第百二十七話 銭で未来を買う
天文十九年(一五五〇年)二月の末。
阿蘇の館に、神屋寿貞が訪れた。
博多の商人である。
ただ物を売り買いするだけの男ではない。
海の向こうの噂を拾い、人の腹を読み、銭の匂いを風より早く嗅ぎ分ける男だった。
寿貞は、座に入るなり深く頭を下げた。
「若君。此度の御戦勝、まことにおめでとうございます」
惟種は少し苦笑した。
「戦勝祝いは、もう何度も聞いた」
「いえいえ。言うべきことは言わせていただきます」
寿貞は顔を上げ、笑った。
「大友を降し、府内を押さえ、肥前も収まりつつある。商人としては、祝いを申し上げぬわけには参りませぬ」
「商人として、か」
「はい」
寿貞の目が細くなる。
「戦が終われば、道が開きます。道が開けば、荷が動きます。荷が動けば、銭が動きます。銭が動けば、神屋も生きます」
「正直でよい」
「商人が飾りすぎれば、かえって怪しまれますゆえ」
惟種は笑い、手元の箱を指した。
「ならば、祝いの言葉より先に、これを見ろ」
◇
箱の中には、漆器が入っていた。
黒い椀。
赤を細く差した盆。
軽く、滑らかで、光を深く吸い込むような艶を持つ小箱。
寿貞は、最初は商人の顔でそれを見た。
だが、手に取った瞬間、その目が変わった。
「これは……」
椀を傾ける。
光を当てる。
指で縁をなぞる。
底を見る。
匂いを確かめる。
寿貞は、しばらく何も言わなかった。
「どうだ」
惟種が問う。
寿貞は、ようやく息を吐いた。
「これは、凄いですな」
「売れるか」
「売れます」
即答だった。
「博多でも売れます。堺でも売れましょう。明へ持っていっても面白い。南蛮人も珍しがるやもしれませぬ」
「高く売れるか」
「高く、で済ませてはもったいない」
寿貞は椀を両手で持ったまま言った。
「これは、阿蘇の名で売れます」
惟種の目が動いた。
「阿蘇の名で」
「はい」
寿貞は続ける。
「ただの椀ではございませぬ。阿蘇で作られたもの。阿蘇の職人町で仕上げたもの。阿蘇の御家が認めたもの。そういう名を乗せれば、品はただの品ではなくなります」
「名で値が上がるか」
「上がります」
寿貞は、少し笑った。
「人は、よき品を買うだけではございませぬ。よき名も買うのです」
「名か」
「大友の名、島津の名、堺の名、博多の名。皆、それだけで人を動かします。これからは、阿蘇の名も銭を呼びましょう」
惟種は椀を見た。
職人たちが、何度も失敗し、漆を扱い、乾かし、磨き、ようやく形にした品である。
ただの贅沢品ではない。
技の結晶であり、阿蘇の名を海へ出す道具でもある。
「よし」
惟種は頷いた。
「高く売れ」
「もちろんでございます」
「だが、雑に売るな」
「心得ております」
寿貞は椀を丁寧に箱へ戻した。
「数を絞り、相手を選び、まずは名を上げる。安売りはいたしませぬ」
「さすがだな」
「商人でございますゆえ」
◇
寿貞は、そこで少し身を乗り出した。
「しかし、若君」
「何だ」
「これほどの品が売れれば、また阿蘇には財が入ります」
「そうだな」
「失礼ながら、阿蘇は今でも十分に財がございましょう」
惟種は寿貞を見た。
寿貞は、商人の笑みを少しだけ消した。
「さらに売り、さらに財を集め、その銭で何をなさるおつもりで?」
座に、少しだけ沈黙が落ちた。
商人の問いである。
だが、ただの商いの問いではない。
阿蘇はすでに大きい。
肥後。
筑後。
肥前。
豊後。
海も、港も、職人も、米も、兵もある。
それでもなお、惟種は銭を欲している。
何のために。
惟種は、当然のように答えた。
「知れたこと」
寿貞は黙って待つ。
「国の安寧だ」
惟種は続けた。
「道を通す。橋を架ける。港を深くする。蔵を増やす。法を整える。人を学ばせる。医者を育てる。薬を集める。船を造る。兵を養う。職人を増やす。銭を揃える」
一つ一つ、指を折るように言う。
「どれも銭が要る」
「それは、確かに」
「さらに、その先には天下の後がある」
寿貞の表情が止まった。
「天下の後、でございますか」
「そうだ」
惟種は言った。
「天下を取るだけなら、いずれ誰かがやる。だが、取った後に民を飢えさせぬ国を作れるかは別だ」
寿貞は、椀の入った箱を見た。
次に惟種を見る。
「若君は、銭を貯めるために集めるのではないのですな」
「貯めるだけの銭は死ぬ」
「死ぬ」
「流して、道になり、橋になり、米になり、薬になり、学びになり、船になって初めて生きる」
寿貞は、しばらく何も言わなかった。
それから、静かに笑った。
「それは……壮大でございますな」
「壮大か」
「はい。壮大すぎて、商人の算盤が追いつきませぬ」
「神屋の算盤でもか」
「追いつかせます」
寿貞は即座に言った。
「追いつかせねば、神屋の名折れにございます」
惟種は笑った。
寿貞もまた笑った。
だが、その目は真剣だった。
「しかし、壮大なものほど銭を食います。銭を食うものは商人を呼ぶ。商人を呼べば、欲も呼びます」
「分かっている」
「欲は、国を太らせもしますが、腐らせもします」
「だから、神屋に頼む」
寿貞は一瞬、言葉を止めた。
「某に、でございますか」
「そうだ」
「欲深き商人に?」
「欲を知る者に、欲の道を見てもらう」
惟種は言った。
「きれいな者だけで商いは回らぬ。欲を消すことはできぬ。ならば、流す道を決める」
寿貞は、深く息を吐いた。
「若君は、商人をよくお分かりで」
「分かっているつもりだ」
「怖い御方だ」
「褒めているのか」
「もちろんでございます」
寿貞は、ゆっくりと頭を下げた。
「この神屋、残り短い人生ではございますが」
「まだ短いと決めるには早いだろう」
「商人は、いつ船が沈むか分かりませぬ」
寿貞は顔を上げた。
「それでも、若君の見ておられる先を、見とうございます」
惟種は、少しだけ目を細めた。
「ならば、見ろ」
「はい」
「ただし、高くつくぞ」
「望むところにございます」
◇
商いの話がひと段落すると、寿貞はふと思い出したように手を叩いた。
「そうでございました」
「何だ」
「若君より、以前に頼まれておりましたものがございます」
惟種の目が動いた。
「以前?」
「はい。南蛮筋、唐筋、明の商人、さらにその先の海を渡る者たちに、探らせておりました」
寿貞は、後ろに控えていた者へ合図した。
小さな木箱が運ばれてくる。
ただし、漆器の箱とは違う。
こちらは頑丈に作られ、内側に湿った苔や布が詰められていた。
惟種は、箱を見た瞬間、身を乗り出した。
「まさか」
「若君が求めておられた、奇妙な木でございます」
寿貞は蓋を開けた。
中には、小さな苗木が数本あった。
葉は厚く、阿蘇でよく見る木とは少し違う。
幹には傷がつけられ、その近くに白く乾いた樹液の跡があった。
さらに別の包みには、黒褐色の塊が入っている。
弾力を持ち、水をはじく、妙な樹脂のようなものだった。
「南の暑き地にある木だそうにございます」
寿貞は説明する。
「傷をつけると、白い乳のような汁が出る。それを固めると、このようになると。若君が以前、伸びる、弾む、水をはじく、そういう木を探せと申されましたので」
惟種は、震える手で黒い塊を取った。
押す。
曲げる。
爪で引っかく。
水を垂らす。
指で伸ばす。
目が、どんどん輝いていく。
寿貞は、少し不安になった。
「若君。これでございますか?」
惟種は顔を上げた。
「それだ」
「これで?」
「それだ!」
惟種は叫んだ。
寿貞が思わず身を引く。
「ありがたい。よくやった、神屋!」
「は、はあ」
「苗木もある。樹液もある。塊もある。よくぞ持ってきた!」
惟種は黒い塊を両手で持ち、まるで宝玉でも見つけたかのように笑った。
寿貞は固まった。
先ほどまで、天下の後を語っていた若君である。
道。
法。
医療。
学問。
海。
兵。
銭。
壮大な話をしていたその若君が、今は黒い樹脂の塊を持って、子供のように喜んでいる。
「若君」
「何だ」
「これは、それほどのものでございますか」
「それほどだ」
惟種の返事は即答だった。
「水を防げる。隙間を塞げる。弾みを使える。管にも、車にも、船にも、薬の道具にも使える。布に塗れば水をはじく。栓にもなる。紐にもなる」
惟種はそこで、黒い塊を指で押した。
「いや、まだ弱いか。熱にも弱い。混ぜ物を探す必要がある。硫黄か。いや、まだ早い。まずは育つかだ」
寿貞は、半分も分からなかった。
「若君」
「何だ」
「某には、半分も分かりませぬ」
「分からずともよい」
惟種は苗木を覗き込んだ。
「これは南の木だな。阿蘇の冬では死ぬ。暖かい場所が要る。府内か、島原か、あるいは温かい小屋を作るか」
惟種の指が、箱の縁を軽く叩く。
「試す場所を分ける。全部一箇所に植えるな。枯れるものが必ず出る。苗木を増やす。樹液の取り方も学ぶ」
「まだ増やすので?」
「当然だ」
惟種は寿貞を見た。
「神屋。もっと探せ」
「もっと」
「苗木、種、樹液、塊、それを扱える者、知っている商人。何でもよい。高くても買え」
「また銭が飛びますな」
「飛ばせ」
寿貞は、少し呆れたように笑った。
「先ほど、銭は道や医療や学問に使うと申されておりましたが」
「これも道であり、医療であり、学問であり、兵であり、海だ」
「その黒い塊が」
「そうだ」
惟種は真顔で言った。
「未来だ」
寿貞は、返す言葉を失った。
◇
寿貞は、やがて深く頭を下げた。
「承りました」
「頼む」
「この木が若君の未来に必要なものならば、神屋は探しましょう」
「助かる」
「ただし」
「何だ」
「これが本当にそれほどのものなら、扱いには気をつけねばなりませぬ」
惟種の動きが止まった。
寿貞は続ける。
「漆器と同じです。名が出れば人が集まる。人が集まれば、欲も集まる。奇物と見られれば盗む者も出ましょう。南蛮も、明の商人も、こちらが欲しがる理由を探ります」
惟種は、黒い塊を見た。
「そうだな」
「隠しますか」
「隠す」
惟種は即答した。
「まずは阿蘇の内で試す。苗木は分けて育てる。扱う者は絞る。樹液の使い道も、すぐには外へ出さぬ」
「では、神屋も口を閉じます」
「閉じろ」
「閉じるには、少々銭が要ります」
「払う」
寿貞は、にやりと笑った。
「まこと、若君との商いは飽きませぬ」
「わしも、神屋との商いは飽きぬ」
惟種は、また苗木を見た。
小さな木である。
頼りない。
寒さに当たればすぐ枯れそうだ。
だが、その小さな木が、惟種には港より大きく見えた。
大筒よりも、船よりも、時に大きな意味を持つかもしれない。
まだ誰も知らない。
この時代の日ノ本では、ただの奇妙な木でしかない。
だが、惟種は知っている。
これが、世界を変える素材になり得ることを。
◇
寿貞が下がる頃、外は夕暮れになっていた。
漆器の箱は、商いのために丁寧に包まれた。
苗木の箱は、さらに厳重に封をされ、惟種の指示で温かい部屋へ運ばれた。
黒い樹脂の塊は、惟種の手元に残された。
寿貞は廊を歩きながら、背後の部屋を一度だけ振り返った。
阿蘇の若君は、天下の後を語る。
道を語り、法を語り、学問を語り、銭を語る。
そして、黒い樹脂の塊を見て、子供のように喜ぶ。
分からぬ御方だ。
だが、分からぬからこそ、見たい。
あの若君が、あの黒い塊で何を作るのか。
阿蘇の銭が、どこまで国を変えるのか。
商人の算盤が追いつかぬ先に、何があるのか。
寿貞は、静かに笑った。
「残りの人生、退屈はせずに済みそうですな」
その頃、部屋の中では惟種が黒い樹脂を手に、まだ目を輝かせていた。
「これがあれば……できる。色々できるぞ」
その声は小さかった。
だが、そこには戦場で勝った時よりも、府内を押さえた時よりも、どこか楽しげな響きがあった。
銭は未来を買う。
その日、阿蘇は漆器で名を売る道を得た。
そして、南の奇妙な苗木と黒き樹脂によって、まだ誰も知らぬ未来の種を手に入れた。




