第百七十二話 嫡流の筋
黒松が阿蘇の厩へ入ってから、数日。
惟種は、島津日新斎より呼び出しを受けた。
場所は、館の奥にある静かな一室である。
同席する者はいない。
日新斎と惟種、二人だけだった。
部屋へ入るなり、惟種は嫌な予感を覚えた。
日新斎が、いつもより穏やかな顔をしていたからである。
この老人は、穏やかな顔をしている時ほど、逃げ道のない話をする。
「若君」
「はい」
「そこへ座られよ」
「は」
惟種は、言われた通りに座った。
日新斎はしばらく茶をすすり、惟種を眺めていた。
その沈黙が長い。
惟種は、内心で身構えた。
南の旧領の話か。
日向、大隅の話か。
伊東旧臣、肝付縁者の動きか。
あるいは、陶隆房か、毛利か。
そう考えていると、日新斎は茶碗を置いた。
「加世のことじゃ」
惟種の背筋が、わずかに伸びた。
「加世が、何か」
「何か、ではない」
日新斎は、淡々と言った。
「そろそろ、子のことを考えねばならぬ」
惟種は、動きを止めた。
戦の話でも、外政の話でも、内政の話でもない。
いや、違う。
これは、どれよりも政の話であった。
「子、にございますか」
「そうじゃ」
日新斎の声は静かだった。
「若君も、もはや幼子ではあるまい。加世も同じ。阿蘇の家がここまで大きくなった以上、嫡流の筋を早う立てねばならぬ」
惟種は、何も言わなかった。
日新斎は続ける。
「珠光殿を迎えたこと、わしは悪いとは申さぬ」
「……はい」
「大内の血を阿蘇が預かる。義隆殿との約を守る。陶隆房への無言の返答にもなる。筋は通っておる」
日新斎の目が、少しだけ鋭くなった。
「だがな、若君」
「はい」
「阿蘇の嫡流は、どこから出る」
惟種は、すぐには答えられなかった。
答えは分かっている。
だが、言葉にするには重い。
日新斎は、惟種の沈黙を責めなかった。
ただ、代わりに言った。
「加世じゃ」
短い言葉だった。
だが、重かった。
「島津が欲を申しておるのではない」
日新斎は、静かに続けた。
「いや、欲がないと言えば嘘になる。加世は島津の姫じゃ。阿蘇の正室として立った以上、その子が嫡流となることを望まぬはずがない」
「はい」
「されど、それだけではない」
日新斎は、惟種をまっすぐ見た。
「家というものは、筋を早く立てねば、余計な口が増える」
惟種の胸に、その言葉が落ちた。
正室の子。
側室の子。
外戚。
旧臣。
新参。
血筋。
名分。
そうしたものが絡めば、家は簡単に割れる。
「珠光殿を軽んじよとは言わぬ」
「はい」
「大内の血も粗略にしてはならぬ。そこを違えれば、阿蘇の言葉が軽くなる」
日新斎は、そこで一度息を置いた。
「だが、珠光殿の腹に先に子が宿れば、いかに加世が強くとも、阿蘇の内に余計な声が生まれる」
惟種は、目を伏せた。
その通りだった。
珠光姫は、大内義隆の娘である。
その子が生まれれば、大内の血を継ぐ子となる。
惟種自身も、珠光姫との子に大内の名を継がせる道を作ると約した。
だが、それは阿蘇の嫡流とは別の話である。
そこを曖昧にすれば、加世の面目を傷つける。
島津の面目も傷つける。
阿蘇家中に、余計な火種を置く。
「先に加世じゃ」
老人の声は低かった。
「阿蘇の正室は加世である。その筋を、阿蘇の内にも外にも示さねばならぬ」
「……おっしゃる通りにございます」
惟種は、深く頭を下げた。
逃げ道はなかった。
いや、逃げるべき話ではなかった。
惟種は、これまで多くの政を動かしてきた。
田を戻し、蔵を数え、道を直し、薬を作り、学び所を置き、警邏方を整え、船を造り、陶と友和を結び、毛利を退け、土佐と伊予へ糸を伸ばした。
だが、家の筋を立てることもまた、政である。
それを、日新斎ははっきり突きつけた。
「分かっておるなら、よい」
日新斎は、少しだけ表情を緩めた。
「若君は、頭では分かっておる。だが、分かっておることを、後へ回す癖がある」
「……耳が痛うございます」
「痛く言うておる」
「はい」
「加世は強い娘じゃ」
日新斎の声が、少しだけ柔らかくなる。
「されど、強いからといって、何を飲ませてもよいわけではない」
惟種は、顔を上げた。
「はい」
「珠光殿を迎えた時も、加世はよう耐え、よう整えた。正室として、阿蘇の内を乱さぬよう振る舞った」
「はい」
「ならば、若君も、夫として応えねばならぬ」
その言葉は、政の話でありながら、政だけではなかった。
惟種は、もう一度頭を下げた。
「心得ました」
「うむ」
日新斎は満足そうに頷いた。
そして、急に笑った。
「では、来年は安泰じゃな」
惟種は固まった。
「……早すぎませぬか」
「早い方がよい」
日新斎は、愉快そうに笑った。
「はっはっは。若君ならば、戦も政も早い。ならば、家のことも早うせよ」
「日新斎殿」
「何じゃ」
「それとこれは、同じには」
「同じではない。だが、遅くてよい理由にもならぬ」
惟種は、返す言葉を失った。
日新斎は、さらに楽しそうに笑った。
「若君にも、苦手な戦があるようじゃな」
「……否定できませぬ」
「よいよい。苦手でも、逃げねばよい」
日新斎は茶碗を取った。
「加世を大事にせよ」
最後の言葉は、笑いではなかった。
惟種は、深く頭を下げた。
「はい」
◇
その日の夕刻。
惟種は、加世の居所を訪ねた。
外はすでに薄暗く、廊の灯が一つずつ入れられている。
加世は、惟種の顔を見るなり、何かを察したようだった。
「日新斎様より、何か仰せがございましたか」
惟種は、部屋へ入りながら固まった。
「……分かるのか」
「惟種様は、隠そうとなさる時ほど、お顔に出ます」
「そんなにか」
「はい」
加世は少しだけ笑った。
その笑みに、惟種はかえって困った。
陶隆房相手なら、三つの線を示せる。
毛利相手なら、言質を問える。
土佐一条や西園寺相手なら、友好の条件を並べられる。
だが、加世相手にこの話をするとなると、言葉が重くなる。
惟種は、加世の前に座った。
「加世」
「はい」
「日新斎殿より、嫡流の話をされた」
加世の表情が、わずかに変わった。
恥じらい。
緊張。
それから、静かな覚悟。
そのすべてが一瞬の間に浮かび、すぐに落ち着いた。
「そうでございましたか」
「ああ」
「正室の子を早く、ということでございましょう」
惟種は、驚いたように加世を見た。
「分かっていたのか」
「分からぬはずがございません」
加世は静かに言った。
「珠光殿を迎えました。大内の血を阿蘇が預かりました。そのこと自体は、阿蘇にとって必要なことでございます。私も、それを認めました」
「加世」
「ですが」
加世は、惟種から目を逸らさなかった。
「阿蘇の正室は、私にございます」
その声は、強かった。
嫉妬ではない。
怒りでもない。
ただ、自分の立つ場所を知る者の声だった。
「阿蘇の嫡流を乱してはなりませぬ。それは、私のためだけではございません。阿蘇のため。島津のため。珠光殿のためでもございます」
「珠光のため」
「はい」
加世は頷いた。
「嫡流が曖昧になれば、珠光殿も苦しみます。大内の血を背負う方だからこそ、余計な口が集まりましょう」
惟種は、深く息を吐いた。
加世は、そこまで見ていた。
「私は、珠光殿を粗略にはいたしませぬ」
「分かっている」
「ですが、私が退くつもりもございません」
「それも、分かっている」
惟種は、まっすぐ加世を見た。
「加世には、随分と重いものを背負わせている」
「惟種様も、背負っておられます」
「それとこれは違う」
「違いませぬ」
加世の返しは早かった。
「夫婦とは、同じものを同じ形で背負うわけではございません。惟種様には惟種様の重さがあり、私には私の重さがあります」
惟種は、言葉を失った。
加世は続ける。
「私は、阿蘇の正室です」
「はい」
思わず、惟種は返事をしてしまった。
加世が少し笑う。
「ですので、日新斎様のお言葉も、分かります」
「……そうか」
「ただ」
加世の声が、少しだけ柔らかくなった。
「政のためだけに、私を見られるのは寂しゅうございます」
惟種の胸に、その言葉が刺さった。
加世は強い。
だが、強いからといって、痛まぬわけではない。
日新斎の言葉を思い出す。
強いからといって、何を飲ませてもよいわけではない。
惟種は、静かに頭を下げた。
「すまぬ」
「謝ってほしいわけではございません」
「いや、謝らせてくれ」
惟種は顔を上げた。
「政のためだけに、そなたを見るつもりはない」
加世の目が、静かに揺れた。
「加世は、わしの正室だ。阿蘇の正室だ。だが、それだけではない」
惟種は、言葉を探した。
うまく言えない。
陶や毛利相手には、いくらでも言葉が出る。
だが、こういう時ほど、言葉は不器用になる。
「わしは、そなたに支えられている」
ようやく出た言葉だった。
「珠光を迎えた時も、そなたがいてくれたから、阿蘇の内は乱れなかった。わしが迷った顔をした時も、そなたが叱ってくれた」
加世は、黙って聞いていた。
「正室としてだけではない。加世という一人の人として、そなたを大事にしたい」
部屋の中に、しばらく沈黙が落ちた。
加世は、目を伏せた。
頬に、わずかに赤みが差している。
「それを聞ければ、十分にございます」
小さな声だった。
だが、惟種にはよく届いた。
◇
その後、二人は長く話した。
子のこと。
阿蘇のこと。
珠光姫のこと。
島津のこと。
まだ見ぬ未来のこと。
直接的な言葉は多くなかった。
だが、互いに避けていたものを、少しずつ卓の上に置いていくような話だった。
加世は、正室としての覚悟を語った。
惟種は、家の筋を立てることから逃げぬと語った。
その話は、決して甘いだけのものではなかった。
だが、冷たいものでもなかった。
夜が更けるにつれ、外の灯が静かに揺れる。
廊を歩く者の足音も少なくなった。
部屋の中には、二人の声だけが残った。
やがて、加世が静かに言った。
「惟種様」
「何だ」
「日新斎様は、きっと笑っておられたでしょう」
「笑っていた」
「では、私は少し悔しゅうございます」
「なぜだ」
「日新斎様の思う通りに動いたようで」
惟種は、思わず笑った。
「それは、わしも少し思った」
加世も、そこで小さく笑った。
その笑みは、正室としてのものでも、島津の姫としてのものでもない。
ただ、夫の前にいる加世の笑みだった。
惟種は、それを見て少し安心した。
家の筋。
嫡流。
島津の面目。
阿蘇の未来。
どれも重い。
だが、それを背負う前に、目の前の加世を見失ってはならない。
惟種は、改めてそう思った。
この日から惟種は加世と夜を過ごすことなる。
◇
翌朝。
日新斎は、いつものように茶をすすっていた。
そこへ、惟種からの短い文が届く。
内容は、ただ一言に近かった。
心得ました。
それだけである。
日新斎は文を読み、愉快そうに笑った。
「ようやく、少しは当主らしくなったか」
そばにいた者が、恐る恐る問う。
「何か良き報せにございますか」
「良き報せになるかは、これからじゃ」
日新斎は、茶碗を置いた。
「だが、筋は立てねばならぬ。家というものは、戦よりも、時に内が難しい」
そう言って、また笑う。
「はっはっは。来年が楽しみじゃのう」
その笑い声が、廊の向こうまで響いた。
◇
そのころ、惟種は加世の居所を出て、朝の冷たい空気を吸っていた。
顔は、いつもより少し赤い。
だが、目は落ち着いていた。
そこへ宗運が通りかかる。
「若君」
「何だ」
「お顔が赤うございます」
「朝が寒いからだ」
「今は六月にございます」
「では、眠いからだ」
「なるほど」
宗運は涼しい顔で頷いた。
「日新斎殿より、何か仰せがあったようでございますな」
「なぜ分かる」
「若君の顔に書いてございます」
「わしの顔は帳ではない」
「ですが、読みやすうございます」
「宗運」
「はい」
「今日は何も聞くな」
宗運は、一拍置き、静かに頭を下げた。
「承知しました」
珍しく、それ以上は追及しなかった。
惟種は少しだけ安堵した。
だが、宗運は去り際に一言だけ残した。
「加世様を大事になされませ」
惟種は、返事をしなかった。
ただ、静かに頷いた。
珠光姫を迎え、大内の血を預かった。
外の目は、阿蘇を見ている。
山口も、安芸も、土佐も、伊予も、京も、海の向こうも、阿蘇へ目を向け始めている。
だからこそ、阿蘇の内の筋を立てねばならない。
加世の正室としての位置。
嫡流の道。
家の根。
それを曖昧にしたままでは、どれほど外へ手を伸ばしても、いつか内から崩れる。
惟種は、朝の空を見上げた。
戦場ではない。
評定でもない。
だが、これもまた、当主として逃げてはならぬ戦であった。




