見せる気がないことは分かった。


 奈落。

 極楽。

 五百年先。

 子どもが死なぬ世。


 言葉は大きい。


 だが、こちらが聞きたいことからは少しずつ外れている。


 それでいて、完全に外れているわけでもない。


 礼は崩していない。


 侮っているわけでもない。


 しかし、捕まえようとすると、霧のようにずれる。


 晴信は、内心で思った。


 今は、これ以上は出さぬか。


     ◇


「奈落の統治者」


 晴信は、ゆっくりと言った。


「その奈落を、貴殿は帳と飯と道で治めるのか」


「できるところまでは」


「刃は」


「必要ならば」


「随分と穏やかな顔で言う」


「刃を抜かずに済むなら、それに越したことはない。ただ、刃が要らぬなどとは申さんがな」


 惟種は、晴信を見た。


「刃を抜く前に、飯で済むなら飯を。文で済むなら文を。道で済むなら道を」


「それで人は従うか」


「従わぬ者もいるだろう」


「ならば」


「その時は、刃だ」


 言葉は静かだった。


 晴信の目が、わずかに細くなる。


 阿蘇惟種は、甘いのか。


 それとも甘く見せているだけか。


 判断しづらい。


「極楽を諦めながら、子どもが死なぬ世は諦めぬか」


「そうだな」


「矛盾ではないか」


「そうかもな」


 惟種は首を振った。


「ただ、全部を救うことはできませぬ。だから、少しずつ死ににくくし、わしは大になる方をとる」


 景虎が、小さく笑った。


「阿蘇の政じゃな」


「奈落の政だ」


 惟種は答えた。


「奈落で極楽を語る者は、たいてい誰かを焼きます。ならば、わしは粥を煮る方がよい」


 晴信は、ふっと笑った。


「粥で天下を治めるか」


「天下など治めぬ」


 惟種は即答した。


「阿蘇だけでも九州だけでも手一杯だ」


「謙遜だな」


「本音だ」


 晴信は、少しだけ笑みを深めた。


 本音。


 どこまでが本音か。


 それを測るために呼んだはずが、結局は煙に巻かれている。


 だが、いくつか分かったことはある。


 阿蘇惟種は、今すぐ東国を欲してはいない。


 武田を今すぐ敵にする気も薄い。


 ただし、大義の線を引くことには執着する。


 そして、人が死ぬことをひどく嫌う。


 それは弱さにもなる。


 だが、武器にもなる。


 晴信は、静かに言った。


「阿蘇惟種殿」


「はい」


「真田の領地の采配、感謝する」


 惟種は、少しだけ意外そうに目を上げた。


 晴信は続けた。


「武田は、真田の功を軽んじることはできぬ。そこを認めたことは、覚えておく」


「ただし」


「なんだ」


「武田も、ただ縛られるためにこの座へ出たわけではない」


「承知している」


「ならばよい」


 晴信は立ち上がった。


 会談は、そこで終わった。


 惟種は、心の中で大きく息を吐いた。


 終わった。


 何とか終わった。


 まともに答えなかったが、礼は失っていない。

 はずだ…。


 種茂が、静かに横で頭を下げる。


 惟種も立ち上がり、晴信へ礼を返した。


 景虎は、最後まで楽しげに笑っていた。


     ◇


 善光寺を離れる道すがら、晴信は山本勘助を近くへ呼んだ。


 秋の風が、山の方から下りてきていた。


「勘助」


「は」


「どう見た」


 勘助は、しばらく黙った。


 それから答える。


「阿蘇家が本格的に東国へ兵を出すことは、まずございますまい」


「理由は」


「やる気が感じられませなんだ」


 晴信は少し笑った。


「随分な評じゃな」


「阿蘇の若君は、早く帰りたがっておりました。九州を空けることを嫌がっております。文、銭、商人、長尾を使うことはありましょう。ですが、自ら大軍を率いて東国へ、ということは考えにくうございます」


「同感じゃ」


 晴信は頷いた。


「ただ」


 勘助の声が、そこで止まった。


 晴信は横目で見る。


「申せ」


「恐れながら」


 勘助は、少しだけ目を伏せた。


「あの若君、未来の話をした時だけ、妙でございました」


「未来」


「五百年先、と申しました」


「ああ」


「ただの例えにも聞こえます。ですが、某には……まるで、見てきたものを語るように聞こえました」


 晴信は黙った。


「まるで、未来を知っているような」


 勘助は、すぐに首を振った。


「某の気のせいですかな。そのようなこと、あるはずもございませぬ」


 晴信は、前を向いたまま歩いた。


 未来を知る。


 あまりにも馬鹿げている。


 だが、阿蘇惟種という存在そのものが、すでに少し馬鹿げている。


 十二の若君。

 九州の大勢力。

 大船。

 大筒。

 薬。

 帳。

 学び所。

 公方様。

 朝廷。

 長尾景虎との奇妙な距離。


 そして、五百年先でも極楽は無理だと言う口ぶり。


 晴信は、低く笑った。


「ならば、できることなら、さらうか」


 勘助は、驚いた顔をしなかった。


 ただ、静かに答える。


「難しゅうございます」


「であろうな」


「阿蘇本国は、間者への備えが厚いと聞きます。寺社、商人、港、学び所、警邏方。目が多すぎます。さらに、長尾も若君には目を置きましょう」


「越後の目か」


「はい。景虎殿が、あの若君を面白がっております」


 晴信は鼻で笑った。


「それは面倒だ」


「加えて、若君の周りには何かしらの手の者がおります。今回も二人きりを避けられました」


「宗運とやらの差し金でな」


「おそらく」


「阿蘇の守りは、人も文も厚いか」


「透波を使うとしても、正面からは難しゅうございます。近づくだけで目にかかりましょう」


 晴信は、しばらく考えた。


 風が、草を揺らす。


 やがて晴信は言った。


「機会があればでよい」


「は」


「なるべくな」


 勘助は頭を下げた。


「承知いたしました」


 晴信は、もう一度だけ善光寺の方を振り返った。


 阿蘇惟種。


 奈落の統治者。


 極楽を諦め、子どもが死なぬ世を語る若君。


 未来を知るなど、馬鹿げている。


 だが、馬鹿げたものほど、時に天下を動かす。


 晴信は、小さく笑った。


「面白い童じゃ」


 その声に、勘助は答えなかった。


 ただ、心の中で思った。


 面白い。


 だが、危険。


 あまりにも。


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同作者の別連載
『異世界エンゲージ ~毎日のパック開封でカード使いは帰還を目指す~』
こちらも覗いていただけると嬉しいです。

― 新着の感想 ―
そもそも使ってる方言が違いすぎて即バレやろなあ
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