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火の山の若君は、未来を夢に見る ~阿蘇家嫡流の若君、名臣甲斐宗運と乱世を切り拓く~  作者: アトラス


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第百六十八話 地盤を整える

 天文二十年(一五五一年)六月


 阿蘇の館に、主だった者たちが集められた。


 戦の評定ではない。


 少なくとも、槍をどこへ向けるかを決める評定ではなかった。


 だが、そこに並ぶ文箱と帳の数は、戦の評定よりも多かった。


 阿蘇惟豊。


 阿蘇惟種。


 甲斐宗運。


 宗運のそばには、島種清と鍋島種茂が控えている。


 甲斐親英、北里政久、名和行興、龍造寺家宗、鍋島信房、吉弘鑑理、相良晴広、島津貴久らも座に並んでいた。


 島津日新斎は、この日は南の差配のため同席していない。


 だが、文は来ている。


 日向と大隅のこと。


 伊東旧領、肝付旧領のこと。


 山の国衆と寺社のこと。


 その一つ一つが、いまの阿蘇にとっては、山口の火にも劣らぬ重みを持っていた。


 惟豊が、まず口を開いた。


「各地の報せを聞く」


 短い言葉である。


 それだけで、座の者たちの背筋が揃った。


     ◇


 最初に宗運が板を広げた。


 九州の見取り図である。


 肥後、筑後、肥前、豊後、日向、大隅。


 そして、博多、府内、平戸、有馬、大村、日向の山、薩摩へ続く道。


 木札が置かれていく。


 種清が、その横で帳を開いた。


「まず、日向、大隅にございます」


 種清の声は落ち着いていた。


「伊東旧臣、肝付縁者の一部に、小さな動きがございます。山の国衆のうち、阿蘇の触れを遅らせる者もおります」


「兵を集めているか」


 惟種が問う。


「集めようとはしております。されど、大きくはなりませぬ」


「理由は」


「以前申した通り、村がついておりませぬ」


 座が、少し動いた。


 宗運が静かに補う。


「伊東、肝付の名に心を寄せる武士は残っております。されど、民は思ったほど動いておりませぬ」


 宗運は、淡々と答える。


「阿蘇の方が、飯を出す、税が軽いからにございます」


 その言葉は、あまりに率直だった。


「飯、薬、道、種籾、粥所。寺社を通じた弔いと慰撫。阿蘇の触れは厳しゅうございますが、同時に腹を財を満たします。荒れた田には種籾を貸し、病の村には薬師を入れ、道を直し、市の荷を戻しております」


 宗運は、地図の上の小さな札を動かした。


「武士は名で動きます。民は腹で動きます」


 宗運は、地図の上の小さな札を動かした。


「加えて、語り部に阿蘇の触れを語らせ、木版の絵触れも村々へ回しております。若君の御姿に光背を入れたあれにございます」


 惟種は、露骨に顔をしかめた。


「あれを名指しで出すな」


「よく効いております」


「だから余計に嫌なのだ」


「字の読めぬ者にも、誰が米を出し、誰が道を直し、誰が病の触れを出しているか、一目で通ります。語り部の声と絵触れが合わされば、効果は絶大にございます」


「嫌な言い方と内容だが、正しいな」


「正しいことは、時に嫌なものでございます」


「お前が言うと余計に嫌だ」


「恐れ入ります」


 宗運は、少しも恐れ入った顔をしていない。


 鍋島信房が口を開いた。


「肥前、有馬、大村の旧領も似ております」


「申せ」


 惟豊が促す。


「港を持つ者は、まだ外を見ております。陶、大内、博多、南蛮、平戸。どこへ寄れば利があるか、腹の中で量っている者はおります」


「動くか」


「動こうとする武士はおります。されど、民と商人が乗りませぬ」


 鍋島信房は、少しだけ眉を寄せた。


「阿蘇の米と銭が効いております。市を戻し、港の荷を動かし、学び所で子に粥を食わせている。前より暮らしがましになった、と民が思い始めております」


 北里政久が、低く言った。


「筑後も同じにございます。蔵を数え、道を直し、種籾を貸した村は、思ったより静かです。武士の不満はあります。ですが、村がついてこない」


 吉弘鑑理が続いた。


「府内、旧大友領も、まだ火種はございます。大友の名を担ごうとする者もおります。されど、民が阿蘇の乱妨禁制を覚えております。焼かれぬ。奪われぬ。米が戻る。港が直る。そう感じている者が増えました」


 惟種は、地図を見た。


 反乱がないわけではない。

 不満がないわけでもない。

 むしろ、不満はある。


 名を奪われた武士。

 所領を削られた者。

 阿蘇の帳に縛られた者。

 勝手な徴発を禁じられた者。


 そういう者たちは、必ず腹に何かを抱えている。


 だが、彼らが旗を上げても、民がついてこない。


 これは大きかった。


 惟種は、ぽつりと言った。


「米と銭で頬を叩いているようなものだな」


 宗運が答える。


「刀で叩くより、よほどよろしゅうございます」


「否定はせぬ」


 惟種は、地図から顔を上げた。


「だが、米と銭だけでは続かぬ。仕組みにせねばならぬ」


「それゆえ、本日の評定にございます」


 宗運は、次の文箱を開いた。


     ◇


「文吏が足りませぬ」


 宗運は、いきなり核心を言った。


 座の空気が少し変わる。


 戦の話ではない。


 だが、今の阿蘇にとっては、戦より重い話であった。


「槍を持つ者は集められます。鍬を持つ者も集められます。されど、帳を読める者、銭を数えられる者、触れを書ける者、蔵の米を改められる者、市の札を扱える者が足りませぬ」


 惟種は、深く頷いた。


「そこだ」


 彼は、指で帳を叩いた。


「国が広がれば、槍より帳が要る。戦に勝っても、帳が読めねば国は痩せる」


 種茂が姿勢を正した。


「各地より、読み書きのできる者を集めております。寺社の僧、商家の手代、旧家臣の文役、村の庄屋の子。ですが、数が足りませぬ」


 種清も続ける。


「集めた者も、阿蘇のやり方をすぐには飲み込めませぬ。蔵の数え方、年貢の改め、病人の隔て、学び所の飯、警邏の扶持。それぞれ別の帳になっております」


「別々に見れば、破れる」


 惟種が言った。


「米は蔵だけの話ではない。学び所の粥にも、兵糧にも、種籾にも、病人の手当にもつながる。道は荷だけでなく、薬師と警邏の足にもつながる。帳を分けすぎれば、国が分かれる」


 宗運が頷いた。


「ゆえに、文吏を育てねばなりませぬ」


「どれほど急ぐ」


 惟豊が問う。


 宗運は答えた。


「急ぎます。ですが、急ぎすぎれば、帳を読むだけの無能が増えます」


 惟種は、思わず苦笑した。


「容赦がないな」


「帳を読めても、人を見られねば役に立ちませぬ」


「その通りだ」


 惟種は、座を見渡した。


「文吏は、ただ筆を持つ者ではない。村を見る。蔵を見る。人を見る。寺を見る。市を見る。兵を見る。字だけでは足りぬ」


 北里政久が頷く。


「筑後の蔵でも、数字だけ合わせて人を見ぬ者は使えませぬ。米が帳に残っていても、実際に湿って腐っていれば米ではありませぬ」


「それだ」


 惟種は言った。


「帳は目だ。だが、目だけで歩くな。足で見ろ」


 宗運が、静かに書きつけた。


     ◇


「次に、学び所にございます」


 種清が一枚の木札を置いた。


 そこには、学所方、と書かれている。


 惟種が頷いた。


「寺子屋の延長で始めた学び所だが、数が増えてきた」


「はい」


 種清は答えた。


「肥後、筑後、豊後の一部、肥前の安定した村、日向の一部に、ぽつぽつと置かれております。寺と組み、子らに字と数を教えております」


「何を教えている」


 惟豊が問う。


「読み書き、算術。阿蘇の触れの読み方。市の札、薬の札、病人を隔てる触れ。年貢の簡単な数え方。加えて、体を動かす稽古も入れております」


 惟種が補う。


「走る、運ぶ、並ぶ、待つ。そういうことだ」


 貴久が少し笑った。


「武芸ではなく、体づくりにございますか」


「武芸の前に、体が要る。腹も要る」


 惟種は言った。


「腹が空いていれば、字など頭に入らぬ」


 種茂が、次の帳を開く。


「学び所では、粥、麦飯、味噌汁を出しております。場所によっては干し魚や豆も少し」


「給する飯か」


 惟豊が言った。


「はい。学び飯、と呼ばせております」


 惟種は、少しだけ顔をしかめた。


「名は後で考え直せ」


 宗運が涼しく言う。


「若君の命名よりは良いかと」


「宗運」


「続けます」


 種茂は、咳払いして続けた。


「飯を出すことで、親が子を出しやすくなっております。子は字を覚え、帰ってから親に触れを読んで聞かせる例が出ております。市の札を読める者も増えました」


「薬の扱いは」


「間違いが減っております」


 種清が答えた。


「特に、煎じる薬と傷に塗る薬を間違える者が減りました。病の者を一所に集める触れも、子が親へ説明する例がございます」


 惟種は、少しだけ安堵したように息を吐いた。


「よい」


 だが、宗運はすぐに冷や水を浴びせる。


「ただし、飯が出るところには、不正も出ます」


「分かっている」


「寺が米を抜く。庄屋が名簿を増やす。子を来させず飯だけ取る。学び所を開いたことにして帳だけ出す。すでに小さな例がございます」


「だから学所方か」


「はい」


 宗運は、木札を示した。


「学び所を見回り、実際に子が来ているか、飯が出ているか、字と数を教えているか、寺が米を横へ流していないかを改める役でございます」


「役人が増えるな」


「増やさねば回りませぬ」


「また文吏が要る」


「はい」


 惟種は天井を見上げた。


「結局、そこへ戻るか」


「国とは、そのようなものでございます」


 宗運は静かに言った。


「一つ始めれば、二つ目の仕事が生まれます」


「三つ目もな」


「四つ目も」


「嬉しそうに言うな」


「嬉しくはございませぬ」


 宗運はそう言ったが、やはりあまり嫌そうではなかった。


     ◇


「次に、警邏方にございます」


 今度は親英が口を開いた。


 港と船の男である親英が、治安の話をするのは少し珍しい。


 だが、いまの阿蘇では港も町も道も一つながりだった。


「旧領の武士の一部を、阿蘇警邏方へ移しております」


「不満は」


 惟種が問う。


「あります」


 親英はあっさり答えた。


「武士が市を歩き、夜番をし、道の盗賊を追い、揉め事を収める。最初は屈辱と見る者もおります」


「だろうな」


「ですが、扶持は出ます。役もあります。刀を奪われるわけではない。むしろ阿蘇の法の下で刀を帯びる役になる」


 鍋島信房が言葉を添えた。


「肥前でも使えます。戦で食っていた者を放れば、盗賊になります。ならば、番と警邏へ回す方がよろしい」


 吉弘鑑理も頷いた。


「豊後でも同じです。大友旧臣の下の者に、行き場を与えねばなりませぬ。戦場を失った武士は、必ず火種になります」


 惟種は、ゆっくりと頷いた。


「刀を抜くなとは言わぬ。抜く場所を変える」


 宗運が言う。


「戦場から、市と道へ」


「そうだ」


 惟種は、板の上に警邏方の札を置いた。


「警邏方は、ただの夜番ではない。市の揉め事、道の盗賊、蔵の火付け、女や子への狼藉、旅人の護り。そういうものを見る」


「武士にやらせるには、細かい役にございますな」


 相良晴広が言った。


 惟種は答える。


「細かいことを治められぬ武士に、大きな国は守れぬ」


 座が静かになった。


 惟種の声は、大きくなかった。


 だが、重かった。


「戦で強いだけでは足りぬ。民の道を守れ。市を守れ。夜を守れ。そういう武士を増やす」


「警邏方の掟を整えます」


 宗運が言った。


「勝手な裁き、勝手な罰、押し借り、賄いの強要は禁ずる。違えた者は、武士であっても裁く」


「厳しくせよ」


「承知しております」


 惟種は頷いた。


 武士を殺さず、役を変える。


 それは甘さではない。


 刀を持つ者を、阿蘇の法の中へ入れるための縄であった。


     ◇


 次に、医の話へ移った。


 部屋の空気が少し重くなる。


 惟種の顔も、いくらか変わった。


 薬と病の話は、失敗すれば人が死ぬ。


 戦と同じである。


 いや、時に戦より恐ろしい。


 宗運が、医所から届いた帳を開いた。


「痘瘡について、少しずつ分かってきたことがございます」


 座の者たちが、静かに耳を傾ける。


 痘瘡。


 多くの者が恐れる病である。


 村を襲えば子が死に、顔に痕を残し、生き残っても目を失うことがある。


「牛、馬の膿に触れる者の中に、重い痘瘡にかかりにくい者がいるようにございます」


 宗運は、慎重に言った。


「確かか」


 惟豊が問う。


「まだ確かとは申せませぬ」


 惟種が答えた。


「牛を見る者、馬を扱う者、乳を搾る女、獣医の真似事をする者。そういう者の病歴を集めている。重い痘瘡にかからぬ者がいるのは確かだ。だが、それが牛や馬の膿によるものか、別の理由か、まだ分からぬ」


 北里政久が眉を寄せた。


「膿を人へ入れるのですか」


「まだやらぬ」


 惟種の返しは早かった。


「人に試すには、まだ早い」


 宗運が、少しだけ惟種を見た。


「若君が珍しく慎重にございますな」


「これは失敗すれば人が死ぬ」


 惟種の声は冷たかった。


「薬もそうだが、効くと思って広げたものが人を殺すことがある。痘瘡は特に危うい。村一つを守るつもりで、村一つを殺すこともあり得る」


 座に沈黙が落ちた。


「まずは帳だ」


 惟種は続けた。


「どの村で痘瘡が出たか。誰がかかったか。牛や馬の病に触れた者はどうだったか。膿に触れた後、熱を出した者はいるか。軽く済んだ者はいるか。死んだ者はいるか。全部残せ」


「薬師だけでは足りませぬな」


 宗運が言う。


「足りぬ。牛馬を見る者、村の庄屋、寺の僧、学び所の子まで使う」


「子まで」


「触れを読める子なら、家の病の話を聞ける。無理に聞かせるな。だが、病の帳をつける意味を教えろ」


 種清が書きつける。


「痘瘡の帳、別に作ります」


「医所だけで持つな。宗運、控えを政所にも置け」


「承知しました」


 惟種は、最後に強く言った。


「焦るな。痘瘡を防ぐ術は欲しい。喉から手が出るほど欲しい。だが、急いで人を殺すな」


 誰も反論しなかった。


     ◇


 評定は、外の話へ移った。


 土佐一条との友好。

 松浦、宗氏筋、博多、堺の商人。

 小早川隆景の来訪。

 毛利の目。

 公方様からの御内書。

 朝廷よりの九州静謐への期待。

 三好、松永の探り。


 惟種は、一つ一つを聞いていた。


「おおむね、外とは円滑にございます」


 宗運が言った。


「円滑、か」


 惟種は苦い顔をした。


「皆、こちらを見ているだけではないのか」


「見ていることも、円滑のうちにございます」


「嫌な円滑だ」


「戦よりはよろしいかと」


「それはそうだ」


 土佐一条とは、文の往来と通交の道を整え始めた。

 西郷と松浦は、臣従と平戸・南蛮船の話をしたがっている。

 宗氏は、まだ影で見ている。

 博多商人は、阿蘇の法が荷を止めぬか見ている。

 堺商人は、三好の目を含んでいる。

 小早川隆景は、阿蘇の芯を見ようとした。


 そして、阿蘇から惟種と宗運を動かせぬことを知った。


 外は静かではない。


 だが、いまのところ、阿蘇に槍を向けてはいない。


 問題は、山口であった。


     ◇


 宗運は、最後の文を開いた。


「山口よりの報せにございます」


 座が静まる。


「陶隆房、吉見正頼が嫡男・吉見広頼を、大内の主として立てる構えにございます」


 惟種は、目を細めた。


「吉見広頼を」


「はい」


 宗運は続けた。


「大内義尊様、大内義長様はすでになく、問田亀鶴丸様も陶の手にかかったとのこと。珠光姫様は阿蘇におられます。ならば、陶が表に掲げられる大内の血は、吉見広頼殿くらいにございます」


 座に重い空気が落ちた。


 問田亀鶴丸。


 義隆の血を引く者。

 その名が陶の手で消された。

 惟種の目が冷えた。


「亀鶴丸も、か」


「はい」


「徹底しているな」


「陶隆房は、義隆様の直子を残す危うさを知っております。残せば、大内旧臣が担ぐ旗になります。阿蘇にいる珠光姫様とも血が近い」


「だから消した」


「そう見るべきでしょう」


 吉弘鑑理が、低く言った。


「陶としては吉見しかなかったのでしょうな」


「血筋は」


 惟豊が問う。


 宗運が答える。


「吉見広頼殿の母は、大内義興様の娘、大宮姫。義隆様の姉君にあたります。ゆえに広頼殿は、義隆様の甥筋にございます」


「血筋だけ見れば、筋は通る」


 惟種が言った。


「はい」


「腹を見れば」


 宗運は、少しだけ目を伏せた。


「力技にございます」


 その言葉に、何人かが頷いた。


 吉見正頼と陶隆房の仲がよいはずがない。


 大内の名を守るために手を取り合う、などという綺麗な話ではない。


 阿蘇という強大な外圧がある。


 珠光姫は阿蘇にいる。


 阿蘇は九州探題であり、公方と朝廷の名も持つ。


 陶が大内の名を潰したと見られれば、阿蘇に山口へ口を出す名分を与える。


 だから陶は、大内の名を残す。


 そのために吉見広頼を担ぐ。


 表では、陶と吉見が手を取る。


 大内領内を鎮めるために。


 寺社と商人と国衆へ、大内の名は残ると示すために。


 だが、裏では違う。


 惟種は、低く言った。


「吉見正頼が、心から陶に膝を折るとは思えぬ」


「折ったように見せられている、と見るべきでしょう」


 宗運が答えた。


「陶は、吉見をどうする」


「表では立てます」


「裏では」


「吉見の手足を削るでしょうな」


「毒か」


 惟種の声は静かだった。


 宗運も静かに答えた。


「病と呼ばれるものが増えましょう」


 座が冷えた。


 酒の席で腹を下す者。

 旅の途中で熱を出す者。

 急に罪を問われる者。

 所領を削られる者。


 誰も陶の手とは言わぬ。


 言えば、次は己が病に倒れるからである。


 惟種は、しばらく黙った。


 やがて、短く言った。


「嫌な手だが、悪い手ではない」


 誰もそれを咎めなかった。


 陶隆房は、阿蘇の線を読んでいる。


 大内の名を絶たぬ。


 博多の荷を荒らさぬ。


 珠光姫の身と面目に手を伸ばさぬ。


 その形を保ちながら、山口を押さえようとしている。


 しかも、大内の血筋として吉見広頼を据える。


 筋はある。


 だが、腹には毒がある。


「毛利は」


 惟種が問う。


 宗運は、すぐに答えた。


「必ずここを見ます」


「吉見と陶の割れ目か」


「はい。小早川隆景殿も、父・元就殿へ報せましょう。毛利が大内領内を切り崩すなら、吉見は大きな口になります」


 惟種は、地図の上の山口と安芸を見た。


 山口の火。

 安芸の目。

 吉見の血。

 陶の毒。

 阿蘇の珠光。


 すべてが、一本の線ではなく、絡み合った縄のように見えた。


     ◇


 惟種は、ゆっくり口を開いた。


「よそはよそ、うちはうちじゃ」


 座の者たちが、惟種を見た。


「山口は山口。安芸は安芸。土佐は土佐。京は京。どこもこちらを見ておる。こちらも見る。だが、今の阿蘇がすることは一つだ」


 惟種は、阿蘇の木札を指で叩いた。


「地盤を整える」


 宗運が、静かに頭を下げた。


「米と字と灯と薬にございますな」


「それと帳だ」


 惟種は苦く笑った。


「戦より面倒な戦を続けるぞ」


 惟豊が、静かに頷いた。


「それでよい」


 その一言で、評定の行き先は決まった。


 阿蘇は山口へ飛び出さぬ。


 毛利の誘いにも乗らぬ。


 陶の力技にも、すぐには槍を向けぬ。


 まず、九州の根を太らせる。


 米を巡らせる。

 字を教える。

 道を直す。

 夜に灯を置く。

 病の帳を残す。


 武士を警邏へ回す。


 文吏を育てる。


 反乱の旗が立っても、民がそこへ寄らぬ国にする。


 それが、阿蘇の選んだ戦であった。


 外の火は燃えている。


 だが、阿蘇はまず、自らの炉を固める。


 山口の火を見ながら、惟種はそう決めた。


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