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火の山の若君は、未来を夢に見る ~阿蘇家嫡流の若君、名臣甲斐宗運と乱世を切り拓く~  作者: アトラス


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第百六十五話 大内の血

 婚儀は、静かに終わった。


 祝言の名はあった。

 だが、そこに満ちていたのは、祝いの音ではなかった。


 笛も太鼓もない。

 歌舞もない。

 酒の匂いも薄い。


 ただ、香の煙が細く立ち、読経の声が館の奥へ低く染み込んでいた。


 珠光姫は、阿蘇へ入った。


 それは華やかな嫁入りではなかった。


 大内義隆の菩提を弔う煙の中で、大内の血を阿蘇が預かる儀であった。


 赤き色は控えられ、膳は整えられていた。

 だが、祝いの膳というより、迎え入れの膳であった。


 阿蘇家中の主だった者たちは礼を尽くした。


 されど、騒がぬ。

 笑い声を響かせぬ。


 誰もが知っていた。


 この婚儀は、大内義隆の死の上にある。

 そして、陶隆房との冷たい友和の上にある。


 盃は交わされた。


 珠光姫は阿蘇の内へ入った。


 だが、その盃に映る火は、どこか喪の色を帯びていた。


     ◇


 夜。


 儀が終わり、外のざわめきが遠のいたころ、惟種は珠光姫の部屋を訪ねた。


 部屋には、余計な者を入れていない。


 近くに女房は控えている。

 だが、声の届かぬところまで下がらせてあった。


 これは、他の者に聞かせてよい話ではなかった。


 灯は小さい。

 香の匂いが、まだわずかに残っている。


 珠光姫は、婚儀の装いをすべて解いたわけではなかった。

 だが、昼の姿より少し楽な形になっている。


 顔には疲れがあった。


 当然である。


 父を失い、故郷を離れ、阿蘇の内へ入り、弔いと婚儀を同じ日に受け止めたのだ。


 それでも、珠光姫は乱れていなかった。


 惟種が入ると、珠光姫は静かに頭を下げた。


「惟種様」


「珠光」


 名を呼ぶと、珠光姫はわずかに目を伏せた。


 もう、阿蘇の内の者である。


 だが、そう呼ぶことには、まだ互いに慣れていなかった。


 惟種は、向かいに座った。


 しばらく、言葉が出なかった。


 灯明の火が揺れる。

 外で、遠く番の者の足音がした。


 惟種は、ゆっくり頭を下げた。


「すまぬ」


 珠光姫の肩が、わずかに動いた。


「惟種様」


「そなたの父君の仇を、今は討てぬ」


 珠光姫は、何も言わなかった。


 惟種は頭を下げたまま続けた。


「義隆殿は、そなたを阿蘇へ託された。わしは受けた。大内の血を預かると申した」


 声が、少し低くなる。


「だが、その義隆殿が討たれた。婚姻の儀が済む前を狙われた。陶隆房は、そこを突いた」


 珠光姫の指が、膝の上で少しだけ動いた。


「わしは、読まれた」


 惟種は言った。


「山口へすぐ兵を入れられぬこと。九州を空けられぬこと。婚姻の儀が済む前なら、阿蘇の口が太くなりきらぬこと。珠光、博多の荷、大内の名。その線を越えぬ限り、阿蘇が動きにくいこと」


 惟種は、顔を上げた。


「すべて読まれた」


 珠光姫は、静かに惟種を見ていた。


 その目には、涙があった。

 だが、こぼれてはいなかった。


「惟種様が、父を見捨てたとは思っておりませぬ」


 珠光姫は言った。


 声は細い。

 だが、乱れてはいない。


「父上は、申されました。阿蘇が軽々しく山口へ兵を入れてはならぬ、と」


 惟種は何も言わなかった。


「父上は、大内の血と名を残すため、私を阿蘇へ託されました。父上の命を救うためではなく、後へ残すもののために」


 珠光姫は、そこで一度だけ息を吸った。


「分かっております」


「分かっていても、苦しかろう」


「苦しくないはずがございません」


 珠光姫は、初めてはっきりと言った。


「父上は討たれました。私はここにおります。私は父上のそばにおりませんでした。山口へ戻ることもできませぬ。陶隆房を赦すこともできませぬ」


 灯が揺れた。


 珠光姫の目に浮かんだ涙が、光を受けて細く光った。


「ですが」


 珠光姫は続けた。


「いま阿蘇が兵を出せば、父上の死に、さらに多くの民の死が重なります」


 惟種の眉が、わずかに動いた。


「阿蘇の内を見ました。道を見ました。市を見ました。薬を見ました。灯を見ました。病の者を隔て、食べ物を巡らせ、子に字を教え、寺に語らせていることも聞きました」


 珠光姫は、ゆっくりと言葉を選ぶ。


「それらは、まだ根が浅いのでしょう?」


 惟種は、少し目を伏せた。


「宗運が言ったか」


「いいえ」


「では、なぜ分かる」


「阿蘇へ来たばかりの私でも、分かります」


 珠光姫は言った。


「強い仕組みほど、作り始めは壊れやすいものにございます。山口にも、そういうものはありました。文の者も、寺も、商いも、雅も。長く積み上げたものほど、一度疑われれば崩れるのです」


 それは、大内の姫の言葉だった。


 山口の栄えを知り、その崩れを肌で感じている者の言葉だった。


「だから、無理は申しませぬ」


「珠光」


「陶隆房と友和を続けられていることも、分かっております」


 その名を口にした時、珠光姫の声はかすかに震えた。


 だが、崩れなかった。


「それが、赦しではないことも」


 惟種は、静かに頷いた。


「赦してはおらぬ」


「はい」


「不問にもしておらぬ」


「はい」


「ただ、今は兵を出さぬだけだ」


「はい」


 短い言葉が、二人の間に落ちた。


 惟種は、そこでようやく膝の上の手をほどいた。


「珠光」


「はい」


「これは、外には出せぬ話だ」


「承知しております」


「陶隆房を、わしは忘れぬ」


 珠光姫の目が、わずかに開いた。


「義隆殿を討った者を、このまま世の理として残すつもりはない」


 惟種の声は静かだった。


 怒鳴りもしない。

 歯を食いしばりもしない。


 ただ、冷えていた。


「今は討てぬ。だが、時が来れば、陶隆房には必ず報いを受けさせる」


 灯明の火が、小さく揺れた。


 珠光姫は、しばらく声を出せなかった。


 その言葉が、軽い慰めでないことは分かった。


 惟種は、できぬ約を口にする者ではない。


 だからこそ、その言葉は重かった。


「……その日まで」


 珠光姫は、ようやく声を出した。


「私は、待てばよろしいのですね」


「待てとは言わぬ」


 惟種は首を横に振った。


「生きよ」


 珠光姫が、瞬きをした。


「生きるのだ。阿蘇で、大内の姫として。わしの側室として。加世の面目を傷つけぬよう、されど己を低くしすぎぬよう」


 惟種は、まっすぐ珠光姫を見た。


「そなたは、ただ待つために阿蘇へ来たのではない」


 珠光姫の胸の奥で、何かが静かに動いた。


「大内の名を、そなたが抱いておる」


「私が」


「そうだ」


 惟種は頷いた。


「山口の館がなくとも、大内の血は残る。兵が散っても、名は残せる。名が残れば、いつか戻る道も作れる」


「戻る道」


「今すぐではない。山口へ旗を立てる話でもない」


 惟種は、はっきりと言った。


「だが、陶の手で大内が終わったことにはせぬ」


 珠光姫は、両手を膝の上で握った。


 その言葉は、父の死で空いた胸の奥へ、静かに落ちてきた。


 慰めではない。

 夢物語でもない。


 惟種は、道の話をしている。


 今は閉ざされている道。

 だが、いつか開くための道。


「加世の嫡流は乱さぬ」


 惟種は続けた。


「それは、阿蘇の内を守るためにも必要だ」


「はい」


「だが、そなたとの間に子が生まれたなら」


 珠光姫の肩が、わずかに震えた。


「その子に、大内の名を継がせる道を作る」


 珠光姫は、惟種を見つめた。


「惟種様」


「時が来れば、そなたとの子に大内を任せる」


 その言葉は、あまりに大きかった。


 側室に入ったばかりの姫へ向ける言葉としては、大きすぎた。


 大内の名。

 山口の火。

 陶隆房。

 九州探題。

 阿蘇の家中。

 加世の嫡流。


 そのすべてを背負ったうえで、惟種は言っている。


 珠光姫は、普通なら恐れるべきだった。


 あるいは、疑うべきだった。


 そんなことができるのか、と。


 大内を失った姫に、甘い夢を見せているだけではないのか、と。


 だが、珠光姫はそう思わなかった。


 惟種ならば、やる。


 なぜか、そう思えた。


 阿蘇の館で見た暖かい部屋。

 夜の灯。

 市に並ぶ食べ物。

 玻璃を飾るのではなく、薬と道具へ使う考え。

 病の者を隔てる決まり。

 民に拝まれても、それを嫌がる横顔。

 義隆を救えず、それを痛みとして抱えながら、それでも九州を焼かぬために怒りを飲んだ姿。


 あれらは、ただの言葉ではなかった。


 この人は、本当に物事を形にする。


 珠光姫のどこか深いところが、それを知っていた。


「私は」


 珠光姫は、ゆっくりと頭を下げた。


「父の名も、大内の血も、私のこれからも、惟種様へお預けいたします」


 惟種は、少しだけ息を呑んだ。


「珠光」


「私は、陶隆房を赦しませぬ」


「ああ」


「父上の死を、忘れませぬ」


「ああ」


「ですが、今は阿蘇におります。阿蘇の内に入りました。ならば、阿蘇を乱すことはいたしませぬ」


 珠光姫は顔を上げた。


 涙は、まだ目に残っている。


 だが、その顔は先ほどよりも静かだった。


「私は、弁えます。阿蘇を乱すことはいたしませぬ」


「己を殺すな」


 惟種はすぐに言った。


 珠光姫の目が揺れた。


「わきまえることと、己を殺すことは違う」


 惟種は言葉を置くように続けた。


「加世の面目は守る。阿蘇の嫡流も乱さぬ。だが、そなたを粗略にはせぬ。大内の血として遇する。それは、わしが決めたことだ」


「はい」


「つらい時は、つらいと言え」


 珠光姫は、少し驚いたように惟種を見た。


「言って、よろしいのですか」


「当然だ」


「側室であっても」


「側室であってもだ」


 惟種は、わずかに苦い顔をした。


「加世にも叱られた。迎えると決めたなら、迷った顔をするな、と」


 珠光姫の表情が、ほんの少し和らいだ。


「加世様は、お強い方にございます」


「ああ」


「そして、お優しい方です」


「ああ」


「私に、正室は加世様であると、はっきり申されました」


 惟種は黙って聞いた。


「ですが、私を粗略にする者があれば、正室として許さぬとも申されました」


「加世らしい」


「はい」


 珠光姫は、小さく頷いた。


「だから、私は恐ろしくありませぬ」


 惟種は、少しだけ目を細めた。


「そうか」


「はい」


 短いやり取りだった。


 だが、それで十分だった。


 惟種は、珠光姫の前へ手をついた。


「珠光」


「はい」


「義隆殿を救えなんだ」


「はい」


「今すぐ仇も討てぬ」


「はい」


「それでも、わしは大内を捨てぬ」


 珠光姫の目から、ようやく一筋だけ涙がこぼれた。


「そのお言葉だけで、今は十分にございます」


 惟種は、何も言わなかった。


 言えば、余計な慰めになる気がした。


 だから、黙って頭を下げた。


 珠光姫もまた、静かに頭を下げた。


 二人の間に、香の匂いが漂っている。


 弔いの香。

 婚儀の香。


 死んだ者を送る香であり、生きる者をつなぐ香であった。


     ◇


 しばらくして、惟種は立ち上がった。


「今日は休め」


「惟種様は」


「まだ少し、文を見る」


「お忙しいのですね」


「忙しくしたくはないのだがな」


 珠光姫は、ほんの少しだけ笑った。


 それは、阿蘇へ来てから初めて見せる、苦しみだけではない笑みだった。


「ご無理はなさらぬよう」


「宗運にも言われる」


「では、私からも申し上げます」


「二人に言われると、逃げ場がないな」


「加世様にも申し上げていただきましょうか」


「それはやめてくれ」


 珠光姫は、今度は少しはっきり笑った。


 小さな笑みだった。


 だが、確かに笑みだった。


 惟種は、その笑みを見て、わずかに肩の力が抜けるのを感じた。


「また来る」


「はい」


「何かあれば、遠慮なく言え」


「はい」


 惟種は、襖の前で一度だけ振り返った。


「珠光」


「はい」


「阿蘇へ来てくれて、よかった」


 珠光姫は、息を止めた。


 惟種は、それだけ言って部屋を出た。


 襖が静かに閉じる。

 足音が遠ざかる。


 珠光姫は、しばらくその場を動けなかった。


     ◇


 珠光は分かっていた。


 自分にできることは、多くない。


 父を討った者を、自らの手で討つことはできない。

 大内の名を、すぐに山口へ戻すこともできない。

 阿蘇を動かせと泣き叫ぶこともできない。


 それをすれば、父の死に、さらに多くの死を重ねることになる。


 ならば、惟種に託すしかない。


 それは、とても恐ろしいことのはずだった。


 父の名を。

 大内の血を。

 自分のこれからを。


 まだ若い阿蘇の若君に預けるのだ。


 恐ろしくないはずがない。


 けれど、不思議と、珠光は思った。


 それでよい、と言い切れるほど、心は軽くない。

 それでも、ここで生きるしかない。


 そして、この人に託すしかない。


 この人ならば、いつか本当に成す。


 陶隆房を忘れず、大内の名を捨てず、父の死をただの涙で終わらせはしない。


 そして、その道の先に、自分の生きる場所もある。


 なぜか、そう思えた。


 珠光は、そっと胸に手を当てた。


 父の名も。

 大内の血も。

 自分のこれからも。


 もう、阿蘇にある。


 惟種のもとにある。


 それが、珠光の新しい生であった。


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同作者の別連載
『異世界エンゲージ ~毎日のパック開封でカード使いは帰還を目指す~』
こちらも覗いていただけると嬉しいです。

― 新着の感想 ―
ここしばらくの展開に、ブレを感じるというか、違和感が大きい。 大内や珠光姫に、そこまで思い入れるほど、交流深くないでしょと思うし。何年も一緒に住んでる加世姫とは違うよね。 婚姻後に信長と個別会談す…
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