第百六十六話 土佐よりの忠臣
珠光姫との婚儀が終わって、数日が過ぎた。
阿蘇の館から、喪の色が消えたわけではない。
大内義隆の菩提を弔う香は、まだ寺々に残っている。
珠光姫は、阿蘇の内へ入った。
大内の血も、粗略には扱われなかった。
それだけで、この婚儀は一つの役目を果たしたと言ってよかった。
だが、婚儀が終われば、外より来た使者たちをいつまでも待たせるわけにはいかない。
惟豊が大方の使者を受けていた。
弔問。
香奠。
見舞い。
祝儀。
通交の確認。
名目はそれぞれ違う。
だが、見ているものは同じである。
阿蘇が、大内の血をどう扱うか。
九州探題となった阿蘇が、山口の火をどう見るか。
陶隆房と友和を続けながら、義隆の死をどこへ置くか。
その答えを、西国の者たちは見に来ていた。
◇
「本日は、土佐一条家よりの使者をお通しいたします」
宗運が、いつもの涼しい顔で言った。
惟種は、文箱の上に置かれた名簿を見ていた。
その中の一つの名に、目が止まる。
土居宗珊。
惟種は、思わず小さく息を吐いた。
「……土居宗珊か」
「はい」
宗運は、惟種の顔を見た。
ほんのわずかだが、若君の声が弾んだ。
喜び、とまでは言わぬ。
だが、明らかに他の使者の名を読む時とは違う。
「若君」
「何だ」
「お知り合いにございますか」
「いや」
「では、なぜそのようなお顔を」
「どのような顔だ」
「妙に、機嫌のよろしいお顔にございます」
惟種は咳払いした。
「気のせいだ」
「そうでございますか」
宗運は、そこで一歩引いた。
だが、納得した顔ではない。
惟種は名簿を閉じた。
土居宗珊。
名を聞いただけで、胸の奥が少しだけ騒ぐ。
前の世の記憶がある。
土佐一条家。
一条兼定。
そして、その若き主を支えようとした忠臣。
諫めるべき時に諫め、支えるべき時に支えた者。
その名が、今、阿蘇の館へ来ている。
惟種は、顔を整えた。
宗運は、その様子を横目で見ていた。
確かに、土居宗珊は一条家の重臣である。
若き当主を支える者として、軽んじる相手ではない。
だが、それにしても若君の反応が妙であった。
まるで、会う前から相手を知っているような顔である。
宗運は、黙ってその違和感を胸に置いた。
◇
土居宗珊は、静かに通された。
年の頃は壮年。
派手な男ではない。
だが、背筋に崩れがなかった。
土佐の山と海を背負う者の、硬さがある。
宗珊は畳の上に進み、深く頭を下げた。
「土佐一条家家臣、土居宗珊にございます。此度は大内義隆様の御菩提に香を捧げ、また珠光姫様の御身をお見舞い申し上げるため、参上つかまつりました」
声は低く、よく通った。
惟種は、軽く頭を下げ返す。
「遠路、よう参られた。土居宗珊殿の名は、聞いております」
宗珊の眉が、わずかに動いた。
「某の名を、でございますか」
「若き主を支える者の名は、遠くにも届くものです」
宗運は、横で静かに目を細めた。
その言葉は、礼にかなっている。
おかしなところはない。
だが、少し深い。
若君は、土居宗珊をただの使者として見ていない。
そう感じた。
一方の宗珊も、心の内で同じように感じていた。
阿蘇惟種。
九州探題。
大筒と船を率い、公方を守り、九州をまとめ、大内の血まで預かった若君。
その名は土佐にも届いている。
だが、その若君が、なぜ自分の名をこのように知っているのか。
土居宗珊は一条家の重臣ではある。
しかし、天下に名を轟かせた武将ではない。
まだ、そこまでの者ではないはずだった。
「過分なお言葉にございます」
宗珊は、そう言って頭を下げた。
だが、その胸には小さな疑いが残った。
◇
「一条兼定殿は、御健やかにあられるか」
惟種が問うた。
宗珊は、顔を上げた。
「はい。御元服を済まされたばかりにて、いまだ御若き御当主にございます」
言葉は丁寧だった。
だが、すべてを飾ってはいない。
惟種はそこを聞き逃さなかった。
「まだ幼い」
「はい」
宗珊は正直に頷いた。
「土佐一条家は公家の流れを持ち、土佐に根を張っております。されど、家を安んじるには、まだ多くの支えが要ります」
「先代房基殿の後を受けたばかりであれば、なおさらか」
「おっしゃる通りにございます」
宗珊は、そこで一度息を置いた。
「土佐は山が深く、海もございます。京より遠く、されど京の名を忘れることもできませぬ。土佐一条家は、その名ゆえに立っております。されど、名だけで国は治まりませぬ」
惟種は静かに聞いていた。
宗運もまた、口を挟まない。
「大内義隆様が討たれました」
宗珊の声が少し重くなる。
「山口が揺れれば、西国も揺れます。陶隆房が山口を握り、阿蘇家は大内の血を預かられた。さらに公方様、朝廷より九州静謐の名を帯びておられる」
宗珊は深く頭を下げた。
「土佐一条家としては、阿蘇家と敵対する理由はございませぬ。むしろ、通交を開き、友好を結び、互いに無用の疑いを生まぬようにしたく存じます」
そこまで言って、宗珊は惟種を見た。
普通なら、ここからが交渉である。
阿蘇が何を求めるか。
一条が何を差し出せるか。
海の道。
商い。
寺社。
公家筋への取次。
陶への距離。
それらを一つずつ量るべき場面であった。
宗珊も、そのつもりで言葉を整えていた。
だが、惟種はすぐに頷いた。
「よろしい」
宗珊は、一瞬だけ動きを止めた。
宗運もまた、わずかに視線を上げた。
「土居宗珊殿の言ならば、阿蘇は土佐一条家と友好を結びましょう」
早い。
宗珊は、頭を下げながらも、胸の内で算盤が狂うのを感じた。
阿蘇に利がないわけではない。
土佐一条と友好を結べば、四国の口が開く。
伊予の西園寺、土佐の国衆、京の公家筋、そして海の道。
阿蘇にとって、損はない。
それは分かる。
だが、この若君は土佐一条の名に対して頷いたのではない。
土居宗珊の言葉に対して、頷いた。
「……ありがたき御言葉にございます」
宗珊は、深く頭を下げた。
だが、胸の内には問いが残った。
なぜだ。
◇
「通交については、まず豊後、日向、海路を通して整えます」
宗運が口を開いた。
その声はいつも通りである。
「阿蘇としては、土佐一条家との文の往来を許します。商いについては、博多、府内、名和の船口とすり合わせます。寺社の使いについても、乱れぬよう道を定めましょう」
惟種が頷く。
「土佐から来る者には、阿蘇の法に従ってもらう。阿蘇より行く者も、一条家の面目を損なわぬようにする」
「ありがたく」
宗珊は返した。
「公家筋への取次は、無理に求めぬ」
惟種が言った。
宗珊は、少し目を上げる。
「よろしいのでございますか」
「急げば、互いに面倒になる。土佐一条は京の名を持つ。だが、今の阿蘇が京の名を欲しがりすぎれば、公方様も朝廷も三好も、余計に騒ぐ」
惟種は、少し嫌そうな顔をした。
「ただでさえ、上洛せよと言われておる」
宗運が咳払いした。
「若君」
「事実だろう」
「事実であっても、使者の前で申すことではございませぬ」
宗珊は、かすかに口元を緩めた。
噂には聞いていた。
阿蘇惟種は、公方様の信を得ている。
だが、幕府を背負いたがる者ではない、と。
今の一言で、その噂が少し分かった気がした。
「阿蘇家は、京の名を重んじられるが、京に呑まれるおつもりはない」
宗珊が言う。
惟種は、宗珊を見た。
「その通りです」
短い返事だった。
だが、そこには迷いがなかった。
「土佐一条家も同じでありましょう」
惟種は続けた。
「京の名を戴きながら、土佐で生きねばならぬ。名は大事だ。だが、名だけでは米は実らぬ。港も動かぬ。国衆も膝を折らぬ」
宗珊の目が、わずかに変わった。
この若君は、土佐一条の弱さを分かっている。
だが、そこを責めるために言っているのではない。
むしろ、理解したうえで手を差し出している。
それがまた、宗珊には分からなかった。
なぜ、ここまで。
「若き主は、大事にせねばなりませぬ」
惟種は静かに言った。
「支える者もまた、大事にせねばならぬ」
宗珊は、一瞬だけ言葉を失った。
惟種の目は、まっすぐだった。
妙な熱がある。
だが、欲ではない。
悪意でもない。
むしろ、敬意に近い。
宗珊はそれを感じた。
だからこそ、腑に落ちなかった。
◇
話は、思ったより早くまとまった。
土佐一条家と阿蘇家は、文の往来を認める。
使者の往来は、阿蘇側では府内を通し、必要に応じて名和の船口も使う。
商いは急がず、まずは香、紙、薬、塩、海産物、布の往来から始める。
兵を交わす話はしない。
臣従の話もしない。
あくまで友好と通交。
互いに無用の疑いを生まぬための縁である。
それは、阿蘇にとって損ではない。
土佐一条にとっては、若き兼定を支えるための外の支えとなる。
宗珊が求めていたものは、ほぼ得られた。
得られすぎたと言ってもよかった。
「土居殿」
惟種が呼んだ。
「はっ」
「兼定殿を、よく支えられよ」
宗珊は頭を下げた。
「もとより、そのために身を置いております」
「ならばよい」
惟種は、少しだけ笑った。
「主が若い時に、そばに誰がいるかで家は変わる」
宗珊は、その言葉を胸に受けた。
それはただの一般論ではなかった。
なぜか、そう聞こえた。
まるで、惟種は土居宗珊の先を見ている。
いや、まさか。
宗珊は、すぐにその考えを消した。
だが、消したはずの違和感は残った。
「ありがたき御言葉。兼定様にも、必ずお伝えいたします」
「頼みます」
宗珊は、深く礼をして退いた。
◇
廊へ出た宗珊は、歩きながら静かに息を吐いた。
上手く行きすぎた。
阿蘇が土佐一条を敵に回す利はない。
それは分かる。
阿蘇は大内の血を預かり、陶と冷たい友和を結び、九州の内を固めている最中である。
四国の土佐一条と争う理由などない。
むしろ、友好を結ぶ利はある。
土佐を通じて四国を見ることができる。
京の公家筋とも、間接の糸ができる。
海の道も広がる。
それは分かる。
分かるのだ。
だが、それにしても早かった。
あの若君は、こちらを測る前に頷いた。
いや、測っていなかったわけではない。
目は鋭かった。
言葉も軽くなかった。
土佐一条の弱さも分かっていた。
兼定様の若さも、家中の支えの必要も分かっていた。
それでも、土居宗珊が申すなら、と言った。
悪意は感じなかった。
罠の匂いもない。
むしろ、妙な敬意を感じた。
宗珊は足を止めかけ、すぐにまた歩き出した。
阿蘇惟種。
噂以上に、分からぬ若君であった。
◇
宗珊が退いた後、惟種は少し満足そうに息を吐いた。
宗運は、その顔を見逃さなかった。
「若君」
「何だ」
「内容としては、問題ございませぬ」
「ならよい」
「土佐一条家との友好は、阿蘇にとっても利がございます。四国への口、京の名、公家筋への糸、伊予を見る目。いずれも損ではございませぬ」
「だろう」
「ですが」
「まだあるのか」
「少し、早すぎませぬか」
惟種は宗運を見た。
宗運の顔は、いつも通り涼しい。
だが、その目は逃がさない。
「何がだ」
「決めるのが、にございます」
「問題ない」
「問題があるとは申しておりませぬ」
「ならよいだろう」
「よくはございます。ですが、腑に落ちませぬ」
惟種は黙った。
宗運は続けた。
「土居宗珊は、確かに一条家の重臣。若き当主を支える者として、軽んじるべきではございませぬ」
「ああ」
「ですが、若君は最初から、あの者を買っておられました。恐れながら、当主たるもの、好意のみで動くべきではございませぬ」
「そう見えたか」
「見えました」
「なら、そうなのだろう」
「なぜにございます」
惟種は、少しだけ視線を逸らした。
答えようはいくらでもある。
土佐一条との友好には利がある。
兼定が若い今、縁を結ぶ価値がある。
四国を見る目が欲しい。
陶と大内の情勢の中で、四国の国衆と公家筋を無視できない。
どれも嘘ではない。
だが、宗運が聞いているのはそこではない。
惟種は、しばらくして答えた。
「忠臣だからだ」
宗運の眉が、わずかに動いた。
「忠臣」
「ああ」
「土居宗珊が一条家に忠ある者であることは、確かに見えました」
「わしは、忠ある者を大事にしたい」
「それだけにございますか」
「それだけで十分だ」
惟種は、今度は宗運をまっすぐ見た。
「わしはわがままだ。あの脇差の一件でもそうだったであろう」
宗運の目が、わずかに動いた。
脇差の一件。
かつて宗運の脇差が盗まれた。
盗みに関わったのは、宗運の娘婿であった。
本来ならば、処さねばならぬ。
宗運も、それを覚悟していた。
だが、惟種は新しい脇差を打たせ、宗運へ渡した。
これで手打ちじゃ。
わしが決めた。
従え。
そう言った。
理ではなく、主の意として収めたのである。
宗運が、娘をも失うような顔をするのを、惟種が見たくなかったからだ。
「覚えております」
宗運は静かに言った。
「おぬしの娘と娘婿を処すのが筋であった。だが、わしはそれを嫌がった。おぬしが娘をも失うような顔を見とうなかった」
惟種は、少しだけ苦い顔をした。
「あれは、わしが嫌じゃったから収めた」
「若君らしい御裁きにございました」
「褒めておらぬだろう」
「半分は」
「半分は何だ」
「感謝にございます」
惟種は、少しだけ黙った。
宗運も、それ以上は言わなかった。
惟種は、静かに続ける。
「土居宗珊にも、それに似たものを見た」
「似たもの」
「幼い主を、忠ある者が支える。その形を見た。そなたが、わしを支えてきたようにな」
宗運は、何も言わなかった。
「若き主を支える者は、大事にせねばならぬ。家が大きくなる時、主だけでは立てぬ。そばに誰がいるかで、家は生きも死にもする」
宗運は、静かにその言葉を聞いた。
理はある。
間違ってはいない。
それに、主がそのように言ってくれることは、ありがたいことでもあった。
宗運自身も同じことを考える。
惟種の周りに種茂や種清を置き、宗運自身の仕事を少しずつ渡しているのも、それゆえである。
だが、それでも引っかかる。
若君は、土居宗珊を見ていた。
ただの忠臣としてではない。
まるで、すでに何かを知る者を見るように。
「宗運」
「は」
「妙な顔をしているぞ」
「若君ほどではございませぬ」
「わしは普通だ」
「それは、少し無理がございます」
惟種は苦い顔をした。
「とにかく、土佐一条との友好は結ぶ。それで進めよ」
「承知しました」
「宗珊殿への返礼も厚くしすぎるな。だが、粗略にはするな」
「難しい注文にございますな」
「いつものことだ」
「まことに」
宗運は頭を下げた。
だが、胸の内の違和感は消えなかった。
◇
その日、土佐一条家と阿蘇家の友好は、静かに結ばれた。
大きな誓紙を交わしたわけではない。
兵を出す約束をしたわけでもない。
臣従でもない。
ただ、文の往来を認め、使者の道を開き、商いと寺社の行き来を穏やかにする。
それだけである。
だが、それは土佐一条家にとって大きな支えとなる。
阿蘇にとっても、四国を見る新たな目となる。
筋は通っていた。
利もあった。
誰も損はしていない。
それでも、二人の男だけが腑に落ちぬものを抱えていた。
一人は、甲斐宗運。
若君が、なぜあそこまで土居宗珊を買ったのか。
忠臣だから。
それは分かる。
だが、若君の目は、それだけではなかった。
もう一人は、土居宗珊。
阿蘇惟種は、なぜ自分をあのように見たのか。
利用するための目ではない。
侮る目でもない。
試す目でもない。
敬意。
そう呼ぶほかない何かが、そこにはあった。
筋は通る。
利もある。
悪意もない。
それでも、宗運と宗珊だけが同じ問いを抱いていた。
なぜだ、と。




