第百八十四話 義の境目
天文二十年(一五五一年)九月
越後に着いてから、数日が過ぎた。
惟種は、まだ越後にいた。
帰りたい。
毎朝、そう思っている。
だが、帰れない。
公方様の御内書を奉じて来た以上、文だけ出してすぐ船に乗るわけにもいかなかった。
まず、武田晴信へ文を出した。
公方様の御内書に、阿蘇の副状を添える。
さらに、長尾景虎の名も加えた。
武田晴信と村上義清の争いについて、幕府の座を置く。
場所は、善光寺。
武田の城でも、村上の城でも、長尾の城でもない。
仏の前である。
時は、天文二十年九月中旬。
武田晴信には、使者またはしかるべき代人の出座を求める。
公方様の御内書である。
無視はしづらい。
だが、武田晴信は、ただの荒武者ではない。
利を見て、名を見て、兵を見て、必要ならば黙って踏み越える男であろう。
だからこそ、長尾景虎の名を添えた。
越後が調停座を支える。
村上義清が公儀へ訴える道を、長尾が守る。
そう書けば、武田も少しは考える。
少しは。
たぶん。
惟種は文を見下ろしながら思った。
ここまでやった。
阿蘇としては、かなりやった。
東国の山と川は、東国の者が背負ってほしい。
しかし、隣に座る長尾景虎は、そんな腹など見透かしているような顔をしていた。
「若君」
「何だ」
「また、早く帰りたいという顔をしておる」
「顔に出ているか」
「出ておる」
「困ったな」
「困るほど隠しておらぬ」
景虎は、低く笑った。
港での大笑いとは違う。
だが、あの笑いの名残がある。
「長尾殿も、よく分かるようになってきたな」
「そなたほど分かりやすい者も珍しい」
「宗運にも同じようなことを言われる」
「その宗運とやら、苦労しておろう」
「している」
惟種は即答した。
景虎は、また笑った。
宇佐美定満は、横で静かに文箱を見ている。
武田への文。
村上への文。
景虎が「そなたを信じよう」と言った以上、越後も動く。
その細部を整えるのは、宇佐美の役目であった。
宇佐美定満は、阿蘇の若君を改めて見る。
十二の子ども。
だが、文の筋は鋭い。
人の腹も見る。
そして、ときどき何も考えていないような顔をする。
意味が分からぬ。
阿蘇とは、やはり意味の分からぬ家であった。
◇
村上義清への文も出した。
こちらは、武田への文より少し柔らかい。
公儀の座を設けること。
場所は善光寺であること。
長尾景虎がその道を守ること。
阿蘇惟種が公方様の御内書を奉じ、調停の言葉を整えること。
そして、村上義清にも出座を求めること。
文を出して数日後。
思ったよりも早く、村上義清が越後方の館へ姿を見せた。
大勢ではない。
少数である。
しかも、密行に近かった。
村上義清は、長尾に泣きついたと思われたくない。
公儀に訴えるとしても、面子がある。
だから少数で入り、惟種と景虎に直に会い、調停の筋を整えようとしたのである。
「早いな」
「それだけ急いておるのでしょう」
宇佐美定満が言った。
「村上殿としても、砥石を失ったまま座に出るのは苦しい」
景虎は静かに頷いた。
「義清は面子のある男じゃ。だが、面子だけで国は守れぬ」
「それはそうだ」
惟種は頷いた。
「では会おう」
◇
村上義清は、疲れていた。
だが、弱ってはいなかった。
体は大きく、目には力がある。
武田晴信を相手に一歩も引かず戦ってきた男である。
その気配は、座っただけで分かった。
義清は、まず深く頭を下げた。
「長尾殿。阿蘇殿。このたびのご配慮、かたじけない」
景虎は、静かに受けた。
「村上殿が公儀へ訴える道、越後は守る」
義清の目が、わずかに揺れた。
「ありがたきことにございます」
次に義清は、惟種へ向いた。
「阿蘇殿も、遠く九州よりこのようなことへお力添えいただき、感謝いたす」
「公方様の御内書を奉じておりますゆえ」
惟種は丁寧に返した。
「阿蘇としても、公儀の座を軽んじるわけには参りませぬ」
義清は頷き、すぐに本題へ入った。
「我が願いは明らかにございます」
「伺います」
「小県郡の返却。そして、武田の不可侵」
義清の声には、強いものがあった。
「晴信は、先代以来の筋を軽んじ、信濃へ押し込んだ。砥石をめぐる戦も、真田の旧領回復などと申しておるが、結局は武田の押し込みにございます」
義清の手が、膝の上で握られる。
「このままでは、武田は小県を足場にさらに進む。公儀の座にて、まず小県を返させ、以後の不可侵を定めていただきたい」
もっともである。
村上義清から見れば、当然の願いであった。
武田が攻めてきた。
村上が防いだ。
砥石を奪われた。
返せ。
これ以上入るな。
義は、村上にある。
惟種にも、それは分かる。
しかし、義だけでは座は成らない。
惟種は、景虎を見た。
景虎も、惟種を見た。
ほんの短い間である。
だが、それで十分だった。
景虎が口を開いた。
「村上殿」
「は」
「真田の旧領は、認めねばならぬ」
義清の顔が強ばった。
「長尾殿」
声が低くなる。
「それでは、武田の言い分を認めることになる」
「違う」
景虎は即座に言った。
「武田の押し込みを認めるのではない。真田の旧領回復を、そこまでと定める」
義清は黙った。
「砥石、真田郷、その周辺。真田幸隆が旧領と申す地をすべて否定すれば、武田は座に出ぬ。真田も引くまい」
景虎の声は硬い。
「だが、そこを認めたうえで、これより先を禁じるならば、武田から大義を削げる」
義清の眉間に皺が寄る。
惟種が続いた。
「村上殿の義は分かります」
義清が、惟種を見る。
「武田が信濃へ手を伸ばした。先代以来の筋を破り、村上殿の領へ圧をかけた。その義は、村上殿にあります」
「ならば」
「ですが、真田の旧領回復という理を、完全に消すことはできませぬ」
惟種は静かに言った。
「真田幸隆が砥石を取った。武田は家臣の功を捨てられませぬ。ここで砥石を返せと言えば、武田は座そのものを蹴るでしょう」
「では、我らだけが痛みを飲めと」
「はい」
惟種は、あえてはっきり言った。
義清の目が鋭くなる。
「村上殿にも、痛みを飲んでいただきます」
「阿蘇殿」
「ただし、その痛みには意味をつけます」
義清は黙った。
「小県郡すべてを返せとなれば、真田だけでなく、海野、禰津、望月の旧縁まで掘り返すことになります。誰がどこまで旧領を持ち、誰が誰に従い、どの筋で奪われたか。そこまで開けば、座は調停ではなく、古傷の掘り返しになります」
義清の顔が、苦く歪んだ。
「では、小県を捨てよと」
「すべてを捨てよとは申しませぬ」
惟種は首を振った。
「真田の領地を確定させるのです。武田には、真田旧領回復をもって大義の限りとさせる。その先へ進めば、もはや旧領回復ではない。明白な侵攻です」
惟種は、景虎へ目を向けた。
「その時は」
景虎が頷く。
「越後が村上殿の後ろに立つ」
部屋の空気が重くなった。
村上義清は、ゆっくりと景虎を見た。
「長尾殿」
「公儀へ訴える道は守ると申した」
景虎の目は揺れない。
「調停の座を踏みにじり、なお信濃へ押し込むならば、それは義なき刃じゃ」
義清は、深く息を吐いた。
欲しいもの全ては得られない。
小県郡すべての返却は難しい。
砥石も、真田郷も、戻らぬかもしれない。
だが、代わりに得るものがある。
長尾景虎の後ろ盾。
公儀の座。
阿蘇の副状。
武田の大義を、真田旧領回復の範囲に閉じ込める理。
これは、負けだけではない。
痛みを伴うが、次を止めるための線である。
◇
「婚姻はどうでしょう」
惟種が、さらりと言った。
義清が目を上げた。
「婚姻」
「村上と真田の間で、血を結ぶ。互いに境目を荒らさぬ証とする」
景虎は少しだけ目を細めた。
宇佐美定満も、すぐに考え込む。
義清は渋い顔をした。
「真田と、か」
「難しいのは承知しております」
惟種は言った。
「ですが、血を結べば道は残ります。武田も、村上も、真田も、境目で無駄な血を流しにくくなる」
「武田が飲むまい」
景虎が言った。
「真田幸隆を己が手元へ引き寄せたばかりじゃ。村上と血を結ばせるなど、晴信が喜ぶはずがない」
「でしょうな」
惟種はあっさり認めた。
「ならば、次善です」
「次善」
「人を預けます」
義清が眉を寄せる。
「人質か」
「人質と呼べば角が立ちます。仏前の証人にございます」
惟種は言った。
「互いの若党、あるいは僧形の使者を、善光寺へ預ける。村上の手にも、真田の手にも置かない。仏前に置き、公儀の座の証とする」
「それで武田が飲むか」
「婚姻よりは、飲みやすいでしょう」
惟種は続けた。
「婚姻が無理なら、道を結ぶ。市を開く。荷を通す。刈田、拉致、田畑荒らしを禁じる。真田領と村上領の境目で、互いの民が暮らせるようにする」
「武田に利を与えるのか」
義清の声は苦い。
「利を与えねば、武田は兵を止めませぬ」
惟種は言った。
「兵の道ではなく、荷の道です。佐久、小県、善光寺、越後へつながる商いの道。塩、馬、布、鉄、紙、薬、酒。これを止めぬ」
景虎が、感心したように惟種を見る。
「兵を止める代わりに、荷は通すか」
「はい」
「晴信は食いつくかもしれぬ」
「食いついてもらわねば困ります」
惟種は苦く笑った。
「武田晴信殿は、義だけでは動かぬでしょう。ならば、理と利を置きます」
義清は、しばらく黙っていた。
怒りと理が争っているのが見えた。
村上義清は、強い。
だからこそ、痛みを飲むのは難しい。
しかし、ここで全てを求めれば、何も得られない。
武田は座に出ない。
真田は引かない。
公儀の座は空回りする。
そうなれば、村上は再び一人で武田と向かい合うことになる。
義清は、ゆっくりと息を吐いた。
「阿蘇殿」
「はい」
「それで、本当に武田を止められるか」
「止めきれるとは申しませぬ」
惟種は正直に答えた。
「ですが、止める筋は作れます」
「筋」
「武田が真田旧領回復を掲げるなら、その範囲を定める。そこから先は義なき侵攻とする。荷の道を与え、兵を止める理由を作る。村上殿には長尾殿の後ろ盾を置く。そして公儀の座を立てる」
惟種は、声を少し低くした。
「これを破るなら、武田晴信殿は、公儀、長尾、阿蘇をまとめて軽んじたことになります」
義清の目が細くなる。
「阿蘇も、介入なされると」
「その時は」
惟種は、わずかに笑った。
「文だけで済むとは限りませぬ」
嘯きである。
阿蘇が東国へ大軍を出す気など、今の惟種にはない。
だが、武田にそれを知らせる必要はない。
阿蘇には船がある。
銭がある。
大筒がある。
商人への筋がある。
幕府への顔がある。
その阿蘇が「次は文だけでは済まぬ」と言えば、完全な虚言には聞こえまい。
景虎が、口の端をわずかに上げた。
嘘ではない。
だが、かなり膨らませている。
それを景虎は感じ取ったらしい。
それでも、止めない。
義清は、深く頭を下げた。
「……分かりました」
声には、悔しさがあった。
「真田の旧領を、一定の範囲で認める。その代わり、これより先の武田の押し込みを止める。公儀の座にて、その筋を立てる」
「はい」
「長尾殿は、我らの後ろに立ってくださる」
「立つ」
景虎は即答した。
義清は、もう一度深く頭を下げた。
「ぜひに、お願いしたい」
◇
話が終わった後、しばらく沈黙があった。
義清は疲れた顔をしていた。
だが、来た時よりも目は定まっている。
全てを取り戻す道ではない。
しかし、滅びへ押し込まれぬ道は見えた。
義。
それは美しい言葉である。
だが、義だけで座は成らない。
理が要る。
利も要る。
痛みも要る。
惟種は、そう考えていた。
景虎もまた、同じように感じているようだった。
景虎の義は、曲がったものを許さない。
惟種の義は、筋を立てて人を生かす。
似ている。
だが、同じではない。
「若君」
景虎が言った。
「なんだ」
「そなたの義は、ずいぶん帳臭いな」
「長尾殿の義は、ずいぶん刀臭い」
景虎は、一瞬黙った。
そして笑った。
義清も、少しだけ口元を緩めた。
宇佐美定満は、静かに目を伏せる。
阿蘇の若君と越後の主。
義を見る目は違う。
だが、今は同じ座を作ろうとしている。
それでよい。
全てを同じにする必要はない。
惟種は、ゆっくりと言った。
「義とは、どこまでを救い、どこからを飲ませるか」
景虎は、その言葉を聞いて、深く頷いた。
「ならば、此度の座で見せてもらおう」
「できれば、穏やかに済ませたいところだ」
「武田晴信相手にか」
「……難しいな」
「難しい」
景虎は、楽しげに笑った。
惟種は、少しだけ遠い目をした。
九月中旬。
調停座は、善光寺に置かれる。
武田晴信がどう出るか。
真田幸隆がどう動くか。
村上義清がどこまで痛みを飲めるか。
長尾景虎がどこまで義を背負うか。
そして阿蘇惟種が、どこまで関わらずに帰れるか。
どれも、まだ分からない。
ただ一つ、決まったことがある。
村上義清の後ろには、長尾景虎が立つ。
それだけで、東国の盤面は少し変わった。




