第百八十七話 留守居の胃
阿蘇の館では、今日も帳が積まれていた。
米、田畑、人別、蔵、市。
警邏方の報告。
学び所の報告。
薬と病の記録。
寺社から上がる民の噂。
港から届く商人の話。
惟種が越後へ向かったことで、阿蘇の政が止まることはない。
むしろ、止まってはならない。
若君が外へ出た時ほど、本国は揺れてはならぬ。
もちろん、すべてを甲斐宗運が直接見ているわけではない。
各地の代官、蔵方、警邏方、学所方、寺社方、港の役人たちがまず目を通し、要点をまとめ、その上で阿蘇の館へ上げてくる。
それでも、山のようであった。
そのため、甲斐宗運は朝から評定の座にいた。
座には、阿蘇惟豊、島津日新斎、島津貴久がいる。
惟種はいない。
種茂もいない。
戸次鑑連、新納忠元、島津義弘、甲斐親英もいない。
皆、越後である。
その穴を埋めるように、宗運は淡々と報告を続けていた。
「日向、大隅は大きな乱れなし。ただし伊東旧臣、肝付旧臣のうち、いまだ旧主筋へ文を回す者がございます」
宗運の声は、いつも通りに聞こえた。
「すでに寺社筋と商人筋へ目を置いております。露骨に刃を抜く様子はございませぬが、油断はできませぬ」
惟豊が頷く。
「府内はどうじゃ」
「旧大友領は、表は落ち着いております。吉弘鑑理殿の働きも大きゅうございます。ただし、阿蘇の帳を嫌う者もおります」
「帳を嫌うか」
「はい。帳は隠し事を嫌いますゆえ」
日新斎が、薄く笑った。
「帳に見られては困る者ほど、帳を嫌うものじゃ」
「事実にございます」
宗運は即答した。
「有馬、大村の旧領では、港の扱いに不満を持つ商人がございます。ただし、道と市の整備で利を得る者も多く、騒ぎには至っておりませぬ」
貴久が口を開く。
「警邏方は効いておるか」
「効いております」
宗運は、手元の帳を開いた。
「市場での盗み、夜の喧嘩、旅人への乱暴は減っております。元は刀を頼みにした者たちを、道と市を守る役へ回したことは、今のところよく働いております」
「今のところ、か」
「はい。扶持を怠れば、すぐ元に戻ります」
宗運は次の帳へ目を移した。
「学び所は増えております。ただし、師が足りませぬ。字を教えられる者、数を教えられる者、帳を読める者。どれも足りませぬ。飯を出すことも重く、米を抜く者が出ぬよう見回りを増やしております」
惟豊は、深く息を吐いた。
「惟種が始めたことは、どれも終わりがないな」
「はい」
宗運は淡々と答えた。
「終わりがございませぬ」
◇
報告は続いた。
「人別帳については、村ごとの人の数、男女、年、職、逃散、流入、孤児、病人、職人、船手まで記すよう進めております」
貴久が感心したように言う。
「人をそこまで記すか」
「記さねば、米も役も薬も届きませぬ」
宗運は言った。
「誰がどこにいるか。誰が死に、誰が生まれ、誰が逃げ、誰が流れ着いたか。それを知らねば、国は目隠しで歩くようなものにございます」
日新斎が頷いた。
「若君の言う、帳は目、というやつじゃな」
「はい」
「だが目ばかり増えても、見る者が足りまい」
「その通りにございます」
宗運は静かに言った。
「文吏が足りませぬ。圧倒的に足りませぬ」
そこで、宗運の声が少しだけ重くなった。
「種茂がおりませぬので、種清をこき使っております。おそらく、そろそろ恨まれますな」
惟豊が苦笑した。
「種清はよう働く」
「働くゆえに、仕事が寄ります」
「そなたも同じであろう」
「それを申されると、返す言葉がございませぬ」
宗運はそう答えた。
だが、その目は帳の上を滑ったまま、どこか遠かった。
その時である。
「……くしゅん」
宗運が、小さくくしゃみをした。
座の空気が、ほんの少しだけ緩む。
宗運は懐紙で口元を押さえ、何事もなかったように帳へ目を戻そうとした。
だが、日新斎がそれを見逃さなかった。
「宗運殿」
「は」
「風邪ですかな」
「いいえ」
宗運は、真顔で答えた。
「おそらく、若君がどこかで私の噂をしておられるのでしょう」
惟豊が目を瞬いた。
貴久が笑いをこらえる。
日新斎は肩を揺らした。
「遠く越後からか」
「若君ならば、あり得ます」
宗運は淡々と言った。
「特に、何か面倒な場面で、宗運に叱られる、などと思っておられる時にございます」
「思い当たるのか」
「多すぎて、どれかは分かりませぬ」
宗運はそう言って、再び帳へ目を戻した。
日新斎は、それでもなお宗運を見ていた。
「宗運殿」
「は」
「心ここにあらず、といった様子ですな」
宗運は、ほんの一瞬だけ動きを止めた。
それから、深く頭を下げる。
「これは失礼を。気を引き締めまする」
「責めておるわけではござらぬ」
日新斎は笑った。
「若君が遠く越後におられる。気にならぬ方がおかしい」
惟豊も、静かに頷いた。
「無理もない。惟種がやらかさねばよいが」
貴久が、少し笑って言った。
「若君は、きっとすごいことを成し遂げて戻られましょう」
「それが困るのです」
宗運が、即座に言った。
貴久が目を瞬く。
宗運は、真顔で続けた。
「結果は信頼しております。若君は不思議と、厄介事を形にして戻られる。そこは疑っておりませぬ」
「ならば、よいではないか」
「よくございませぬ」
宗運の声には、深い実感があった。
「結果は信頼しております。ですが、その間、胃がきりきりするのです」
惟豊が笑った。
日新斎も肩を揺らす。
宗運は笑わない。
「そして、若君が何かを成し遂げて戻られますと、必ず仕事が増えます」
場が少し静かになった。
皆、思い当たることが多すぎた。
宗運は指を折るように続けた。
「船を作ると言われれば、港と船手と木材と鉄と火薬の帳が増えます。学び所と言われれば、師と米と子の帳が増えます。警邏方と言われれば、扶持と役目と巡回の帳が増えます。薬と言われれば、病と薬草と死者の帳が増えます」
宗運は、一度だけ息を吐いた。
「今度は東国でございます。若君が何を持ち帰られるのか、想像するだけで胃が痛みます」
貴久は、少し考えてから言った。
「長尾景虎殿との縁でしょうか」
「それだけで済めばよろしいのですが」
「武田との文でしょうか」
「それだけで済めばよろしいのですが」
「村上との関わり」
「それだけで済めばよろしいのですが」
惟豊が、低く笑った。
「全部持って帰るかもしれんな」
「おやめください」
宗運は、珍しく少し疲れた顔をした。
◇
そこへ、一つの文が運ばれてきた。
越後からの急ぎである。
宗運の手が、すぐに伸びた。
封を改め、文を開く。
惟豊、日新斎、貴久の視線が集まる。
宗運は黙って読み、やがて言った。
「若君、越後へ無事着かれたとのこと」
場に、安堵が広がった。
ただし、それは数日前の報せである。
肥後から越後は遠い。
山もある。
海もある。
港を継ぎ、道を継ぎ、人の手を継いで、ようやく文は届く。
この文が告げる若君は、今の若君ではない。
数日前の若君である。
その数日の間に、何も起きていないと考える者は、この座にはいなかった。
宗運の眉間には、皺が寄ったままである。
日新斎が問う。
「それだけか」
「今のところは」
「ならば、まだ何も起きておらぬではないか」
宗運は、文を畳みながら答えた。
「若君が越後に着いた時点で、何かは起きます」
「断言するか」
「はい」
宗運は静かに言った。
「長尾景虎殿という方も、並の人物ではございませぬ。若君がそのような方と会い、何も起きぬはずがございません」
貴久が苦笑する。
「若君も若君なら、宗運殿も宗運殿ですな」
「私は、若君に鍛えられておりますゆえ」
宗運は平然と答えた。
日新斎はそこで、ふと思いついたように言った。
「宗運殿」
「はい」
「義久をつけましょう」
貴久が、少し驚いたように父を見る。
「義久を、ですか」
「うむ」
日新斎は頷いた。
「帳、蔵、道、市、警邏、学び所、間者。これらを見ずして、これからの島津は支えられぬ。宗運殿、義久を鍛えてやってくだされ」
宗運は、日新斎を見た。
その目に、わずかなありがたさが浮かぶ。
「それは、誠にありがたいことでございます」
「では」
「ですが、よろしいので?」
「何がじゃ」
「激務にございますぞ」
宗運は真顔で言った。
「朝は帳。昼は評定。夕は報告。夜は文。時に間者、時に米、時に病、時に寺社、時に若君の思いつき。義久殿が嫌になられぬかと」
日新斎は愉快そうに笑った。
「若君が無茶を言わなければ大丈夫でござろう」
宗運は、即座に答えた。
「それは無理ですな」
惟豊が吹き出した。
貴久も笑う。
日新斎は大きく頷いた。
「ならば、なおさら鍛えねばならぬ。無茶を言う主を支える術を、早いうちに覚えた方がよい」
「耳が痛うございます」
惟豊が言った。
「我が子ながら、無茶を言う」
「ただ、その無茶が国を動かします」
宗運は、少しだけ声を和らげた。
「ですから、困るのです」
◇
評定は続いた。
間者対策についても話し合われた。
陶隆房の目。
毛利の目。
三好の目。
松永の目。
琉球の目。
南蛮商人の目。
そして、これからは武田、長尾の目も増えるだろう。
日新斎は言った。
「若君の名が遠くへ伸びれば、目も遠くから来る」
「はい」
宗運は頷いた。
「寺社、港、市、学び所、商人宿。そこに目を置きます。こちらも、ただ見られるだけではございませぬ」
「こちらも見るか」
「見ます」
宗運の声は冷たい。
「若君が灯であるなら、その周りには影も要ります」
日新斎は満足げに頷いた。
貴久は、その言葉を静かに聞いていた。
惟種が外で大きなことをする。
そのたびに、阿蘇の灯は遠くまで届く。
だが、灯が遠くまで届けば、虫も人も敵も寄る。
その影を整える者がいる。
宗運である。
そして、これからは義久も、その影の一端を見ることになる。
貴久は、父の日新斎を見た。
日新斎は、笑っている。
だが、その目は遠くを見ていた。
島津の次を、阿蘇の次を、九州の次を。
◇
その日の評定が終わる頃、外は夕暮れであった。
赤い光が庭を照らしている。
宗運は、なお帳を閉じない。
次の文を読み、次の指図を書こうとしている。
惟豊は、その姿を見て言った。
「宗運」
「は」
「少しは休め」
「休んでおります」
「それは休んでおらぬ者の返事じゃ」
宗運は、少しだけ苦笑した。
「若君がお戻りになるまでに、できるだけ片づけておきとうございます」
「戻れば、また増えるぞ」
「承知しております」
「ならば、なぜ片づける」
「増える前に減らすしかございませぬ」
惟豊は、しばらく黙った。
それから、庭の夕日へ目を向けた。
「惟種は、よく働く」
「はい」
「そなたも、よく支える」
「それが役目にございます」
「役目か」
惟豊は、どこか遠い声で言った。
「阿蘇は、後継に恵まれた」
宗運は何も言わなかった。
日新斎も、貴久も黙っている。
惟豊は、続けた。
「だが、恵まれすぎたものは、時に家を押し広げる。押し広げられた家は、柱も梁も悲鳴を上げる」
夕風が、庭の木を揺らした。
「後継に恵まれて良かったのか、悪かったのか」
惟豊は、少しだけ笑った。
「さて、どうであろうな」
宗運は、静かに頭を下げた。
その胸の奥では、まだ胃がきりきりと痛んでいた。
阿蘇の若君は、遠く越後にいる。
今、どこで何をしているのか、こちらには分からない。
届いたのは、無事に着いたという数日前の報だけである。
だが、宗運には分かっていた。
若君は、きっと何かを背負って帰ってくる。
そしてその何かは、また帳となり、文となり、仕事となって、この阿蘇の館へ積まれるのだろう。
宗運は、閉じかけた帳をもう一度開いた。
留守居の夜は、まだ終わらない。




