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火の山の若君は、未来を夢に見る ~阿蘇家嫡流の若君、名臣甲斐宗運と乱世を切り拓く~  作者: アトラス


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第百七十話 一艘の賭け

 六月の評定から、幾日かが過ぎた。


 阿蘇の館では、相変わらず文と帳が行き交っていた。


 山口。

 安芸。

 土佐。

 伊予。

 平戸。

 博多。

 府内。


 名は増え、道は増え、荷も増える。


 増えれば増えるほど、阿蘇の帳は厚くなり、宗運の顔は涼しいまま疲れを隠すようになった。


 そんな折である。


 博多の商人、神屋寿禎が阿蘇へ入った。


 神屋は、これまで何度も惟種と会っている。


 銀のこと。

 南蛮のこと。

 珍しい木や石や薬のこと。


 商いの話であれば、神屋は笑みを含んで入ってくることが多かった。


 だが、その日は違った。


 顔つきが重い。


 いつもの商人らしい柔らかさはある。

 しかし、その奥に、腹を括った者の硬さがあった。


 惟種は、神屋が座につく前に察した。


「厄介な願いだな」


 神屋は、苦笑するように頭を下げた。


「さすがは若君にございます」


「褒めているように聞こえぬ」


「褒めております」


「なら、聞こう」


 惟種の隣には、宗運が控えている。


 宗運もまた、神屋の顔つきを見ていた。


 この商人は、ただの売り買いでは来ていない。


 そう見ている目であった。


 神屋は、深く頭を下げた。


「若君。お願いしたき儀がございます」


「申せ」


「阿蘇家の船を、一艘、買わせていただきとうございます」


 言葉が落ちた瞬間、部屋の空気が変わった。


 惟種は黙った。


 宗運は、即座に言った。


「なりませぬ」


 神屋は顔を上げない。


 惟種も宗運を止めなかった。


 当然の返しだったからである。


 阿蘇家の船。


 ただの大船ではない。


 南蛮船を見て、明の船を見て、和船の強みを見て、惟種が知る限りの知恵を加えて作らせた船である。


 船体。

 帆。

 水の積み方。

 食糧の納め方。

 船倉の区切り。

 排水。

 火薬の扱い。

 大筒の据え方。

 長い航海のための決まり。


 その一つ一つに、阿蘇の秘が混じっている。


 他家に奪われれば、阿蘇の海の優位が削られる。

 南蛮人に渡れば、阿蘇の工夫を読まれる。

 陶、毛利、松浦、宗、どの手に落ちても面倒なことになる。


 宗運が反対するのは当然であった。


「神屋殿」


 宗運の声は冷たい。


「阿蘇の船は、売り物ではございませぬ」


「承知しております」


「承知の上で願われるか」


「はい」


「ならば、理由を伺いましょう」


 神屋は、そこでようやく顔を上げた。


 目は逃げていなかった。


「聖十字架の地へ、船を出したく存じます」


 惟種の眉が動いた。


「サンタ・クルスか」


「はい」


 神屋は静かに頷いた。


「以前、若君が仰せでした。南蛮人のさらに先、海の果てに、白き汁を出す木があると。その汁は固まり、水を弾き、伸び、弾み、奇妙な力を持つと」


 惟種は黙った。


 確かに、言った覚えがある。


 加世の靴を作った時だ。


 インドゴムの木を神屋を通じて手に入れ、試した。


 だが、思うようには育たなかった。


 阿蘇では寒い。

 豊後でも弱い。


 温かい場所を探す必要がある。

 琉球まで手を伸ばすか、さらに先を見るか。


 その時、惟種は口にした。


 聖十字架の地。


 南蛮人が海の彼方に見つけた、遠い遠い土地。


 いま手元にあるインドの木とは違う。惟種が本当に欲しいのは、聖十字架の地にある、もっと強い白き汁の木であった。


 今の日本から見れば、果ての向こうである。


 普通なら、ただの夢物語だった。


 だが、神屋寿禎はそれを覚えていた。


「南蛮人、明の商人、船乗り、通詞。方々より聞きました」


 神屋は続ける。


「聖十字架の地には、白き汁を出す木がある。傷をつければ流れ、固めれば弾むものになる。若君が求めておられるものは、それにございましょう」


 宗運が、惟種を見た。


「若君」


「何だ」


「また、遠い話をなさっておられたのですね」


「少しだ」


「少しで、聖十字架の地まで行きませぬ」


「……そうだな」


 惟種は否定できなかった。


     ◇


 神屋は、両手を畳についた。


「今ある木では足りませぬ」


 その言葉に、惟種の目が少し細くなった。


「そこまで見たか」


「見ます。商人でございますゆえ」


 神屋は答えた。


「阿蘇で育つものは弱く、量も少のうございます。豊後でも難しい。琉球へ移す手もございましょうが、それでも本当に増えるかは分かりませぬ」


「続けよ」


「ならば、元の地を見に行くほかございませぬ」


「簡単に言うな」


「簡単とは思っておりませぬ」


 神屋の声は、静かだった。


「むしろ、戻れぬかもしれぬと思っております」


 部屋が静まった。


 神屋は続ける。


「南蛮船に頼れば、南蛮人の腹に乗ることになります。明船では、そこまで届きませぬ。博多の船では、海に呑まれましょう。ならば、阿蘇の船しかございませぬ」


 宗運が、すぐに言った。


「そのために、阿蘇の秘を渡せと申されるか」


「船を一艘、お譲りいただきたいと申しております」


「同じことでございます」


 宗運の声は、さらに冷える。


「阿蘇の船が外へ出る。戻らぬかもしれぬ。奪われるかもしれぬ。南蛮人に見られるかもしれぬ。陶や毛利の手に渡るかもしれぬ。海賊に奪われ、どこかの港で解かれるかもしれぬ」


「承知しております」


「承知してなお、願う」


「はい」


「白き汁の木のために」


「はい」


 宗運は、惟種へ顔を向けた。


「若君」


「分かっている」


「分かっておられるなら、答えは一つにございます」


「普通ならな」


「普通でなくともです」


 宗運は、はっきり言った。


「船一艘は、靴百足とは釣り合いませぬ」


 惟種は苦笑しかけて、やめた。


 宗運は本気で言っている。


 そして、その言葉は正しい。


 現時点で、阿蘇がゴムから得ているものは少ない。


 加世の靴。

 水を弾く小さな布。

 船の継ぎ目に塗る試し。

 医の道具の一部。

 荷車の部品。


 まだ、国を動かすほどではない。


 宗運から見れば、危険と釣り合わない。


     ◇


 惟種は、しばらく何も言わなかった。


 頭の中で、いくつものものが浮かぶ。


 雨を弾く布。

 船の水漏れを止める栓。

 車の揺れを殺す輪。

 医の管。

 火薬を湿らせぬ袋。


 まだ、この時代の言葉ではうまく言えぬものが多すぎる。


 だが、惟種には分かっていた。


 ゴムは、ただの珍物ではない。


 国の足になる。

 国の手になる。


 水を越え、泥を越え、病を防ぎ、荷を守り、兵を歩かせる。


 いずれ、戦よりも暮らしを変える。


 しかし、それは今この場で誰にでも分かるものではない。


 宗運にも、まだ半分しか伝わらない。


 惟種は口を開いた。


「宗運」


「は」


「今は、靴一足に見えるかもしれぬ」


「一足とは申しませぬ」


「だが、そう遠くない」


 宗運は否定しなかった。


 惟種は続けた。


「雨を弾く布があれば、兵も民も濡れずに歩ける。船の水漏れを止められれば、荷が守れる。車の揺れを殺せれば、道が悪くとも荷を運べる。医の管が作れれば、助かる命があるかもしれぬ。火薬を湿らせぬ袋ができれば、戦の備えも変わる」


 宗運は黙って聞いていた。


「これは、加世の靴だけの話ではない」


 惟種は、神屋を見た。


「国の足の話だ」


 神屋は、深く頭を下げた。


 宗運は、しばらく黙っていた。


 やがて、静かに言う。


「それでも、危うすぎます」


「ああ」


 惟種は即答した。


「危うい」


「戻るとは限りませぬ」


「そうだ」


「白き汁の木が見つかるとも限りませぬ」


「そうだ」


「見つけても、持ち帰れるとは限りませぬ」


「そうだ」


「持ち帰っても、育つとは限りませぬ」


「それもそうだ」


「ならば」


「だから、賭けだ」


 惟種は言った。


 部屋が静かになった。


「普通なら、断る」


 惟種は続けた。


「わしでも、普通なら断る。だが、ここで賭けねば、百年かかるかもしれぬ」


「百年」


 宗運が呟く。


「それほどのものにございますか」


「そうだ」


 惟種の声には迷いがなかった。


「少なくとも、わしはそう見る」


 宗運は、惟種の顔を見た。


 この若君が、時々見せる顔だった。


 まだ誰も見ていないものを、当然のように見ている顔。


 宗運には、その全ては分からない。


 だが、分からぬからと言って、切り捨ててよいものではない。


 そうして阿蘇はここまで来た。


 田。

 蔵。

 道。

 灯。

 学び所。

 薬。

 船。

 大筒。


 どれも、最初は奇妙な話だった。


 今は、阿蘇の力になっている。


 宗運は、深く息を吐いた。


「ならば、条件をつけます」


 神屋が顔を上げた。


 惟種も頷く。


「言え」


     ◇


「まず、言葉を改めます」


 宗運は、淡々と言った。


「この船は、売るのではございませぬ」


 神屋の目が、わずかに動いた。


 惟種も宗運を見る。


「阿蘇が、神屋家へ預ける船にございます」


 宗運は言った。


「銭は受けます。ですが、売ったのではございませぬ。阿蘇が神屋家へ、命じて海へ出す船にございます」


 部屋の空気が、少し変わった。


 売るのではない。


 預ける。


 その一言で、船の意味が変わった。


 所有は阿蘇に残る。

 神屋は、その船を預かって商いと探索を行う。

 成功すれば神屋の功であり、阿蘇の事業でもある。

 失敗すれば、神屋は責を負う。


 だが、船の名は阿蘇に残る。


 神屋は、その意味をすぐに理解した。


「ありがたきことにございます」


 神屋は深く頭を下げた。


「ありがたい話ではない」


 宗運は言った。


「縛りでございます」


「承知しております」


 神屋の声は、むしろ静かに強くなった。


「商人にとって、縛りとは信用にございます。阿蘇家の縛りを受けて海へ出られるなら、それは神屋家の名にもなりましょう」


 宗運は、ほんの少しだけ目を細めた。


「商人らしい」


「恐れ入ります」


「褒めてはおりませぬ」


「承知しております」


 惟種は、二人のやり取りを聞きながら、少しだけ笑った。


 宗運は続けた。


「渡す船は、阿蘇の最新の船ではございませぬ」


「承知しました」


「大筒の台座は外します。砲の置き方も、阿蘇の型は見せませぬ」


「はい」


「船倉の区切りも、一部は簡略にいたします。水と食糧の積み方は教えますが、すべてではございませぬ」


「はい」


「羅針、海図、測りの道具は貸与扱い。戻らぬ場合は、神屋家が責を負う」


「承知いたします」


「船大工は阿蘇の者を乗せます。ただし、船造りの芯は教えませぬ。南蛮人を乗せるなら、船の奥へは入れませぬ」


「はい」


「船底の処理、材の組み方、帆の一部は古い型へ戻します。奪われても、阿蘇の全てが漏れぬように」


「むろんにございます」


「帰る港も、阿蘇が指定します。博多へそのまま入れることは許しませぬ」


「それも承知いたします」


「神屋家の者、船に乗る者、通詞、南蛮人、すべて誓紙を取ります。破れば、神屋家の商いそのものを阿蘇は断つ」


 神屋の顔が、少し引き締まった。


 重い条件である。


 だが、当然でもあった。


「お受けいたします」


 神屋は、もう一度深く頭を下げた。


     ◇


「神屋」


 惟種が呼んだ。


「はっ」


「戻れるとは限らぬぞ」


「承知しております」


「聖十字架の地に着けるとも限らぬ」


「承知しております」


「木を見つけても、持ち帰れるとは限らぬ。苗は枯れるかもしれぬ。種は腐るかもしれぬ。白き汁も、海を越えれば使いものにならぬかもしれぬ」


「すべて、承知しております」


「なら、なぜ行く」


 神屋は、しばらく黙った。


 そして、ゆっくり答えた。


「若君が、必要と仰せだからにございます」


 惟種は、少し眉を動かした。


「それだけか」


「いいえ」


 神屋は、顔を上げた。


「商いになるからにございます」


 その答えに、惟種は少し笑った。


 宗運も、わずかに目を伏せた。


 神屋は続ける。


「若君が国の足になると仰せのもの。ならば、それは必ず商いになります。いま誰にも分からぬものほど、早く道をつけた者が利を得ます」


「危ない利だ」


「危なくない利など、海にはございませぬ」


 神屋の声は、博多の商人のものだった。


「銀も、船も、南蛮も、明も、すべて危うい。されど、危ういからこそ、道をつけた者が名を残します」


 惟種は、神屋を見た。


 この男は、ただ儲けのために来たのではない。


 だが、儲けを見ていないわけでもない。


 それがよかった。


 綺麗事だけで海へ出る者は、海に呑まれる。


 神屋は、利を見ている。


 だから信用できる。


「よかろう」


 惟種は言った。


「一艘、預ける」


 神屋は、深く深く頭を下げた。


「ありがたき幸せにございます」


「ただし、宗運の条件はすべて飲め」


「もちろんにございます」


「船は削る。阿蘇の全ては渡さぬ」


「はい」


「それでも行くか」


「行きます」


 神屋の返事は、早かった。


 迷いがなかった。


     ◇


 宗運は不服そうであった。


 顔には出していない。


 だが、惟種には分かる。


「納得していないな」


「納得はしております」


「不服はある」


「ございます」


「正直でよろしい」


「若君相手に、嘘を申しても無駄にございますので」


「それはそうだ」


 宗運は、静かに言った。


「危険は大きゅうございます」


「ああ」


「それでも、若君が国の足になると仰せなら、わたくしはその危険を減らす方へ動きます」


「助かる」


「船大工、船手、警固、通詞、海図、積荷、すべてこちらで選びます」


「任せる」


「神屋殿」


「はっ」


「喜ぶのは、まだ早うございます」


 神屋は苦笑した。


「承知しております」


「阿蘇の船を預かるということは、阿蘇の目を船に乗せるということにございます」


「それも承知しております」


「ならば、よろしい」


 宗運は、文箱を開いた。


 すでに条件を書き始めるつもりである。


 その早さに、神屋は少し驚き、惟種は少し笑った。


「宗運」


「何でございましょう」


「反対していたわりに、仕事が早いな」


「決まったことを遅らせる趣味はございませぬ」


「怒っているか」


「少し」


「すまぬ」


「謝るくらいなら、次は相談を早くしてくださいませ」


「それは難しい」


「でしょうな」


 宗運は、ため息をついた。


     ◇


 話が終わるころ、外は夕暮れに近づいていた。


 神屋は、最後にもう一度深く頭を下げた。


 惟種は言った。


「神屋」


「はっ」


「無理を言ってすまぬ」


 神屋は、顔を上げた。


 その顔には、商人らしい笑みが戻っていた。


 だが、その奥にある覚悟は消えていない。


「何を仰せにございますか」


「遠すぎる海だ」


「はい」


「わしが行けと言ったようなものだ」


「いいえ」


 神屋は首を横に振った。


「商人が、自ら利を見て行くのでございます」


「利だけではあるまい」


「もちろんにございます」


 神屋は、静かに笑った。


「商いとは、時に人の一生より長うございます」


 惟種は、何も言わなかった。


「私の代でならずとも、子の代、孫の代までには」


 神屋は、深く頭を下げた。


「必ずや、聖十字架の木への道をつけてみせましょう」


 その言葉に、惟種は胸の奥が少し熱くなるのを感じた。


 孫の代。


 それほど長い話である。


 惟種は未来を急ぎすぎることがある。


 一年で変えたい。

 三年で形にしたい。

 十年で国を変えたい。


 だが、海は違う。


 木は違う。


 商いの道は、人の一生を越えることがある。


 神屋寿禎は、それを当たり前のように言った。


「頼む」


 惟種は、短く言った。


「はい」


 神屋は、深く頭を下げた。


     ◇


 神屋が退いた後、宗運はまだ文を書いていた。


 船を削る条件。

 船手の選び方。

 積荷の制限。

 南蛮人の扱い。

 海図の保管。

 帰港先。

 誓紙。

 失敗時の責。


 次々と書き出されていく。


 惟種は、それを見ながら言った。


「宗運」


「はい」


「やはり怒っているな」


「怒ってはおりませぬ」


「では」


「腹立たしいだけにございます」


「同じではないか」


「違います」


 惟種は苦笑した。


「すまぬ」


「謝罪は受けます」


「許すか」


「結果次第にございます」


「厳しい」


「船一艘にございますので」


 宗運の返しは、もっともだった。


 惟種は、庭の方を見た。


 遠い海。


 南蛮人のさらに先。


 聖十字架の地。


 白き汁を出す木。


 そこへ、阿蘇の船が向かうかもしれない。


 戻らないかもしれない。

 奪われるかもしれない。

 何も得られないかもしれない。


 だが、道がつけば、阿蘇の未来は変わる。


 靴一足から始まったものが、国の足になるかもしれない。


 惟種は、小さく呟いた。


「一艘の賭けだな」


 宗運が、筆を止めずに答えた。


「負けた時の損を、できる限り小さくいたします」


「勝った時は」


「若君が、また仕事を増やすのでございましょう」


「そうなるな」


「分かっております」


 宗運は、諦めたように言った。


 夕暮れの光が、部屋の端へ差し込んでいた。


 阿蘇の船は、まだ港にある。


 だが、その一艘はもう、惟種の頭の中で海の果てへ向かい始めていた。


 聖十字架の木を求めて。

 白き汁の未来を求めて。


 そして、神屋寿禎の商いは、人の一生を越える道へ、静かに踏み出そうとしていた。


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