第百七十七話 天元の忠義
阿蘇家には、公方様のための御座所がある。
普段は使われない。
年に一度、足を運ばれるかどうかも分からぬ場所である。
それでも、畳は常に替えられ、柱は拭かれ、庭は整えられていた。
池には水が澄み、石灯籠には苔がつきすぎぬよう手が入る。
風の通り道も、夏は涼しく、冬は寒すぎぬように工夫されていた。
公方様がいつ来られても、粗略に扱ったと思われぬように。
それは阿蘇家の忠義を形にした場所であった。
その日、足利義藤は、その御座所にいた。
阿蘇へ来ること自体、軽いことではない。
公方様が阿蘇にいる。
それだけで、家中は自然と背を正した。
しかし義藤は、堅苦しい評定を望まなかった。
惟種を呼び、穏やかに言ったのである。
「若君、一局打たぬか」
惟種は、一瞬だけ固まった。
「碁、にございますか」
「そうじゃ」
義藤は笑っていた。
「そなたとは、政の話ばかりしておる。たまには盤を挟んでもよかろう」
「は……」
惟種は、内心で少し困った。
やることはいくらでもある。
琉球への文。
島津との調整。
朝廷への献金の後始末。
学び所方の帳。
警邏方の報告。
ゴムの木の文。
神屋の船。
さらには黒松の飼葉の量まで、なぜか自分のところへ話が上がってくる。
一局打っている暇があるかと言われれば、ない。
だが、相手は公方様である。
断るわけにもいかない。
惟種は、頭を下げた。
「拙き腕でよろしければ、お相手仕ります」
「うむ」
義藤は満足げに頷いた。
その横で、宗運が静かに控えていた。
当然、同席するつもりである。
ところが、義藤は何気ない調子で言った。
「宗運」
「は」
「しばし外してよい。これは余と若君の遊びじゃ」
宗運の目が、ほんの少しだけ動いた。
遊び。
その言葉を、宗運は信じなかった。
公方様が、わざわざ碁を口実に若君と二人になる。
しかも自分を外す。
遊びであるはずがない。
「恐れながら」
宗運が口を開きかける。
義藤は柔らかく笑った。
「宗運がそばにいると、若君が盤ではなくそなたの顔を見てしまう。余は、若君の碁を見たいのじゃ」
そう言われれば、宗運も押せない。
公方様の御座所で、公方様本人がそう言っている。
宗運は、静かに頭を下げた。
「承知いたしました」
退く前に、宗運は惟種へ一度だけ目を向けた。
気をつけてくださいませ。
その目は、明らかにそう言っていた。
惟種は、軽く首を傾げた。
碁で何を気をつけるのだ。
そう思った。
宗運は、内心で小さくため息をつきながら部屋を出た。
◇
盤が置かれた。
碁笥が二つ。
黒石と白石。
義藤が白を取った。
「若君、先に打て」
「よろしいので」
「よい。余が見たいのは、そなたの初めの一手じゃ」
惟種は、黒石を一つ摘んだ。
石の冷たさが指先に伝わる。
囲碁は、かつての世で少しだけ習ったことがある。
深く極めたわけではない。
強い者から見れば、粗も多い。
それでも、ただの素人ではない程度には打てる。
惟種が好んだのは、中央であった。
隅を取るのも大事。
辺を広げるのも大事。
だが、中央に厚みを置き、全体を自由に動かす碁が好きだった。
盤の真ん中に石を置く。
そこから四方を見る。
自分を中心に、盤を回す。
それは、惟種の性に合っていた。
惟種は、迷わず石を置いた。
天元。
盤の中央に、黒石が一つ鳴った。
義藤の目が、はっきりと見開かれた。
「初手、天元か」
「はい」
「普通は、そこからは打たぬ」
「存じております」
「存じていて、打つか」
「性に合いますので」
義藤は、碁盤を見下ろした。
中央に置かれた黒石。
隅でも辺でもない。
ただ盤の真ん中に、ぽつりとある。
だが、不思議と軽くは見えない。
「そなたは、そこを好むのか」
「はい」
惟種は素直に答えた。
「中央に厚みを置き、四方を見て動く打ち方が、私には分かりやすうございます」
「隅を取らぬのか」
「取ります。ただ、先に真ん中が気になりまして」
「国もそうか」
義藤が、何気なく問うた。
惟種は、少しだけ笑った。
「さて、何のことでございましょう」
「とぼけるのは下手じゃな」
「よく言われます」
義藤は白石を置いた。
隅である。
正しい。
美しい。
公方様らしい一手だった。
惟種は、それを見て少し安心した。
義藤は碁を知っている。
こちらが無礼に見えぬ程度には、ちゃんと打たねばならない。
接待である。
接待ではあるが、あまりに手を抜けば逆に失礼になる。
惟種は、次の黒石を摘んだ。
◇
盤上に石が増えていく。
惟種の碁は、やはり少し変わっていた。
隅を軽く見ているわけではない。
だが、中心の黒石をどう生かすかを先に考える。
辺の石も、中央へ力を向けるように置く。
義藤は、それを楽しげに見ていた。
「そなたの碁は、気味が悪い」
「褒めておられますか」
「半分はな」
「残り半分は」
「やはり気味が悪い」
惟種は苦笑した。
「公方様の碁は、整っておられます」
「おべっかか」
「半分は」
「残り半分は」
「本心にございます」
義藤は声を出して笑った。
その笑いは、先ほどよりも少し柔らかかった。
「若君、そなたは口もそこそこ打つな」
「碁よりは、少し得意にございます」
「それは自慢にならぬ」
「では、碁も精進いたします」
惟種は、黒石を打った。
中央の黒が、少しずつ厚みを増していく。
義藤は、それを見ながら白を打つ。
隅を取り、辺を固め、中央へ無理には踏み込まない。
しかし、隙あらば黒の厚みを軽くするように置いてくる。
やはり、弱くない。
惟種は、少しだけ本気になった。
最初は御機嫌取りでよいと思っていた。
だが、打っているうちに盤が面白くなる。
前世でもそうだった。
自分は、天元から打つ碁が好きだった。
誰かに笑われても、変だと言われても、盤の中心に石を置くのが好きだった。
中心を取る。
そこから盤全体を見渡す。
自分を中心に回れ、と言っているようで、少し気持ちがよい。
だが、この場でそれをそのまま口に出すほど、惟種も愚かではない。
ここは、公方様の御座所である。
この碁は、接待でもある。
「公方様」
「何じゃ」
「先ほど、天元を好むと申しました」
「うむ」
「されど、今日の天元は、私ではございませぬ」
義藤の手が、止まった。
「ほう」
惟種は、碁盤の中央を見た。
黒石が一つある。
その石から、四方へ道が伸びていく。
「公方様こそ、この日の本の天元にございます」
義藤は黙った。
「阿蘇は、その御石を中心に動くのみ」
惟種は、深く頭を下げた。
「阿蘇家は、これまでも、これからも、公方様を中心として働きます」
言った。
言ってから、少しだけ言い過ぎたかと思った。
もちろん、おべっかである。
だが、完全な嘘ではない。
阿蘇家は、幕府の忠臣として立っている。
朝廷を支え、九州静謐を賜り、公方様にも礼を尽くしてきた。
ここで義藤の機嫌を取っておくのは悪くない。
そう考えた。
考えたかった。
義藤は、しばらく碁盤を見ていた。
やがて、ゆっくり笑った。
「うまいことを申す」
「恐れ入ります」
「碁より口の方が得意というのは、まことのようじゃな」
「少しだけにございます」
「少しではない」
義藤は白石を置いた。
その一手は、黒の厚みへ近づく手だった。
「だが、悪くない」
義藤の声は、先ほどよりも低かった。
「余を天元と言う者は、今の京には多くない」
惟種は、顔を上げなかった。
義藤は将軍である。
だが、将軍であるからといって、天下がそのまま従うわけではない。
三好。
公家。
寺社。
諸国の大名。
誰もが公方様を仰ぎながら、自分の利を見て動く。
義藤自身も、それをよく分かっている。
だからこそ、阿蘇のような遠国の大勢力が「公方様を中心に動く」と言う意味は重い。
惟種は、少しだけ場の空気が変わったことを感じた。
だが、それが何を意味するかまでは、まだ読めていなかった。
◇
対局は続いた。
義藤は思ったよりも強かった。
惟種は中央に厚みを作るが、義藤は隅と辺で確実に地を稼ぐ。
中盤、黒の厚みが白を圧迫し始めた時、義藤は巧みに石を捨てた。
惟種は取りに行く。
取った。
だが、その間に別の隅が大きく白地になった。
「あ」
惟種は、思わず声を漏らした。
義藤が笑う。
「若君、石を取るのが好きか」
「嫌いではございませぬ」
「石を取って、地を失うこともある」
「耳が痛うございます」
「政も同じじゃ」
義藤は、さらりと言った。
惟種は、碁盤を見た。
何気ない言葉。
だが、含みがある。
公方様は、ただ遊んでいるわけではない。
ようやく、惟種も少し気づき始めた。
宗運の目を思い出す。
気をつけてくださいませ。
あれは、こういう意味だったのか。
遅い。
自分でもそう思った。
しかし、盤の上はもう終盤に入っている。
今さら逃げられない。
義藤は、穏やかに白を置いた。
「三好も、このところは大人しい」
惟種の手が止まった。
「それは、何よりにございます」
「阿蘇が京を重んじ、禁裏を支え、幕府へも忠義を尽くしてくれている。そのことは、余もよく知っておる」
「恐れ多きことにございます」
「日ごろの献身、誠に感謝する」
義藤の声は、穏やかだった。
惟種は、頭を下げた。
「阿蘇家として、当然のことにございます」
その言葉も、半分は礼である。
半分は、本心でもある。
だが、惟種の背中には、嫌な汗が浮かび始めていた。
京の者は、礼のあとに荷を載せてくる。
烏丸光康で、身に染みている。
そして今、義藤もまた、礼を述べている。
碁盤の上では、白石が静かに黒の厚みへ寄ってきていた。
◇
終局には至らなかった。
盤上はまだ争いを残している。
中央の黒は厚い。
しかし、白は隅と辺で堅い。
どちらが良いか、すぐには言えない。
義藤は、白石を碁笥へ戻し、碁盤を見つめた。
「打ち掛けとしよう」
「承知いたしました」
「なかなか面白い碁であった」
「公方様の御相手が務まりましたなら、幸いにございます」
「務まった」
義藤は、惟種を見た。
「若君、そなたの忠義には、改めて感謝する」
「恐れ入ります」
「阿蘇が余を天元と見る。その言葉、忘れぬ」
惟種は、ここでようやく、自分が言質に近いものを差し出したことに気づいた。
だが、もう遅い。
公方様は笑っている。
とても機嫌がよい。
接待としては成功である。
成功であるはずだった。
惟種は、白石を一つ手に取った。
盤上の形を眺めながら、次に打つならどこかを考える。
その時である。
義藤が、何気ない口調で言った。
「ところで」
「はい」
「甲斐国の辺りが、騒がしくてな」
白石が、惟種の指から滑り落ちた。
からん、と乾いた音がした。
碁盤の上で、白石が一つ転がる。
惟種は、その石を見つめたまま動けなかった。
公方様の御座所には、静かな風が通っていた。
盤の中央には、初手で置いた天元の黒石がある。
その石から広がった厚みは、いつの間にか、遠い甲斐国の騒ぎへとつながろうとしていた。




