第十三話 若君の玻璃、家の財を変える
それから、さらに一月ほどが過ぎた。
阿蘇の館の空気は、前とは少し違っていた。
忙しいのだ。
誰も彼もが、何かしら走っている。
門前では荷が増え、馬の出入りが増え、女たちの声が明るくなり、子どもが走り回る。
館では蔵役が帳面を開く回数が増え、台所では仕込みの量が増え、宗傳のもとへ上がる報せの束も厚くなった。
変化はまだ小さい。
だが、小さいからこそ確かだった。
水飴はもう、完全に定着しつつある。
最初は珍しさで売れた。
次は味で売れた。
いまは、あるのが当たり前のものとして買われ始めている。
門前では
「阿蘇水飴」
と呼ぶ者もいれば、
「これたね水飴」
と、若君の名をそのまま口にする者もいる。
台所預かりの 志乃 は、もはや若君の指図を待たずとも、誰にどれだけ作らせ、どのくらい門前へ回すかを考えるようになっていた。
田代 宗傳 は売れ行きと銭勘定をまとめ、光永 惟清 は仕込みと売上の記録を残し、北里 政久 は門前の評判を拾ってくる。
つまり、水飴はもう若君の手を離れ、阿蘇の商いのひとつになり始めていた。
それだけでも十分に早い。
だが、今の阿蘇を本当に騒がせているのは、水飴だけではなかった。
**玻璃**である。
最初にできた玻璃玉は、まだ小さく、やや濁りもあった。
それでも、光を通した。
その後、惟種の指図と光永の記録、宗傳の手配、宗運の押しで、少しずつ数が揃い始めた。
玉。
飾り。
小さな器。
まだ量産などとはとても言えぬ。
それでも“見せられるもの”にはなった。
宗運は、それをそのまま門前へは出さなかった。
まず、阿蘇の外へ流したのである。
京筋へ連なる、朝廷周りの末端。
そして、利に敏い商人ども。
数は少ない。
試しのようなものだ。
だが、その“試し”の戻りが、思った以上だった。
その日、**阿蘇 惟種**は、館の一室へ呼ばれていた。
すでに宗傳から「玻璃の戻りが参りました」とだけ聞かされている。
その声色が、いつもよりわずかに硬かった。
(高かったな、これは)
惟種は、そう確信しながら廊下を歩いていた。
部屋へ入ると、そこには惟豊と宗運がいた。
そして、机の上には、例の玻璃玉と、小さな包み、それに書付が並んでいる。
「参りました」
惟種が座すと、惟豊はすぐに言った。
「惟種」
「はい」
「玻璃の戻りが来た」
「はい」
「思いのほか、高い」
惟種は、そこで少しだけ目を伏せた。
やはり。
やはりそう来たか。
宗運が書付を手に取り、淡々とした声で言う。
「門前の売り物とは比べものになりませぬ」
「うむ」
「水飴の利を幾つ束ねても届かぬほど、とはまだ申しませぬ。ですが……」
宗運はそこで一度言葉を切り、正面から惟種を見た。
「これは、飴とは別の銭の匂いがいたします」
惟種は黙って聞く。
惟豊が、机上の玻璃玉を指でつまみ上げた。
昼の光が、玉の中で鈍く揺れる。
まだ完璧な透明ではない。
だが、十分に珍しい。
「朝廷の末端へ流したものも、商人へ流したものも、どちらも値がついた」
惟豊が言う。
「しかも、向こうから“またあれば見たい”と申してきておる」
それは大きい。
ただ一度の物珍しさではなく、継続して値が立つ可能性を示しているからだ。
惟種は、静かにうなずいた。
「珍しきものは、向こうに少のうございますまい」
「それでも、だ」
惟豊の声は低かった。
「阿蘇の山中から出てきたものが、京筋で値を持った。そこが大きい」
宗運が続ける。
「商人どもは、これを“外から来た品”と見ておりませぬ」
「ほう」
「むしろ、阿蘇の火の山と結びついた珍品として見ております」
惟種は、そこで少しだけ息を吐いた。
そこまで行ったか。
ただの工芸ではなく、阿蘇という土地の物語が乗り始めている。
それは強い。
「火の山の玉、などと呼んだ者もおりました」
宗運が言う。
「阿蘇らしいな」
惟豊が小さく言う。
その言葉に、三人の間へしばし静けさが落ちた。
外では、人の動く気配がする。
いまの館は、前よりずっと賑やかだ。
惟豊は、やがて視線を窓の方へ向けた。
「最近、門前が賑わっておるな」
惟種はそれを聞き、黙っていた。
宗運が答える。
「はい」
「飴だけか」
「それだけではございませぬ」
宗運の目が、いつものように冷静なまま光る。
「市の役を軽くした効き目が出始めております」
惟種は、そこで少しだけ口元を引き締めた。
そこまで見えてきたか。
「門前へ入る荷の役を軽くしてから、物が増えました。
小さな売り買いでも、前より気軽に立ち寄る者が増えております」
「うむ」
「阿蘇水飴の評判が、人を呼んだ面もございます。
それに引かれて寄る者が、ついでに他の品も見てゆく。
その流れができつつあります」
惟豊は、しばらく黙ったあと、低く言った。
「よい流れだな」
「はい」
「税を軽くしたぶん、損はしておらぬのか」
そこは当主らしい問いだった。
宗運は答える。
「短く見れば、目先の取り分は減っております」
「うむ」
「ですが、集まる物と人の量が増えてきております。
このまま続けば、薄く取っても前より多く回ります」
惟豊は、そこでようやく笑みにもならぬ程度の表情を見せた。
「それを狙ったか、惟種」
惟種は、正面から答える。
「はい」
「取るものを軽くして、人を集める。
集まれば、長く見て戻ります」
惟豊は、うなずいた。
宗運もまた、惟種を見ている。
この一か月で、阿蘇と肥後の空気はたしかに少し変わった。
まだ大変革ではない。
だが、**“賑わいが出始めている”**と誰の目にも分かる。
門前には人が増えた。
馬が増えた。
荷が増えた。
笑い声が増えた。
そして、それは若君の思いつきから始まっている。
惟豊が、玻璃玉を机へ戻した。
「飴は広く売るものだ」
「はい」
「玻璃は、上へ売るものだな」
宗運が、そこで即座に答える。
「左様にございます」
「飴は賑わいを呼び、玻璃は銭を吸う」
「はい」
「ならば」
惟豊の声に、少しだけ重みが増した。
「これは、ただの売り物では終わらぬな」
宗運が深くうなずいた。
「はい。これは、一大事業のひとつとして着手すべきにございます」
惟種は、その言葉を静かに受け止めた。
来た。
ここまで来れば、もはや若君の奇妙な細工ではない。
家が抱えるべき商いだ。
「どこまで広げる」
惟豊が問う。
宗運は答える。
「まずは秘して育てるべきかと」
「うむ」
「作り手を増やしすぎて、手順が散るのはよろしくございませぬ」
「もっともだ」
「売り先も絞ります。
水飴のように広く出すのではなく、まずは値を持つ相手へ」
惟豊は惟種を見た。
「どう思う」
惟種は少しだけ考え、それから答えた。
「それでよろしゅうございます」
「なぜだ」
「飴は人を呼びます。
玻璃は銭を呼びます。
同じ売り方をする必要はございませぬ」
宗運の目が、わずかに細まる。
通じた、という顔だった。
惟種はさらに言った。
「しかも玻璃は、数を急がぬ方がよろしい。
珍しきものは、珍しきままの方が高うございます」
惟豊は、そこでふっと息を漏らした。
「五つの子が言うことではないな」
宗運は何も言わなかった。
だが、その沈黙の中に苦笑があった。
惟種は内心でだけ、小さく肩をすくめた。
(まあ、それはそうだ)
だが言うべきことは言う。
それがいまの自分の役目だ。
惟豊は、少しの間、書付と玻璃玉と惟種の顔を順に見ていた。
やがて、ゆっくりと言った。
「飴と市で人を集め、玻璃で上から銭を取る」
「はい」
「よい」
その声には、もう迷いが少なかった。
「宗運」
「は」
「玻璃は家の仕事として扱え」
「承知いたしました」
「ただし、あくまで最初は小さく。
手を広げすぎて崩すな」
「心得ております」
「売り先は、おぬしが見よ」
「は」
惟豊は、そこで一息置いた。
「惟種」
「はい」
「そなたはまた、家の蔵に新しい口を開けたな」
惟種は、頭を下げた。
「阿蘇のためにございます」
惟豊は、それを聞いてから、静かにうなずいた。
「うむ」
短い返事だった。
だが、その一言に、当主としての認可があった。
惟種は、そこでようやく胸の内の熱を少しだけ緩めた。
水飴は地を這う金だ。
玻璃は上から落ちる金だ。
そして、その両方を阿蘇へ繋げられれば――
(軍の金が見えてくる)
鉄砲。
鍛冶。
火薬。
まだ口にはしない。
だが、そこへ続く道の最初の石は、たしかに置かれ始めていた。
部屋の外では、また人の気配が動く。
阿蘇は、少し前より賑やかだ。
肥後の中でも、あの門前は近頃おもしろいと、そう囁かれ始めている。
まだ大勢力ではない。
まだ天下など遠い。
だが、火の山の下の家が、たしかに動き始めている。
惟種は、机の上の玻璃玉を見た。
小さい。
だが、ここから生まれる銭は小さくない。
宗運が、低く言う。
「若君」
「何だ」
「飴が村の銭を増やすものなら、玻璃は家の蔵を変える品にございます」
惟種は、その言葉に、ゆっくりとうなずいた。
「ならば、育てよう」
惟豊もまた、静かに言った。
「阿蘇の柱の一つとしてな」




