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火の山の若君は、未来を夢に見る ~阿蘇家嫡流の若君、名臣甲斐宗運と乱世を切り拓く~  作者: アトラス


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第百八十二話 徳と帳

 長尾景虎が口を開いた。


「遠路、大儀であった」


 声は低かった。


 港で聞いた笑い声とは、まるで違う。


 同じ喉から出ているはずなのに、そこには軽さがなかった。


 越後の主としての声。


 家臣を従え、国人を押さえ、敵を睨む者の声である。


 惟種は頭を下げた。


「阿蘇惟種にございます。公方様の御内書を奉じ、越後へ参りました」


「聞いておる」


 景虎は頷いた。


「武田と村上のこともな」


 その言葉で、部屋の空気が少し締まった。


 長尾家の家臣たちは、顔を動かさない。


 だが、目だけは鋭くなる。


 阿蘇側も同じであった。


 戸次鑑連は動かぬ石のように控え、新納忠元はわずかに顎を引いている。


 島津義弘は、若さゆえか目に熱がある。


 鍋島種茂だけが、穏やかな顔で全体を見ていた。


 宇佐美定満は、景虎の横で静かに控えている。


 ただ、その胃のあたりだけは、見えぬところで痛んでいるに違いなかった。


 港のことは、誰も口にしない。


 惟種も言わない。


 景虎も言わない。


 しかし、なかったことにはなっていない。


 あの倉陰での笑い声は、確かに二人の間に残っていた。


 景虎の目が、惟種を真っすぐ射た。


「さて」


「はい」


「奈落の政を聞こうか」


 宇佐美定満の眉が、ほんのわずかに動いた。


 戸次鑑連の目も細くなる。


 長尾家の家臣たちも、何を言い出したのかと内心で思ったかもしれない。


 奈落の政。


 妙な言葉である。


 だが、そのおかげで、この場の話はまだ外交の刃にはならない。


 越後の政を評するのではない。


 阿蘇の政を誇るのでもない。


 表向きは、地獄をどう治めるかという奇妙な問答である。


 惟種は、静かに息を吐いた。


「では、申し上げます」


「うむ」


「まず、長尾殿の政は見事にございます」


 景虎の眉間の皺が、わずかに深くなった。


「褒めるのか」


「褒めます」


 惟種は迷わず答えた。


「越後は難しい国と聞きます。国人は強く、山も川も厳しく、外にも敵が多い。その中で長尾殿は、己を律し、義を掲げ、神仏の御前に己を置いて国を押さえておられる」


 景虎は黙っている。


「乱れた者を正し、不義を憎み、刃を振るうにも筋を通す。徳をもって人を従わせ、神仏の前に己を置いて、己自身を曲げぬようにしている」


 惟種は、景虎をまっすぐ見た。


「大いに結構。まこと、見事にございます」


 部屋に、わずかな沈黙が落ちた。


 長尾家の者たちは、少し意外そうであった。


 阿蘇の若君が、いきなり景虎を褒めた。


 しかも軽い追従ではない。


 越後の政を見て、景虎の根を見たうえで褒めている。


 景虎は、じっと惟種を見ていた。


「ならば、何が気に入らぬ」


 惟種は答えた。


「それでは、先がございませぬ」


 空気が変わった。


 戸次鑑連の目が、わずかに惟種へ向く。


 新納忠元も、義弘も、息を潜める。


 宇佐美定満は、表情を動かさない。


 だが、その目は惟種を見ていた。


 景虎の声が、さらに低くなる。


「先がない、か」


「はい」


「我が徳では、足りぬと申すか」


「長尾殿の徳は大きゅうございます」


「ならば」


「大きすぎます」


 景虎の目が細くなった。


「妙なことを申す」


「妙なことではございませぬ」


 惟種は、膝の上で手を軽く握った。


 ここからは、言葉を選び間違えると斬られかねない。


 少なくとも、比喩としては。


「奈落を治めるといたしましょう」


 惟種は、あえて言い方を戻した。


「鬼王が一人おります。強く、清く、義を重んじ、罪ある鬼を裁き、弱き亡者を守る」


「よい鬼王ではないか」


「よい鬼王にございます」


 惟種は頷いた。


「ですが、その鬼王が眠れば、奈落は止まります」


 景虎の眉間の皺が動いた。


「病めば、誰も裁けませぬ。怒れば、皆がその怒りに怯えます。迷えば、家臣も迷います。死ねば、その後には鬼王の真似をする者か、鬼王の名を使う者が残る」


「わしが死んだ後の話か」


「奈落の話にございます」


 惟種は静かに返した。


 景虎は、わずかに口の端を動かした。


 笑ったのか、怒ったのか、分からない。


「逃げ道を作るのが上手いな」


「公方様の御使いとして参っておりますので」


「ならば続けよ」


「はい」


 惟種は頷いた。


「鬼王の徳で治まる奈落は、鬼王の徳が尽きた時に乱れます。ならば、鬼王が眠っても飯が出る仕組みが要る。鬼王が遠征しても道が守られる仕組みが要る。鬼王が怒っても帳が嘘をつかぬ仕組みが要る」


 長尾家の家臣たちが、微かに視線を交わした。


 帳。


 飯。


 道。


 地獄の話のはずが、急に阿蘇の政の匂いを帯びてきた。


 惟種は続けた。


「阿蘇では、わしが全てを裁くことはしません」


「しないのか」


「できませぬ」


「若君がか」


「はい」


 惟種は、恥じることなく答えた。


「わし一人で九州を見ることはできませぬ。道のぬかるみも、村の病も、蔵の米も、市の乱れも、港の荷も、学び所の飯も、全部をこの目で見ることはできませぬ」


「だから、家臣を見る」


「違います」


 惟種は首を振った。


「家臣に任せます」


 景虎は黙った。


「宗運には政を形にさせる。親英には船を任せる。北里には薬と病の帳を任せる。警邏方には道と市を見せる。学所方には子らの字と飯を見せる。蔵方には米を見せる。寺社には民への知らせを運ばせる。商人には物の流れを担わせる」


 惟種の声は、少しずつ熱を帯びていく。


「わしは、発案する。決めるべきところは決める。だが、全てを抱えはしませぬ。抱えれば、わしが死んだ時に阿蘇も死ぬ」


 景虎の目が、動かない。


 惟種は、それでも言った。


「わしが倒れても、明日の粥が出るようにしたい。わしが遠くへ行っても、薬の帳が残るようにしたい。わしが愚かな命を出しても、下の者が『これはおかしい』と気づけるようにしたい」


 その言葉に、宇佐美定満がわずかに目を細めた。


 戸次鑑連は、何も言わない。


 だが、背後に立つ鑑連は分かっている。


 惟種は理想だけを語っているのではない。


 阿蘇では、本当にそれをやろうとしている。


 そのために帳が増え、文吏が足りず、宗運が胃を痛め、各家の者が走り回っている。


 面倒なことだ。


 だが、確かに阿蘇はそれで回り始めている。


 景虎が、静かに言った。


「任せれば、裏切る者も出よう」


「出ます」


「米を盗む者も出る」


「出ます」


「帳を書き換える者も出る」


「出ます」


「ならば、どうする」


「見つける仕組みを作ります」


 惟種は即答した。


「一人に任せず、二つ三つの目を置く。帳を照らし合わせる。蔵と市と寺社の報せを合わせる。民にも知らせる。子にも字を読ませる。嘘をつけば、別の道から歪みが見えるようにする」


「それで全て防げるか」


「防げませぬ」


「では何の意味がある」


「全て防ぐためではありません」


 惟種は、景虎を見返した。


「一人の徳に頼らぬためにございます」


 その瞬間、空気がさらに重くなった。


 長尾家の家臣たちが、息を詰める。


 これは奈落の話か。


 それとも越後の話か。


 誰も、はっきりとは言えない。


 だが、誰もが分かっている。


 惟種は、景虎を見ている。


 景虎もまた、惟種を見ている。


     ◇


 景虎の声が低く響いた。


「義なくして、国は治まらぬ」


「その通りにございます」


「徳なくして、人は従わぬ」


「それも、その通りにございます」


「神仏の前に己を置かねば、人は己に甘える」


「それも、分かります」


「ならば、何が違う」


 景虎の眉間の皺がさらに深くなった。


「わしは、己の義で越後を治めようとしておる。己を神仏の前に置くのも、己が曲がらぬためじゃ。刃を振るうにも筋が要る。筋なき刃は賊の刃じゃ」


 声に熱が宿る。


 宗教的な熱。


 潔癖な熱。


 曲がったものを許せぬ者の熱であった。


「乱れた国を治めるには、まず己が正しくあらねばならぬ。上が濁れば、下は泥となる。主が曲がれば、家臣は腐る。民は泣く。ならば、主が己を正すしかあるまい」


 景虎は、惟種を見据えた。


「それを、間違いと言うか」


「間違いではございませぬ」


 惟種は答えた。


「ならば」


「だからこそ、身が持ちませぬ」


 景虎の目が、わずかに揺れた。


 ほんのわずかである。


 だが、惟種は見た。


「長尾殿ほどの方が、身を削り、心を削り、神仏の御前に己を置き続けねば保てぬ政ならば」


 惟種の声は、静かだった。


「それは、政ではございませぬ」


 宇佐美定満が、思わず息を飲んだ。


 長尾家の家臣たちの顔が硬くなる。


 阿蘇側も緊張した。


 鑑連の足が、ほんの少しだけ動いた。


 惟種は止まらない。


「それは、長尾景虎という一人の人間を、越後が食っているだけにございます」


 部屋の空気が凍った。


 景虎は動かなかった。


 怒っているのか。


 聞いているのか。


 それとも、斬る言葉を探しているのか。


 分からない。


 惟種自身も、言い過ぎだとは思った。


 だが、言わねばならなかった。


 港で笑っていた男。


 奈落と言って惟種を試した男。


 地獄の帳と飯と道に腹から笑った男。


 惟種は、その男が嫌いではなかった。


 むしろ、好ましいとすら思った。


 だからこそ、正式な座で見た景虎の面が気になった。


 眉間に皺を刻み、目を鋭くし、部屋の空気を押し潰すように座る景虎。


 それは国主として必要な顔である。


 惟種にも分かる。


 だが、それを続ければ、人はすり減る。


 義を掲げ、神仏を背負い、己を律し続ける。


 それは強い。


 強いが、長くは持たない。


「わしは、長尾殿を嫌っているわけではございませぬ」


 惟種は言った。


 景虎の目が、わずかに変わる。


「むしろ、好ましく思っております。だから申します」


 惟種は、膝の上で手を握った。


「もっと人を信じなされ」


 景虎の眉が動いた。


「信じておる」


「信じてはおられます」


 惟種は頷いた。


「ですが、任せておられませぬ」


 景虎は黙った。


「従わせてはいる。だが、背負わせておらぬ。長尾殿の義が強すぎるゆえ、家臣は長尾殿の顔を見て動く。役を見て動かぬ。帳を見て動かぬ。仕組みを見て動かぬ」


 宇佐美定満の目が、静かに細くなった。


 景虎は、なお黙っている。


「義を、長尾殿一人の胸に閉じ込めてはなりませぬ」


 惟種は続けた。


「家臣に分ける。役に落とす。帳に移す。道に刻む。市に置く。寺社に語らせる。そうしなければ、長尾殿が倒れた時、義もともに倒れます」


 景虎の手が、わずかに膝の上で動いた。


 怒りか。


 迷いか。


 興味か。


 惟種には、まだ分からない。


 ただ、景虎は聞いている。


 それだけは分かった。


     ◇


「それが」


 景虎が、静かに言った。


「それが、そなたの言う奈落の統治か」


 惟種は少し考えた。


 そして、苦く笑った。


「そうだな」


 言葉が、自然と崩れた。


「そうかもしれぬ」


 景虎の目が細くなる。


「地獄を、帳と飯と道で治めるか」


「鬼王の徳だけで地獄が治まるなら、帳など要らぬ」


「治まらぬと?」


「鬼王が倒れれば乱れる」


「鬼王が強ければよい」


「では、その鬼王が疲れた時は」


 景虎は答えなかった。


 惟種は、静かに続ける。


「その鬼王が眠れぬ時は。怒りを飲み込み続けた時は。不義を見すぎて、己の中まで焼けた時は。神仏の御前に立ち続け、ただの人として息をする場所を失った時は」


 景虎の眉間の皺が、さらに深くなる。


 惟種は、その皺を見た。


 港で笑っていた男は、確かにいた。


 だが、今ここに座る景虎は、越後の主である。


 その二つが、同じ一人の中にある。


 それが危うい。


「奈落を治めるには、鬼王ひとりの徳では足りませぬ」


 惟種は言った。


「鬼王が眠っても、飯が出る仕組みが要る。鬼王が倒れても、道が残る仕組みが要る。鬼王が狂っても、帳が嘘を告げぬ仕組みが要る」


 景虎が、惟種を見据えた。


 その目は鋭い。


 だが、港で見た光も、まだ奥に残っている。


 惟種は、その目をまっすぐ見返した。


 そして言った。


「長尾景虎」


 部屋の空気が、止まった。


「お前では無理だ」


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