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火の山の若君は、未来を夢に見る ~阿蘇家嫡流の若君、名臣甲斐宗運と乱世を切り拓く~  作者: アトラス


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第百六十九話 三間の虎松

 六月の評定を終えた後も、阿蘇の館に静かな忙しさは残っていた。


 山口の火は燃えている。


 陶隆房は吉見広頼を立て、大内の名を残した形を作った。

 毛利は安芸より目を伸ばしている。

 土佐一条とは友好の道が開いた。


 そして、次に惟種の前へ通されたのは、伊予よりの使者であった。


 三間土居家。

 土居清晴。


 伊予南部に根を張り、西園寺家に属する国人である。


 その名は、すでに名簿の上で惟種の目に留まっていた。


 だが、宗運が持ってきた報せには、もう一つ奇妙なものが添えられていた。


「土居清晴殿、子を伴っております」


 惟種は顔を上げた。


「子?」


「はい」


「この面会にか」


「はい」


 宗運は淡々と答える。


「無礼は承知。されど子の学びのため、若君への拝謁を願いたい、とのことにございます」


 惟種は一瞬だけ黙った。


 そして、名を尋ねた。


「その子の名は」


「虎松」


 宗運は答えた。


「土居清晴が子、虎松にございます」


 惟種の目が、かすかに明るくなった。


 ほんのわずかである。


 だが、宗運は見逃さなかった。


 まただ。


 土居宗珊の時と同じである。


 若君は、まだ会ってもいない相手に、妙な好意を持っている。


 宗運は、惟種を横目で見た。


「若君」


「何だ」


「お会いになりますか」


「会う」


「よろしいので」


「子が学びたいと言うなら、拒む理由はない」


「……子はまだ、学びたいと申すほどの年ではないかと」


「なら、親が学ばせたいのだろう」


 惟種は、少しだけ楽しそうに言った。


「よい。通せ」


 宗運は、深く頭を下げた。


 顔には出さぬ。


 だが、内心では思っていた。


 もしや、またか。


     ◇


 土居清晴は、静かに通された。


 壮年にはまだ早いが、若造でもない。


 山と城を預かる者らしい硬さがあった。


 その隣に、小さな子がいる。


 虎松。


 まだ幼い。


 五つ、六つほどに見える。


 背は小さく、袴もどこか体に馴染んでいない。

 だが、父に教え込まれているのだろう。怯えて泣くこともなく、背筋を伸ばしている。


 清晴は部屋の中央で膝をつき、深く頭を下げた。


「伊予、三間土居が土居清晴にございます。本日は、西園寺家の意を受け、阿蘇家へ御挨拶に参りました」


 そして、隣の虎松の肩へ軽く手を添えた。


「子の虎松にございます」


 虎松は、ぎこちないながらも頭を下げた。


「とらまつに、ございます」


 声は小さい。


 だが、言い切った。


 惟種は、その姿を見て、胸の奥で妙な感慨を覚えた。


 土居清良。


 その芽が、今、目の前にいる。


 まだ小さい。

 まだ何者でもない。


 それでも、この幼い子がいずれ伊予の地で名を残すのだと思うと、惟種は思わず頬が緩みそうになった。


 慌てて抑える。


 宗運は、それを見ていた。


 明らかにおかしい。


 ただの幼子への微笑ましさではない。


 若君は、何かを見ている。


 それが何か、宗運には分からない。


「遠路、よう参られた」


 惟種は、まず清晴へ声をかけた。


「そして、虎松も、よう来た」


 虎松は、父の顔を一度見てから、また頭を下げた。


「はい」


 清晴は、深く頭を下げたまま言った。


「此度、幼き子を伴いましたこと、無礼は重々承知にございます」


「構わぬ」


 惟種はすぐに言った。


 清晴が、少しだけ顔を上げる。


「よろしいのでございますか」


「子には、見ることも学びだ」


 惟種は虎松を見た。


「若いうちは、何でも見よ。よく聞け。分からぬことは、後で父に問え」


「はい」


 虎松は、また頭を下げた。


 宗運は、横で静かに思った。


 若君も、十分に若い。


 数えで十二。


 人に「若いうちは学べ」と言うには、いささか早い。


 だが、この若君がすでにそれを言える立場にあるのも、また事実だった。


 清晴は、もう一度深く頭を下げた。


「ありがたき御言葉にございます。この子に、阿蘇の若君を一目見せとうございました」


「わしなど見ても、たいした学びにはならぬ」


「いいえ」


 清晴は、静かに返した。


「今の西国にて、阿蘇の若君を見ぬことは、大きな学びを逃すことにございます」


 惟種は少し困った顔をした。


「大げさだ」


 宗運は何も言わなかった。


 だが、その沈黙が少し痛かった。


     ◇


 本題に入る前に、虎松は部屋の端へ下がらされた。


 もちろん、外へは出さない。


 清晴が望んだ通り、学びのために同席は許された。


 ただし、話の中心には入れない。


 虎松は父の斜め後ろで、膝を揃えて座った。


 幼い身には長い時間になるだろう。


 だが、その子は一生懸命に背筋を伸ばしていた。


 惟種は、少し感心した。


 清晴は、その様子を一度だけ見てから、惟種へ向き直る。


「本日は、西園寺家の意を受けて参りました」


「聞こう」


「伊予南部は、山も海もございます。されど、決して安らかな地ではございませぬ。国衆はそれぞれに腹を持ち、宇都宮、河野、土佐一条、豊後、安芸、いずれも遠くて近い」


 惟種は頷いた。


「西園寺実充殿は、阿蘇との友好を望まれるか」


「はい」


 清晴は、迷わず答えた。


「友好、通交、そして、いざという時の後ろ盾を願っております」


「庇護か」


 惟種が言うと、清晴は深く頭を下げた。


「その言葉を、軽く申し上げるつもりはございませぬ。西園寺家がただちに阿蘇家の下へ入るという話ではございませぬ。されど、陶が山口を握り、毛利が安芸より目を伸ばし、土佐一条も阿蘇家と通じ始めた今、伊予の南だけが目を閉じているわけには参りませぬ」


 宗運が静かに聞いている。


 清晴は、よく分かっている。


 いきなり重すぎる願いを出せば、阿蘇は受けられない。


 だから、友好と庇護の間を選んでいる。


「阿蘇は九州を固める最中だ」


 惟種は、はっきり言った。


「今すぐ伊予へ兵を出すことはできぬ」


「承知しております」


 清晴は、即座に頭を下げた。


「阿蘇家が、いま九州の根を整えておられることは、伊予にも聞こえております。兵を願いに参ったのではございませぬ」


「では、何を求める」


「文の道を」


 清晴は言った。


「まずは、文が届く道を整えとうございます。次に、商いの道。塩、紙、薬、布、海産物。互いに無理のないところより始めたく存じます」


「それならば、できる」


 惟種は頷いた。


「府内、名和の船口、必要なら土佐一条の道とも擦り合わせる。西園寺家との文の往来は認める。ただし、阿蘇の名を勝手に掲げて伊予内の争いに使うことは許さぬ」


「もちろんにございます」


「阿蘇も、西園寺の名を勝手には使わぬ」


「ありがたく」


 清晴は深く頭を下げた。


 話は、思ったより穏やかに進んでいた。


 宗運も、ここまでは問題ないと見ていた。


 阿蘇が伊予へいきなり深く関わるのは危うい。


 だが、文と商いの道を開くのは悪くない。


 土佐一条に続き、伊予南部にも糸を置く。


 それは、西国を見るうえで必要な一手であった。


     ◇


「援助については」


 惟種は続けた。


「できる範囲で、ということになる」


「それで十分にございます」


 清晴は答えた。


「薬師の手配、紙や帳の作り方、学び所の仕組み。そういったものなら、少しずつ渡せる」


 宗運が少しだけ惟種を見る。


 渡しすぎるな、という目である。


 惟種も分かっている。


「ただし、阿蘇の中枢のやり方をそのまま渡すことはできぬ。まずは触れの読み書き、蔵の簡単な帳、薬の札、学び所の立て方。その程度からだ」


「ありがたく存じます」


 清晴は、もう一度頭を下げた。


「阿蘇家が、子らに字と数を教え、飯まで出していると聞きました」


「まだ、すべての地ではない」


「それでも、大きなことにございます」


 清晴の声は、真剣だった。


「伊予でも、字を読める者は限られます。文を読めぬ者は、触れに従えませぬ。数を知らぬ者は、米も銭も量れませぬ。阿蘇家がそこへ手を入れていると聞き、驚きました」


 惟種は、虎松を見た。


 虎松は、話の意味をどこまで理解しているか分からない。


 だが、父と惟種の言葉を聞き逃すまいとしているようだった。


「子に字を教えるには、まず腹を満たさねばならぬ」


 惟種は言った。


「腹が減っていれば、学びは入らぬ。だから飯も出す」


「それを、伊予でも学びたいのです」


 清晴は言った。


「特に、この子に」


 虎松の肩が、かすかに動いた。


 惟種は、少し首を傾げた。


「虎松に?」


「はい」


 清晴は、そこで居住まいを正した。


 宗運の目が、わずかに細くなる。


 何か来る。


「恐れながら、もう一つ願いがございます」


「申せ」


「虎松を、しばらく阿蘇にてお預かり願えませぬか」


 惟種は、止まった。


 宗運も、さすがに少しだけ目を上げた。


 虎松本人は、まだ意味が分かっていないのか、父と惟種を交互に見ている。


「待て」


 惟種は言った。


「虎松は、まだ五つか六つであろう」


「数え六つにございます」


「早すぎぬか」


「早いからこそにございます」


 清晴は、深く頭を下げた。


「この子に、阿蘇の学びを見せたい。若君の国の作り方を、幼きうちから見せたい。そして、三間土居家と西園寺家の誠意として、阿蘇へお預けしたいのでございます」


「人質か」


 惟種は、はっきり問うた。


 清晴は逃げなかった。


「人質の意味もございます」


 部屋が静まった。


「ですが、それだけではございませぬ。人質のみならば、もっと年のいった者を出せばよろしい。されど、虎松を出したいのでございます」


「なぜだ」


「学ばせたいからにございます」


 清晴は顔を上げた。


 その目には、父の必死さがあった。


「伊予は、これから揺れましょう。西園寺家も、三間土居家も、無傷では済みませぬ。その時、この子がただ槍を振るうだけの者になっては困ります。国を見る目を持たせたい。人を見る目を持たせたい。阿蘇家が作っているものを、この子に見せたい」


 惟種は、言葉を失った。


 清晴の考えは、惟種の思惑とずれている。


 惟種は、未来の虎松を知っている。

 その芽を、できれば育てたいとも思った。


 だが、清晴は清晴で、この子の未来を見ている。


 伊予が揺れることを知り、その中で虎松に何を持たせるべきかを考えている。


 二人の思いは違う。


 だが、妙なところで噛み合っていた。


     ◇


「母はどうする」


 惟種が問うた。


「我が妻も、共に阿蘇へ行かせます」


 清晴は答えた。


「幼き身にて父母より離すのは酷にございます。母を添え、女房も一人つけます。三間土居家の負担でできる限りの支度はいたします」


「そこまで考えているのか」


「はい」


「西園寺家中は」


「話は通しております。されど、まだすべてが整ったわけではございませぬ」


 宗運が、ここで口を開いた。


「清晴殿」


「はっ」


「ありがたきお申し出にございます。されど、虎松殿は幼き御身。三間土居家中、西園寺家中、御母堂のお考え、いずれも整えねばなりませぬ」


「承知しております」


「阿蘇としても、ただ預かるわけには参りませぬ。居所、警固、学び所、医の手当、母君と女房衆の扱い。すべて整える必要がございます」


 惟種は頷いた。


「宗運の言う通りだ」


 清晴は深く頭を下げた。


「急ぎすぎました」


「いや」


 惟種は、少しだけ首を横に振った。


「願いは受け止めた。だが、今ここで決めるには重い」


 清晴は、もう一度頭を下げる。


「それだけで、ありがたき幸せにございます」


「そちらの家中で話をまとめられよ。西園寺実充殿の意も、改めて文にていただきたい」


「はっ」


「こちらも、受け入れる形を考える」


 虎松が、そこで父を見た。


 まだ幼い。


 だが、何か大きな話が自分に関わっていることは感じているようだった。


 惟種は、虎松へ声をかけた。


「虎松」


「はい」


「もし阿蘇へ来ることになれば、よく学べ」


 虎松は、少し緊張した顔で頷いた。


「はい」


「だが、今は父の言うことをよく聞け」


「はい」


「そして、飯はしっかり食え」


 虎松は、一瞬きょとんとした。


 清晴も少しだけ目を瞬いた。


 宗運は、静かに目を伏せた。


 惟種は真面目だった。


「食わねば育たぬ。学ぶにも、走るにも、考えるにも、まず飯だ」


 虎松は、今度は少し大きく頷いた。


「はい」


 惟種は、満足そうに頷いた。


 清晴は、深く深く頭を下げた。


「ありがたき御言葉にございます」


     ◇


 面会は、そこで終わった。


 清晴と虎松は、礼を尽くして退いた。


 虎松は最後にもう一度、惟種へ小さく頭を下げた。


 その姿は、まだ幼い子そのものだった。


 だが、惟種には、その背の向こうに、別の姿が重なって見えた。


 成長した虎松。


 伊予の地で名を残すはずの男。


 その未来の芽が、今、阿蘇の廊を歩いている。


 襖が閉じる。

 足音が遠ざかる。


 部屋に残ったのは、惟種と宗運だけだった。


「若君」


 宗運が言った。


「何だ」


「たいそう嬉しそうに虎松殿をご覧でしたな」


「子が来れば、誰でもあのくらいにはする」


「土居宗珊殿の時と、似たお顔にございました」


「気のせいだ」


「便利な言葉にございますな」


 惟種は、少しだけ目を逸らした。


 宗運は追及をやめない。


「許可なさるおつもりですか」


「分からぬ」


 惟種は正直に答えた。


 宗運が、わずかに眉を上げる。


「珍しゅうございますな」


「五つ、六つの子を預かるなど、簡単には決められぬ」


「それはその通りにございます」


「しかも母も来る。女房も来る。居所、警固、医者、学び所、食事、伊予との文。全部整えねばならぬ」


「よく分かっておられるではございませぬか」


「分かっているから困っている」


 惟種は、深く息を吐いた。


 欲しい。


 それは正直な気持ちだった。


 虎松。


 その才を、阿蘇で育てられるなら。


 阿蘇の学び所を見せ、帳を見せ、警邏を見せ、米と道と灯と薬の国づくりを見せられるなら。


 どれほど面白いことになるか。


 だが、重い。


 幼い子を預かるとは、ただ人質を得ることではない。


 その命を預かるということだ。

 その家の未来を、少し曲げるということだ。


「若君」


「何だ」


「先ほど、何を見ておられました」


 惟種は、すぐには答えなかった。


 答えられるはずもなかった。


 やがて、小さく言う。


「未来だ」


「は?」


「何でもない」


 宗運は、しばらく惟種を見た。


 やはり、腑に落ちない。


 この若君は時々、まだ起きていないものを見るような目をする。


 土居宗珊の時もそうだった。


 そして、今回の虎松も。


 宗運には、その理由が分からない。


 だが、分からぬからといって、放っておけるものでもなかった。


「受けるにせよ、受けぬにせよ、慎重に」


「分かっている」


「特に、幼子です」


「ああ」


「阿蘇の学び所の看板にもなります。伊予への縄にもなります。ですが、同時に責任にもなります」


「分かっている」


 惟種は、もう一度深く息を吐いた。


 分かっている。


 分かっているのだ。


 だが、分かっていても困るものは困る。


 虎松。


 その芽が、阿蘇の前に差し出されようとしている。


 欲しい。


 だが、重い。


 惟種は、心の中でただ一つ呟いた。


 どうしよ。


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同作者の別連載
『異世界エンゲージ ~毎日のパック開封でカード使いは帰還を目指す~』
こちらも覗いていただけると嬉しいです。

― 新着の感想 ―
清良記の内容レベルとかにも影響してしまうよなぁw
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