第十五話 若君、評定の端へ座す
**阿蘇 惟種**は、ようやく館の空気の流れが分かるようになってきた。
人が増えた。
門前の声が増えた。
蔵役の顔つきが変わった。
台所は忙しく、宗傳はよく走り、宗運のところへ上がる書付は前より明らかに厚くなった。
水飴はもう回っている。
玻璃も芽が出た。
そして次に、鍛冶場の話まで上がった。
そこまで来れば、話は若君付きの小部屋では収まらない。
その日、惟種は再び惟豊の部屋へ呼ばれていた。
すでに一度、夢のことも、水飴のことも、理のことも問われている。
だが今日は、それとは少し違う。
(今日は、家の話になる)
そう思いながら座に入ると、すでに**阿蘇 惟豊と甲斐 宗運**が待っていた。
宗傳も今日は同席している。
惟豊は、惟種を見るなり言った。
「惟種」
「はい」
「鍛冶場のこと、宗傳より聞いた」
「はい」
「飴と玻璃で得た銭を、蔵へ寝かせるつもりはないそうだな」
「はい」
惟豊は、それ以上はまず言わず、宗運へ目をやった。
宗運が書付を開く。
「若君のお考えは、鍛冶場を一つの工房として起こすことにございます」
「うむ」
「農具、金具、馬具、修理に使える。
そのうえで、いずれ火縄にも手を伸ばせるようにしたい、と」
惟豊の視線が惟種へ戻る。
「その通りか」
「はい」
「まず鍛冶、にございます」
「鉄砲ではなく」
「まずは鍛冶にございます」
惟種ははっきりと答えた。
「鉄砲は買えば済みます。
ですが、鍛冶場は残ります」
宗運の目が、わずかに細まる。
この理はもう一度通る、と惟種には分かった。
「農具も打てる。
馬具も直せる。
玻璃の道具も作れる。
火縄が手に入れば、それを見て、直し、いずれは真似ることもできます」
惟豊は無言で聞いていたが、やがてゆっくりとうなずいた。
「よい」
短い一言だった。
だが、かなり重い。
「それで終わりではあるまい」
惟豊が続ける。
「鍛冶場の先まで見ておるな」
惟種は少しだけ息を整えた。
ここで全部を言いすぎると危うい。
だが、今はもう、ただの思いつきの若君ではないところまで来ている。
大筋は見せてよい。
「はい」
「申せ」
惟種は、正面から言った。
「飯が増えれば、人が生きます」
「うむ」
「市が立てば、銭が回ります」
「うむ」
「飴と玻璃で、その流れを早められます」
「うむ」
「ならば次は、その銭を道具へ変えるべきです」
宗運が口を開いた。
「道具、とは」
「鍛冶です」
「その先は」
「兵にございます」
部屋の空気が少し変わった。
惟豊の顔は動かない。
だが、宗傳がわずかに目を落とした。
そこまで来るか、という反応だ。
惟種は言葉を急がず、順に置いた。
「ただし、いきなり兵を増やすのではございませぬ」
「ほう」
「百姓を皆、兵にすれば田が荒れます」
「うむ」
「皆を田へ戻せば、いざという時に遅い」
宗運が、そこで静かに言う。
「分ける、と」
「はい」
惟種は宗運を見た。
「今すぐではございませぬ。
ですが、いずれは、常に動ける者と、田へ戻る者を分ける芽を作るべきにございます」
惟豊が、そこで初めて少しだけ息を吐いた。
「五つの子が言うことではないな」
惟種は内心でだけ、そうだろうな、と思う。
だが口にはしない。
「急ぎませぬ」
惟種は言った。
「まずは飯。
次に銭。
その次に道具。
そして兵」
宗運が、わずかにうなずいた。
「順は悪くございませぬ」
「うむ」
惟豊はしばらく考え、それから別の方向へ話を向けた。
「惟種」
「はい」
「その兵を養い、国を支えるには、まだ一つ足りぬものがあるな」
惟種は、そこで父の目を見た。
「格、にございますか」
惟豊の口元が、ほんのわずかに動く。
「分かっておるではないか」
宗運も視線を上げた。
ここが、今日のもう一つの本題なのだろう。
「阿蘇は古い家だ」
惟豊が言う。
「大宮司の家であり、軽い家ではない。
だが、古さだけでは人は従わぬ」
「はい」
「兵にも、商人にも、国衆にも、外の大名にも、見せるものが要る」
惟種は黙って聞いていた。
「朝廷、にございますな」
宗運が補った。
「はい」
惟種はそう答えた。
「銭ができるなら、位を買うべきです」
宗傳がわずかに顔を上げる。
惟豊は、黙ったままその続きを待っていた。
「朝廷へ通じ、官位を得れば、阿蘇はただの山の家ではなくなります」
「うむ」
「国衆も、商人も、外の者どもも、阿蘇を軽く見られなくなる」
「その先は」
惟豊の声は低い。
惟種は少しだけ言葉を選んだ。
「幕府、にございます」
「幕府」
「はい」
「朝廷へ通じるだけでは足りませぬ。
京と、将軍家とも、いずれ筋をつけるべきです」
宗運が、そこで初めて明確に反応した。
「若君」
「何だ」
「そこまで見ておられるか」
「今すぐ取れるとは思っておりませぬ」
惟種は、そこをきっぱり言った。
「ですが、先に手を打たねば、後からでは遅い」
惟豊が静かに問う。
「何を狙う」
この問いには、答え方がいる。
九州探題。
肥後守護。
そこまで胸中にはある。
だが、いまここでその名を前へ出しすぎるのは重い。
だから惟種は、一段落として答えた。
「九州で、阿蘇に話を通さねばならぬ位置にございます」
惟豊も宗運も黙った。
その沈黙の中で、言葉の重さだけが残る。
「それは守護か」
惟豊が問う。
「それとも、もっと上か」
惟種は、少しだけ息を整え、それから言った。
「いずれは、そのどちらにも触れとうございます」
宗運が目を細めた。
惟豊は、すぐには何も言わない。
部屋の外では、門前の賑わいが遠く聞こえている。
飴が売れ、人が集まり、銭が動く。
その延長線上に、位と公の顔を狙う話が今ここにある。
惟豊はやがて言った。
「重いな」
「はい」
「だが、ただの夢よりはよほどよい」
「はい」
宗運が書付を閉じた。
「御屋形様」
「何だ」
「今すぐ探るのではなく、まずは伏線を打つべきかと」
「申せ」
「朝廷への献金の備え。
京筋との細い縁。
商人を通じた上方への品流し。
そして、将軍家筋へも品と銭の流れを作る」
惟豊はうなずく。
「それがよい」
「地位は後から付いてまいります。
まずは、阿蘇が京へ届く家であると示すことにございます」
惟種は、それを聞いて内心でうなずいた。
まさにそれだ。
今すぐ九州探題を名乗るのではなく、そこへ届く線を先に作る。
惟豊が、最後に静かに言った。
「惟種」
「はい」
「そなたの言葉は、もう内々だけで聞いていてよいものではなくなった」
惟種は顔を上げる。
「次の評定より、端に座れ」
その一言は、重かった。
宗傳が息を飲む気配がした。
宗運は静かに惟種を見ている。
「ただし」
惟豊の声が続く。
「最初は聞け」
「はい」
「家中の顔を見よ。
誰が何を恐れ、何に動くかを見よ」
「はい」
「申すべき時だけ申せ」
「承知いたしました」
宗運が、そこで補った。
「若君のお考えが、理だけで人を動かすわけではございませぬ」
「うむ」
「理が通っていても、人は利と面子でしか動かぬこともございます」
「心得ます」
惟種はそう答えた。
かなり大きい一歩だった。
まだ評定の主ではない。
だが、端に座る。
聞く。
必要な時にだけ口を開く。
それで十分だ。
惟豊は、最後に惟種をまっすぐ見た。
「そなたの夢がどこまで届くかは、まだ分からぬ」
「はい」
「だが阿蘇のために使うというなら、わしは使う」
惟種は深く頭を下げた。
「阿蘇のためにございます」
宗運が、そこで静かに言った。
「では若君、次よりは夢だけでなく、家中も見ていただきましょう」
惟種は少しだけ笑った。
「手厳しいな」
「評定は、飴ほど甘うございませぬゆえ」
それには宗傳でなくとも、少しだけ空気が緩んだ。
惟種は頭を上げる。
火の山の下。
阿蘇の家。
夢の中で見た国の形は、まだ遠い。
だが、次からはその夢を、家中の目の前で少しずつ現へ寄せてゆくことになる。
(まずは評定だな)
心の中でそう呟きながら、惟種は静かに座り直した。
若君は、もう端へ座るところまで来ていた。




