第百二十六話 灯の国と異国の神
天文十九年(一五五〇年)二月。
阿蘇の山には、まだ冬の名残があった。
朝方には霜が降りる。
谷を渡る風は冷たい。
だが、昼の光には、少しずつ春の気配が混じり始めていた。
その日、阿蘇の館に、南より客が来た。
島津貴久より紹介された者である。
名を、フランシスコ・ザビエル。
遠き海を越えて日ノ本へ来た、異国の僧であった。
◇
ザビエルは、静かに座していた。
衣は、この国のものとは違う。
顔立ちも、目の色も、肌の色も、阿蘇の者たちとは異なる。
だが、その目は落ち着いていた。
長い海を越え、見知らぬ国へ来た者の目である。
恐れを知らぬのではない。
恐れを知ったうえで、ここに座る目だった。
座の上には、阿蘇惟豊。
その下に惟種。
横には甲斐宗運。
そして、少し離れた脇に、阿蘇が用意した通詞が控えていた。
ザビエル側にも、言葉を解する者はいる。
だが、この場で言葉を通すのは、阿蘇の通詞と定められていた。
南蛮の言葉を、そのまま南蛮の口から受け取るつもりはない。
言葉とは、ただ意味を運ぶだけではない。
時に、意図を隠す。
時に、毒を混ぜる。
阿蘇は、すでに南蛮言葉を解する者を領内へ引き入れていた。
商いのため。
船のため。
鉄砲のため。
海の向こうを知るため。
そして、それは今日、この座のためでもあった。
惟豊が口を開いた。
「遠き海を越えて来られたと聞く」
阿蘇の通詞が、静かに南蛮言葉へ直す。
ザビエルはそれを聞き、深く頭を下げた。
そして、ゆっくりと言葉を返す。
その言葉を、今度は阿蘇の通詞が日ノ本の言葉へ戻した。
「はい。デウスの教えを伝えるため、この国へ参りました」
惟豊は頷いた。
「島津殿より、そなたを紹介したいとの文を受けた」
「島津殿には、よくしていただきました」
「阿蘇には何を求める」
ザビエルは、顔を上げた。
「阿蘇の領内にて、デウスの教えを説く許しをいただきたく存じます」
座が静まった。
宗運は、惟豊を見ない。
惟種もまた、すぐには口を開かなかった。
惟豊は、しばらくザビエルを見ていた。
「日ノ本には、神もある。仏もある」
「承知しております」
「阿蘇には、阿蘇の神がある」
「はい」
「その上で、そなたは別の神を説くと」
「はい」
ザビエルの声は揺れなかった。
通詞を挟んでも、その芯は伝わった。
惟豊は、少し目を細める。
「教えを聞くか聞かぬかは、人の心であろう。阿蘇は、話を聞くことまで禁じる家ではない」
ザビエルの表情が、わずかに動いた。
だが、惟豊は続けた。
「ただし、阿蘇の法に従うことになる」
「もちろんにございます」
惟豊は、惟種へ目を向けた。
「惟種」
「はっ」
「申せ」
◇
惟種は、ザビエルを見た。
敵ではない。
それは、初めから分かっていた。
この男は、危険な航海を越え、この見知らぬ国へ来た。
ただ銭のためではない。
ただ港を求める商人でもない。
民を導くことを、本気で考えている。
その覚悟は、軽く見てはならない。
だが。
この男の後ろに続く者が、すべて同じ心とは限らない。
惟種は静かに口を開いた。
「ザビエル殿」
通詞が訳す。
「はい」
「そなたが、遠き海を越え、命を懸けてこの地へ来たことは軽く見ぬ」
ザビエルの目が、少しだけ大きくなった。
「そなたが民を導かんとする心も、偽りとは思わぬ」
「ありがたき御言葉にございます」
「だが」
惟種の声が低くなる。
「そなたの後ろにいる者すべてが、そなたと同じ心とは限らぬ」
ザビエルは、黙った。
惟種は続ける。
「神の名を掲げて、民を売る者がいる。商いの名で、人を鎖につなぐ者がいる。教えの名で、国の政へ手を入れようとする者がいる」
宗運は、横で静かに聞いていた。
言葉は強い。
だが、必要な言葉である。
「それは、阿蘇では許さぬ」
通詞が、慎重に言葉を選んで訳した。
ザビエルは、ゆっくりと息を吸った。
「民を売る、と申されましたか」
「そうだ」
「私は、そのようなことを望みませぬ」
「そなたは、な」
惟種は即座に返した。
「だから、今そなた個人を責めているのではない。そなたの後ろへ続く者に言っている」
ザビエルの顔が、引き締まった。
「阿蘇の領内で、日ノ本の民を海の向こうへ売ることは許さぬ。寺社を乱すことも許さぬ。神仏を侮り、民を脅して改宗させることも許さぬ。政へ口を出すことも許さぬ」
宗運が、少しだけ身じろぎした。
惟種はその気配を感じ、わずかに言葉を整える。
「阿蘇は、教えを説くことを禁じぬ。聞く者が聞き、信じる者が信じるなら、それは人の心だ」
ザビエルは深く頷いた。
「ですが、力で心を曲げることは許さぬ」
「……承知いたしました」
「神の名を使って、人を売ることもだ」
ザビエルは、今度は強く頷いた。
「それは、私も望みませぬ」
◇
惟種は、少しだけ声を和らげた。
「民を導くという点では、阿蘇の神も、仏の教えも、そなたらの教えも変わらぬ」
ザビエルの目が動いた。
「変わらぬ、と」
「救える者が違うだけだ」
惟種は言った。
「阿蘇の神で救われる者もいる。仏で救われる者もいる。だが、神や仏では救えぬ者もいるのだろう」
ザビエルは、何も言わなかった。
「そなたの神でなければ、心の置き場を得られぬ者もいるのかもしれぬ」
惟種は続けた。
「そういう者は、そなたに任せる」
ザビエルの表情が、明らかに変わった。
驚き。
疑い。
そして、かすかな感謝。
「若君は、私の教えを信じてくださるのですか」
「信じるかどうかは別だ」
惟種はあっさり答えた。
「わしは阿蘇の者だ。阿蘇の神を捨てるつもりはない」
「では、なぜ」
「民の心は一つではない」
惟種は言った。
「同じ米を食っても、同じように満ちるとは限らぬ。同じ神に祈っても、同じように救われるとは限らぬ。ならば、受け皿は多い方がよい」
宗運は、内心で小さく息を吐いた。
この若君は、宗教すら政の目で見る。
だが、それだけではない。
民の心が一つではないことも、きちんと見ている。
ザビエルは、深く頭を下げた。
「そのお言葉、忘れませぬ」
「忘れるな」
惟種は静かに返した。
「そして、そなたの後ろに続く者にも伝えよ。阿蘇は教えを拒まぬ。だが、民を食い物にする者は拒む」
◇
話は、それだけでは終わらなかった。
惟種は立ち上がった。
「見せたいものがある」
惟豊が、少しだけ眉を上げた。
「惟種」
「父上。必要にございます」
宗運は、何かを察した顔をした。
「若君、どこまで見せられるおつもりで」
「見せてもよいものだけだ」
「それが一番怖いのでございますが」
惟種は聞き流した。
ザビエルは、通詞の言葉を聞き、静かに立ち上がる。
「何を、見せていただけるのでしょうか」
「阿蘇の灯だ」
◇
案内されたのは、館の奥に近い一室であった。
外は冷えている。
だが、その部屋は暖かかった。
ただ火鉢を置いただけではない。
床に近いところを温め、煙を外へ逃がす工夫がされている。
壁には白く整えられた紙が貼られ、灯の光をやわらかく返していた。
灯が多い。
だが、ただ多いのではない。
油の量。
皿の形。
芯の太さ。
反射する金属板。
それぞれに工夫があり、夜でも字が読めるほどの明るさを作っていた。
ザビエルは、足を止めた。
「これは……」
惟種は言った。
「阿蘇では、夜にも仕事をする」
通詞が訳す。
「夜に」
「もちろん、休ませる時は休ませる。だが、灯があれば、医者は怪我人を見られる。文官は急ぎの帳を読める。子供も字を学べる。職人も、細かな仕事を続けられる」
ザビエルは、部屋の明るさを見回した。
日ノ本の夜は暗い。
灯はある。
だが、ここは違った。
光の使い方が違う。
さらに奥には、漆器が並べられていた。
黒い艶。
赤の線。
薄く光る表面。
南蛮の品とは違う。
だが、明らかに高い技を持つ品である。
横には、紙。
帳面。
色を持つ蝋の棒。
小さな金具。
磨かれた鏡。
硝子めいた小片。
温かな空気を逃がしすぎぬ建具。
どれも一つ一つなら、説明できるかもしれない。
だが、それらが一つの部屋に揃い、同じ家の中で当たり前のように使われていることが、ザビエルには異様だった。
惟種は、ザビエルの反応を見ていた。
驚かせたいのではない。
測らせたいのだ。
「阿蘇は、南蛮の知を拒まぬ」
惟種は言った。
「鉄砲も、船も、薬も、書も、学ぶべきものは学ぶ」
ザビエルは惟種を見た。
「だが、南蛮にすがらねば生きられぬ国ではない」
その声は、静かだった。
「明との道もある。海の西には、そなたらだけでなく、紅き毛の者らの噂も聞く」
宗運は横で、内心ひやりとした。
はったりである。
少なくとも、今の阿蘇が直接その者たちと結んでいるわけではない。
神屋寿貞を通じて、海の向こうの噂を拾っているに過ぎない。
だが、言葉としては効く。
南蛮だけが、阿蘇の窓ではない。
そう思わせるための刃であった。
惟種は続ける。
「南蛮が誠をもって来るなら、阿蘇は迎える。だが、傲りをもって来るなら、別の海を探す」
ザビエルは、静かに息を呑んだ。
この若君は、自分を脅しているのではない。
自分の背後にいる者たちへ言っている。
南蛮の商人。
イエズス会。
海の向こうの権力。
彼らがこの国を軽く見れば、阿蘇は黙らない。
それを、この明るい部屋で示している。
◇
ザビエルは、灯の光を見ていた。
暖かい。
明るい。
整っている。
この国は、ただ教えを待つ国ではない。
この阿蘇という家は、こちらを測っている。
それも、恐れからではない。
自分たちの足で立つ者の目で測っている。
ザビエルは、深く頭を下げた。
「若君」
「何だ」
「私は、デウスの教えを伝えるために来ました」
「知っている」
「ですが、その名を汚す者があるならば、それは私にとっても悲しむべきことです」
惟種は黙って聞いていた。
「私は、阿蘇の法に従います。民を脅さず、政に口を出さず、奴隷の商いを許さず、神仏を侮らぬよう努めます」
「そなた自身は、それでよい」
「後に続く者にも、伝えます」
その言葉を、惟種はしっかり受け取った。
「伝えよ」
「はい」
「阿蘇は、そなたを敵とは見ていない」
ザビエルの目が、わずかに揺れた。
「だが、日ノ本の民を虐げる者は敵だ」
「承知しました」
惟種は少しだけ表情を緩めた。
「そなたも大変だろう」
「はい?」
「危うい海を越え、言葉の違う国へ来て、神を説く。布教するだけでも難しい。その上、そなたの後ろにいる者の行いまで疑われる」
ザビエルは、思いがけない言葉に一瞬黙った。
「苦労が多いはずだ」
惟種は言った。
「励め」
ザビエルは、深く頭を下げた。
「ありがたきお言葉にございます」
「教えは違えど、民を導く苦労は同じだ」
惟種は、灯の揺れを見た。
「阿蘇の神で救えぬ民がいるなら、そなたが救え」
ザビエルは、しばらく顔を上げられなかった。
◇
再び座へ戻ると、惟豊が裁定を下した。
「ザビエル」
「はい」
「阿蘇領において、そなたが教えを説くことを許す」
ザビエルは深く頭を下げた。
「ただし、阿蘇の法に従え」
「はい」
「日ノ本の民を売ること。寺社を乱すこと。神仏を侮ること。無理に改宗を迫ること。政に口を出すこと。これを禁ずる」
「承知いたしました」
「違えれば、布教の許しは取り消す」
「はい」
惟豊は、静かに頷いた。
「そなたの教えで救われる者がいるなら、それはそれでよい。だが、阿蘇の民は阿蘇が守る」
「肝に銘じます」
ザビエルは、深く、深く頭を下げた。
◇
その日の夕刻、ザビエルは阿蘇の館を下がった。
去り際、彼はもう一度だけ振り返った。
山の中の館。
冷たい風。
だが、その内には明るい灯と暖かな部屋がある。
神の名を受け入れながら、神の名で民を売ることを拒む若君がいる。
そして、その若君を支える当主と謀臣がいる。
ザビエルは思った。
この地では、清くあらねばならない。
傲れば、閉ざされる。
欲を出せば、斬られる。
民を導くと言いながら民を食えば、神の名ごと拒まれる。
阿蘇は、恐れるべき国ではない。
だが、侮ってはならない国である。
そのことを、必ず伝えねばならなかった。
◇
ザビエルが去った後、座には惟豊、惟種、宗運だけが残った。
宗運が、静かに言った。
「若君」
「何だ」
「随分と優しく迎えられましたな」
「ザビエルは敵ではない」
「では、敵は」
惟種は、すぐに答えた。
「神の名で民を売る者だ」
宗運は、目を伏せた。
「なるほど」
「そなたも分かっているだろう」
「はい」
「信じるものが違うだけなら、敵ではない。だが、民を虐げるなら敵だ」
惟豊が、静かに頷いた。
「それが阿蘇の裁きだ」
惟種は、灯の方を見た。
阿蘇の夜は明るくなりつつある。
だが、海の向こうには、まだ知らぬ闇が多い。
その闇を拒むだけでは足りない。
光だけを求めても危うい。
見極めねばならない。
誰が友で、誰が敵か。
どの知を受け入れ、どの欲を斬るか。
南蛮の僧は去った。
だが、海の向こうへ続く道は、確かに阿蘇の前へ開き始めていた。




