第百七十九話 酒と白波
天文二十年(一五五一年) 八月。
阿蘇の船は、北へ向かっていた。
海は広い。
空も広い。
白い波が船腹を叩き、帆は風を受けて大きく膨らんでいる。
甲板の上では、船手たちが掛け声を交わしながら忙しく動いていた。
その中心で、甲斐親英は静かに指示を出している。
陸の上では、惟種が阿蘇の若君である。
だが、海の上では違う。
この船の上では、親英の声が一番重かった。
惟種も、それは分かっている。
分かっているが、気分は重い。
「……どなどな」
小さく呟いた。
風に紛れるほど小さな声である。
鍋島種茂が、横で首を傾げた。
「若君、何か仰せに」
「いや、何でもない」
何でもある。
惟種の心の中では、どなどなどーなー、という何とも情けない調べが流れていた。
売られていく子牛ではない。
公方様の荷を背負わされ、遠い越後へ運ばれていく阿蘇の若君である。
自分で受けた。
受けたのは自分だ。
上洛はしない。
甲斐にも深くは入らない。
長くとも一月で戻る。
条件は切った。
宗運にも、次からは必ず同席させると言った。
だが、それでも船に乗ってしまった今となっては、やはり思う。
なぜ自分はここにいるのか。
「若君」
戸次鑑連が、低い声で言った。
「しっかりなされ」
「しっかりしている」
「海を見ながら、世を儚むような顔をなされておりました」
「気のせいだ」
「気のせいではございませぬ」
鑑連の目は厳しい。
この男は、海の上でも揺れない。
船が大きくうねっても、平然と立っている。
まるで陸の上と同じであった。
惟種は少し悔しい。
「戸次殿は、船に強いのだな」
「強い弱いではございませぬ。若君を守るために乗っております」
「それは、ありがたい」
「ならば、守られる者も背を伸ばしていただきたい」
「……はい」
惟種は少しだけ背を伸ばした。
種茂が、穏やかに笑う。
「とはいえ、若君も愚痴の一つはこぼしたくなりましょう」
鑑連が種茂を見る。
「甘やかすな」
「甘やかしているわけではございませぬ。ただ、甲斐と信濃の調停など、愚痴をこぼさぬ方が難しゅうございます」
「それはそうだが」
鑑連は、そこで少しだけ黙った。
それは認めるらしい。
惟種は、種茂へ感謝の目を向けた。
「種茂は優しいな」
「若君が沈みすぎると、船まで重くなりそうにございますので」
「それは優しさか」
「半分は」
「残り半分は」
「本心にございます」
惟種は、また海を見た。
白波が続いている。
遠い。
越後は、あまりにも遠い。
◇
一方で、船そのものに目を輝かせている者たちもいた。
新納忠元と島津義弘である。
義弘はまだ若い。
だが、その目は鋭く、好奇心に満ちていた。
阿蘇の大船は、彼らにとっても初めて見るものが多い。
高い船腹。
広い甲板。
帆の張り方。
水樽の並べ方。
船倉の区切り。
火薬を湿らせぬための箱。
大筒を据える場所。
船手の動き。
どれも倭船とは違って見える。
「これは、城が海を走っているようなものにございますな」
義弘が、感嘆を隠さず言った。
新納忠元も頷く。
「まことに。これほどの船ならば、海の上で陣を張れる」
親英が、少しだけ口を開いた。
「過信は禁物にございます」
義弘が、すぐに頭を下げる。
「失礼いたしました」
「いえ。大きい船は強うございます。されど、風を誤れば大きい分だけ鈍くなります。浅瀬へ入れば腹を擦ります。火を受ければ燃えます。海は、城とは違います」
「心得ます」
義弘は真剣に頷いた。
その目には、学ぼうとする色がある。
惟種は、それを見て少し感心した。
後の世で鬼島津と呼ばれる男。
今はまだ若い。
だが、吸収が早い。
新納忠元も、船手の動きをじっと見ていた。
「甲斐殿」
「はい」
「この船を操るには、武士より船手の方が強いのでございましょうな」
「海の上では、そうにございます」
親英は淡々と答えた。
「刀を抜いても、風は斬れませぬ」
「なるほど」
新納は、愉快そうに笑った。
「ならば、海では我らも足軽以下ですな」
「初めは、皆そうでございます」
「厳しい」
「事実にございます」
惟種は、少しだけ宗運を思い出した。
阿蘇家には、事実を刃物のように投げる者が多すぎる。
◇
八月の海は、油断できない。
風が変われば、たちまち荒れる。
空が晴れていても、遠くの雲の形ひとつで親英の顔が変わる。
惟種は、それが少し怖かった。
「親英」
「は」
「本当に、この時期に抜けて大丈夫なのか」
「風を見る限り、今ならば」
「今ならば、か」
「はい。海に絶対はございませぬ」
「怖いことを言う」
「怖がっていただいた方が、海では長生きできます」
親英は平然と言った。
「公方様も無茶を言う」
「受けられたのは若君にございます」
「決めさせられたのだ」
「それも、若君にございます」
「皆、厳しくないか」
種茂が、少し笑った。
「宗運殿ほどではございませぬ」
「それはそうだ」
惟種は即答した。
最後に宗運から受けた叱責を思い出す。
公方様と二人きりになるな。
初手天元など打つな。
忠義の言葉を安売りするな。
甲斐と信濃を接待で背負うな。
もっともな言葉ばかりで、反論できなかった。
反論できない叱責ほど、きついものはない。
惟種は、また海を見た。
「さっさと済ませて帰りたい」
「そのための船にございます」
親英が答える。
「陸路よりは早く、余計な城にも寄らずに済みます」
「それだけが救いだな」
「ただし、海が荒れねば」
「だから怖いことを言うな」
◇
その日の夕刻。
船倉の一角で、景虎への贈り物が確かめられた。
長尾景虎。
越後の若き実力者。
惟種の知る後の名は、上杉謙信。
義に厚く、軍神と呼ばれる男。
そして、酒を好む男。
少なくとも、後の世にはそう伝わっている。
惟種は、そこへ賭けた。
「まずは、酒だ」
木箱が開けられた。
中には、丁寧に包まれた酒瓶が並んでいる。
一つは、澄み酒。
米を磨き、麹を整え、絞りと濾しを工夫し、火を入れて雑味を抑えたもの。
阿蘇の酒造りの中でも、かなり気を遣った品である。
もう一つは、麦を用いた強い蒸留酒だった。
焼いた樽にしばらく寝かせ、色と香りを移している。
南蛮風の強き酒。
惟種の内心では、ウイスキーのぱちもんである。
まだ粗い。
香りも角がある。
寝かせる年数も足りない。
樽も完全ではない。
前世で飲んだものには、とても及ばない。
だが、この時代の酒としては、かなり珍しい。
「若君は、本当にお飲みになられませぬのか」
新納忠元が、少し残念そうに言った。
「飲まぬ」
「味を確かめずに、よくここまで作らせられますな」
「……前に少し、知っていた」
「前に?」
「いや、何でもない」
危なかった。
惟種は咳払いした。
「わしはまだ数え十二だ。飲めぬ」
戸次鑑連が頷く。
「それがよろしゅうございます」
「だが、飲めぬ者が酒を造らせるほど、むなしいことはない」
「それは分かりませぬ」
「戸次殿は分からなくてよい」
鑑連はまじめに首を傾げた。
新納忠元は、許しを得て少しだけ澄み酒を口にした。
目が、はっきりと変わった。
「これは……」
「どうだ」
「澄んでおりますな。舌にひっかかりが少ない。米の甘みがよく出ております」
戸次鑑連も試した。
こちらも、わずかに眉を動かす。
「戦の前に飲ませてはなりませぬな」
「なぜ」
「飲み過ぎます」
新納忠元が笑った。
「同感にございます」
惟種は、少しだけ嬉しくなった。
「そんなに良いか」
「良うございます」
新納は素直に答えた。
「景虎殿が酒好きならば、これは喜ばれましょう」
「なら、よかった」
続いて、麦の強き酒が開けられた。
蓋を取った瞬間、樽の焦げた香りと強い酒精の匂いが広がる。
新納忠元が目を丸くした。
「これはまた、随分と強そうな」
「少量でよい」
惟種は言った。
「飲みすぎると倒れる」
「倒れるほどの酒を贈るので」
「珍しさだ。珍しさ」
戸次鑑連が、慎重に口へ含んだ。
少しだけ目を細める。
「腹に火が入りますな」
新納忠元も試し、豪快に笑った。
「これは良い。冬の陣に欲しゅうございます」
「粗いだろう」
惟種が問う。
「粗い?」
「もっと丸く、甘く、香り高くなるはずなのだ」
鑑連と新納は顔を見合わせた。
「これで十分では」
「いや、まだ足りぬ」
惟種は悔しかった。
だが、自分では飲めない。
飲めないので、確認できない。
香りだけで判断するしかない。
これほどもどかしいことがあるだろうか。
「若君」
種茂が言った。
「飲める頃には、もっと良いものができております」
「それは楽しみだ」
「その頃までに、宗運殿から許しが出ればよろしいですが」
「……難しそうだな」
全員が、少しだけ笑った。
◇
酒のほかにも、贈り物はあった。
玻璃の器。
ただの器ではない。
馬上でも使えるよう、細長く作り、革で包み、木の筒に収めたものだ。
蓋があり、腰に下げられる。
中に少量の酒を入れ、馬上で口を湿らせることができる。
小さな盃も付けた。
「これは面白い」
義弘が、手に取って眺めた。
「馬上で使うのですか」
「景虎殿は、馬上の人だろうからな」
「玻璃は割れませぬか」
「割れる。だから革で包む。落とせば多分割れる」
「多分」
「完璧なものなどない」
惟種は少し開き直った。
さらに、砂糖を使った甘味もある。
砂糖を固めた小さな菓子。
蜜に漬けた果実。
豆を甘く煮て固めたもの。
南蛮風をまねた焼き菓子。
砂糖は高い。
琉球、博多、南蛮の道がなければ、これほど揃えることはできない。
種茂が、菓子を見て感心した。
「これは、越後では珍しゅうございましょう」
「だとよいが」
「酒、玻璃、甘味。これで足りぬ相手なら、何を贈っても足りませぬ」
種茂の言葉に、新納忠元が頷いた。
「しかも阿蘇の大船で参るのでしょう。土産だけでなく、船そのものが土産話になります」
親英が横から言った。
「土産話で済めばよろしゅうございます」
「どういう意味だ」
惟種が問う。
「船を見れば、欲しがる者もおります」
「それは困る」
「見せるだけでも、武威にございます」
「隠せぬ武威か」
「はい」
惟種は、ため息をついた。
阿蘇の力は、見せれば見せたで警戒される。
隠せば隠したで疑われる。
面倒なものである。
◇
夜。
船はゆっくりと進んでいた。
空には星が出ている。
海の上で見る星は、陸よりも近く見えた。
甲板の上で、惟種は一人、手すりに寄りかかった。
風が涼しい。
昼の暑さが、少しだけ引いている。
越後へ行く。
長尾景虎に会う。
そこから北信濃へ入り、村上義清と武田晴信の争いへ幕府の座を置く。
どう考えても、気が重い。
惟種の知る長尾景虎は、義に厚く、軍神と呼ばれる男である。
酒を好み、毘沙門天を信じ、戦に強く、敵に塩を送るなどと後の世に語られる人物だ。
だが、それは後の世の名である。
目の前に現れる景虎が、本当にその通りなのかは分からない。
人は、書物の中の名で動くわけではない。
その時の腹、その時の利、その時の怒り、その時の恐れで動く。
惟種は、それをこの数年で嫌というほど知った。
義隆も、陶も、隆景も、宗珊も、清晴も、叔和尚も、烏丸も、義藤も。
皆、名だけでは測れなかった。
長尾景虎も、同じだろう。
「若君」
背後から、鑑連の声がした。
「また世を儚む顔をなされております」
「今度は考えていただけだ」
「ならばよろしゅうございます」
鑑連は隣へ立った。
しばらく、二人で海を見た。
「不安ですか」
「不安だ」
惟種は正直に答えた。
「武田晴信と村上義清の争いを、阿蘇の若君が止めに行く。正気の沙汰ではない」
「されど、行かれる」
「受けたからな」
「ならば、我らが守ります」
鑑連の声は、いつも通りだった。
重く、まっすぐである。
「戸次殿」
「はい」
「頼りにしている」
「そのために乗っております」
惟種は、少しだけ笑った。
「そうだったな」
遠くで、船手の声が聞こえた。
帆が鳴る。
波が船腹を叩く。
阿蘇の船は、北へ進んでいる。
◇
翌朝。
惟種は、甲板に集まった供の者たちを見た。
甲斐親英。
戸次鑑連。
島津義弘。
新納忠元。
鍋島種茂。
誰も、軽い者ではない。
この面子を連れていれば、長尾も武田も村上も、阿蘇をただの遠国の使いとは見ないだろう。
見ないはずだ。
見ないでほしい。
見られすぎても困るが。
惟種は、海の向こうへ目を向けた。
「さっさと済ませて帰るぞ」
そう言った。
誰に向けた言葉でもある。
自分に向けた言葉でもある。
種茂が頭を下げた。
「はい」
鑑連も頷く。
「そのために、まずは無事に越後へ」
義弘は、まだ船と海に目を輝かせている。
「越後の海も、このように広いのでしょうか」
新納忠元が笑った。
「行けば分かる」
親英は、ただ風を見ていた。
惟種は、もう一度、心の中で繰り返した。
さっさと済ませて帰る。
長尾景虎。
史実では、義に厚い軍神と書かれる男。
だが、果たして。
阿蘇の大船は白波を割り、まだ見ぬ越後へ向かって進んでいった。




