第百二十八話 京より来る名
天文十九年(一五五〇年)四月。
春の阿蘇に、京の匂いをまとった文が届いた。
その文を受け取った惟豊は、しばらく何も言わなかった。
文は、ただの使者の先触れではない。
祝いでもない。
嘆願でもない。
足利義藤。
後に義輝と名を改める、室町将軍その人が、急ぎ府内へ入るという知らせであった。
京を追われ、三好に圧され、近江へ逃れている公方である。
その公方が、遠く九州の阿蘇を頼ろうとしている。
表向きには、一時の逗留とされていた。
供の数も、幕府の移座と呼ぶほど大きくはない。
だが、文の急ぎようはただ事ではなかった。
添えられた名も、軽くない。
京に近い者たちの筆が、いくつも重なっている。
一時の滞在で済むのか。
それとも、京を離れた公方の座が、この九州へ流れ込もうとしているのか。
惟豊は文を畳み、低く言った。
「宗運を呼べ。惟種もだ」
◇
奥の一室に、三人だけが集まった。
惟豊。
惟種。
甲斐宗運。
部屋には、京の文が置かれている。
それだけで、いつもの戦報とは違う重さがあった。
宗運が文を読み終え、静かに息を吐いた。
「公方様、府内へお入りになる御意にございますな」
「うむ」
惟豊は頷いた。
「急ぎ、迎えの支度をせねばならぬ」
惟種は黙っていた。
将軍。
名は重い。
だが、今の幕府は軽い。
それが惟種の本音であった。
京で権威として立っているならよい。
御内書を出し、諸国の名を整え、畿内で三好とやり合ってくれるなら、いくらでも融通する。
銭も、文も、名目も、必要なら少しの兵も出せる。
だが、阿蘇の懐へ幕府そのものを抱え込むのは困る。
今の阿蘇には、府内がある。
肥前がある。
筑後がある。
旧大友家臣団がある。
西郷、松浦、大村、有馬の後始末もある。
南では島津との約があり、伊東と肝付の火種もある。
そこへ公方を抱え込めば、畿内の争いまで背負うことになる。
重すぎる。
惟種は、そう思った。
もちろん、口には出さない。
宗運が、惟種の顔を見て言った。
「若君」
「何だ」
「顔に出ております」
「出ておらぬ」
「少し出ております」
惟豊が短く言った。
「惟種。本人の前でその顔をするな」
「しておりませぬ」
「しておる」
惟種は、仕方なく姿勢を正した。
◇
宗運が文を指した。
「公方様が阿蘇へ求めるものは、おそらく三つにございます」
「申せ」
惟豊が促す。
「一つ。三好長慶への牽制」
宗運は言った。
「公方様は京を追われております。畿内で兵を得るのは難しい。ならば、遠くとも大友を降し、肥前を収め、島津と結ぶ阿蘇の名を借りたい」
「阿蘇が後ろにいると見せるだけで、三好を黙らせるか」
「はい。あるいは、黙らぬまでも、京の者どもの腹を揺らせます」
惟豊は頷いた。
「二つ目は」
「上洛の催促にございましょう」
宗運の声が少し重くなる。
「阿蘇が大軍を率いて上洛し、公方様を京へ戻す。そういう話を持ち出される可能性がございます」
惟種は、すぐに言った。
「無理だ」
惟豊が見る。
惟種は続けた。
「今の阿蘇は動けませぬ。府内も肥前も、まだ根が浅い。ここで大軍を京へ向ければ、豊後が燃える。肥前も揺れる。秋月も義武も田原も、笑って火をつける」
「その通りだ」
宗運は頷いた。
「上洛は、今の阿蘇には重すぎます」
惟豊は、ゆっくりと腕を組んだ。
「三つ目は」
宗運は、少し間を置いた。
「幕府の移座にございます」
部屋が静まった。
「公方様が、京へ戻れぬと見た場合。あるいは、三好に京を握られ続けると見た場合、幕府の名を府内、または阿蘇の庇護下へ移すことを考えておられるやもしれませぬ」
惟豊の目が細くなった。
「九州へ幕府を持ってくる、ということか」
「はい」
「馬鹿な」
惟種は思わず言った。
宗運がちらりと見る。
惟種は構わず続けた。
「将軍は京にいてこそ将軍です。府内へ来て座られても、阿蘇の政所が公方様の御座所に呑まれるだけです」
「言葉は選べ」
惟豊が低く言った。
「三人だけなので」
「三人だけでもだ」
惟種は少し口を閉じた。
だが、言葉を変えて続ける。
「今の幕府は、国を治める仕組みではありませぬ。名を食わせる仕組みにございます」
宗運は、目を伏せた。
厳しい言い方だ。
だが、外れてはいない。
将軍家の名はまだ重い。
御内書一つで、諸国の顔色は変わる。
だが、兵も銭も土地も失い、三好に追われる今の幕府を阿蘇へ入れれば、阿蘇がその名を食わせ続けることになる。
名は重い。
だが、腹も減る。
そして、その腹を満たすのは阿蘇である。
◇
惟豊は、しばらく黙っていた。
やがて、低く言う。
「将軍家の名は、粗末にはできぬ」
「はい」
宗運が頷く。
「公方様を軽く扱えば、阿蘇が無礼者となる。阿蘇がいくら力を持とうと、京の名を侮ったと見られれば、諸国の見る目が変わる」
「承知しております」
惟種も頭を下げた。
惟豊は続ける。
「だが、名を館へ入れれば、館の主が二人になる」
宗運が静かに言った。
「その通りにございます」
「それはならぬ」
惟豊の声は、はっきりしていた。
「阿蘇の主は阿蘇だ」
惟種は、その言葉に少しだけ安堵した。
父は、名に呑まれていない。
惟豊は将軍家を敬う。
だが、阿蘇の首を差し出す気はない。
「迎えは丁重にする」
惟豊は言った。
「府内に入られるなら、宿所も警護も万全にせよ。旧大友家臣団にも、無礼をさせるな。大友隼人にも、公方様への礼を尽くさせる」
「はっ」
宗運が頷いた。
「家臣総出で迎える。阿蘇が公方様を軽んじておらぬと、はっきり示す」
「はい」
「だが」
惟豊の声が低くなる。
「阿蘇の政は渡さぬ」
宗運は深く頭を下げた。
「承りました」
◇
惟種は、文を見た。
「京で立たれる分には、支えます」
「どのように」
宗運が問う。
「銭。贈答品。漆器。薬。鉄砲少数。必要なら職人も」
「兵は」
「大軍は出さぬ」
惟種は即答した。
「少数の護衛、あるいは旗だけなら考える。だが、上洛軍は無理だ」
「それで公方様が納得されるか」
「納得させる」
惟種は言った。
「表向きの理由は簡単です。阿蘇は戦後であり、豊後、肥前、筑後を鎮めている最中。ここで大軍を上洛させれば、九州の静謐が崩れる。公方様の御ためにもならぬ」
宗運が目を細めた。
「九州の静謐、ですか」
「そうだ」
惟種は頷いた。
「逆に言えば、公方様からその名をもらう」
惟豊が惟種を見た。
「名をもらう?」
「はい」
惟種は、畳の上へ指を置いた。
「阿蘇を、西国、少なくとも九州の調整役として認めていただく。九州諸家の争いは、阿蘇が公方様の名を受けて裁く。そういう御内書、御教書をいただく」
宗運が、わずかに笑った。
「上洛の代わりに、名をいただく」
「そうだ」
「公方様は兵を求め、阿蘇は名を得る」
「兵は出せぬが、名は使える」
惟種は言った。
「阿蘇が勝手に裁くのではない。公方様の名を受け、九州静謐のために裁く。そうすれば、こちらの義がさらに立つ」
「売られた喧嘩を買う時にも」
「使える」
宗運は頷いた。
「悪くございませぬ」
惟豊も黙って聞いていたが、やがて言った。
「それは受けてもよい」
「父上」
「公方様の名は、まだ死んでおらぬ。その名で阿蘇の裁きが通りやすくなるなら、使えばよい」
惟種は頭を下げた。
「ただし」
惟豊は続ける。
「公方様を阿蘇の政へ入れるな」
「心得ております」
「幕府を府内へ移す話が出たなら」
宗運が答えた。
「丁重に退けます」
「どう言う」
宗運は少し考え、答えた。
「公方様は京にあってこそ、公方様にございます。九州へ移られれば、三好に京を捨てたと喧伝されましょう。ゆえに、阿蘇は京への御帰還を支えるため、九州を鎮め、銭と物資をもって支える、と」
惟豊は頷いた。
「よい」
惟種は内心で思った。
京で踏ん張ってくれ。
もちろん、口には出さない。
宗運がちらりと惟種を見る。
「若君」
「何だ」
「今、顔に出ました」
「出ておらぬ」
「少し出ました」
惟豊が言った。
「努力せよ」
「はい」
◇
しばらくして、惟豊は府内の準備について話を移した。
「府内には誰がいる」
「戸次鑑連、吉岡長増、大友隼人、樋口、親英の者、阿蘇の常備兵二千。ほか、旧大友家臣団の一部にございます」
宗運が答える。
「公方様が府内へ入れば、旧大友の者たちはどう見る」
「複雑でございましょうな」
宗運は言った。
「かつて大友は京の名を受け、九州で大きく振る舞っていた家にございます。その府内へ、今度は京を追われた公方様が、阿蘇を頼って入る」
惟種は目を細めた。
「時代が変わったと見せつけることになる」
「はい」
「それは危うい」
「はい」
宗運は頷いた。
「義武や田原のような者は、これを利用しようとするやもしれませぬ。公方様の名を使い、大友の再興を口にする者も出る」
「だからこそ、公方様の宿所と近侍は阿蘇が押さえる」
惟種が言った。
「公方様に無礼はせぬ。だが、誰でも近づけるようにはしない」
「その通りにございます」
惟豊は言った。
「戸次鑑連には、隼人の守りと同時に、府内の礼を整えさせよ。吉岡長増には館中を鎮めさせる。宗運、そなたも府内へ行け」
「はっ」
「惟種もだ」
「承知しました」
惟種は頭を下げた。
「公方様を迎える場で、阿蘇の若君が出ぬわけにはいかぬ」
惟豊は続ける。
「だが、出すぎるな」
惟種は顔を上げた。
「出すぎる、とは」
「公方様の前で、幕府はいらぬなどという顔をするな」
「……心得ました」
宗運が静かに言った。
「顔だけでなく、口にも出されませぬよう」
「出さぬ」
「心にも」
「それは無理だ」
惟豊が額に手を当てた。
「惟種」
「口には出しませぬ」
「顔にも出すな」
「努力します」
「努力では足りぬ」
「では、気合で」
「そういうところだ」
宗運が袖で口元を隠した。
◇
話は、さらに深くなった。
惟種は静かに言った。
「京の幕府は、いずれ畿内の力ある者に追われます」
惟豊の目が、少しだけ鋭くなる。
「そう見るか」
「はい」
「三好か」
「三好も、いずれ別の者も」
惟種は言葉を濁した。
信長。
その名をここで出しても、意味はない。
今はまだ尾張の一勢力に過ぎない。
宗運ならともかく、父にまで未来の名を語る必要はなかった。
「幕府は、今すぐ抱くには重すぎます。だが、いずれ地に落ちる。拾うなら、その後でよい」
宗運は静かに聞いていた。
惟豊もまた、しばらく黙った。
「冷たいな」
惟豊が言った。
「はい」
惟種は否定しなかった。
「ですが、今の阿蘇に必要なのは、幕府そのものではなく、幕府の名です」
「名だけを使うか」
「はい」
「公方様を道具にすることになる」
「公方様も、阿蘇を道具にしようとしております」
惟種の返しは早かった。
「ならば、互いに使えばよい。こちらは無礼をしない。銭も出す。京で立つための手も貸す。だが、阿蘇の腹に幕府を入れることはしない」
宗運は、少しだけ頷いた。
「若君の言い方は冷たうございますが、筋は通っております」
惟豊は、文を見つめた。
「互いに使う、か」
「はい」
「ならば、使われすぎるな」
「心得ております」
◇
やがて、方針は定まった。
一つ。
足利義藤は、丁重に府内で迎える。
一つ。
上洛要請には、阿蘇の戦後統治を理由に即答を避ける。
一つ。
銭、物資、贈答品、鉄砲少数、薬などの支援は行う。
一つ。
幕府移座の話が出れば、京の権威を保つためとして丁重に断る。
一つ。
代わりに、阿蘇を九州静謐の柱、天下の調整役の一端として認める御内書を求める。
一つ。
府内で旧大友家臣が公方の名を勝手に使わぬよう、近侍と警護は阿蘇が握る。
宗運が、それらを一つずつ確認した。
「つまり」
宗運は言った。
「公方様は丁重に迎える。されど、阿蘇の政は渡さぬ」
「そうだ」
惟豊が頷く。
「上洛は濁し、銭と文で支える。幕府移座は退ける。九州静謐の名だけはいただく」
「それでよい」
惟種も頷いた。
「将軍は京にいてこそ将軍です。阿蘇へ来て座られても、互いに不幸になります」
惟豊が、じろりと見た。
「少しは言い方を覚えたな」
「努力しました」
宗運が続けた。
「顔にも出されませぬよう」
「努力する」
「努力では足りませぬ」
「……気合で抑える」
宗運はため息をついた。
「若君の気合ほど信用しにくいものもございませぬな」
惟種は不服そうにしたが、言い返さなかった。
◇
その夜、府内へ向けて使者が走った。
戸次鑑連へ。
吉岡長増へ。
大友隼人の御座所へ。
親英へ。
樋口へ。
阿蘇の常備兵の指揮役へ。
府内に、公方が来る。
その報せは、静かに、しかし確実に人の腹を揺らしていった。
旧大友家臣たちは、京の名を思い出す。
阿蘇の者たちは、迎えるべき礼を整える。
商人たちは、何が動くかを測る。
そして、火種を持つ者たちは、その名をどう使えるかを考える。
惟種は、出立の支度を命じた後、一人で文を見直した。
足利義藤。
将軍家の名。
重い。
だが、今はまだ、実が軽い。
その名をどう扱うかで、阿蘇の立ち位置は変わる。
天下を取るなら、いつか京と向き合わねばならない。
それが、思ったより早く来ただけだ。
惟種は文を畳んだ。
「幕府はいらぬ」
小さく呟く。
「だが、名は使える」
その声は、部屋の中にだけ落ちた。
翌朝、阿蘇は府内へ向けて動き出す。
京より来る名を、迎えるために。
だが、その名を待っていたのは、阿蘇だけではなかった。




