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火の山の若君は、未来を夢に見る ~阿蘇家嫡流の若君、名臣甲斐宗運と乱世を切り拓く~  作者: アトラス


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第百六十三話 冷たき友和

「大内より――」


 使番は、そこまで言って口を閉じた。


 評定の間に、わずかな沈黙が落ちた。


 誰も急かさなかった。


 阿蘇惟豊も、阿蘇惟種も、甲斐宗運も、ただその使番を見ていた。


 使番は喉を鳴らし、改めて頭を下げた。


「いえ、陶隆房より、使者が参っております」


 その一言で、座の空気が変わった。


 大内ではない。


 陶隆房。


 山口の名が、すでに義隆の手を離れつつある。


 惟種は、己の膝の上に置いた拳を、静かに握った。


 早い。

 早すぎる。


 義隆が討たれたとの報が届いたばかりである。にもかかわらず、陶はすでに阿蘇へ手を打ってきた。


 山口を押さえるだけではない。


 阿蘇が動く前に、阿蘇の怒りの向かう先へ縄を掛けに来たのだ。


 惟豊が低く言った。


「通せ」


 ほどなくして、一人の男が評定の間へ通された。


 年の頃は壮年。


 身なりは華美ではない。だが粗末でもない。旅の埃を落としきらぬ衣の下に、山口の武家らしい整った所作があった。


 男は間の中央で膝をつき、深く頭を下げた。


「陶隆房が家臣、江良房栄にございます」


 その名に、何人かが目を細めた。


 陶の腹心。


 ただの使いではない。


 陶隆房がこの場へ本人を送れぬことは、誰の目にも明らかだった。義隆を討った直後の山口を空けられるはずがない。大内旧臣、寺社、商人、国衆。そのすべてを押さえねばならぬ時である。


 ならば、名代が来る。


 そして、その名代が江良房栄であるならば、これは詫びではない。


 戦である。


 刀を抜かぬ戦。


 文と言葉で、阿蘇の足を止めに来た戦であった。


 惟豊は江良を見下ろし、静かに問うた。


「用向きを申せ」


 江良は顔を上げた。


 その顔には、恐縮の色があった。


 だが、怯えはない。


「此度の山口の変、阿蘇家の御耳を騒がせ候こと、陶隆房、深く恐れ入り候」


 座の空気が、さらに冷えた。


 詫びているようで、詫びていない。


 大内義隆を討ったことを詫びているのではない。


 阿蘇の耳を騒がせたことを恐れ入る。


 ただ、それだけである。


 島津日新斎の眉が、わずかに動いた。

 相良晴広は目を伏せたまま、膝の上の指を動かさなかった。

 鍋島信房は江良の言葉を聞きながら、口を結んでいる。


 吉弘鑑理は、わずかに顎を引いた。大友の名を背負ってここに座る者として、その言い回しの薄さを聞き逃せぬのであろう。


 惟種は、何も言わなかった。


 江良は続けた。


「陶隆房、阿蘇家と敵対する心はございませぬ」


 その言葉は、まっすぐ惟豊へ向けられた。


 だが、次の瞬間、江良の目は惟種を捉えた。


「また、大内の名を絶つ心もございませぬ。山口を収めるは、山口の内を鎮めるため。大内の名を踏み砕くためにはございませぬ」


 惟種は、静かにその言葉を聞いた。


 嘘だ、と即座に言うことは簡単だった。


 義隆を討っておいて、大内の名を残すと言う。


 主を弑しておいて、山口を収めたと言う。


 腹の底から、冷たいものが込み上げた。


 だが、江良の言葉はまだ終わらない。


「博多の荷につきましても、従前のごとく流しましょう。山口よりこれを妨げることはございませぬ。門司、赤間、博多へ至る商いの道も、乱さぬよう努めましょう」


 北里政久が、わずかに目を細めた。


 荷を押さえる者の目である。


 名和行興も、黙したまま江良を見ていた。海辺と船の口を預かる者として、江良の言葉が軽いか重いかを量っている。


 江良は一つ息を置き、さらに頭を下げた。


「珠光姫様の御身につきましては、山口より手を伸ばすこと、決してございませぬ。姫様の御面目を損なうことも、陶隆房の本意にあらず」


 評定の間に、細い沈黙が走った。


 惟種は、そこでようやく分かった。


 読んでいる。


 陶隆房は、こちらの置いた線を読んでいる。


 珠光姫。


 博多の荷。


 大内の名。


 阿蘇が兵を出すか出さぬか、その境目を陶は見抜いていた。


 だから江良は、最初からその三つを並べたのだ。


 この三つを損なわぬ限り、阿蘇は今すぐ山口へ兵を向けにくい。


 それを分かったうえで、江良はここに座っている。


 惟種は、口の中で奥歯を噛んだ。


 宗運は、隣でじっと江良を見ていた。


 その顔には怒りも焦りもない。


 ただ、冷えた理だけがあった。


 惟豊が問うた。


「それで終わりか」


 江良は、さらに深く頭を下げた。


「いえ。もう一つ、申し上げたき儀がございます」


 空気が張った。


 江良は頭を上げた。


「山口の乱れは、陶一人の刃より起こりしものではございませぬ」


 ざわり、と座が動いた。


 甲斐親英の目が鋭くなる。

 島津貴久の肩が、わずかに前へ出た。


 だが、誰も口を挟まなかった。


 江良は、言葉の刃を布に包んだまま続けた。


「大内義隆様の御心、文の者を重んじ、雅を愛し、山口を栄えさせたこと、世に知らぬ者はございませぬ。されど、武の者の腹には、長く澱みがございました」


 義隆を責めている。


 だが、露骨ではない。


 江良は、そのまま惟種へ目を向けた。


「そこへ、珠光姫様を阿蘇へ迎えられる御沙汰が届きました」


 惟種の拳に、力が入った。


「山口の文の者は、姫様の行く末を案じました。武の者は、大内の血が阿蘇へ寄る意味を量りました。商いの者は、博多の荷がどちらへ傾くかを見ました。寺社もまた、次の世に誰の名を唱えるべきか、静かに耳を澄ませました」


 江良は、そこで一度言葉を切った。


 そして、あくまで穏やかに言った。


「珠光姫様を阿蘇が迎えられることもまた、山口の内に大きな波を立てたのでございます」


 評定の間が、凍った。


 惟種の胸の奥で、何かが音を立てた。


 つぶすぞ、貴様。


 声には出さなかった。


 出せば終わる。


 ここで怒れば、陶の思う壺である。


 阿蘇が怒りに任せて兵を出せば、日向が揺れる。大隅が揺れる。伊東旧領、肝付旧領、有馬、大村の旧領、府内の旧大友領がざわめく。


 寺社に説かせた言葉が疑われる。


 語り部の声が嘘になる。


 木版の絵札に描かれた若君の後ろの光が、民の目には空々しいものに変わる。


 若君は我らを捨てた。


 阿蘇の加護はここには残らぬ。


 そう思わせるには、一日で足りる。


 惟種は、息を殺した。


 珠光姫の顔が脳裏をよぎる。


 父を助けるためではなく、大内の血を残すために参ります。


 あの声が、耳の奥に残っている。


 義隆の顔も浮かんだ。


 山口へ軽々しく兵を入れてはならぬ。


 そう言った男の顔である。


 義隆を討った者の使いが、今、その死の責を布で包んで阿蘇へ押し返している。


 怒れぬはずがない。


 だが、怒ってはならぬ。


 宗運は何も言わなかった。


 ただ、わずかに惟種の横顔を見た。

 その目が言っていた。


 今ではございませぬと。


 惟種は、ゆっくりと息を吐いた。


 江良は言った。


「されど、その是非を今ここで争うために参ったのではございませぬ」


 あくまで穏やかな声だった。


「火はすでに上がりました。今問うべきは、誰が火を点けたかではなく、これよりどこまで焼くかにございます」


 惟豊が、低く言った。


「陶隆房は、大内殿を討ってなお、阿蘇と友和を続けたいと申すか」


「御意にございます」


 江良は即座に答えた。


「陶隆房は、阿蘇家と争うことを望みませぬ。西国を焼けば、利を得る者はございませぬ。博多の荷は止まり、寺社は割れ、海は荒れ、民は飢えましょう」


「民を口にするか」


 惟種が、初めて声を出した。


 静かな声だった。


 だが、その静けさに、座の者たちは皆、顔を上げた。


 江良は惟種へ向き直った。


「申します」


「主を討ったあとでか」


 江良は、ほんのわずかに目を伏せた。


「山口を収めるためにございます」


「大内義隆殿は、山口の主であった」


「されど、山口を収めきれませなんだ」


 細い刃のような言葉だった。


 惟種の目が冷える。


 江良は、己が今、どれほど危うい綱の上を歩いているかを知っている顔をしていた。


 知らぬはずがない。


 ここは阿蘇の評定の間である。


 周りには、阿蘇家中の柱たちがいる。名和、相良、龍造寺、鍋島、島津、大友旧臣、筑後の蔵と道を預かる者たち。


 この場で一言を誤れば、江良の首は飛ばずとも、陶と阿蘇の友和はその場で裂ける。


 それでも江良は言うべきことを言った。


 陶隆房の名代として。


 陶だけが悪ではない、と。


 阿蘇もまた、山口の波を立てたのだ、と。


 惟種は江良を見据えたまま、しばらく黙った。


 沈黙が重く積もる。


 やがて惟種は言った。


「江良房栄」


「はっ」


「陶隆房殿に伝えよ」


 江良が頭を下げる。


 惟種は、ゆっくりと言葉を置いた。


「陶隆房殿が大内の名を残すなら、阿蘇は山口へ兵を入れぬ」


 江良は動かない。


「博多の荷を荒らさぬなら、通交を絶たぬ」


 名和行興が、静かに頷いた。


「珠光姫の身と面目を損なわぬなら、今この場で陶を敵とは呼ばぬ」


 その言葉に、江良の背がわずかに低くなった。


 惟種は一拍置いた。


「だが」


 その一文字で、座の空気が張り詰めた。


「その三つを違えれば、話は別じゃ」


 江良は顔を上げなかった。


「承り候」


「軽く聞くな」


 惟種の声は、なお静かだった。


「一つ、珠光姫の身と面目。二つ、博多の荷。三つ、大内の名。この三つを損なえば、阿蘇はそれを陶隆房殿の返答と受け取る」


「……返答、にございますか」


「そうじゃ」


 惟種は言った。


「阿蘇の問いに対する、陶隆房殿の返答じゃ」


 江良は、そこで初めてわずかに息を呑んだ。


 惟種は、陶を赦すとは言っていない。


 義隆の死を不問にするとも言っていない。


 ただ、今は兵を出さぬと言っているだけである。


 陶が三つの線を守る限り、阿蘇は動かぬ。


 だが破れば、その時は陶が阿蘇に答えたことになる。


 友和を捨てる、と。


 惟豊が静かに目を閉じた。


 宗運はわずかに顎を引いた。


 島津日新斎は、低く笑った。


「若君らしいのう」


 それは褒め言葉とも、恐ろしいものを見た声とも聞こえた。


 江良は深く頭を下げた。


「陶隆房、必ずや御意を違えぬよう努めましょう」


「努める、では足りぬ」


 惟種は即座に返した。


「守れ」


「……はっ」


 江良の額が、畳へ近づいた。


 惟種は、その首筋を見下ろした。


 今、この場で命じれば、江良を捕らえることはできる。


 斬ることもできる。


 だが、それはただの怒りである。


 怒りで首を取れば、陶は山口で叫ぶだろう。


 阿蘇は使者を斬った、と。


 大内の名を守ると言いながら、西国を焼く口実を自ら作った、と。


 博多の商人は荷を止める。


 寺社は様子を見る。


 日向、大隅、有馬、大村、府内の旧領が揺れる。


 珠光姫の父の死は、さらに多くの民の死を呼ぶ。


 それだけは、できなかった。


 惟種は口を開いた。


「よかろう」


 江良は、頭を下げたまま動かなかった。


 惟種は続けた。


「阿蘇と陶隆房殿は、互いに友和を続ける」


 評定の間に、その言葉が落ちた。


 温かな和ではない。


 赦しでもない。


 不問でもない。


 刃を抜かぬだけの友和。


 互いの喉元に手を置いたまま、笑みだけを交わす友和であった。


 江良房栄は、深く頭を下げた。


「ありがたき御言葉にございます」


 その姿を見て、惟種は笑った。


「西国を焼かぬためじゃ」


 その笑みは、江良にも、宗運にも、少しだけ冷たく見えた。


 江良はもう一度頭を下げ、やがて静かに退いた。


 使者の足音が遠ざかるまで、誰も口を開かなかった。


 やがて、惟豊が小さく息を吐いた。


「苦い和じゃな」


「和ではございませぬ」


 宗運が言った。


「これは、兵を出さぬ戦にございます」


 惟種は、江良が去った方を見ていた。


 山口の火は、もう上がった。


 その火は、阿蘇の置いた線のすぐ外で燃えている。


 ならば、燃え広がらせぬ。


 今は。

 今だけは。


 惟種はゆっくりと拳を解いた。


 爪の跡が、掌に赤く残っていた。


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― 新着の感想 ―
史実の大寧寺の変から厳島の戦いが4年なので、この世界線で3年で九州が固まれば、毛利ではなく、阿蘇が陶を討って、西国入りもおかしな話ではない。 阿蘇と毛利、尼子がどうなるか。
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