第百八十一話 越後の面
水夫の姿が、倉の影へ消えた。
その直後、戸次鑑連が駆け込んできた。
「若君!」
声に怒りが混じっていた。
続いて、新納忠元、島津義弘、鍋島種茂、長尾家の者たちが現れる。
宇佐美定満もいた。
その顔は、先ほどまでの落ち着いた重臣のものではない。
血の気が引いていた。
ただ、それでも声だけは崩さなかった。
「惟種殿、ご無事でございますか!」
「無事だ」
惟種は、なるべく軽く答えた。
「少し港を見ておっただけだ」
その場の全員が、わずかに黙った。
誰も信じていない。
惟種自身も、それは分かっていた。
宇佐美定満は、膝をつく勢いで頭を下げた。
「一生の不覚にございます」
「宇佐美殿」
「他家の若君、それも惟種殿を越後の港で見失うなど、長尾家の恥。これは、我が命をもって――」
「いらぬ」
惟種は、すぐに止めた。
「誰の命もいらぬ」
「されど」
「わしが悪い」
惟種は言った。
「港を見たかったのだ。阿蘇の船が越後へ入った。水夫も荷も人も、九州とは違う。つい、周りを見るうちに足が外れた。それだけだ」
嘘である。
苦しい。
あまりにも苦しい。
ここで騒げば、長尾家の面目が潰れる。
宇佐美の責となり、景虎の無茶が表に出る。
それは、これから会談を始める相手にすることではない。
戸次鑑連の眉間に皺が寄った。
「若君」
「よい」
惟種は、小さく首を振った。
今は、それ以上言うな。
その目で告げる。
鑑連は不満を隠さなかった。
新納忠元も、手を刀の近くに置いたままだ。
島津義弘は若く、怒りが顔に出ている。
種茂だけが、一歩引いたところで全体を見ていた。
「若君がそう仰せならば」
種茂が静かに言った。
「我らも、そのように心得ます」
惟種は頷いた。
「そうしてくれ」
鑑連は、しばらく惟種を見ていた。
やがて、低く言う。
「若君が済ませると仰せならば、済ませます」
「すまぬ」
「ただし、次はございませぬ」
「分かっている」
惟種は素直に答えた。
本当に分かっている。
あれは、かなり危なかった。
殺気はなかった。
だが、殺気がなければ危険ではないというわけではない。
相手が長尾景虎であったから笑い話で済む。
いや、済ませることにした。
ただ、それだけである。
宇佐美定満は、なお頭を下げたままだった。
惟種は、その前に立つ。
「宇佐美殿」
「は」
「長尾家のもてなしを疑うつもりはない。わしが勝手に外れた。それでよい」
宇佐美は顔を上げた。
目に、苦いものが浮かんでいる。
誰の仕業か。
おそらく、察している。
だが言えない。
惟種が庇っていることも、分かっている。
宇佐美は、深く、深く頭を下げた。
「……かたじけない」
その一言だけだった。
惟種は頷いた。
「では、案内を頼む。公方様の御内書もある。いつまでも港で騒いでいては、越後の民に笑われる」
「承知いたしました」
宇佐美は立ち上がった。
まだ顔色は戻っていない。
だが、声には重臣としての硬さが戻っていた。
◇
そこからは、何事もなかったかのように進んだ。
いや、何事もなかったことにした。
阿蘇の荷は改めて確認され、贈り物は丁重に運ばれた。
澄み酒。
麦の強き酒。
玻璃の馬上器。
砂糖の甘味。
文箱。
幕府御内書。
阿蘇の副状。
どれも欠けていない。
護衛も改められた。
戸次鑑連は、惟種から半歩以上離れなくなった。
新納忠元も、冗談を口にしない。
島津義弘は、港の者を見る目が少し鋭くなっていた。
種茂だけが、穏やかな顔を崩さない。
だが、その立ち位置は先ほどよりも巧みで、いつでも惟種の前へ出られるようになっている。
惟種は、内心でため息をついた。
これは帰ったら、また宗運に叱られる。
いや、帰る前に鑑連に叱られる。
帰ってから宗運にもう一度叱られる。
二段構えである。
きつい。
だが、今はそれどころではない。
長尾景虎と会う。
先ほどの水夫が、本当に景虎であるならば。
いや、ほぼ間違いない。
あれほど勝手な真似をして、宇佐美定満の顔色を青くさせ、それでも名を名乗らずに消えられる者など、長尾家中にそう何人もいない。
惟種は、あの笑い声を思い出した。
奈落か。
地獄の政を聞かせてもらおう。
面倒な男である。
だが、嫌な男ではなかった。
それが、なお面倒だった。
◇
二刻ほどの後。
惟種は、長尾景虎との正式な対面に臨んだ。
部屋は整えられていた。
余計な飾りは少ない。
だが、刀の置き方、座の取り方、家臣の並び、すべてに越後の緊張がある。
国人たちを押さえ、外敵に備え、内にも外にも目を配る家。
華やかではない。
しかし、隙が少ない。
惟種は、宇佐美定満に案内され、定められた座へ進んだ。
戸次鑑連、新納忠元、島津義弘、鍋島種茂も後ろに控える。
長尾家の家臣たちの視線が、阿蘇の一行へ注がれていた。
若い。
遠い。
だが、侮れない。
そんな目である。
惟種は、深く息を吸った。
そして、上座を見た。
そこに、長尾景虎がいた。
瞬間、惟種は息を止めた。
先ほどの水夫とは、まるで別人だった。
粗末な衣ではない。
越後の主としての装い。
背筋はまっすぐ伸び、膝の置き方一つにも乱れがない。
眉間には、深い皺が刻まれている。
眼光は鋭く、ただ座っているだけで部屋の空気を押さえつけていた。
笑っていない。
声を出してもいない。
それなのに、周囲の家臣たちは自然とその男を中心に息をしている。
なるほど。
惟種は思った。
これなら、家臣がついてくる。
越後の荒れた国人たちを従わせるには、この顔が要るのだろう。
軽く見られぬ顔。
退かぬ顔。
迷いを見せぬ顔。
主君とはこうあるべきだ、と家臣に思わせる顔。
政には、こういう面が要る。
惟種にも、それは分かる。
阿蘇でも、自分は阿蘇の若君として座らねばならない。
加世に叱られたこともある。
宗運にも、何度も言われた。
民の前で、家臣の前で、敵の前で、迷いをそのまま出すな。
顔を作れ。
主君の顔をせよ。
分かっている。
分かってはいる。
ただ。
これでは、本人がすり減る。
惟種は、そう思った。
港で笑っていた男。
奈落と言い、地獄の帳と飯と道に腹を抱えて笑った男。
あの男が、今はこの面をかぶっている。
いや、かぶっているだけではない。
この面もまた、長尾景虎なのだ。
だからこそ、危うい。
強い者ほど、強い顔を求められる。
求められ続ければ、顔が顔でなくなる。
面になる。
面になれば、外せなくなる。
惟種は、景虎の目を見た。
その奥に、ほんのわずかにだけ、倉陰で笑った光が残っている。
景虎もまた、惟種を見ていた。
表情は動かない。
だが、目だけが言っている。
さて。
地獄の政を聞こうか。
惟種は、静かに頭を下げた。
長尾景虎が、ようやく口を開こうとした。
越後の座の空気が、さらに重くなる。
奈落の統治についての話し合いは、まだ始まっていない。




