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火の山の若君は、未来を夢に見る ~阿蘇家嫡流の若君、名臣甲斐宗運と乱世を切り拓く~  作者: アトラス


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第百八十三話 智と明

「長尾景虎」


 惟種の声が、座敷に落ちた。


「お前では無理だ」


 空気が止まった。


 長尾家の家臣たちは、声を失った。


 阿蘇家の者たちも、さすがに息を詰める。


 戸次鑑連の足が、わずかに動いた。


 新納忠元の目が細くなる。


 島津義弘は、若さゆえか怒りとも驚きともつかぬ顔をした。


 鍋島種茂は、静かに惟種の背を見ている。


 宇佐美定満は、表情を動かさなかった。


 だが、その内心は穏やかではなかった。


 阿蘇惟種は、長尾景虎に向かって言った。


 お前では無理だ、と。


 これは一歩間違えれば、外交の座が壊れる。


 いや、壊れるどころではない。


 越後の主を、他国の若君が真正面から否定したことになる。


 誰かが息を飲んだ。


 誰かの指が、膝の上で震えた。


 だが、景虎は動かなかった。


 眉間の皺は深い。


 眼光は鋭い。


 しかし、その奥に、何か別の光が浮かんでいる。


 怒りではない。


 いや、怒りもある。


 だが、それだけではない。


 景虎は、ゆっくりと口を開いた。


「わしでは、奈落を治められぬか」


 声は低かった。


「今の長尾殿では、難しゅうございます」


 惟種は、そう返した。


 今の。


 その言葉に、景虎の目が少しだけ動いた。


「今の、か」


「はい」


「わしが弱いからか」


「いいえ」


 惟種は首を振った。


「強すぎるからにございます」


 景虎は、黙った。


 長尾家の家臣たちも、阿蘇家の者たちも、言葉の意味を測りかねている。


 惟種は続けた。


「長尾殿は、己が強く、己が潔く、己が義にまっすぐであるがゆえに、周りが長尾殿へ寄りかかります」


「寄りかかる」


「はい。長尾殿が裁く。長尾殿が怒る。長尾殿が許す。長尾殿が義を示す。そうなれば、皆、長尾殿の顔を見るようになります」


 惟種は、景虎の眉間の皺を見た。


「その顔が曇れば、国が揺れる。その顔が怒れば、家臣が震える。その顔が消えれば、残った者は何を見ればよいのか分からなくなる」


 景虎は答えない。


「もっと人を信じなされ」


「信じておる」


「もっと任せなされ」


 景虎の目が、鋭くなった。


「家臣を軽んじておると申すか」


「違います」


 惟種は即座に否定した。


「長尾殿は家臣を軽んじてはおられませぬ。むしろ、大事に思っておられるのでしょう」


 宇佐美定満の目が、わずかに動いた。


「ですが、大事に思うことと、任せることは違います。信じることと、背負わせることも違います」


 惟種は、自分の膝の上へ目を落とした。


 そこに、碁石はない。


 しかし、あの天元の黒石を思い出す。


 中心に置いた石。


 すべてを自分で回そうとすれば、盤は狭くなる。


「長尾殿の義を、長尾殿一人の胸に閉じ込めてはなりませぬ」


 惟種は顔を上げた。


「宇佐美殿に分ける。家臣に背負わせる。役に落とし、帳に移す。そうしなければ、長尾殿が疲れた時、越後も疲れます」


 景虎は、宇佐美定満へ一瞬だけ目を向けた。


 宇佐美は、深く頭を下げたまま動かない。


 惟種はそれを見て、少しだけ息を吐いた。


「わしは、長尾殿を嫌っているわけではございませぬ」


 景虎が、再び惟種を見る。


「港でお会いした時、わしは長尾殿を嫌だとは思いませなんだ」


 宇佐美の肩が、ほんのわずかに揺れた。


 港。


 その言葉だけで、何を指しているかは十分であった。


 惟種は続けた。


「面白い方だと思いました。危ない方だとも思いました。だが、嫌ではなかった」


「ほう」


「だからこそ、申し上げております」


 惟種は、まっすぐ景虎を見た。


「そのままでは、越後が長尾景虎を食います」


 座敷に、深い沈黙が落ちた。


 景虎は目を閉じなかった。


 怒りも、笑いも、表に出さない。


 ただ、じっと惟種を見ている。


 やがて、景虎は小さく息を吐いた。


「老子に言葉がある」


 景虎の声が、少し変わった。


 低いままだが、先ほどまでの圧だけではない。


「人を知る者は智、自ら知る者は明」


 惟種は黙って聞いた。


「人に勝つ者は力有り、自ら勝つ者は強し」


 景虎は、そこで口の端をわずかに上げた。


 それは笑みだった。


 だが、港での大笑いではない。


 細く、鋭く、どこか皮肉を含んだ笑み。


 国主の面の下から、倉陰で奈落と笑った男が少しだけ顔を出したようだった。


「そなたは、人を知る目を持つらしい」


 景虎は言った。


「そして、己を知る目も少しはある」


「少しにございますか」


「少しじゃ」


 景虎は、ニヤリと笑った。


「そなたも、己を過信しておるところがある」


「否定はできませぬ」


「だが、己一人では国を治められぬことを知っておる。そこは悪くない」


 惟種は、少しだけ肩の力を抜いた。


 斬られなかった。


 少なくとも、言葉では。


 景虎は続ける。


「わしを斬りに来たのではないな」


「斬る腕はございませぬ」


「口では斬った」


「少し、刃が滑りました」


「滑った刃にしては、深く入ったぞ」


 景虎の声には、わずかな楽しげな響きがあった。


 長尾家の家臣たちは、ようやく息を取り戻した。


 宇佐美定満は、内心で驚いていた。


 まさか。


 このような問答で、殿の腹に届くとは。


 景虎は潔癖である。


 義に熱い。


 神仏を背負い、自らを律し、曲がったものを許せない。


 それは長尾家を支える力であると同時に、景虎自身を削る刃でもあった。


 宇佐美は、それを近くで見てきた。


 止められぬことも知っている。


 言えば、景虎は笑うか怒るか、あるいは聞き流す。


 だが、阿蘇の若君は違った。


 初対面で。


 他国の座で。


 奈落の政という奇妙な言葉に隠しながら、景虎のもっとも痛いところへ手を伸ばした。


 そして、景虎はそれを聞いた。


 宇佐美は、惟種を見る。


 十二の若君。


 だが、ただの子ではない。


 まこと、阿蘇は意味の分からぬ家である。


     ◇


 景虎は、ゆっくりと姿勢を正した。


「阿蘇惟種」


「はい」


「此度は、そなたを信じよう」


 その言葉に、宇佐美定満がはっきりと目を見開いた。


 長尾家の家臣たちも、わずかにざわつく。


 景虎は、手を上げてそれを静めた。


「武田と村上のこと。公方様の御内書を軽んじるわけにはいかぬ。村上義清が公儀へ訴える道、越後が守ろう」


 惟種は、頭を下げた。


「ありがたきことにございます」


「調停の座を設けるなら、越後はその座を支える。武田晴信が座を踏みにじるなら」


 景虎の目が鋭くなる。


「その時は、また別の話じゃ」


 その言葉は、静かだった。


 だが、部屋の者全てに伝わった。


 これは、村上義清の後ろに長尾景虎が立つということだ。


 表向きは、公儀の調停への協力である。


 だが、武田晴信から見れば違う。


 村上が単独で訴えるのではない。


 長尾が、その道を守る。


 武田は無視しづらくなる。


 惟種は、胸の内でひそかに息を吐いた。


 よし。


 これでよい。


 正直に言えば、東国の山と川がどう裂けようと、惟種の第一ではない。


 阿蘇が見るべきは九州であり、西国であり、まだ根の浅い土地である。


 日向。

 大隅。

 府内。

 琉球。

 陶。

 毛利。

 博多。


 学び所。

 警邏方。

 薬。

 帳。

 道。


 そこに比べれば、信濃の山奥で武田と村上がどれほど睨み合おうと、惟種にとっては遠い火であった。


 もちろん、公方様の御内書を受けた以上、無視はできない。


 阿蘇は幕府への忠義を掲げている。


 だから、やるべきことはやる。


 御内書を運ぶ。


 長尾景虎を調停座へ引き出す。


 村上義清が公儀へ訴える道を作る。


 武田晴信が座を無視しにくい形を整える。


 そこまでやれば、阿蘇はやるべきことをやったと言える。


 あとは、東国の者が東国を背負えばよい。


 その東国の者として、長尾景虎がいる。


 ならば、どうにかなるだろう。


 たぶん。


 惟種は、表には出さぬよう気をつけながら、安堵した。


 だが、その安堵は周囲には違って見えた。


 宇佐美定満は思った。


 この若君、ここまで読んでいたのか。


 戸次鑑連は、少しだけ眉を動かした。


 若君は、そこまで深くは読んでおられぬな。


 新納忠元は、静かに頷いている。


 やはり若君は、人の腹を突くのがうまい。


 島津義弘は、素直に目を輝かせていた。


 これが阿蘇の若君か。


 鍋島種茂は、穏やかに微笑んだ。


 まあ、若君ですから。


 阿蘇家臣団は、当然のように受け止めていた。


 長尾側からすれば驚くようなことでも、阿蘇側にとっては、惟種がまた相手の胸の奥へ手を突っ込んだだけである。


 良くも悪くも、いつものことであった。


     ◇


 景虎は、惟種をじっと見ていた。


「しかし」


「はい」


「此度の調停、そうやすやすと成るものではないぞ」


「承知している」


 惟種は、妙に堂々と答えた。


 背筋を伸ばし、少し顎を上げる。


 どこか、得意げですらある。


 景虎は、その顔を見て目を細めた。


「ほう」


 何か、深い策があるのか。


 宇佐美定満も、同じように思った。


 村上義清を座に出させる算段。


 武田晴信に御内書を無視させぬ言葉。


 小笠原や北信濃の国人をどう扱うか。


 善光寺周辺に座を置くなら、その警護と兵糧。


 武田が来ぬ場合の面子。


 来た場合の条件。


 おそらく阿蘇惟種は、そこまで考えているのだろう。


 宇佐美はそう見た。

 景虎も、そう見た。

 阿蘇側の家臣のうち、戸次鑑連だけがわずかに眉を寄せた。


 惟種の胸の内は、実に簡単であった。


 長尾景虎がいる。

 景虎が村上の後ろに立つ。

 ならば、武田も無視はしづらい。


 座は開ける。


 開けば、公方様への顔は立つ。


 やるだけはやったと言える。


 あとは、なるようになれ。


 惟種は、そう思っていた。


 根拠は、あまりなかった。


 だが、惟種は堂々としていた。


 景虎は、その堂々たる顔を見て、楽しげに笑みを深めた。


「よかろう」


 景虎は言った。


「ならば、その策、見せてもらおうか」


 惟種は、内心で思った。


 策。

 策か。


 どうしよう。


 だが、顔には出さなかった。


 阿蘇の若君として、静かに頷く。


「お任せあれ」


 戸次鑑連が、背後でほんのわずかに目を閉じた。


 宇佐美定満は、その一言に感嘆した。


 長尾景虎は、口の端を上げた。


 越後の座に、静かな熱が満ちる。


 こうして、阿蘇惟種と長尾景虎は、武田晴信と村上義清の調停へ向けて、ともに動くこととなった。


 その場にいた多くの者は思った。


 阿蘇の若君には、深い策があるのだろう、と。


 ただ一人、惟種本人だけが、心の奥で小さく呟いていた。


 早く帰りたい。


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