第十八話 歯のある道具
天文十四年(1545年)八月
鍛冶場の火は、もう珍しいものではなくなっていた。
矢部の外れへ行けば、朝な朝な煙が立ち、鉄を打つ音が聞こえる。最初のうちは「若君がまた妙なことを始めた」と面白がっていた者たちも、今では釘や鍬先の出来を見て、口の利き方を少し変えていた。
役に立つものは、それだけで強い。
惟種は炉の前に立ち、汗を拭った。
七月の終わりに試した改良炉は、うまくいった。炉床の下へ石と砂利を敷いて湿気を逃がし、土を選び、炭の大きさを揃え、風の通りを少し整えただけで、火の機嫌が目に見えて変わった。
鍛冶の親方は最初こそ疑っていたが、今はもう認めている。
「前より火が安定します」
宗傳が言った。
「鉄の歩留まりも少し良いようですな」
「少しで十分だ」
惟種は炉の口を見たまま答えた。
「少し良いが積もれば、大きい」
「まことに」
田代 宗傳は、そう言って笑った。
鍛冶場の改良はひとまず形になった。山見も進んでいる。黒川、長陽、永水――鉄気ある山の話は集まり始め、いずれ試し掘りへ入る段取りも見えてきた。
だが、惟種の頭の中では、次の手がもう決まっていた。
兵ではない。
まずは田だ。
その日の鍛冶場には、いつもより少し奇妙なものが並んでいた。長い木枠、細かく切った鉄の歯、歯を留めるための細い金具。鍬先でも釘でもない。
宗傳が、その木枠を指した。
「これが若君のお望みのものにございますか」
「まだ半分だ」
「半分」
「歯を並べる」
そう言って、惟種は木枠の前にしゃがみこんだ。
鍛冶の親方と光永 惟清が、その横で待っている。光永はもう煤まみれでも気にしない顔になっていた。
「ただの扱箸では遅い」
惟種は木枠に指を置いた。
「一本ずつしごいておれば、手が足りぬ。人が足りぬ。稲束をもっと早くこけねばならぬ」
「それで歯を増やす、と」
宗傳が言う。
「うむ。束を一度に何本も通せばよい」
鍛冶の親方が唸る。
「歯が多ければ、折れますぞ」
「折れぬようにする。歯は長すぎぬこと、根元を厚くすること、木枠の留めを強くすること」
惟種は前世の知識をそのまま思い出していた。千歯扱き。江戸時代の農具革命の一つ。これを今ここで出すのは、たしかに時代を飛ぶ。
だが、それでいい。
未来を持ってきてこそ転生の意味がある。
「歯の間は、あまり詰めすぎぬ方がよろしいですかな」
光永が板へ書きつけながら聞く。
「うむ。稲の穂先が通り、藁が引っかかりすぎぬくらい。最初は粗く、あとで詰める」
宗傳が苦笑した。
「若君は、まるで昔から使ってきたように申されますな」
「夢で何度も見た」
もう、それで通すしかない。
親方はしばらく無言で鉄の歯を見ていたが、やがて一本を手に取った。
「面白い」
短い一言だった。
それだけで十分だった。この男が面白いと言うなら、やる価値がある。
惟種は立ち上がる。
「これは稲をこく道具だ」
「名は」
宗傳が聞く。
惟種は少し考えたあと、そのまま言った。
「千歯扱き」
宗傳が目を瞬かせる。
「歯が千はありませんぞ」
「多ければ千に見える」
宗傳は一拍おいて、ふっと笑った。
「若君らしい名ですな」
それで決まりになった。
鍛冶場の片隅で、鍛冶たちが鉄の歯を整え始める。木工の者が枠を削り、光永が寸法を書き、宗傳が実際に持てる高さと角度を見ている。
惟種はそれを見ながら、次の案を口にした。
「鍬も変える」
「まだございますか」
「ある」
今度は別の木板を引き寄せる。そこには鍬の図が描いてあった。ただの平鍬ではない。先が分かれ、土を砕きやすくした形だ。
「爪を分ける」
親方が顔をしかめた。
「草取り用ですかな」
「草取りにも使える。土をほぐし、畝間をさらい、水の回りを整える。深く起こす鍬と、浅くほぐす鍬を分けるのだ」
宗傳が頷く。
「役目を分けるわけですな」
「ひとつの道具で何でもやろうとするから、何もかも半端になる」
それは農具の話であり、組織の話でもあった。
宗傳はすぐにそこまで読んだらしいが、何も言わなかった。
「これは名が要りますかな」
光永が聞く。
「爪鍬でよい」
「若君鍬、では」
「やめよ」
すぐさま却下すると、近くにいた政久が吹き出した。
北里 政久は、いつの間にか背後に来ていたらしい。
「でも、そのうちそう呼ばれますぞ」
「呼ばせぬ」
「無理にございます」
政久はにやにやしている。こいつは本当に、人の嫌がることをよく知っている。
そのまま惟房も入ってきた。高森 惟房はいつも通り寡黙だったが、今日は試作の爪鍬を手に取って重さを確かめていた。
「軽い」
「重くすると女や年寄りが使いにくい」
「田では役立つか」
「役立たせる」
惟房はそれ以上は言わず、静かに頷いた。
さらに惟種はもう一つ、木で作らせた道具を持ち上げた。板を横へ広くした、単純な引き具だ。
「これは」
「田面を均す」
宗傳がすぐ理解した。
「苗の間を揃えるためですな」
「うむ。水の深さが揃えば、苗の育ちも揃う。田が均されておれば、植えも楽になるし、水も偏らぬ」
派手さはない。だが、こういう地味な改善が一番効く。
鍛冶場で生まれるのは、何も鉄の塊だけではない。田のやり方そのものを変える道具だ。
その日のうちに、惟種は試作品を持って試験田へ向かった。
山から吹き下ろす風はまだ暑い。だが、田の色はもう夏の青一色ではなかった。穂が重くなり始め、ところどころに黄が差し始めている。
最初に試した田だ。
土の均し、水の回し、苗の間、種の選り、追肥の工夫――すべてを小さく試した場所。
見ればわかる。
去年より、いや、他の田より、明らかに穂の揃いが良い。
惟種は畦に立ったまま、しばらく黙った。
(きたな)
まだ刈り取り前だ。だが、ここまで穂が揃い、株がしっかりしていれば、結果はもう見え始めている。
後ろから、地元の老農が近づいてきた。前から試験田を預かっていた男だ。
「若君」
「どうだ」
老農は田を見て、ゆっくり言った。
「同じ田とは思えませぬ」
その一言が、何より重かった。
「そこまでか」
「はい。穂の揃いが違う。倒れも少ない。株の張りも良い。何より」
老人は一本抜き取るようにして見せた。
「実がよく入っております」
惟種は受け取り、穂先を指で撫でた。たしかに、軽くない。詰まっている。
宗傳も田へ下りてきて、周りを見回す。
「目で見てわかるほどですな」
「これなら百姓も信じるだろう」
「ええ。口で百を申すより、田ひとつの方が強うございます」
そこへ政久が、別の田から走ってきた。
「若君! あちらの者らも見に来ております!」
見ると、少し離れた畦に近隣の百姓たちが数人立っていた。最初は遠慮がちだったが、もう隠す気もないらしい。皆、試験田の穂を見て、低い声で何か言い合っている。
「よい。見せておけ」
「よろしいので?」
「むしろ見せるためにやっておる」
惟種がそう言うと、宗傳が感心したように笑った。
この段階では秘すべきものと、見せるべきものがある。鍛冶や山見の細部は隠す。だが、田の実りは見せるほどよい。腹を減らす者にとって、豊作は何より強い説得だ。
惟房が試作の千歯扱きを地に下ろした。
「これを使うのは、刈ってからか」
「うむ。まずは少しだけ束で試す」
「藁が絡まぬとよいが」
「絡んだら直す」
惟種は、そう言い切った。
未来の道具だからといって、一度で完璧にできるわけではない。むしろ最初は壊れ、曲がり、重すぎ、軽すぎ、歯の間が合わず、何度も失敗するはずだ。
だが、方角はもう合っている。
老農が、試作の千歯扱きを見て首をひねる。
「それは何です」
「稲を早くこく道具だ」
「こんな歯の多いもので」
「だから試す」
老農は半信半疑の顔をしていたが、試験田の穂を見たあとでは、まったく笑わなかった。
信じきれぬ。だが、無視もできぬ。
それで十分だ。
そこへ、遠くから馬の音が近づいた。
甲斐 宗運だった。
宗運は馬を下りると、まず田を見た。そして少しだけ目を細めた。
「これは、よい色になりましたな」
「まだ刈ってはおりませぬが」
「刈る前にわかることもあります」
宗運は畦へ上がり、周囲の田と見比べた。
「揃いが違う。株も強い。倒れも少ない」
「ええ」
宗傳が応じる。
「今年の試しは、かなり効いております」
宗運は惟種へ目を向けた。
「若君。これを一村だけの話で終わらせるおつもりはありますまい」
「無論だ」
「ならば、どこまで広げるか考えねばなりませぬ」
「まずは来年、近い村からだ。全部に一度では無理だ」
宗運が頷く。
その顔を見て、惟種は少しだけ安堵した。宗運も、もうこれを“童の思いつき”ではなく、“家の施策”として見ている。
「それと」
惟種は、千歯扱きを見下ろした。
「収穫の後、これを試す」
宗運が道具へ目をやる。
「これが、歯のある扱きですか」
「はい。早くなります」
「どれほど」
「今までより、かなり」
「それは、だいぶ曖昧ですな」
惟種は少し口元を上げた。
「使えばわかる」
宗運はそれを聞いて、珍しく声を立てずに笑った。
「若君も、ずいぶん職人の言い方を覚えましたな」
刈り入れ前の田は、風が渡るたびにさざめいた。
その音の中で、惟種は静かに思う。
田が増え、実りが増え、こくのが早くなれば、人手が浮く。浮いた人手は別の仕事へ回せる。市へ、鍛冶場へ、運びへ、守りへ。
すべてはつながる。
飯は兵より先だ。だが飯が増えれば、その先で兵も増やせる。
父も宗運も、そこをもう見ている。
老農がぽつりと言った。
「若君」
「なんだ」
「今年のこの田を見た者は、来年、真似したがりますぞ」
「それでよい」
「ただ、上手くいかなかった田の者は拗ねます」
惟種は、なるほど、と思った。
技術が効けば効くほど、差が生まれる。その差は、羨みや妬みにもなる。
「ゆえに、見せる順を考えねばならぬな」
宗運が即座に言う。
「はい。豊かにする策は、争いの種にもなります」
惟種は頷いた。
戦は槍だけで起きるのではない。配り方でも起きる。
だからこそ、仕組みとして広げねばならない。
光永が板へ新しく書き加えていた。
一、鍛冶場
二、試し炉
三、千歯扱き
四、爪鍬
五、田面均し
六、来年の広げ方
惟種はそれを見て、ふっと笑った。
「六が一番難しいな」
「はい」と宗傳。「ですが、そこまで含めて若君の策にございます」
政久が畦の向こうを見た。
「百姓ども、もうかなり集まっております」
「よい」
惟種は試験田の前へ一歩出た。
見物の百姓たちがざわめきを止める。
まだ若君の声は高い。だが、この場ではそれで十分だった。
「よく見ておけ」
風が渡る。
田が黄金を含んだ緑に揺れた。
「今年のこの実りは、偶然ではない。田を揃え、水を揃え、種を選り、手を加えたからだ。来年、欲しい者にはやり方を教える。だが、楽にただ増えるとは思うな。手も要る、工夫も要る、守る気も要る」
百姓たちは黙って聞いていた。
誰も笑わない。
もう、笑う段階ではないのだ。
目の前に結果がある。
「そして刈り取りの後には、もっと早くこける道具も見せる」
ざわ、とまた空気が揺れた。
宗運が横で小さく息を吐いた。言うなり広げたな、という顔だったが、止めはしなかった。
惟種は試験田を振り返る。
八月の終わり。まだ収穫前。だが、勝ちの形はもう見え始めていた。
鍛冶場の火が田へ下り、田の実りがまた家の力へ戻ってくる。
その流れが、今ここにでき始めている。
(次は、刈って、こいて、数字で見せる)
そうなればもう、家中の見方もさらに変わる。
童の夢ではない。阿蘇が太る道だと。
宗傳が隣で静かに言った。
「若君」
「うむ」
「これは、かなり大きくなりますな」
惟種は田を見たまま答えた。
「大きくする」
風がまた吹いた。
穂が揃って頭を垂れ、夏の終わりの光を受けて、重たく波打った。




