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火の山の若君は、未来を夢に見る ~阿蘇家嫡流の若君、名臣甲斐宗運と乱世を切り拓く~  作者: アトラス


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第百六十四話 名簿の上の西国

 天文二十年(一五五一年)五月。


 阿蘇の館では、静かな支度が進んでいた。


 珠光姫を迎える婚儀である。


 だが、祝言というには、あまりに音が少なかった。


 赤き色は抑えられた。

 酒も控えられた。

 歌舞の支度はない。


 膳は整えられる。

 だが、華やかさを競うものではない。


 寺には、大内義隆の菩提を弔う読経が命じられていた。

 阿蘇大宮司家に連なる寺社だけではない。阿蘇の内へ組み込まれた諸家の寺にも、静かに香が立つ。


 婚儀でありながら、まず弔いであった。


 大内義隆は、娘を阿蘇へ託した。

 阿蘇は、その約を違えない。


 されど、義隆はすでにこの世にいない。


 ゆえに、珠光姫を迎える儀は、笑いと音曲ではなく、弔いの煙の中で行われることになった。


     ◇


 その日、惟種は宗運の部屋へ呼ばれていた。


 部屋の中には、文箱が並んでいる。


 婚儀の次第。

 寺社への触れ。

 膳の品書き。

 珠光姫付きの女房衆の配置。

 加世付きとの行き来。

 外より届いた香奠と見舞いの控え。


 惟種は、その山を見ただけで少し顔をしかめた。


「……これは婚儀の支度か」


「婚儀の支度にございます」


 宗運は涼しい顔で答えた。


「弔いの支度に見える」


「此度は、それでよろしいかと」


 惟種は、すぐには返さなかった。


 確かに、その通りだった。


 義隆の死を無視して、華やかな宴にするわけにはいかない。

 だが、沈みすぎてもならぬ。


 阿蘇が大内の血を忌んでいるように見えてはならない。

 粗略に扱えば、大内を軽んじたことになる。

 厚く扱いすぎれば、正室である加世の面目を傷つける。


 針の穴へ、礼と政を通すような支度だった。


     ◇


 宗運は一枚の板を取り出した。


 そこには婚儀の次第が、短く書きつけられている。


「まず、義隆様の菩提を弔う読経。次に、珠光姫様の阿蘇入りを家中へ示します。その後、盃の儀。宴は小さく、酒も控えめにいたします」


「歌舞は」


「なし」


「火薬も」


「なし」


「灯は」


「必要な場所には置きます。ただし、祝うためではなく、夜道と番のために」


「よい」


 惟種は頷いた。


「民にはどう触れる」


「大内義隆様の菩提を弔い、大内の血を阿蘇が預かる、と」


「婚儀とは言わぬか」


「言います。ただし、華やかな祝言とは触れませぬ」


「ふむ」


「言葉は選びます」


 宗運は淡々と言った。


「珠光姫様は、阿蘇の側室として入られます。されど、ただの側室ではございませぬ。大内義隆様が後へ残された血にございます」


「そこを隠せば、大内を軽んじる」


「はい」


「そこを強く出しすぎれば、加世を軽んじる」


「はい」


「そして陶を刺激しすぎる」


「はい」


 惟種は眉間を揉んだ。


「面倒だ」


「政にございます」


「婚儀だぞ」


「政にございます」


 宗運の返しは早かった。


 惟種は、諦めたように息を吐いた。


     ◇


「それと、外よりの使者についてでございます」


 宗運が、別の文束を前へ出した。


 惟種は嫌な予感がした。


「外?」


「弔問、香奠、見舞い、祝儀、通交の確認。その名目で、いくつかの家より使いが入っております」


 惟種は文束を見た。


「婚儀の場には入れられぬぞ」


「もちろんにございます」


 宗運は頷いた。


「婚儀そのものは小さく、阿蘇家中と近き者に限ります。外よりの使者は、別座にて惟豊様がお受けになります」


「父上が」


「はい。若君は当事者にございますが、此度は珠光姫様との儀に専念なされませ」


「専念できる名簿ではなさそうだがな」


「それは否定いたしませぬ」


 宗運は文束を開いた。


「公方様より、御内書」


 惟種の顔が固まった。


「本人は」


「来たがっておられます」


「止めろ」


「止めております」


「よくやった」


「此度は大内義隆様の喪を重んじ、御内書と御名代をもって過分の御恩といたしたく、と返しております」


「本当によくやった」


「ただし、御文の端に、若君の上洛を望む旨がございます」


「余計なものまで添えるな…」


「公方様でございますゆえ」


 惟種は深く息を吐いた。


 嫌いではない。

 公方様のことは、嫌いではない。


 むしろ、あの人の人としての真っ直ぐさは嫌いではなかった。


 だが、会えば上洛と言う。

 もてなせば近づく。

 近づけば、幕府の話になる。


 惟種は公方様を嫌ってはいない。


 ただし、幕府を背負うつもりはなかった。


「三好は」


「書状にて表の名は三好長慶殿より」


「裏は」


「堺商人筋に、松永の目らしき者が混じっております」


「やはりか」


「松永久秀でございますから」


「来るなと言って来ぬ男ではあるまい」


「若君と似ておりますな」


「似ていない」


 宗運は何も言わなかった。


 言わぬことが、かえって腹立たしかった。


     ◇


 宗運は、さらに名を読み上げた。


「朝廷筋より、九州静謐への御沙汰に添えて、義隆様への弔意」


「博多は」


「商人衆より香奠。荷の流れを絶たぬよう願う文も添えられております」


「願いではなく、様子見だろう」


「左様にございます」


「堺は」


「商人筋より見舞い。また神屋殿より別書が」


「松浦と西郷は」


「使いが来ております。従属の形は取っておりますが、もはや阿蘇の差配なしには立ち行かぬ様子。此度の婚儀を機に、臣従の筋目を改めたき腹かと」


「宗氏は」


「直接ではございませぬ。対馬筋の商人が、博多を通じて香を納めております」


「目だけ置いたか」


「はい」


「陶は」


 惟種の声が少し低くなった。


 宗運は一拍置いた。


「文のみ」


「使いは」


「出しておりませぬ」


「賢いな」


「ええ」


 江良房栄を寄越したばかりである。


 ここでまた陶方の使者が婚儀の周りに現れれば、珠光姫の感情を逆撫でする。

 阿蘇の家中も怒る。


 陶隆房は、それを分かっている。


 だから文だけで済ませた。


 大内の名は損なわぬ。

 珠光姫の身と面目に手は伸ばさぬ。

 博多の荷は流す。


 その線を守る、と。


 薄い言葉だ。


 だが、今はそれで足りる。

 足りてしまう。


 惟種は、胸の奥に冷たいものを感じた。


「文は取っておけ」


「もちろんにございます」


「一字一句、後で使う」


「そのつもりで控えを作っております」


「仕事が早い」


「若君に似ました」


「似ていない」


 二度目だった。


 宗運は、やはり何も言わなかった。


     ◇


 惟種は名簿を見ていた。


 公方。

 朝廷。

 堺。

 博多。

 平戸。

 対馬。

 陶。


 どれも重い。


 だが、そこで終わらなかった。


 惟種の目が、名簿の下の方で止まった。


「土居宗珊」


「土佐一条にございます」


 宗運はすぐに答えた。


「本人か」


「はい。表向きは、大内義隆様への香奠と珠光姫様への見舞いにございます」


「表向きは、か」


「土佐一条は、京の名を軽くは見ませぬ。大内が倒れ、阿蘇が公方様と朝廷の名を持ち、さらに大内の血を預かるとなれば、見に来ぬ方が不自然にございます」


 惟種は、指で名簿の端を叩いた。


「土佐か。おそらくは庇護を求めている」


「はい」


「遠いようで、海を渡れば遠すぎるわけでもない。今の一条家の内情を考えれば妥当か」


「その通りにございます」


 惟種は、さらに下へ目を移した。


 そこで、また止まる。


「……小早川隆景」


 宗運の目が、わずかに細くなった。


「安芸筋にございます」


「本人ではあるまい」


「本人ではございませぬ。香奠の使いに、その名が添えられております」


「毛利の目か」


「恐らくは」


 宗運は、静かに言った。


「陶隆房が山口を押さえた。されど、阿蘇には大内の血がある。しかも九州探題として公方様と朝廷の名を帯びている。毛利元就が見ぬはずはございませぬ」


「小早川の名を添えたのは」


「海を見ているのでしょう」


 惟種は黙った。


 安芸。

 毛利。

 小早川。

 陶隆房。

 大内の旧領。

 海。


 まだ遠い。


 だが、遠いものほど、見えてから歩いては遅い。


 惟種は、その名をしばらく見ていた。


 さらに一つ、指が止まる。


「土居清晴」


「伊予にございます」


「三間土居か」


「同じ土居でも、先ほどの宗珊は土佐一条。こちらは三間、西園寺の者と見てよろしいかと」


「西園寺実充か」


「その影がありましょう」


 宗運は答えた。


「伊予の南もまた、山口の火を遠火とは見ておりませぬ。大内の名が揺れ、陶が山口を押さえ、阿蘇が大内の血を預かる。海を隔てた向こうも、阿蘇を見始めております。こちらも庇護を求めてでしょう」


 惟種は、名簿から目を離さなかった。


 土佐。

 安芸。

 伊予。


 いずれも九州ではない。


 だが、九州と無縁ではない。


 山口の火は、九州だけを照らしているのではなかった。


「婚儀の支度ではなかったのか」


「婚儀の支度にございます」


 宗運は、平然と答えた。


「ただし、見に来る者が多すぎるだけで」


「多すぎる」


「若君が大きくしすぎたのでございます」


「わしだけのせいではない」


「では、誰のせいにいたしますか」


 惟種は少し考えた。


「陶隆房」


「それは少し違いましょう」


「宗運だな」


「わたくしは片付けているだけにございます」


「そなたが何でも出来過ぎるからだ。こうなると、一番怪しいな」


「心外にございます」


 宗運は、少しも心外そうではなかった。


     ◇


 惟種は、名簿を閉じた。


「この三つは、別々に会う」


「土居宗珊殿、小早川隆景殿、土居清晴殿にございますな」


「ああ」


「まとめてお受けになりませぬか」


「まとめるな」


 惟種は即座に言った。


「土佐、安芸、伊予は腹が違う。同じ座に置けば、言葉が薄くなる。向こうも本音を隠す」


「では、後日、返礼と面会を別々に整えます」


「では、そのように」


 宗運は、文箱の一つへ名簿を戻した。


「婚儀そのものは、静かに行います」


「ああ」


「外よりの使者は、惟豊様が大方お受けになります」


「ああ」


「若君は、珠光姫様を阿蘇へ迎えることにお心を置かれませ」


 惟種は、少し黙った。


 珠光姫。

 大内義隆の娘。


 父を失った姫。

 父を救えなかった男のもとへ入る姫。


 その婚儀の名簿に、公方、朝廷、堺、博多、松浦、宗、土佐、安芸、伊予の名が並んでいる。


 だが、そのすべての中心に置くべきは、名簿ではない。


 珠光姫である。


「分かっている」


 惟種は、静かに言った。


「此度は、珠光のための儀だ。大内義隆殿との約のための儀だ」


「はい」


「外の目は外で受ける。婚儀には入れぬ」


「そのように」


 宗運は頭を下げた。


     ◇


 部屋を出る前に、惟種はもう一度だけ文箱へ目を向けた。


 閉じられた箱の中に、いくつもの名がある。


 土居宗珊。

 小早川隆景。

 土居清晴。


 そのほかにも、名は並んでいる。


 どれも、婚儀の客ではない。


 だが、どれもこの婚儀を見ている。


 珠光姫を阿蘇が迎える。


 それは、ただ一人の姫を側室にするという話ではなくなっていた。


 大内の血。

 九州探題。

 公方の信任。

 朝廷の静謐。

 陶との冷たい友和。

 そして、西国の海と山の目。


 それらが、弔いの煙の向こうから、阿蘇を見ていた。


「宗運」


「は」


「婚儀が終わったら、まず珠光と話す」


「承知しております」


 宗運は涼しい顔で頭を下げた。


 惟種は襖へ向かった。


 外では、寺へ運ばれる香の匂いが薄く流れている。


 婚儀の支度でありながら、館の空気はやはり弔いに近かった。


 それでよい。


 惟種は思った。


 華やかである必要はない。


 大内義隆との約を違えぬこと。

 珠光姫を粗略にせぬこと。

 加世の面目を傷つけぬこと。

 阿蘇が大内の血を預かったと、静かに示すこと。


 それが、此度の婚儀であった。


 だが、名簿の上では、すでに西国がざわめいている。


 山口の火は、九州だけを照らしてはいなかった。


 その火を見て、土佐も、安芸も、伊予も、阿蘇の門へ目を向け始めていた。


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