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火の山の若君は、未来を夢に見る ~阿蘇家嫡流の若君、名臣甲斐宗運と乱世を切り拓く~  作者: アトラス


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第百八十話 奈落への道

 阿蘇の大船が、越後の港へ入った。


 八月の海は、白く光っている。


 九州の海とは違う匂いがした。


 風は少し冷たく、波の色も深い。


 惟種は甲板の上から港を見て、ようやく息を吐いた。


「着いたか」


「はい」


 甲斐親英が静かに答える。


「ひとまずは、無事に」


「ひとまず、という言い方が怖いな」


「海の上では、常にひとまずにございます」


「陸へ上がってもか」


「陸へ上がれば、今度は人が怖うございます」


「もっと怖いことを言うな」


 親英は表情を変えなかった。


 だが、言っていることは正しい。


 越後へ来た。


 長尾景虎に会う。


 そこから北信濃へ向かい、武田晴信と村上義清の争いへ幕府の座を置く。


 海を越えたから終わりではない。


 むしろ、ここからが本番であった。


 港には、長尾家の者たちが並んでいた。


 その先頭に立つのは、宇佐美定満である。


 背筋の伸びた男だった。


 目は静かで、しかし油断がない。


 阿蘇の大船を見ても、驚きを顔には出さない。


 ただ、その目の奥では、船の高さ、帆、船倉、護衛の数、甲板の動きをすべて測っているようであった。


 惟種は内心で思った。


 なるほど。


 これが宇佐美定満か。


 長尾家の重臣として、景虎を支える人物。


 この者が出迎えに来るのは当然だった。


 他家からすれば、阿蘇家は意味の分からぬ家である。


 九州を静め、朝廷へ献じ、幕府に忠義を示し、大内の血を預かり、南蛮にも劣らぬ大船で越後へ現れる。


 しかも若君本人が来ている。


 粗略には扱えない。

 警戒もせねばならない。


 宇佐美定満は、その両方を背負っていた。


「惟種殿」


 宇佐美が深く頭を下げた。


「長尾家家臣、宇佐美定満にございます。遠路、よくぞ越後へお越しくださいました」


「阿蘇惟種にございます。こちらこそ、急な来訪にもかかわらず、御出迎え痛み入ります」


 惟種も丁寧に返した。


 背後には、戸次鑑連、島津義弘、新納忠元、鍋島種茂が控えている。


 甲斐親英は船手の指揮を続けている。


 荷下ろしも始まった。


 酒。

 玻璃の器。

 砂糖菓子。

 文箱。

 幕府御内書。

 阿蘇の副状。


 それらは慎重に運ばれていく。


 港は、一気に騒がしくなった。


     ◇


 宇佐美定満は、丁重だった。


「まずは御座所へご案内いたします。長旅のお疲れもございましょう」


「ありがたく」


「御屋形様も、惟種様にお会いできるのを楽しみにしておられます」


「それは光栄にございます」


 惟種はそう答えながら、少しだけ周囲を見た。


 水夫たちが荷を下ろしている。


 長尾家の足軽も手伝っている。


 阿蘇側の船手と越後側の者が混ざり、木箱を運び、縄を引き、声を掛け合う。


 その中に、一人の水夫がいた。


 粗末な衣。

 日に焼けた顔。

 腕は太く、動きは軽い。

 ただ、目が妙に澄んでいた。


 惟種は、一瞬だけ気になった。


 だが、すぐに宇佐美の声がかかる。


「惟種殿、こちらへ」


「うむ」


 惟種は歩き出した。


 その時である。


 荷の一つが傾いた。


「おっと!」


 誰かが声を上げた。


 周囲が一斉に動く。


 惟種の前を、数人の水夫が横切った。


 箱を支え、縄を引き、足元に転がった小樽を避ける。


 ほんの一瞬、人の流れが乱れた。


 それは偶然に見えた。


 だが、あまりに手際がよかった。


 惟種は足を止めた。


 次に顔を上げた時、宇佐美定満は少し先にいた。


 戸次鑑連も、新納忠元も、種茂も、義弘も、わずかに離れている。


 護衛の輪が、薄くなっていた。


 まずい。


 惟種はすぐに悟った。


 はぐれた。


 いや。


 はぐれさせられた。


 声を上げるべきか。


 手を伸ばせば、鑑連が気づくかもしれない。


 だが、その前に、横から低い声がした。


「若君、こちらじゃ」


 先ほどの水夫であった。


 惟種は、相手を見た。


 水夫は笑っている。


 敵意はない。

 殺気もない。

 だが、ただの水夫ではない。


 歩き方。

 目。

 人の間を抜ける時の間合い。


 こちらの護衛の動きまで読んでいる。


 惟種は、内心で呻いた。


 うーん。

 まずい。

 死んだか?


 しかし、殺す気ならもう少し違う気配がある。


 少なくとも、今この場で刃を立てるつもりはなさそうだった。


 惟種は、仕方なく歩き出した。


 水夫の後について、荷の陰を抜ける。


 港の騒ぎが少し遠のいた。


     ◇


「どこに向かっている?」


 惟種は問うた。


 声は平静にした。


 内心は、まったく平静ではない。


 水夫は振り返らずに答えた。


「そうじゃのう」


 少し間を置く。


「奈落か?」


 惟種は足を止めなかった。


 奈落。

 物騒な言葉である。

 普通なら、怒るか、怯えるか、問い詰めるところであろう。

 だが、惟種は少しだけ考えた。


 そして言った。


「それはそれは、大変興味がある」


 水夫が、初めて振り返った。


「興味?」


「うむ」


「奈落にか」


「奈落というものが何を指すかは知らぬが、仏の道では地獄とも聞く」


「ほう」


「わしは統治者じゃ」


 惟種は、真顔で言った。


「地獄を統治してみたいとは、かねてより思っておった」


 水夫の目が、一瞬丸くなった。


 次の瞬間、大きく笑った。


「はっはっは!」


 声が大きい。


 港の隅に響くほどである。


「お主、面白いやつじゃな!」


 水夫は腹を抱えるように笑った。


「奈落へ連れて行くと言われて、地獄の統治を語る者は初めてじゃ!」


 惟種は、内心で思った。


 うるさ。


 だが、不思議と嫌ではなかった。


 笑い方が、空へ抜けるように明るい。


 相手を馬鹿にしているというより、本気で面白がっている笑いである。


 水夫は、まだ笑っている。


「地獄を治めるとなれば、まず何から始める?」


「帳だな」


「帳」


「どこに何人おり、何に苦しみ、何を怨んでいるのか分からねば治めようがない」


 水夫が、さらに笑った。


「地獄で帳か!」


「それから飯だ」


「地獄で飯を食わせるのか」


「腹が空けば鬼でも荒れる。いや、鬼だから荒れるのかもしれぬ」


「はっはっは!」


「次に道を通す」


「地獄に道」


「亡者も鬼も迷うなら、余計に争うだろう。道があれば、責めるにも逃がすにも都合がよい」


「逃がすのか」


「場合による」


 惟種は淡々と答えた。


「役に立つ者は、地獄でも役に立つ。どうにもならぬ者は、どうにもならぬ場所へ送る」


「お主、本当に地獄を治める気で話しておるな」


「そちらが奈落と言ったのだ」


 惟種は少しむっとした。


「行き先を示された以上、治め方を考えるのは当然だろう」


「当然ではない」


「そうか」


「そうじゃ」


 水夫は、笑いながら惟種の顔を覗き込んだ。


「お主、怖くないのか」


「怖い」


 惟種は即答した。


「ならば、なぜ騒がぬ」


「騒げば、そちらが困る。そちらが困れば、こちらも困る」


「ほう」


「殺す気はなさそうだ。ならば、話してからでも遅くない」


「殺す気があるかもしれぬぞ」


「その時は、わしの目が節穴だったということだ」


 水夫は、また笑った。


 だが、今度の笑いは少し低い。


 惟種を見定めるような笑いだった。


「なるほど。阿蘇の若君とは、こういう者か」


 その言葉で、惟種は確信した。


 ただの水夫ではない。


 この男は、自分を試している。


 そして、宇佐美定満の知らぬところでこれをやっている。


 であれば、答えは限られる。


     ◇


「そちらこそ」


 惟種は言った。


「水夫にしては、随分と人を見慣れている」


「そう見えるか」


「見える」


「腕が立つようにも?」


「立つ」


「頭は?」


「悪くはなさそうだ」


「随分上からじゃな」


「奈落へ連れていく者には、このくらい言ってよいだろう」


 水夫は、また大きく笑った。


 惟種は、少し耳が痛くなってきた。


「うるさい」


「何か言ったか」


「何でもない」


「今、うるさいと言ったな」


「聞こえているではないか」


「はっはっは! よい、よい!」


 水夫は楽しげに手を叩いた。


「阿蘇の若君よ。お主、思ったより腹がある」


「思ったより、というのが気に入らぬ」


「子どもと思っておった」


「数え十二だ。子どもで間違いではない」


「それを自分で言うか」


「子ども扱いして油断されるなら、それはそれでよい」


「油断してよいのか」


「してくれるなら助かる」


「せぬ」


「だろうな」


 二人は、港の外れに近い細い道へ出た。


 海の匂いが強い。


 倉の影が伸びている。


 遠くでは、まだ荷下ろしの声が聞こえる。


 だが、ここは少し静かだった。


 水夫は、そこで立ち止まった。


「若君」


「何だ」


「お主は、なぜここまで来た」


「公方様の命だ」


「それだけか」


「それだけなら、代使を出す」


「ならば」


「武田晴信と村上義清の争いを、少しでも止めるためだ」


 惟種は答えた。


「完全な和睦は無理だ。だが、兵を止め、座を作り、幕府の顔を立て、次の火を少しでも遅らせることはできるかもしれぬ」


「火を消しに来たか」


「火を止めに来た」


「違うのか」


「消せぬ火もある。ならば、燃え広がる先を狭める」


 水夫の目が、少しだけ真面目になった。


「面白いことを申す」


「そちらが面白がるために来たわけではない」


「では、何のために」


「さっさと済ませて帰るためだ」


 惟種は即答した。


 水夫は、また笑った。


「正直な若君じゃ」


「九州に仕事が山ほどある。越後で遊んでいる暇はない」


「越後は遊び場ではないぞ」


「知っている。だから余計に早く済ませたい」


「ならば、越後も早く見るがよい」


 水夫がそう言った瞬間だった。


 後方から、大きな声が上がった。


「若君!」


 戸次鑑連の声である。


 怒りを含んでいた。


 続いて、複数の足音。

 鎧の音。

 長尾家の者の声。

 新納忠元の低い怒号。

 島津義弘の若い声。

 鍋島種茂が何かを制している声。


 さらに、宇佐美定満の声が重なった。


「探せ! 惟種殿をお守りせよ!」


 すごい勢いで、人が迫ってくる。


 惟種は、少し顔を引きつらせた。


 これはまずい。


 外交問題である。


 いや、もうなっているかもしれない。


 水夫は、後方をちらりと見た。


「これはいかん」


「お主のせいだろう」


「そうとも言う」


「そうとしか言わぬ」


 水夫は笑った。


 そして、まるで風に乗るように身を翻した。


「では、さらばじゃ!」


「待て」


「待たぬ」


「せめて名を」


「いずれ分かる!」


 長尾家の港で、宇佐美定満の目をすり抜け、人を動かし、阿蘇の護衛を乱し、笑いながらこちらを試す。


 そんな真似ができる者が、水夫であるはずがない。


 惟種は、声を張った。


「もう分かっておる」


 水夫の足が、わずかに緩む。


 惟種は続けた。


「次は、奈落とやらで会いましょうぞ! 長尾殿!」


 水夫の足が、一瞬だけ止まった。


 背中越しに、肩が揺れた。


 笑っている。


「はっはっは!」


 その笑い声が、倉の間に響いた。


「ならば、その時は地獄の政を聞かせてもらおう!」


 そう言い残し、水夫の姿は倉の影の向こうへ消えた。


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