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火の山の若君は、未来を夢に見る ~阿蘇家嫡流の若君、名臣甲斐宗運と乱世を切り拓く~  作者: アトラス


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第百七十八話 公方の荷

 白石が、碁盤の上で小さく転がった。


 からん、という乾いた音が、御座所の中に残る。


 惟種は、その石を見つめたまま、しばらく動けなかった。


 甲斐国の辺りが騒がしい。


 足利義藤は、まるで天気の話でもするように言った。


 だが、惟種には分かっている。


 これは、ただの世間話ではない。


 公方様が、宗運を外し、自分と二人きりで碁を打ち、その上でこの言葉を出した。


 つまり、本題である。


 惟種は、白石を拾い直した。


 指先に、少し汗がにじんでいる。


「甲斐国、にございますか」


「うむ」


 義藤は碁盤を見ていた。


 中央には、惟種が初手で置いた天元の黒石がある。


 その黒石から伸びた厚みは、いまや白石と絡み合い、盤全体に影を落としていた。


 義藤は、そこへ目を落としたまま言う。


「甲斐国というより、信濃じゃな」


 惟種の頭が、動き始めた。


 天文二十年。


 七月も終わりに近い。

 甲斐。

 武田晴信。

 信濃。

 村上義清。

 砥石。

 小笠原。

 長尾景虎。


 名が、次々と浮かぶ。


 武田晴信は、信濃へ手を伸ばしている。


 村上義清は、それを押し返してきた。


 砥石城をめぐる戦では、武田は大いに痛い目を見た。


 だが、そこで終わらなかった。


 今年五月、真田幸綱が砥石を落としたはずである。


 武田は、負けを力ではなく調略で返した。


 村上義清にとっては、むしろここからが苦しい。


 そこへ幕府が口を入れたい。


 いや、口を入れたいだけではない。


 幕府の顔を立て、さらに越後の長尾を公方様の側へ近づけたいのだ。


「村上義清殿と、武田晴信殿の争いにございますか」


 惟種が問うと、義藤は少しだけ目を細めた。


「さすが、早いな」


「早くございませぬ。嫌な名が、自然と並んだだけにございます」


「嫌な名か」


「遠すぎます」


 惟種は、率直に言った。


「阿蘇は九州の家にございます。甲斐、信濃の争いへ名を出したところで、どこまで届くか」


 義藤は、そこで碁盤から顔を上げた。


「届く」


 短い言葉だった。


 惟種は、義藤を見た。


「公方様」


「阿蘇の名は、そなたが思うより遠くへ届いておる」


 義藤の声は静かだった。


「九州を静め、禁裏を支え、大内の血を預かり、南蛮の大船を持ち、大筒を備え、島津、大友、相良、龍造寺、名和を一つ屋根に収めた。そなたは自分を遠国の若君と思うておるようじゃが、余や諸国から見れば、すでにそれだけでは済まぬ」


 惟種は、言葉を詰まらせた。


 外からどう見えているか。


 それは、惟種自身が思う以上に大きくなっている。


 自覚はある。


 だが、認めたくはない。


 認めれば、また仕事が増えるからである。


「三好も、このところは表立って動きを控えておる」


 義藤は続けた。


「阿蘇が京を重んじ、幕府と禁裏を軽んじぬと示したことは、大きい。日ごろの幕府への献身、誠に感謝しておる」


 惟種は、頭を下げた。


「阿蘇家として、当然のことにございます」


 言いながら、胸の内では別の声がした。


 来る。


 これは来る。


 烏丸光康は、礼のあとに銭を載せた。


 公方様は、礼のあとに天下の厄介事を載せようとしている。


 京の者は、なぜこうも礼の後に荷を載せるのか。


 惟種は、膝の上で白石を握った。


     ◇


「若君」


 義藤は、声を落とした。


「武田晴信と村上義清の間に、幕府の座を置きたい」


「……座」


「争いを止めよとは申さぬ。すぐに収まるものではあるまい」


 義藤は、意外なほど現実を見ていた。


「だが、戦が続けば信濃はさらに乱れる。村上は余へ訴え、武田は聞かぬ顔をする。小笠原も、長尾も絡む。放れば、幕府の名はますます軽くなる」


「そこで、阿蘇に」


「そなたに、行ってもらいたい」


 来た。


 惟種は、目を閉じそうになった。


 行く。


 甲斐か。


 信濃か。


 武田晴信と村上義清の間に入る。


 どう考えても、面倒である。


 しかも、遠い。


 遠すぎる。


 阿蘇の政は、まだ根が浅い。


 日向、大隅、府内、有馬、大村、伊東、肝付。


 学び所も、警邏方も、薬も、帳も、まだ走り始めたばかりである。


 琉球には、つい先日、火種を作った。


 陶隆房も、毛利も、山口も見ねばならない。


 神屋の船もある。


 朝廷への献金もある。


 加世、珠光、大内の名、嫡流のこともある。


 そのうえ、黒松の飼葉まで気になる。


 今、自分が九州を離れてよいのか。


 よいはずがない。


 だが、公方様が頼んでいる。


 しかも、先ほど自分は言った。


 公方様こそ日の本の天元にございます。


 阿蘇は、その御石を中心に動くのみ。


 言った。


 確かに言った。


 惟種は、自分で置いた黒石を恨みたくなった。


「公方様」


「うむ」


「完全な和睦は、難しゅうございます」


「分かっておる」


「武田晴信殿は、信濃を諦めませぬ。村上義清殿も、武田に膝を折る気はないでしょう」


「それも分かっておる」


「ならば、できることは限られます」


「申せ」


 惟種は、碁盤を見た。


 中央の黒石。


 隅を固める白。


 盤上の争いは、まだ終わっていない。


 全てを取るのは無理だ。


 だが、争いを一度止めることはできるかもしれない。


 嫌な形で、考えがまとまっていく。


「まずは、一時の停戦」


 惟種は言った。


「三十日、長くとも百日。兵を止め、互いに幕府の座へ出る形を作ります」


「うむ」


「捕虜、遺骸、人質の扱いは定めましょう。ここは双方が飲みやすい」


 義藤は頷いた。


「砥石や周辺の城の扱いは」


「決めませぬ」


 惟種は即答した。


「そこへ手を入れれば割れます。武田は得たものを即座には返さぬでしょう。村上も失ったものを簡単には諦めぬ。ですので、城の帰属は棚上げにします」


「棚上げ」


「はい。幕府の再沙汰を待つ、という形にします」


「武田は飲むか」


「飲ませるのではなく、飲まぬ理由を減らします」


 惟種の声は、少しずつ落ち着いていった。


 考えが形になり始める。


「武田には、得たものを即座に返せとは申しませぬ。その代わり、これ以上の押し込みをしばらく控えよと申します。村上には、幕府に訴える道を与えます。単なる敗者ではなく、公儀に訴え出た者として顔を立てる」


「長尾は」


「使います」


 義藤の目が動いた。


「長尾景虎をか」


「はい」


 惟種は頷いた。


「越後から入ります。春日山で長尾殿に会い、公方様の御内書をお渡しする。まだ公方様と面識なき御方なれば、阿蘇の副状も添えます」


「景虎が応じると思うか」


「応じる余地はあるかと」


 惟種は言った。


「越後の長尾殿も、京と公方様の名を欲しておられるはず。ならば、信濃の乱れを鎮める座に名を連ねることは、損にはなりませぬ」


「そなたが、越後へ」


「はい」


 惟種は、そこで義藤をまっすぐ見た。


「ただし、京へは入りませぬ」


 義藤の口が、ほんのわずかに動いた。


 何かを言いかけた。


 おそらく、上洛の話である。


 だが、義藤は言わなかった。


 今、それまで口にすれば、惟種が本気で怒る。


 あるいは、頑なに閉じる。


 そう見たのだろう。


 義藤は、静かに頷いた。


「よかろう」


「甲斐へも深くは入りませぬ」


「武田の本国へは行かぬか」


「行きませぬ。調停者が片方の本国へ入れば、公平に見えませぬ。それに、私が甲斐へ入れば、戻るまで心配が尽きません」


「阿蘇がか」


「私がです」


 義藤は少し笑った。


「正直じゃな」


「命は一つにございますので」


 惟種は続けた。


「船で越後へ向かいます。長尾殿の協力を得て、北信濃、善光寺周辺、あるいはそれに近い寺社に座を設けます。武田殿には、公方様の御内書と阿蘇の副状をもって出座を求めます」


「長くは」


「一月」


 惟種は、はっきり言った。


「長くとも一月で戻ります」


「短いな」


「九州を長く空けられませぬ」


「宗運がおる」


「宗運がいても、私が長く離れれば揺れます」


 その言葉に、義藤は少しだけ目を細めた。


 惟種は、自分の重さを分かっている。


 同時に、宗運の重さも分かっている。


 その両方を離せば阿蘇が傾くことも、よく分かっている。


「一月で、できるか」


「完全な和睦は無理です」


 惟種は再び言った。


「ですが、幕府の顔を立てる一時停戦と、調停座を置くことならば、やってみます」


「十分じゃ」


 義藤は満足げに頷いた。


「そなたならば、そう申すと思うた」


 惟種は、内心で思った。


 ならば、最初から宗運を入れてくれ。


     ◇


 惟種は、白石を碁笥へ戻した。


 そして、義藤へ向き直る。


「公方様」


「何じゃ」


「今回限りにございます」


 義藤の目が、少し動いた。


「何がじゃ」


「このように、宗運を外して話を進めることにございます」


 御座所の空気が、わずかに張った。


 惟種は、言葉を止めなかった。


「私は、公方様の御意を軽んじるつもりはございませぬ。幕府への忠義も、偽りではございませぬ。ですが、阿蘇の政は私一人で動いているわけではございません」


「宗運が要るか」


「要ります」


 即答した。


「宗運を外されては、話すべきものも話せなくなります。条件を切る者がいなければ、私は余計なことを言い、余計なものを背負います」


 自覚はある。


 今日もそうだった。


 天元だの、忠義だの、公方様を中心に動くだの。


 接待のつもりで言った言葉が、きれいに荷へ変わった。


 宗運がいれば、どこかで止めただろう。


 いや、止めきれずとも、条件をもっと早く切っただろう。


「次より、このような話には、宗運を必ず同席させていただきとうございます」


 惟種は、深く頭を下げた。


 失礼な話である。


 公方様の策を、正面から咎めているに近い。


 だが、ここで言わねばならなかった。


 義藤は、しばらく黙っていた。


 やがて、笑った。


「もちろんだとも」


 その声は柔らかい。


「余も、宗運の才を軽んじてはおらぬ。此度は、若君の碁を見たかっただけじゃ」


 嘘だ。


 惟種は、心の中でそう思った。


 だが、口には出さない。


 義藤も、惟種が信じていないことを分かっている顔だった。


「次は、宗運も交えて話そう」


「ありがたきことにございます」


「ただし」


 義藤は、少しだけ笑みを深めた。


「今日の碁は、また打つぞ」


「……承知いたしました」


「天元の続きを見たい」


「私としては、できれば穏やかな碁を」


「無理じゃな。そなたが初手天元など打つからじゃ」


 惟種は返す言葉がなかった。


     ◇


 義藤との対面が終わり、惟種は御座所を下がった。


 廊へ出ると、すぐに宗運が待っていた。


 その顔を見た瞬間、惟種は悟った。


 これは、叱られる。


 宗運は静かに頭を下げた。


「若君」


「宗運」


「何を背負われましたか」


 早い。


 あまりにも早い。


「まだ何も申しておらぬ」


「お顔に書いてございます」


「わしの顔は帳ではない」


「今日ほど読みやすい帳もございませぬ」


 惟種は、少しだけ目を逸らした。


 宗運の目が細くなる。


「公方様と二人きりで碁を打たれ、何を約されましたか」


「約というほどでは」


「若君」


「……武田と村上の調停だ」


 宗運の表情が、完全に消えた。


 惟種は、すぐに続けた。


「上洛はしない。甲斐へも深く入らぬ。船で越後へ行き、長尾景虎殿に会う。北信濃で座を設ける。長くとも一月で戻る。完全な和睦ではなく、一時停戦と調停座の設置だ」


 宗運は黙っていた。


 黙っている方が怖い。


「それと」


「まだございますか」


「次からは、必ず宗運を同席させるよう、公方様に申し上げた」


 宗運は、わずかに眉を動かした。


「それは、ようございました」


「だろう」


「ですが」


 来た。


 惟種は身構えた。


「なぜ、そもそも二人きりになられたのです」


「公方様が、碁を」


「なぜ、その時点で断られませぬ」


「公方様の御座所で、御本人から誘われて断れるか」


「断れずとも、私を同席させる言い方はございました」


「それは」


「若君」


 宗運の声が、少し低くなった。


「初手天元でも打たれましたか」


 惟種は固まった。


「なぜ分かる」


「分かります」


「いや、なぜだ」


「若君だからにございます」


 宗運は、深く息を吐いた。


「そして、何か余計な忠義の言葉を申されましたな」


 惟種は、さらに固まった。


「なぜ分かる」


「若君だからにございます」


「宗運」


「はい」


「怖い」


「怖いのは、こちらにございます」


 宗運は、そこで一歩近づいた。


「よろしいですか。公方様は遊びで碁を打たれたのではございませぬ。宗運を外し、若君から言葉を引き出すためでございます。それを、若君は」


「……接待のつもりで」


「接待で、甲斐と信濃を背負われたのですか」


「そう言われると」


「そうとしか言えませぬ」


 惟種は、完全に言い返せなくなった。


 その後、惟種は宗運にこっぴどく叱られた。


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同作者の別連載
『異世界エンゲージ ~毎日のパック開封でカード使いは帰還を目指す~』
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― 新着の感想 ―
物語を創るためにどんどん無理筋になっていっている気がします。
義理の父になる大内のターンで動けねーから手紙一枚にして返って変な火種焚べたのに、遠方も遠方のこれは流石にこれはねーわ。
あのあたり見たら海まで少しと、河沿いと、。河が狭いのはダムのせいなんですかね?川中島も観光地で、へーここがあでしたなあ。
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