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火の山の若君は、未来を夢に見る ~阿蘇家嫡流の若君、名臣甲斐宗運と乱世を切り拓く~  作者: アトラス


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第百六十七話 安芸よりの目

 土佐一条家との友好が静かに結ばれてから、数日。


 安芸より、改めて使者が入った。


 先に届いた香奠の文には、小早川隆景の名が添えられているだけであった。

 だが、此度は違う。


 本人が来ていた。


 名は、小早川隆景。


 毛利元就の子。

 竹原小早川家の当主。


 まだ若い。


 だが、ただ若いだけの者ではない。


 大内義隆のもとで戦を見て、安芸の国衆の腹を知り、毛利元就のそばで人の動かし方を見てきた男である。


 その名を聞いた時、惟種はほんの少し目を細めた。


「小早川隆景本人か」


「はい」


 宗運は短く答えた。


「安芸筋よりの弔問、友好の使者として参っております」


「弔問か」


「表向きは」


「裏は」


「阿蘇を見るためにございましょうな」


 惟種は、少しだけ笑った。


「元就殿らしい」


「その子にございます」


「ならば、親に劣らず見るだろう」


「見せるものと、見せぬものを分けます」


「頼む」


 宗運は軽く頭を下げた。


 その時点で、すでに阿蘇の内ではいくつかの目が動いていた。


 小早川の一行の中に、ただの供ではない者が混じっていることは分かっている。


 寺社筋を見る者。

 蔵の数を聞く者。

 市で米の値を量る者。

 番所の交代を見る者。

 館の奥へ近づこうとした者。


 すべて、宗運の手の者に止められていた。


 捕らえはしない。

 騒がせもしない。


 ただ、自然に道を変えさせる。


 必要なら、別の話題へ誘導する。

 入ってよいところと、入ってはならぬところを、相手に悟らせぬまま分ける。


 宗運の網は、静かに張られていた。


     ◇


 小早川隆景は、礼にかなった姿で現れた。


 顔立ちは穏やかである。


 物腰も荒くない。


 だが、目が若くなかった。


 惟種は、その目を見て思った。


 やはり、元就の子だ。


 隆景は座に進み、深く頭を下げた。


「安芸より参りました、小早川隆景にございます。此度は大内義隆様の御菩提へ香を捧げ、また阿蘇家との友好を願い、罷り越しました」


 声は静かだった。


 よく整っている。


 若いが、軽くはない。


 惟種は頭を下げ返した。


「遠路、よう参られた。大内義隆殿への香、ありがたく受けましょう」


「恐れ入ります」


 隆景は頭を上げた。


 その目が、一瞬だけ座を見た。


 惟種。

 宗運。

 控えの者。

 部屋の形。

 文箱の置き方。

 灯の位置。

 警固の気配。


 すべてを、目立たぬ早さで見ている。


 惟種は、それに気づいた。

 宗運も気づいていた。

 気づかれていることに、隆景も気づいていた。


 だから、三人とも何も言わなかった。


     ◇


「義隆様のことは、安芸にも大きく響いております」


 隆景が口を開いた。


「大内の御名は、西国に広く届いておりました。その御方が討たれ、山口の実が陶隆房へ移りつつある。安芸の者としても、無縁とは申せませぬ」


「無縁ではないでしょうな」


 惟種は答えた。


「毛利家は、大内と近かった」


「はい」


「そして陶隆房とも、近くならざるを得ぬ」


 隆景の目が、わずかに細くなった。


 惟種は、真っ直ぐそこを突いてくる。


「その通りにございます」


 隆景は隠さなかった。


「安芸は、山口を見ずに立つことはできませぬ。陶隆房が山口を押さえるなら、その影は安芸にも差しましょう」


「それで、阿蘇に何を望む」


 惟種の問いは早かった。


 隆景は、静かに一礼した。


「友好にございます」


「それは表か」


「表も裏も、友好にございます」


「上手い言い方だ」


 惟種は少し笑った。


 隆景も、わずかに笑みを返した。


「陶隆房は、危うい火にございます」


 隆景は言った。


「義隆様を討ち、山口を押さえた。されど、すべてが陶へ心を寄せたわけではございませぬ。大内旧臣、寺社、商人、国衆。いずれも、今は様子を見ております」


「そうだろうな」


「その火が広がれば、西国は焼けます」


「もう聞いた言葉だ」


 惟種の声が少しだけ冷えた。


 江良房栄の言葉である。


 隆景は、その冷えを聞き逃さなかった。


 江良との会談で、阿蘇は陶を赦したわけではない。

 ただ、兵を出さぬと決めただけ。


 その線も、隆景は見ている。


「陶方も、同じことを申しましたか」


「申した」


「では、某は別の言い方をいたしましょう」


 隆景は頭を下げた。


「陶隆房を、こちらで押さえましょう。阿蘇には、そのためにご協力を願いたく存じます」


 座の空気が、ほんの少し変わった。


 宗運は顔を動かさない。


 惟種も、すぐには返さなかった。


「陶を押さえる」


「はい」


「それは、毛利としての考えか。それとも隆景殿の考えか」


 隆景は、一拍置いた。


 その間は短い。


 だが、宗運は見逃さなかった。


「毛利としてでございます」


 隆景は答えた。


 惟種は、その顔を見た。


 毛利元就の子。

 小早川隆景。


 安芸の若き知将。


 だが、この時点でその言葉が、どこまで毛利家全体の意思として通るか。


 そこは軽く扱えない。


「毛利元就殿の言葉として受け取ってよいのか」


「父の意を受けております」


「ふむ」


 惟種は、膝の上で指を組んだ。


 宗運が、そこで静かに口を開いた。


「隆景殿のお言葉を疑うものではございませぬ」


「承知しております」


 隆景はすぐに返した。


 宗運は続けた。


「されど、ことが重大にございます。陶隆房を押さえるとなれば、山口、大内旧臣、安芸、博多、寺社、海の道まで絡みます」


「はい」


「ならば、改めて毛利元就殿ともお話しすべきでしょう」


 隆景は、目を伏せた。


 当然の返しである。


 小早川隆景の言葉が軽いわけではない。


 だが、阿蘇が陶に関わる話なら、元就本人の言質が要る。


 宗運の返しは、筋が通りすぎていた。


「まことに、ごもっともにございます」


 隆景は言った。


「ならば、当家の吉田郡山城にて、父・元就より直にお話し申し上げるのが筋かと存じます」


 惟種の目が、わずかに細くなった。


 来たか。


「吉田郡山城へ」


「はい」


 隆景は丁寧に頭を下げる。


「ことが大きゅうございます。文では足りませぬ。阿蘇若君、そして甲斐宗運殿にお越しいただければ、父も腹を割ってお話しできましょう」


「道中は」


「瀬戸内の船筋には、当家より話を通せる者がおります。村上の船衆にも、道を荒らさぬよう触れを回すことはできます。安芸までの道中、できる限り安全は整えましょう」


 隆景の声は、どこまでも礼にかなっていた。


 だが、惟種には分かった。


 これは招きであり、誘いである。


 惟種と宗運を、阿蘇から動かすための誘い。


 旅程で、阿蘇の警固を見る。

 船手を見る。

 忍びの網を見る。

 どこに何人を置くかを見る。


 そして吉田郡山城という、毛利の場へ引き入れる。


 悪い手ではない。


 むしろ良い手である。


 相手が阿蘇でなければ。


     ◇


 隆景は、阿蘇の弱点を探っていた。


 館へ入る前から、ずっと。


 阿蘇は強い。


 米がある。

 道がある。

 蔵がある。

 寺社を使う。

 木版で触れを配る。

 学び所で字と数を教える。

 夜に灯を置く。

 病人を隔てる。

 薬を分ける。


 兵だけで国を押さえている家ではない。


 だから、外から崩しにくい。


 だが、どんな家にも弱い場所はある。


 隆景はそれを探した。


 そして、気づいた。


 弱い場所は、惟種と宗運である。


 いや、正確には惟種。


 阿蘇の奇妙な速さは、この若君から出ている。


 普通なら繋がらぬものを繋ぐ。


 寺社と触れ。

 薬と帳。

 灯と治安。

 木版と民心。

 学び所と年貢。

 南蛮の道具と戦国の政。


 その発想が、阿蘇を異様な速さで変えている。


 だが、発想だけでは国は動かない。


 それを帳へ落とし、手順へ変え、誰に任せるかを決め、破綻しないよう支えている者がいる。


 甲斐宗運。


 惟種が火をつけ、宗運が炉を作っている。


 どちらかが欠ければ、阿蘇の火は荒れるか、消える。


 隆景はそう見た。


 すでに小さな目は入れた。


 だが、館の奥へは届かなかった。


 宗運の手の者に弾かれた。


 捕らえられはしない。

 騒ぎにもならない。

 ただ、自然に退かされる。


 厄介である。


 正面から探れぬ。


 ならば、動かす。


 阿蘇の中枢を、阿蘇の外へ。


 吉田郡山城へ。


 できれば惟種と宗運を共に。


 そうなれば、道中で分かることがある。

 安芸で見えることがある。


 最後の手として、帰らせぬことも考えられる。


 だが、それは本命ではない。


 安い相手ではない。

 下手に刃を向ければ、阿蘇は毛利を敵とする。


 だからまずは、招く。


 礼を尽くして。

 筋を立てて。

 元就の名を置いて。


     ◇


 惟種は、隆景の誘いを聞き終えると、静かに言った。


「お断りいたす」


 隆景は、表情を崩さなかった。


「それは、なぜにございましょう」


「正確には、わしと宗運は手が離せぬ」


 惟種は答えた。


「珠光を迎えたばかりだ。陶とは友和を結んだばかり。九州の内も、まだ根が浅い。わしと宗運が同時に阿蘇を離れることはできぬ」


「されど、ことは陶隆房に関わります」


「だからこそだ」


 惟種の声は静かだった。


「わしと宗運が安芸へ向かえば、陶はどう見る。阿蘇が毛利と結んで陶を討つ支度をしている、と見るだろう」


「それは」


「実際にそうでなくとも、そう見える」


 隆景は、ほんの少し目を伏せた。


 その通りである。


「それに、九州も見る。阿蘇の若君と宗運が揃って安芸へ行ったと聞けば、日向、大隅、有馬、大村、府内の旧領は何を思う」


 宗運が静かに続けた。


「阿蘇の柱が抜けた、と見る者も出ましょう」


 隆景は、二人を見た。


 切り返しが早い。

 隙が少ない。


「では、文で」


「文はよい」


 惟種は頷いた。


「使いも出す」


「どなたを」


「島津貴久殿でよいか」


 隆景の目が、わずかに動いた。


 島津貴久。


 阿蘇家中の南の柱。


 大きい名である。


 決して軽い代使ではない。


 だが、隆景が欲しいものではない。


「貴久殿は、誠に重き御方にございます」


 隆景は丁寧に言った。


「されど、ことは重大にございます。何卒、惟種様、宗運様にてお越しいただきたく」


「なぜだ」


 惟種の問いは短い。


 隆景は、まっすぐ答えた。


「阿蘇の御腹を、父が直にうかがいたく存じております」


「わしの腹なら、文でも使いでも伝えられる」


「陶隆房を押さえるには、文だけでは足りませぬ」


「ならば、元就殿が来るか」


 隆景の眉が、ほんのわずか動いた。


「父が、阿蘇へ」


「そちらが直に話したいなら、そうする手もあろう」


「父も安芸を離れ難き身にございます」


「わしも同じだ」


 惟種は静かに言った。


 その一言で、座の空気が固まった。


 隆景は、そこで理解した。


 動かない。


 この若君は動かない。


 少なくとも今は。


 そして宗運も、動かさせない。


「何卒、再考を」


 隆景は、なおも頭を下げた。


「陶隆房は、時を待ちませぬ。山口を押さえれば、次は安芸、石見、長門、筑前の荷へ手を伸ばしましょう。阿蘇と毛利が早く腹を合わせることは、西国を焼かぬためにも」


「申し訳ございませぬ」


 宗運が言葉を切った。


 穏やかな声だった。


 だが、その声には扉を閉める響きがあった。


「またの機会に、お話しさせていただきましょう」


 隆景は宗運を見た。


 宗運は、涼しい顔で頭を下げた。


「この度は、遠路ご足労いただき、ありがとうございました。大内義隆様への御香奠、阿蘇家としてありがたくお受けいたします」


 終わり。


 そう告げる声だった。


 隆景は、それ以上食い下がらなかった。


 食い下がれば、こちらの狙いが見えすぎる。


 彼は深く頭を下げた。


「承知いたしました。此度は、まず御挨拶までに」


「元就殿には、阿蘇は毛利との友好を拒むものではない、と伝えられよ」


 惟種が言った。


「ただし、陶隆房のことは軽く扱えぬ。大内の名、博多の荷、珠光姫の身と面目。この三つに関わる以上、阿蘇は慎重に動く」


「しかと、父に伝えます」


「頼む」


 隆景は、もう一度礼をして退いた。


     ◇


 廊へ出た隆景は、足取りを乱さなかった。


 交渉は、通ったとは言えない。


 惟種と宗運を吉田郡山城へ招くことはできなかった。


 だが、失敗ではない。


 隆景は心の内で、得たものを並べた。


 阿蘇は、陶を赦していない。

 だが、今すぐ山口へ兵を出せない。


 惟種と宗運は、阿蘇を離れられない。

 いや、離れぬと決めている。


 それだけ阿蘇の内は、まだ二人を必要としている。


 阿蘇の仕組みは強い。


 だが、自然に回っているわけではない。


 惟種と宗運が中枢にいるから回っている。


 そこは、確かな弱点であった。


 忍びは通りにくい。

 宗運の網がある。

 館の奥は深く、見るべきものほど見せない。


 ならば、外を崩す。


 大内領内を切り崩す。

 陶と大内旧臣の間に隙を作る。

 寺社に文を入れ、商人に荷の行き先を考えさせ、国衆に次の旗を見せる。


 阿蘇が動けぬ間に、安芸から手を伸ばす。


 隆景は、ほんの少しだけ口元を緩めた。


 まあ、こんなものか。


 惟種と宗運が動けぬと分かっただけでも、十分な儲けである。


 このことは、父上へ報せる。


 阿蘇は強い。


 だが、強すぎるものほど、芯が見えれば崩し方も見える。


 隆景は、廊の先へ歩いていった。


     ◇


 隆景が退いた後、部屋にはしばらく沈黙が残った。


 惟種が先に口を開いた。


「誘いにしては、よくできていたな」


「はい」


 宗運は頷いた。


「礼も筋もありました。元就殿の名も置いておりました。断りにくい形にございます」


「断ったがな」


「断りました」


「まずかったか」


「いいえ」


 宗運は即答した。


「あれは、行ってはなりませぬ」


「やはりか」


「若君とわたくしを、阿蘇から離す誘いにございます」


「道中で見る気だったな」


「見るだけで済めばよろしいですが」


 惟種は、少しだけ目を細めた。


「帰らせぬ気もあったか」


「最後の手としては」


 宗運の声は冷たい。


「隆景殿がそこまで軽い方とは思いませぬ。ですが、考えぬ者でもございますまい」


「元就の子だからな」


「はい」


「嫌な家だ」


「若君がそれを申されますか」


「どういう意味だ」


「そのままにございます」


 惟種は、苦い顔をした。


 宗運は続けた。


「隆景殿は見ております」


「何を」


「阿蘇の芯を」


 惟種は黙った。


「阿蘇の仕組みは広がっております。ですが、その多くはまだ若君の考えと、それを形にする手に依っております」


「お前のことか」


「わたくしだけではございませぬ。種茂、種清、北里、親英、名和、鍋島、島津、相良、大友旧臣。皆、それぞれ担っております」


「なら、芯は一つではない」


「理想としては」


 宗運は、はっきり言った。


「ですが、今はまだ、若君が芯にございます」


 惟種は、少しだけ息を吐いた。


「だから、わしを動かしたい」


「はい」


「お前も」


「はい」


「面倒だな」


「若君が大きくしすぎたのでございます」


「最近、そればかり言われる」


「事実にございます」


 惟種は言い返せなかった。


 阿蘇は、山口へ兵を出さぬと決めた。


 だが、兵を出さぬことは、何もしないことではない。


 安芸よりの目は、阿蘇の芯を見ようとしている。


 ならば、こちらも安芸の芯を見る。


 毛利元就。

 小早川隆景。

 そして、陶隆房。


 西国の火は、まだ消えない。


 ただ、燃える場所が少しずつ広がっているだけであった。


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同作者の別連載
『異世界エンゲージ ~毎日のパック開封でカード使いは帰還を目指す~』
こちらも覗いていただけると嬉しいです。

― 新着の感想 ―
愛人同士の内ゲバ始まらなそうですね。 字面だけ追うと隆景のほうが陶より掘られたモノのなんたらになってそう。
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