第百八十五話 善光寺の座
天文二十年(一五五一年)九月
善光寺の地に、奇妙な座が設けられた。
仏前の地である。
刀の匂いを消すには都合がよい。
だが、集まった者たちの顔ぶれを見れば、そこに戦の気配がないなどとは、とても言えなかった。
武田方には、武田晴信が来ていた。
傍らに、武田信繁。
飯富虎昌。
山本勘助。
そして、真田幸綱。
村上方には、村上義清と楽巌寺雅方。
長尾方には、長尾景虎、宇佐美定満、斎藤朝信、柿崎景家、小島弥太郎。
そして、阿蘇方。
阿蘇惟種。
戸次鑑連。
島津義弘。
鍋島種茂。
新納忠元。
甲斐親英。
公方様の御内書を奉じる調停の座である。
表向きはそうであった。
だが実のところは、武田、村上、長尾、阿蘇が、互いの腹を探る場でもあった。
そもそも、武田晴信本人が善光寺へ出てくるとは、誰もが思っていたわけではない。
代人を立てることもできた。
信繁でもよい。
飯富虎昌でもよい。
真田幸綱を前に立てることもできた。
善光寺は、完全な武田の庭ではない。
村上の気配もある。
長尾の目もある。
それでも、晴信は来た。
公方様の御内書を軽んじぬためか。
村上義清の腹を見るためか。
長尾景虎の出方を測るためか。
あるいは、阿蘇惟種という十二の若君を見定めるためか。
そのどれもであろう、と惟種は思った。
そして、少しだけ足を止めた。
名前が重い。
あまりにも重い。
武田晴信。
のちに甲斐の虎と呼ばれる男。
その弟、武田信繁。
猛将、飯富虎昌。
異形の軍配者と噂される、山本勘助。
そして真田幸綱。
前世で遊んだ信長の野望ならば、なかなか凄そうな面々である。
統率。
武勇。
知略。
政。
どの数値を見ても、油断できる顔ぶれではない。
惟種は、一瞬だけ腹の奥が重くなった。
うわ。
武田勢が濃い…。
当然である。
だが、次に自分の後ろを見た。
戸次鑑連がいる。
島津義弘がいる。
新納忠元がいる。
鍋島種茂がいる。
甲斐親英がいる。
そのうえ、今日の座には長尾景虎もいる。
さらに斎藤朝信、柿崎景家、小島弥太郎まで控えている。
後に鬼小島と呼ばれる男は、この頃からすでに人というより岩のような気配があった。
惟種は、ふと思った。
あれ。
こちらも大概ではないか。
いや、むしろこっちの方がおかしいまであるのではないか。
惟種の腹が、すっと据わった。
あんまり調子に乗るなよ、甲斐の虎。
内心でそう呟いた。
すると、不思議と背が伸びた。
戸次鑑連が、その気配を見てわずかに頷く。
新納忠元の目にも、満足げな色が浮かぶ。
島津義弘は、若い目を輝かせていた。
鍋島種茂は、穏やかに微笑む。
甲斐親英は、表情を変えず周囲の出入口と人の流れを見ている。
阿蘇家臣団は思った。
若君が腹を据えられた。
さすがである、と。
惟種本人の内心が、ゲーム基準の比較に近かったことは、誰も知らない。
◇
座が始まった。
まず、公方様の御内書が示された。
武田晴信も、村上義清も、長尾景虎も、それを軽んじることはしなかった。
表向きだけでも、公儀の座である。
善光寺の地である。
ここであまりに無礼を見せれば、後の名に響く。
晴信は静かに座っていた。
顔は若い。
だが、目は若くない。
人を測る目である。
惟種もまた、晴信を見た。
晴信の横には、武田信繁が控えている。
落ち着いた気配の男だった。
飯富虎昌は、座っているだけで武の匂いが強い。
山本勘助は片目を伏せるようにしながら、こちらを見ている。
視線がいやらしい。
真田幸綱は、静かである。
静かすぎる。
こういう男が一番怖い。
惟種がそう見ていると、武田方もまた惟種を見ていた。
十二の若君。
だが、怯えていない。
名将だらけの座に入って、一瞬だけ目を伏せた。
かと思えば、すぐに何かを数え直したように顔を上げた。
その目には、妙な余裕がある。
値踏みされている。
そう感じた者もいた。
晴信は、内心で思った。
これが阿蘇の鬼童か。
山本勘助は、目を細めた。
童の皮を被った何か。
そう見えた。
真田幸綱は、惟種の後ろに控える者たちを見た。
戸次鑑連。
新納忠元。
島津義弘。
彼らは、若君が怯まぬことを当然としている。
これは、ただの遠国の使者ではない。
武田方の空気が、わずかに慎重になる。
惟種は、それを見て思った。
なんか、効いている。
理由はよく分からないが、効いているなら良い。
◇
最初に口を開いたのは、惟種であった。
「此度の座は、公方様の御内書に基づくものにございます」
声は静かだった。
「武田殿、村上殿、長尾殿。皆、それぞれに義があり、理があり、面子がございます。ゆえに、ここで全てを一方へ返すことはできませぬ」
村上義清の顔が、少し硬くなる。
晴信は動かない。
「まず、真田殿の旧領について」
惟種は、真田幸綱を見た。
「真田郷、砥石、その周辺については、真田殿の領として確定させます」
村上方に、低いざわめきが走った。
楽巌寺雅方が、義清へ目を向ける。
義清は目を閉じなかった。
苦い顔である。
だが、すでに越後で話をしている。
ここで初めて聞いた顔はしない。
晴信の目が、少しだけ動いた。
真田幸綱は静かに頭を下げる。
「ありがたき沙汰にございます」
「ただし」
惟種は続けた。
「これは真田旧領回復の範囲を定めるもの。武田殿がこれをもって、さらに村上領へ押し込むことを認めるものではございませぬ」
晴信が、初めてはっきり惟種を見た。
「阿蘇殿」
「はい」
「真田の旧領を認める。これはよい。だが、そこから先を禁じるというのは、武田の兵を縛ることになる」
「縛ります」
惟種は即答した。
座が少し張った。
「この座は、そのための座にございます。武田殿の理は、真田旧領回復にあります。ならば、その理の範囲を定めねばなりませぬ」
「範囲を越えれば」
晴信の声は穏やかである。
だが、内側に刃があった。
「武田が不義になると」
「はい」
惟種は退かなかった。
「そのかわり、村上殿にも痛みを飲んでいただきます。真田領を認める。砥石をただちに返せとは申さぬ。これは村上殿にとって、軽い痛みではございませぬ」
義清は黙っている。
「その痛みと引き換えに、武田殿には、これより先の押し込みを止めていただく」
晴信は、しばらく黙った。
やがて、真田幸綱を見た。
幸綱は、静かに一礼する。
晴信にとって、これは悪い条件ではない。
真田の功は認められる。
砥石も真田郷も得られる。
村上に全て返せと言われるわけではない。
ただし、そこから先を縛られる。
不快である。
だが、公方様の御内書、長尾景虎、阿蘇惟種、村上義清が同じ座にいる場で、完全に蹴るには少し重い。
「永き約は腐る」
晴信が言った。
惟種は、黙って聞いた。
「明日も十年後も同じ境目など、誰が信じる。国人は動く。米は実る。飢饉も来る。人も死ぬ」
「おっしゃる通りにございます」
「ならば、いつまで縛る」
晴信の目が、惟種を射た。
「永久の不可侵など、戯れ言であろう」
村上義清の顔が険しくなる。
だが、惟種は頷いた。
「三年」
晴信の眉が、わずかに動いた。
「三年にございます」
「三年」
「はい。三年の不戦。その間、真田領と村上領の境目を乱さず、刈田、拉致、田畑荒らしを禁じる。三年後、改めて善光寺にて境目を確認する」
晴信は、目を細めた。
「三年なら、武田が飲むと思うたか」
「十年なら飲まれませぬ。一年なら村上殿が飲めませぬ」
惟種は静かに答えた。
「三年は、痛みを意味に変えるための年にございます」
晴信は、少しだけ笑った。
「言う」
「言わねば座が成りませぬ」
景虎が、口の端を上げた。
義清は苦い顔のままだったが、異は唱えなかった。
三年。
短い。
だが、村上が息を継ぐには十分な時でもある。
◇
次に、婚姻の話が出た。
「村上殿と真田殿の間に、婚姻を結ぶことはできませぬか」
晴信の顔が、すぐに変わった。
「それは飲めぬ」
早かった。
きっぱりしていた。
惟種は、内心で思った。
だろうな。
晴信は続けた。
「真田は武田の家臣として働き、旧領を回復した。その真田に、村上と血を結べと言う。それは、真田をどちらへ向かせるおつもりか」
「境目の血を薄めるためにございます」
「火に油を注ぐことにもなりましょう」
「承知しております」
惟種はあっさり認めた。
「では、婚姻は今は棚上げといたしましょう」
晴信の眉が、少しだけ動いた。
あまりに引きが早い。
山本勘助が、惟種の顔を見た。
試しに出したか。
そう思った。
惟種は続ける。
「血で結べぬなら、仏前で目を置きます」
「目」
「善光寺、またはそれに連なる寺へ、村上方、真田方より人を預ける。人質とは呼びませぬ。境目の争いを見届ける使僧、あるいは若党として置く」
村上義清が、晴信を見る。
晴信も義清を見る。
どちらも快くはない。
だが、婚姻よりは軽い。
人質よりも名が柔らかい。
寺に預けるなら、仏前の顔も立つ。
楽巌寺雅方が、低く義清に何かを囁いた。
義清は渋い顔のまま頷いた。
「村上は応じる」
晴信は、しばらく黙った。
そして、真田幸綱を見た。
「幸綱」
「は」
「どう見る」
「真田の旧領が確定され、境目での余計な刈田、拉致が禁じられるならば、悪き話ではございませぬ」
幸綱は淡々と答えた。
「ただし、寺へ置く人は、互いに顔の立つ者でなければなりませぬ。軽すぎれば意味がなく、重すぎれば人質と見られます」
晴信は頷いた。
「よかろう」
その一言で、座の空気が少し動いた。
婚姻は拒否。
だが、寺への預け人は成立する。
惟種は、胸の内で小さく息を吐いた。
一つ進んだ。
◇
次は、流通の道であった。
ここで惟種は、少し声を整えた。
「兵の道は止めます。ですが、荷の道は塞ぎませぬ」
晴信の目が鋭くなる。
義清も同じである。
「佐久、小県、善光寺、越後へつながる荷の道。塩、馬、布、鉄、紙、薬、酒。その流れを守ります」
景虎が、惟種を見る。
面白そうな目である。
「武田殿が兵を止める代わりに、商いの道は閉じませぬ。村上殿も、その荷を妨げぬ。長尾殿は、その道の北を守る。阿蘇は文と商人を通じ、道の約を支えます」
晴信は、初めてわずかに考え込む顔をした。
領土をこれ以上押せない。
それは不満である。
だが、荷の道が開くなら利がある。
信濃へ手を伸ばす理由の一つは、道である。
武田にとって、商いの道を完全に閉じられるよりは、兵を一時止めても荷が動く方がましだ。
だが、晴信は簡単には頷かなかった。
「荷の道を守ると言う」
「はい」
「だが、その道を誰が測る」
惟種は、少しだけ目を細めた。
「帳にございます」
晴信の口元に、薄い笑みが浮かんだ。
「帳は焼ける」
「ならば、同じ帳を三つ置きます」
「三つ」
「善光寺に一つ。武田に一つ。村上に一つ。長尾殿にも写しを置く。荷の出入り、預け人、境目の訴え、刈田、拉致の訴えを、それぞれ記します」
「阿蘇には置かぬのか」
「阿蘇が持てば、遠すぎます。写しは受けましょう。ですが、この地で動く帳は、この地に置くべきにございます」
晴信の目が、少しだけ変わった。
「面倒な童だ」
「面倒にしなければ、破られます」
惟種は平然と返した。
「一つの帳なら焼けます。二つなら片方が嘘をつきます。三つ四つあれば、嘘の形が見えます」
山本勘助が、片目を細めた。
真田幸綱も、わずかに惟種を見る。
この若君は、戦を帳で縛ろうとしている。
馬鹿げている。
だが、馬鹿げているからこそ、厄介だった。
惟種はさらに言った。
「ただし、この約を破った者には、大義はございませぬ」
座の空気が重くなる。
「真田旧領回復の範囲を越えて攻め込めば、武田殿に大義はなくなる。境目の荷を襲い、田畑を荒らし、預け人を軽んじれば、村上殿にも大義はございませぬ。長尾殿が座を守る名を借りて過ぎた兵を動かせば、それも同じ」
景虎が少し笑った。
「わしにも刃を向けるか」
「座にいる者全てにございます」
惟種は言った。
「この約を破れば、大義は相手に移ります。その場合、相応の罰を受ける。その文言を入れます」
晴信の顔は、あまり良くなかった。
当然である。
武田が縛られる。
しかも、公儀、長尾、阿蘇、村上の前で文言に残る。
ただし、晴信だけが縛られるわけではない。
村上も、長尾も、同じ座に置かれる。
晴信は、山本勘助へ目を向けた。
勘助は、ほんのわずかに頷いた。
次に信繁を見る。
信繁も静かに頷く。
飯富虎昌は不満そうであったが、異を唱えるほどではない。
真田幸綱は、目を伏せていた。
晴信は、ゆっくりと息を吐いた。
「三年だ」
惟種は頷く。
「三年にございます」
「三年、兵は止める。だが、荷の道は止めぬ。真田の旧領は認める。寺へ人を置く。境目の刈田、拉致は禁じる」
「はい」
「三年後、また善光寺で境目を改める」
「そのように」
晴信は、しばらく惟種を見ていた。
そして、低く言った。
「よかろう」
村上義清の顔が硬いまま動く。
景虎は、静かに頷いた。
宇佐美定満も、すぐに文案を整えるため筆を取る。
交渉は、思いのほか進んだ。
誰も完全には満足しない。
だが、誰も完全には損をしない。
真田は旧領を得る。
武田は真田の功を守り、荷の道を得る。
村上は痛みを飲む代わりに、これ以上の侵攻を止める線と長尾の後ろ盾を得る。
長尾は、義を立てる場を得る。
阿蘇は、公方様の御内書を形にできる。
つまり、座としては悪くない。
惟種は内心で思った。
なんか、うまくいっている。
これは早く帰れるのではないか。
◇
しかし、武田方の目は、なお惟種へ注がれていた。
晴信は、幼い若君を見ていた。
十二の子ども。
だが、この座で一歩も引かない。
真田の旧領は認める。
村上にも痛みを飲ませる。
武田にも利を与える。
そのうえで、これ以上進めば大義はないと線を引く。
三年という期限を置き、帳を三つ四つに分け、仏前に人を置く。
ただの理想家ではない。
ただの公方様の使いでもない。
大義と利を、同じ盆に載せてくる。
晴信は思った。
面白い。
そして厄介だ。
山本勘助も、惟種を見ていた。
童の目ではない。
だが、老成しているだけでもない。
時折、どこか遠いものを見る。
それが不気味であった。
真田幸綱は、静かに感じていた。
この若君は、真田の理を殺さなかった。
だが、武田の先を縛った。
村上を救ったようで、村上にも痛みを飲ませた。
見事というべきか。
恐ろしいというべきか。
一方で、阿蘇側は平然としていた。
戸次鑑連は、惟種の背を見ている。
若君は、場を押さえられた。
新納忠元は、満足げに頷く。
やはり若君は、こういう座で妙な強さを見せる。
島津義弘は、惟種をまぶしそうに見ている。
鍋島種茂は、少しだけ笑っていた。
甲斐親英は、帰りの風を考えていた。
長尾景虎は、口の端を上げている。
善光寺の座は、ひとまず成った。
そう見えた。
◇
文言の細部が整えられた。
三年の不戦。
真田領の範囲。
境目での刈田、拉致、田畑荒らしの禁止。
寺への預け人。
荷の道の保護。
兵の押し込み禁止。
善光寺、武田、村上の帳と、長尾の写し。
三年後、改めて善光寺にて境目を確認すること。
約を破った時、大義が相手へ移ること。
相応の罰を受けること。
すべてが重い。
だが、これならば各家が持ち帰れる。
晴信は、最後に筆を置いた。
そして、惟種へ目を向ける。
「阿蘇惟種殿」
「はい」
「別室にて、少しお話をよろしいか」
惟種は、固まった。
またか。
また二人きりか。
公方様に碁でやられた。
長尾景虎には港で連れ出された。
今度は武田晴信である。
これは絶対に面倒なやつだ。
宗運の顔が、頭に浮かんだ。
若君、なぜ二人きりになられたのです。
いや、今回はまだなっていない。
これからである。
だから断ればよい。
断れるか。
相手は武田晴信である。
ここで露骨に断れば、今まとまった座の空気に傷がつく。
惟種は、心の底から嫌そうな顔をした。
晴信は、それを見て少しだけ笑った。
長尾景虎も、楽しげに笑った。
戸次鑑連は、背後で深く息を吐いた。
善光寺の座は、まだ終わっていなかった。




