第百七十六話 灯を守る影
琉球よりの使い、天界寺叔和尚が去ってから、幾日かが過ぎた。
阿蘇の館では、表向きには何も変わっていない。
琉球へ返す文は、丁寧に整えられた。
ゴムの性質。
育て方。
必要な温かさ、水、土、日差し。
そして、琉球の面目を害さぬこと。
阿蘇の者が勝手に奄美へ入ることはないこと。
試す場合は、琉球王府の定めに従うこと。
宗運は、奄美という名を薄くし、琉球という名を重くした。
惟種は、その文を読み、深く頷いた。
自分の不用意な一言を、宗運が形に直してくれた。
そう思っていた。
だが、その裏で、別の話が始まろうとしていた。
◇
夜。
館の奥にある小さな一室に、三人が集まっていた。
甲斐宗運。
島津貴久。
島津日新斎。
惟種はいない。
阿蘇惟豊もいない。
文を取る者も置かれていない。
灯は一つ。
外の廊にも人払いがされていた。
最初に口を開いたのは、日新斎であった。
「宗運殿」
「はい」
「若君は、素晴らしき御方じゃな」
宗運は、少しだけ目を伏せた。
「身に余る御言葉にございます」
「謙遜はよい」
日新斎は、ゆるく笑った。
「あの若さで、九州をここまで動かした。田、蔵、道、薬、船、学び所。さらに京、大内、毛利、土佐、伊予、琉球、南蛮。見ておる先が、常の者とは違う」
「若君の御考えは、確かに遠うございます」
「そして、それを形にしているのが宗運殿じゃ」
日新斎の目が、宗運へ向いた。
「若君が言葉を出す。宗運殿が、帳に落とし、蔵に落とし、人に落とし、寺社に落とし、民の腹に落とす。阿蘇は、その二つで動いておる」
貴久も静かに頷いた。
「若君の考えだけでは、夢に近いものもございましょう。宗運殿が整えられるゆえ、国の形になる」
宗運は否定しなかった。
否定できる話ではない。
惟種の言葉は、時に遠すぎる。
時に荒すぎる。
時に、今の世の境を軽く踏み越える。
宗運は、そのたびに言葉を選び、帳を作り、人を置き、時に毒を抜き、時に毒を混ぜてきた。
それが自分の役目であると、宗運は知っていた。
日新斎は、声を低くした。
「逆に申せば、どちらかが欠ければ阿蘇は傾く」
部屋の空気が、少し重くなった。
「若君が欠ければ、阿蘇は灯を失う。宗運殿が欠ければ、その灯を置く台が崩れる」
「過分な評価にございます」
「過分ではない」
日新斎は、はっきり言った。
「だからこそ、島津も一翼を担わねばならぬ」
宗運は、静かに顔を上げた。
貴久は、黙って日新斎の言葉を受け継いだ。
「島津は、すでに阿蘇家中の南の柱にございます。ただ兵を出すだけでは足りませぬ。海、琉球、奄美、薩摩筋。そこに関わる表に出しにくき事は、我らが先に受けるべきかと」
宗運は、二人を見た。
「表に出しにくき事、と申されますか」
「申す」
日新斎は、笑みを消した。
「若君は優しい」
その言葉は、褒め言葉であった。
同時に、危うさを指す言葉でもあった。
「琉球の件もそうじゃ。奄美の名を軽く出した。だが、奪うつもりで出したわけではない。木を育てたい。人を利したい。国の足にしたい。若君の腹はそうであろう」
「おそらく」
「だが、国と国の間では、善意も刃になる」
「はい」
「これまでのことも同じじゃ。若君は民を飢えさせたくない。病を減らしたい。道を通したい。学ばせたい。だが、そのために家を潰される者、権を失う者、名だけ残され中身を阿蘇に取られる者もおる」
「おります」
「それらの怨みを、若君一人に向けさせてはならぬ」
宗運は、ゆっくり頷いた。
「分かっております」
日新斎は、宗運の目を見た。
「宗運殿も、すでにやっておられるな」
問いではなかった。
確認である。
宗運は、しばらく黙った。
やがて、静かに答えた。
「はい」
◇
宗運の手は、すでに白くはない。
敵方の重臣を割った。
寺社に語らせた。
木版の絵で、若君を阿蘇大明神の加護ある者として民へ広めた。
市に噂を流し、山に噂を沈めた。
ある者を生かし、ある者を遠ざけ、ある者の名を帳から薄くした。
刃を使ったこともある。
毒のような文を送ったこともある。
敵が自ら崩れるよう、橋の板を一枚ずつ抜いたこともある。
それらは、惟種の言葉だけではできない。
また、惟種にその全てを背負わせるべきではない。
「若君は、すべてを知らぬわけではございませぬ」
宗運は言った。
「ただ、細部までは聞かれませぬ。聞けば、おそらく止めることもある。止めれば、救えるはずの民が救えぬこともある」
貴久が静かに言った。
「若君は、濁りも呑まねばならぬと思っておられる」
「はい」
「されど、濁りを呑んだ顔が民に見えれば、阿蘇の灯は曇ります」
宗運は、その言葉を受け止めた。
阿蘇の灯。
それは、宗運が作ったものでもある。
若君は民を救う。
若君は薬をもたらす。
若君は道を開く。
若君は飢えを減らす。
若君は阿蘇大明神に守られている。
惟種は嫌がった。
自分を神の使いのように扱うな、と。
だが、宗運は押し切った。
民には、分かりやすい灯が要る。
阿蘇の新しい政は、まだ根が浅い。
だからこそ、若君という灯を守らねばならない。
「私は」
宗運は、ゆっくりと言った。
「若君を、若君として綺麗なまま、阿蘇の座にお座りいただきたいと思っております」
日新斎は黙って聞いていた。
「それは、若君に何も見せぬという意味ではございませぬ。若君を飾りにしたいわけでもございませぬ。あの方の考えがなければ、阿蘇はただの大きな武家に戻ります」
「分かっておる」
「若君の御名が、民にとって灯であり続けるようにする。それが、私の忠義にございます」
貴久は、深く頭を下げた。
「ならば、その忠義の一部を島津にも担わせていただきたい」
宗運は、貴久を見た。
貴久の顔は若い。
だが、そこには島津の当主として、そして惟種の義父としての覚悟があった。
「若君は、我が婿でもございます」
貴久は静かに言った。
「されど、それ以上に、いま島津が仰ぐ御屋形にございます。阿蘇の灯を守ることは、島津の家を守ることでもございます」
日新斎が頷いた。
「島津は、阿蘇の南を預かる。ならば、南より来る影も、まず島津が受けるべきじゃ」
「南は、我らが見ます」
貴久は言った。
「琉球、奄美、薩摩の海、南蛮との口。そこに生じる濁りは、我らが先に受けましょう」
日新斎が低く笑った。
「若君には、火を消す方を担っていただく」
宗運の目が少し動いた。
「火、でございますか」
「火の元を見つける。煙が上がれば、どこから上がったかを見る。必要ならば、風の向きを読む。燃え広がったなら、若君が大義をもって鎮める」
日新斎の声は、淡々としていた。
「若君には、火の粉を浴びせぬ」
部屋の灯が、わずかに揺れた。
黒い言葉だった。
だが、戦国の政とは、そういうものでもある。
火の元を見る。
風を読む。
大義を整える。
そして、火が消えた後には、阿蘇の道が通り、薬が入り、帳が置かれ、蔵が整い、民が阿蘇を見る。
宗運は、静かに目を伏せた。
「日新斎殿」
「何じゃ」
「その火は、若君の足元へ移してはなりませぬ」
「無論じゃ」
「民を焼きすぎてもなりませぬ」
「それも心得ておる」
「家を潰すにしても、名は残す。逃げ道も用意する。若君が手を差し伸べられる余地を残す」
「阿蘇のやり方じゃな」
「はい」
宗運は、そこで初めて深く頭を下げた。
「是非、お願い申し上げます」
貴久も、日新斎も、その頭を受けた。
◇
「手始めは、琉球にございましょう」
貴久が言った。
「叔和尚は、笑って帰りました。されど、腹では必ず警戒を強めております」
「当然じゃな」
日新斎が頷く。
「若君の奄美の一言は、琉球には刃に聞こえたであろう」
「はい」
宗運は言った。
「こちらから押せば、琉球は閉じます」
「ならば、押さずに入る」
日新斎は笑った。
「寺、商人、通詞、港、贈答。島津は、そこに古き口を持てます」
貴久は続けた。
「今すぐ琉球をどうこうする話ではございませぬ。尚清王はまだ健在。王府も明との筋を持っております。無理に揺らせば、こちらが損をします」
「では」
宗運が問う。
「尚元王子にも目を置きます」
貴久の声は静かだった。
「あの御方が王位に近づくか否かは、今はまだ分かりませぬ。されど、王府の内で重きをなす日は来ましょう」
「周りを見る、と」
「はい。ただし、表には出しませぬ。尚元様へ直接手を伸ばすのではなく、その周囲に、阿蘇と島津を悪く思わぬ者を増やす。寺社筋、商人筋、奄美筋、港の役人、通詞。そこへ細く糸を入れます」
宗運は頷いた。
「よろしい」
「贈り物は、武具ではなく、薬、靴、水を弾く布、船の隙を埋める材。その価値を王府に見せます」
「阿蘇の政そのものは入れぬ」
「はい。いきなり帳や学び所を持ち込めば、王府は閉じます」
「まず物を入れる」
「物の次に、人が入ります」
日新斎が楽しげに言った。
「そして人の次に、言葉が入る」
宗運は、日新斎を見た。
「阿蘇の名を急に広めすぎてはなりませぬ」
「分かっておる」
「琉球は、明の目を恐れます。阿蘇が琉球を従えたと見られれば、王府は反発します」
「ゆえに島津が窓口となる」
貴久が答えた。
「琉球には、薩摩との古き往来の延長に見せます。表には島津を立てる。されど、筋目はすべて阿蘇へ通します」
「実際には」
宗運が問う。
「阿蘇の意を受けます」
貴久は迷わず答えた。
「よろしい」
宗運は、小さく頷いた。
◇
日新斎は、膝の上で指を組んだ。
「琉球は、まだ敵ではない」
「はい」
「だが、敵になった時に慌てるようでは遅い」
「同感にございます」
宗運が答えた。
「琉球が王府の警戒を強めるなら、それもよい。警戒すれば、守る場所が分かる。恐れているものが分かる」
貴久が頷いた。
「奄美でしょう」
「奄美じゃな」
日新斎が言う。
「ならば、奄美の有力者を見ます。誰が王府に近く、誰が不満を持ち、誰が商いを欲し、誰が薩摩との口を欲しがるか」
宗運は、静かに言った。
「一つ、定めておきたい」
「何でございましょう」
貴久が問う。
「若君の大義を、偽ってはなりませぬ」
日新斎の目が、少し細くなった。
「と、申すと」
「若君が立つ時、そこには必ず本物の大義が要ります。民が飢えている。王府が虐げた。海賊が暴れた。病が広がった。約が破られた。何でもよい。されど、嘘だけで若君を動かしてはなりませぬ」
宗運の声は、少し強かった。
「火を大きくすることはあっても、無い火を作って若君に見せることは避けたい」
日新斎は、しばらく黙った。
やがて、静かに笑う。
「宗運殿も、線を引かれるか」
「線を引かねば、ただの外道にございます」
「なるほど」
日新斎は頷いた。
「よかろう。火種は探す。風は送る。されど、火の無いところに、若君の名で火事を作らぬ」
「はい」
貴久も頭を下げた。
「心得ました」
宗運は、二人の返答を受け、少しだけ肩の力を抜いた。
◇
「しかし」
日新斎が、ふと笑った。
「若君がこの話を聞けば、何と言うかのう」
「怒られましょう」
宗運が即答した。
貴久が少し笑う。
「お止めになるでしょうか」
「止められるものもあるでしょう。止められぬものもあるでしょう」
「ならば、聞かせぬ方がよい」
日新斎は、悪びれずに言った。
宗運は、少しだけ苦い顔をした。
「聞かせぬこともまた、忠義にございますか」
「そういう忠義もある」
日新斎の声は、柔らかかった。
「若君は、まっすぐ過ぎる。だが、まっすぐだからこそ、人が集まる。曲がる役は、我らでよい」
宗運は、その言葉を静かに受け取った。
まっすぐな者を、まっすぐなまま立たせる。
そのために、周りが曲がる。
それは、歪んだ忠義かもしれない。
だが、戦国の家を守る忠義とは、そういう歪みを含むものでもある。
「若君はいずれ、気づかれましょう」
宗運は言った。
「全てではなくとも、何かしらは」
「その時は」
貴久が問う。
「叱られます」
宗運の答えは早かった。
日新斎が大きく笑いかけ、声を抑えた。
「それでよいのか」
「はい」
宗運は、静かに答えた。
「叱られる役も、必要にございます」
「なるほど。宗運殿は忙しいな」
「若君が大きくしすぎたのでございます」
「それは違いない」
三人の間に、少しだけ笑いが生まれた。
だが、その笑いは長く続かなかった。
すぐに話は、具体へ移った。
◇
琉球へ送る贈答。
島津経由の文の文言。
天界寺筋への返礼。
奄美で見るべき家。
港に出入りする商人。
南蛮人の噂。
明船との関わり。
尚元王子の周囲。
王府内で、外との商いに積極的な者。
慎重な者。
阿蘇の品に興味を示しそうな者。
反発しそうな者。
貴久が南の実情を語り、日新斎が古い縁を思い出し、宗運がそれを帳にせず頭へ置いた。
文には残さない。
残すべきものではない。
ただ、動く者には伝える。
寺へ。
商人へ。
船手へ。
島津の者へ。
阿蘇の名は出しすぎず、しかし阿蘇の品は見せる。
島津が窓口となり、阿蘇は遠くにいる。
琉球が警戒を強めれば、その警戒の向きから王府の腹を読む。
奄美が揺れれば、その揺れの根を見る。
今すぐ取るのではない。
今すぐ従えるのでもない。
種を撒く。
ただし、撒いた者の名は見せない。
◇
夜が深くなった。
灯の油が少し減っている。
日新斎は、最後に宗運へ向き直った。
「宗運殿」
「はい」
「我らは、若君を担ぐのではない」
「はい」
「若君を利用するのでもない」
「はい」
「若君の見ておる先へ、阿蘇を届かせる。そのために、我らが影を受ける」
宗運は、深く頭を下げた。
「そのお言葉、ありがたく存じます」
貴久も頭を下げた。
「島津は、阿蘇の南の影を担います」
「頼みます」
宗運は短く答えた。
余計な言葉は要らなかった。
三人は、それぞれの立場を理解している。
惟種は灯である。
その灯は、民を集める。
だが、灯があるところには、必ず影ができる。
影を誰が担うのか。
この夜、その一部が決まった。
◇
会合が終わり、宗運は一人で廊へ出た。
夜風が冷たい。
遠くの厩では、黒松が小さく鼻を鳴らしたような音がした。
惟種は、今ごろ眠っているだろうか。
あるいはまた、何か新しいことを考えているのか。
宗運は、薄く笑った。
「若君」
誰に聞かせるでもなく、呟く。
「あなた様の灯は、まこと手がかかります」
その声には、呆れと、誇りと、忠義が混じっていた。
宗運の手は、これからも白くはならないだろう。
だが、それでよい。
若君が民の前でまっすぐ立てるなら。
阿蘇という家が、灯を掲げ続けられるなら。
自分の手がいくら汚れても、それは忠義である。
宗運は、夜の闇へ目を向けた。
南の海では、琉球が警戒を強めている。
そのさらに奥で、島津の糸がゆっくり伸び始める。
火種は、まだ小さい。
だが、火種を見る目は増えた。
灯を守るための影が、この夜、三つ重なったのである。




