第百八十六話 貴殿は何だ
「阿蘇惟種殿」
武田晴信が言った。
「別室にて、少しお話をよろしいか」
惟種は、心の底から嫌そうな顔をした。
またか。
また二人きりか。
公方様には碁で捕まった。
長尾景虎には港で連れ出された。
今度は武田晴信である。
絶対に面倒なやつだ。
しかし、ここは善光寺の座である。
ようやく調停の筋が立ったところであった。
ここで露骨に断れば、武田晴信の面子を潰す。
それは、この座そのものに傷をつける。
惟種は、腹の奥でため息をついた。
仕方ない。
礼を失わぬ程度に、受けるしかない。
「承知――」
「お待ちくださいませ」
横から、静かな声が入った。
鍋島種茂であった。
声は穏やかである。
だが、その目は笑っていない。
惟種は、思わず種茂を見た。
「種茂」
「若君」
種茂は一礼した。
「宗運殿より、厳命されております」
嫌な予感がした。
「厳命」
「はい」
種茂は、晴信へも丁寧に頭を下げた。
「恐れながら、若君を二人きりの場へお出しすることはできませぬ」
座に、わずかな沈黙が落ちた。
晴信が、少しだけ目を細める。
「宗運とやらは、ずいぶん心配性であるな」
晴信は笑った。
軽い笑いである。
だが、種茂は笑わなかった。
「心配性ではございませぬ」
「ほう」
「経験にございます」
その言葉に、惟種は視線を逸らした。
公方様との囲碁。
天元。
忠義。
甲斐の辺りが騒がしくてな。
宗運にこっぴどく叱られた一件が、ありありと思い出される。
晴信は、惟種の顔を見て、何かを察したように笑みを深めた。
「なるほど。阿蘇の若君は、目を離すと荷を背負って戻るらしい」
「否定できぬのが悔しい」
惟種は小さく呟いた。
種茂は続けた。
「少なくとも、某は同席させていただきます」
その口調は、穏やかだが固い。
引く気はない。
晴信は少しの間、種茂を見た。
鍋島種茂。
阿蘇家中にあって、若君を支える者の一人。
柔らかく見える。
だが、これは曲がらぬ。
晴信は、面白そうに頷いた。
「よかろう」
その時である。
「ならば、余も入ろう」
長尾景虎が言った。
惟種は、思わず景虎を見た。
入らなくてよい。
むしろ、入ると面倒が増える。
その気持ちが、少し顔に出た。
景虎はそれを見て、楽しげに笑った。
「何じゃ、その顔は」
「なんでもない」
「面白そうな話に、わしを外すことはあるまい」
「大いにある」
「聞こえたぞ」
「聞こえるように申した」
景虎は低く笑った。
晴信も、そのやり取りを見ていた。
阿蘇惟種と長尾景虎。
この二人は、すでに妙な距離にいる。
それもまた、晴信にとっては見逃せぬことであった。
すると、武田方から山本勘助が静かに口を開いた。
「ならば、某も控えさせていただきとうございます」
晴信は頷いた。
「よかろう」
こうして、別室での会談は五人となった。
阿蘇惟種。
鍋島種茂。
武田晴信。
山本勘助。
長尾景虎。
戸次鑑連は、納得していない顔で惟種を見ていた。
惟種は小さく頷く。
種茂がいる。
景虎もいる。
二人きりではない。
宗運への言い訳は立つ。
枕詞には『おそらく』が付くが…
◇
別室は、善光寺の一角に設けられていた。
余計な飾りは少ない。
外の座よりも狭い。
その分、互いの息遣いが近い。
惟種は、定められた座に座った。
右斜め後ろに種茂。
対するは晴信。
その後ろに勘助。
景虎は、少し横へずれた位置に座った。
どちらの側でもない。
だが、どちらからも見える。
実に厄介な場所である。
惟種は、礼を崩さなかった。
嫌そうな顔はした。
したが、座に入った以上、阿蘇の若君として座る。
ここでふざければ足元をすくわれる。
武田晴信は、間違いなく値踏みをしている。
善光寺の座で条件は整った。
真田の旧領は認めた。
村上にも痛みを飲ませた。
武田にも利を残した。
そのうえで、これ以上の侵攻には大義がないと線を引いた。
晴信は、それを飲んだ。
だが、納得しきったわけではない。
納得したのではなく、今は飲む方が利があると見ただけだ。
ならば、ここでの問いは、条件の確認ではない。
阿蘇惟種という人間の確認である。
惟種は、内心で息を整えた。
変な返しをすれば、足元をすくわれる。
余計なことを言えば、また荷が増える。
宗運。
今回は、ちゃんと二人きりではないぞ。
だから叱るのは半分にしてくれ。
「阿蘇殿」
晴信が口を開いた。
「此度の座、見事にまとめられた」
「公方様の御内書と、長尾殿、村上殿、武田殿のご判断あってのことにございます」
「謙遜か」
「事実にございます」
惟種は無難に返した。
晴信は笑った。
「では、事実として聞こう。貴殿は、何だ」
問いは短かった。
誰だ、ではない。
何だ。
人ではなく、現象を問うような言葉であった。
惟種は、返す言葉を見つけられなかった。
種茂が静かに息を呑む。
勘助の目が細くなる。
景虎の笑みが、少し深くなった。
善光寺の別室で、甲斐の虎は阿蘇の若君を見据えていた。




