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火の山の若君は、未来を夢に見る ~阿蘇家嫡流の若君、名臣甲斐宗運と乱世を切り拓く~  作者: アトラス


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第百七十一話 黒松

 神屋寿禎が、再び阿蘇の館を訪れたのは、聖十字架の地へ向かう船の話が決まってから、しばらく後のことだった。


 船の支度は、まだ始まったばかりである。


 宗運が定めた条件は多い。


 船は売らぬ。

 預ける。


 大筒の台座は外す。

 船倉の一部は簡略にする。

 羅針も海図も測りの道具も、貸し与えるだけ。

 船手も船大工も、阿蘇が選ぶ。

 帰る港も、阿蘇が決める。

 神屋家は誓紙を出す。

 南蛮人を乗せるなら、船の奥へは入れぬ。


 その一つ一つを、神屋は文句も言わず受け入れた。


 商人にとって、縛りとは信用である。


 神屋はそう言った。


 宗運は気に入らぬ顔をしたが、結局その言葉を否定しなかった。


 その神屋が、この日、妙なものを連れてきた。


 いや、妙なものと言うには、あまりに大きい。


 阿蘇の館の厩近くに、人が集まっていた。


 馬である。


 ただし、倭馬ではなかった。


 黒毛。


 大きい。


 首が太く、胸が厚く、脚も逞しい。


 周囲の馬と比べると、まるで別の生き物のように見えた。


 惟種は、その馬を見上げて、しばらく言葉を失った。


「……でかぁ」


 思わず出た声だった。


 宗運が、横で目を細める。


「若君」


「いや、これはでかいだろう」


「確かに大きゅうございますが」


「黒王号か」


「何でございますか」


「いや、何でもない」


 惟種は、馬の周りをゆっくり回った。


 黒い。

 大きい。

 強そうである。


 松風か。

 黒王号か。


 そう思いかけて、惟種は口を閉じた。


 この時代に、その名を口に出しても伝わらない。


 神屋寿禎は、満面の笑みで頭を下げた。


「若君へ、お礼にございます」


「礼?」


「はい。船の件、神屋家に大きな役目をお与えいただきました。その御礼として、ぜひとも若君へお納めしたく」


「待て」


 惟種は手を上げた。


「礼で馬を持ってくるのか」


「馬にございます」


「見れば分かる」


「しかも、ただの馬ではございませぬ」


「それも見れば分かる」


 神屋は嬉しそうだった。


 宗運は、少しだけ嫌そうだった。


 惟種は、もう一度馬を見た。


 馬も惟種を見た。


 黒い目が、どこか静かだった。


 暴れる様子はない。

 だが、力を内にためているような気配がある。


「どこから手に入れた」


 惟種が問うと、神屋は待ってましたとばかりに答えた。


「南蛮人の伝手にて手に入れました。ポルトガルの血を引く馬、と聞いております」


「ポルトガルから直に来たものか」


「そこまでは定かではございませぬ。途中の港で替えられたものかもしれませぬ。されど、この体、この脚、この胸。倭馬ではございませぬ」


「だろうな」


 惟種は頷いた。


 倭馬は小さい。


 山道や悪路には強いが、体格そのものは大きくない。


 目の前の黒馬は、それらと明らかに違った。


「ほかにもいるのか」


「はい」


 神屋は得意げに笑った。


「この一頭を若君へ。ほかに、雌を含めて数頭、入る目途がございます。追って阿蘇へ納められるかと」


 宗運の目が動いた。


 ただの贈り物ではない。


 馬の血を阿蘇へ入れるという話である。


 惟種も、それは分かった。


「……まあ、ありがたいといえばありがたいか」


「ありがたいに決まっております」


 神屋が即答した。


「阿蘇家の厩に、新たな血が入ります。しかも若君の愛馬となれば、これほど目出度いことはございませぬ」


「愛馬」


 惟種は、もう一度黒馬を見上げた。


 愛馬。


 確かに、武家の若君には愛馬がいてもよい。


 よいのだが。


 今の自分は、数えで十二である。


 この馬の方が、明らかに立派だった。


「馬の方が大人に見える」


 惟種が呟くと、宗運が即座に言った。


「馬は馬にございます」


「分かっている」


「若君も、これから伸びられましょう」


「慰めか」


「事実にございます」


 神屋は笑うのを堪えていた。


 堪えきれてはいなかった。


     ◇


 黒馬は、厩の者たちにも驚きを与えていた。


 近くで見ると、ますます大きい。


 背も高い。

 胴も深い。

 尻も強い。


 馬丁の一人が、感心したように言った。


「これは、よく食いそうにございますな」


 惟種は、そこに現実を見た。


「食うか」


「食いましょうな」


 宗運が静かに言った。


「この体でございます。倭馬と同じ飼い方では足りぬでしょう」


「また仕事が増えるな」


「増えます」


「馬の飯か」


「馬の飯、厩の広さ、蹄の手入れ、繁殖の帳、病の見分け、馬丁の育成。すべて増えます」


「一頭増えただけで、なぜそこまで増える」


「一頭で済ませるおつもりではないのでしょう」


 宗運の声は、すでに諦めていた。


 神屋が明るく言う。


「ほかの馬も追って納めるつもりにございます」


「ほら」


 宗運が惟種を見た。


「ほら、ではございませぬ」


 惟種は黒馬を見た。


 確かに、この血を増やせるなら大きい。


 騎馬武者そのものに使うだけではない。


 荷を引く。

 砲を運ぶ。

 重い車を動かす。


 道の整備が進めば、大きな馬はさらに役に立つ。


 南蛮馬そのものを、そのまま増やすのは難しいかもしれない。


 気候。

 餌。

 病。

 体の強さ。


 課題は多い。


 だが、試す価値はあった。


「馬にも帳が要るな」


 惟種が言うと、宗運が頷いた。


「すでに考えております」


「早いな」


「若君が、どうせ増やすと仰せになると思いましたので」


「まだ言っていない」


「顔にございました」


 惟種は黙った。


 神屋がまた笑いかけ、今度は何とか堪えた。


     ◇


「それで」


 宗運が言った。


「この馬の名はいかがなさいますか」


「名か」


 惟種は腕を組んだ。


 黒い。

 大きい。

 強そうである。


 未来の記憶が、よくない方向に働く。


「阿蘇武雷暗…(あそぶらいあん)」


 小さく呟いた。


 宗運が、すぐに反応した。


「あそ……何でございますか」


「いや」


「今、奇妙な名を仰せになりましたな」


「気のせいだ」


「阿蘇、ぶ……何とかと」


「気のせいだ」


「馬の名にございますか」


「違う」


「ならば何にございますか」


「何でもない」


 宗運は、しばらく惟種を見た。


「若君」


「何だ」


「その名は、おやめください」


「まだ言っていない」


「言う前から止めております」


「ひどくないか」


「ひどくございませぬ」


 神屋が、今度こそ肩を震わせた。


 惟種は不満そうに黒馬を見た。


「悪くないと思ったのだが」


「悪うございます」


「宗運」


「悪うございます」


 二度言われた。


 惟種は、軽く咳払いした。


「では、黒松」


 宗運が、少しだけ目を細めた。


「黒松」


「黒毛だ。松のように強く根を張れ、という意味もある」


「それは、まともにございますな」


「どういう意味だ」


「よい名にございます」


「今、別の意味も含んでいたろう」


「気のせいにございます」


 惟種は宗運を睨んだ。


 宗運は涼しい顔で受け流す。


 神屋は、深く頭を下げた。


「黒松。よき名にございます」


 黒馬は、名を分かっているのかいないのか、鼻を鳴らした。


 惟種は、その首を恐る恐る撫でた。


 毛並みは柔らかい。


 だが、下にある肉の厚さが分かる。


「黒松」


 惟種が呼ぶと、馬は静かに顔を向けた。


 悪くない。


 そう思った。


     ◇


 試しに引かせてみることになった。


 惟種が乗るわけではない。


 まだである。


 まずは歩かせる。


 馬丁が手綱を取り、黒松を庭先でゆっくり歩かせた。


 大きな体の割に、足取りは落ち着いている。


 重い。


 だが、鈍くはない。


 歩くたびに、地面が少し沈むように見えた。


「戦場で目立つな」


 惟種が言った。


「目立ちますな」


 宗運が答える。


「狙われるか」


「狙われましょう」


「ならば、鎧も考えねばならぬか」


「また仕事が増えました」


「今のはわしのせいではない」


「若君の馬でございます」


「そうだが」


 惟種は黒松を見た。


 黒い巨体。

 それに見合う馬具。

 馬鎧。

 大きな鞍。

 長い槍。

 旗。


 戦場でこの馬に乗れば、間違いなく目立つ。


 惟種はまだ小さい。


 今すぐ乗れば、馬に乗っているというより、馬に乗せられているように見えるだろう。


 少し悔しかった。


「今のわしでは、馬の方が立派だな」


 惟種が呟くと、神屋が慌てて頭を下げた。


「いえ、そのようなことは」


「神屋、無理に言わずともよい」


「……少しだけ、馬も立派にございます」


「正直でよろしい」


 宗運が静かに言った。


「若君は、まだお育ちになります」


「また慰めか」


「いえ。今のままでは、黒松に見劣りしますので」


「宗運」


「事実にございます」


 惟種は言い返そうとして、黒松を見た。


 確かに、今の自分では見劣りする。


 それは悔しい。


 だが、不思議と嫌ではなかった。


 目標ができたような気がした。


「ならば」


 惟種は、黒松の前に立った。


 黒松が、静かに惟種を見下ろす。


「この馬に見合う男にならねばならぬな」


 神屋が、笑みを収めて頭を下げた。


 宗運も、ほんの少しだけ表情を和らげた。


「それは、よき目標にございます」


「だろう」


「ただし、まずは食べること、鍛えること、乗る稽古からにございます」


「分かっている」


「無理に乗ろうとなされませぬよう」


「分かっている」


「黒松に振り落とされれば、阿蘇家中が騒ぎます」


「分かっていると言っている」


 惟種はむっとした。


 神屋がまた笑いかけたが、今度は完全にこらえた。


     ◇


 黒松は、阿蘇の厩へ入ることになった。


 同時に、神屋が手配したほかの馬たちも、届き次第、別の厩へ移されることになった。


 宗運はすぐに指示を出した。


 餌の量を記すこと。

 食べ残しを見よ。

 糞を見よ。

 蹄を見よ。

 毛艶を見よ。

 倭馬と同じ扱いをするな。

 病が出たらすぐ医所へ知らせよ。

 繁殖の帳を作れ。

 勝手に交配させるな。

 厩を広げる場所を見よ。

 馬丁を増やせ。


 神屋が横で感心していた。


「宗運様は、馬を受け取るだけで国の仕組みにされますな」


「馬一頭でも、放れば騒ぎになります」


「商いと同じにございますな」


「商いは騒ぎを銭に変えるのでしょう」


「おっしゃる通りにございます」


「褒めてはおりませぬ」


「承知しております」


 神屋は、楽しそうに頭を下げた。


 惟種は、その二人を見て苦笑した。


「黒松一頭で、また帳が増えた」


「若君の愛馬にございますので」


 宗運が言う。


「重いな」


「黒松ほどではございませぬ」


「上手いことを言ったつもりか」


「いえ、事実にございます」


 惟種は、また言い返せなかった。


     ◇


 夕刻。


 神屋が帰る前に、惟種はもう一度黒松を見に行った。


 黒松は、厩の中で静かに草を食んでいた。


 大きな体が、薄暗い厩の中でもよく目立つ。


 黒い毛並みに、夕陽が少しだけ映っている。


 惟種は、その前に立った。


「黒松」


 馬が顔を上げる。


「これから頼むぞ」


 黒松は、答えるように鼻を鳴らした。


 もちろん、ただの偶然かもしれない。


 だが、惟種には少しだけ通じたように思えた。


 神屋が、後ろから静かに言った。


「気に入っていただけましたか」


「悔しいが、気に入った」


「悔しいのでございますか」


「馬が立派すぎる」


 神屋は笑った。


「では、若君もさらに立派になられませ」


「簡単に言うな」


「若君なら、おなりになれましょう」


 惟種は、黒松を撫でた。


 黒松は逃げなかった。


「神屋」


「はっ」


「よい馬だ。礼を言う」


「ありがたき幸せにございます」


「だが、船の件とは別だぞ」


「もちろんにございます」


「これで条件を緩めるなどと思うな」


「そのような恐ろしいこと、考えもいたしませぬ」


「本当か」


「商人は、考えるだけなら色々考えます」


「正直すぎる」


 神屋は笑って頭を下げた。


 その笑い声は、前話の重さを少しだけ洗い流すようだった。


     ◇


 この日、阿蘇の厩に一頭の黒馬が入った。


 名は、黒松。


 南蛮の血を引くとも、遠い海を越えた馬とも言われた、大きな黒毛の馬である。


 この時、惟種はまだ数え十二。


 馬の方が立派に見えるほどの若君であった。


 だが、惟種はその馬の前で一つ決めた。


 この馬に見合う男になる。


 その小さな誓いを、黒松が理解したかどうかは分からない。


 ただ、黒松はその日から、惟種のそばに置かれることになった。


 後に、戦場で阿蘇の若君の名が恐れられる時。


 その傍らには、しばしば黒き馬影があったという。


 すべては、この日、神屋寿禎が連れてきた一頭から始まったのである。


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