第百二十三話 南の火種
天文十八年(一五四九年)十月。
日向の風は、肥後の山風とは違う。
湿りを含み、海の匂いをどこかに残している。
山を越えてくる風であっても、その奥に潮の気配がある。
伊東義祐は、その風を受けながら、庭先の松を見ていた。
松の枝は動かない。
動かないように見えて、先だけがわずかに揺れている。
今の南も、似たようなものだった。
表では、まだ大きくは動いていない。
だが、枝先ではもう風を受けている。
阿蘇が大友を降した。
肥前を押さえた。
龍造寺を抱え、相良を入れ、名和を従え、大友の名すら消さずに下へ置いた。
肥後の山家であったはずの阿蘇が、いまや海を持っている。
府内を押さえ、豊後へ手を伸ばした。
それも、ただ焼いて奪ったのではない。
降る者を残す。
名を残す。
政と兵だけを抜く。
それが、義祐には何より不快であり、同時に恐ろしくもあった。
敵は強いだけならよい。
強いだけの敵は、力尽くで倒せる。
だが、勝った後に人を食わせる敵は厄介だ。
民の腹を満たし、道を直し、市を戻す敵は、城より深く国を奪う。
阿蘇は、そういう家になりつつあった。
◇
その日の座は、大きくはなかった。
伊東義祐。
肝付兼演。
蒲生茂清。
入来院重朝。
それぞれ、島津と阿蘇の動きを見ている者たちである。
表向きには、ただの縁談でも祝儀でもない。
祝いの座でもない。
だが、明け透けに軍議と呼ぶにも早い。
そういう半端な座だった。
半端だからこそ、本音が出る。
肝付兼演は、文机の上に置かれた一通の写しを見て、低く笑った。
「貴久が乗るとは、初めから思うておらぬ」
蒲生茂清が目を向ける。
「では、文は無駄であったと」
「無駄ではない」
兼演は首を横に振った。
「乗るかどうかを見たのではない。乗らぬ時に、どのように乗らぬかを見たかった」
入来院重朝が、静かに頷いた。
「島津が、どれほど阿蘇へ寄っているか」
「そうだ」
兼演は言った。
「返答を濁せば、まだ割れる。返事を遅らせれば、迷いがある。こちらへ探りを返せば、島津も阿蘇の大きさを恐れている」
「では」
義祐が口を開いた。
「阿蘇へ文を見せれば」
兼演の笑みが薄くなる。
「島津は、すでに向こうだ」
座が静まった。
驚きではない。
だが、言葉にされると重い。
蒲生茂清が苦々しく言う。
「加世姫のことがありますゆえな」
「それだけではない」
義祐はゆっくりと言った。
「貴久は、利を見る男だ。阿蘇を外から討つより、阿蘇の内へ入った方が利があると見たのだろう」
兼演が義祐を見た。
「伊東殿も、そう見られるか」
「見る」
義祐の声は静かだった。
「阿蘇は、敵に回せば面倒だ。だが、内に入れば、もっと面倒なものを得られる」
「何を」
「理だ」
蒲生が眉を動かした。
「理?」
「そうだ」
義祐は庭の方へ目を向ける。
「阿蘇は、ただ兵を出す家ではない。勝った地へ銭を入れる。米を出す。道を直す。商人を戻す。文官を入れる。民を逃がさぬようにする」
兼演は黙った。
「それは兵より長く残る。島津がそれを見たなら、外から阿蘇を討つより、阿蘇の内でその理を使う方がよいと考える」
「島津が、阿蘇の下へ入ると」
蒲生の声には、不快さがあった。
義祐は首を横に振る。
「下ではない。内だ」
入来院重朝が、低く言った。
「外で負けるより、内で座を取る」
「貴久なら、そう考える」
義祐は言った。
「そして、その方が厄介だ」
◇
文は、すでに出してある。
肝付と伊東の名をもって、島津へ送った文である。
阿蘇は急に太りすぎた。
大友旧領には火種が残る。
義鎮は討たれたが、大友の名は残された。
ならば、その名を担いで立つ者も出る。
府内はまだ阿蘇の国ではない。
肥前も、収まったばかり。
有馬、大村の残党は山へ海へ散っている。
松浦、西郷も、腹の底まで阿蘇に従ったわけではない。
今なら、阿蘇は内から揺れる。
南より動けば、割れる。
そういう筋の文であった。
島津が乗るとは思っていない。
だが、文を出せば腹が見える。
島津がどう返すか。
誰へ文を見せるか。
どれほど早く動くか。
それだけで、南の次の形が見えてくる。
入来院重朝は、文の写しを見ながら言った。
「返事は、まだか」
兼演が首を横に振る。
「まだだ」
「遅いな」
「遅いのではない」
義祐が言った。
「選んでいるのだ」
蒲生が顔をしかめる。
「言葉を、ですか」
「言葉も、人も、時も」
義祐は続ける。
「返事は、ただ戻すものではない。返した時、こちらの腹をどう揺らすかまで考えているはずだ」
兼演が低く笑った。
「ならば、島津の後ろに阿蘇の謀臣がおるか」
「おるだろう」
義祐は即答した。
「甲斐宗運か」
「ほかにおるまい」
その名が出た時、座の空気が少し重くなった。
阿蘇惟種。
鬼童と呼ばれる若君。
大筒を使い、府内を降した異質な若者。
だが、そのそばには甲斐宗運がいる。
文を読み、人の腹を読み、折るべきところで折る男。
若君だけなら、まだ若さを突ける。
宗運だけなら、武の勢いで押せる場もある。
だが、二人が並ぶと厄介だった。
義祐は、指先で膝を軽く叩いた。
「阿蘇を折るなら、惟種だけを見てはならぬ」
「惟豊もおりますな」
重朝が言った。
「そうだ」
義祐は頷く。
「当主は惟豊だ。惟種は次代と見られているが、今の阿蘇を裁くのは惟豊。父が座を締め、子が先を見て、宗運が筋を整える」
蒲生茂清が吐き捨てるように言った。
「面倒な家になったものよ」
「面倒で済むならよい」
義祐の声は冷たい。
「根を張りきれば、面倒では済まぬ」
◇
肝付兼演は、そこで別の文を取り出した。
「豊後の火は」
義祐が問う。
「置いてある」
兼演は短く答えた。
「大友義武」
「うむ」
「田原親宏」
「そこも」
「秋月は」
「腹は動く。まだ、膝は動かぬ」
蒲生が笑う。
「膝とは」
「頭は下げる。だが、膝までは折らぬということだ」
兼演は言った。
「阿蘇の仕置きは見事だ。大友を残し、隼人を立て、府内を焼かず、政と兵を抜いた。だが、それで納得する者ばかりではない」
「義武は動くか」
入来院重朝の問いに、兼演は少し考えてから答えた。
「動きたい男だ」
「動ける男か」
「一人では無理だ」
義祐が言う。
「だから、周りが要る」
「田原、秋月、大友旧臣の不満、豊後の寺社、府内から離された者」
兼演は指を折る。
「火は一つでは足りぬ。だが、小さな火をいくつも置けば、風が吹いた時に燃える」
蒲生が低く言った。
「風は、こちらが吹かせる」
「そうだ」
義祐は頷く。
「ただし、急ぎすぎるな」
兼演が義祐を見る。
「阿蘇は、反乱を待っている可能性がある」
座が静まった。
蒲生が眉をひそめる。
「待っている?」
「阿蘇惟種は、大友を残した」
「それは甘さでは」
「違う」
義祐の声は、はっきりしていた。
「あれは甘さではない。残した方が使えるから残した。だが、残した名を使って乱す者が出ることも分かっているはずだ」
入来院重朝が、静かに言う。
「ならば、乱す者を一所に集めて討つ」
「その恐れがある」
兼演は、少し不快そうに息を吐いた。
「若造が、そこまで見るか」
「見る」
義祐は言い切った。
「見ねば、あそこまで太れぬ」
◇
話は、肥前へ移った。
龍造寺。
その名が出ると、座の空気がわずかに変わった。
阿蘇が肥前で使った駒であり、今や肥前に根を戻しつつある家である。
蒲生茂清が言った。
「龍造寺は、阿蘇に恩を受けた家ではないか」
「恩を受けた家ほど、時に重さに耐えられぬ」
兼演が返した。
「家宗は」
「慎重だ」
義祐が言った。
「阿蘇の下で龍造寺を立てるつもりであろう。あの男は軽く動かぬ」
「鍋島信房は」
重朝が問う。
「もっと動かぬ」
兼演が苦く笑った。
「鍋島は締める家だ。信房がいるうちは、龍造寺は大きく外れぬ」
「では、どこを見ている」
蒲生が言う。
兼演は、少しだけ目を細めた。
「龍造寺隆信」
その名が出た。
座の中に、別の種類の緊張が落ちる。
若い。
勢いがある。
先の大村、有馬攻めで働きが目立った。
兵がつく。
槍の前へ出る。
そういう男は、使える。
同時に、揺れる。
義祐は、少し慎重に言った。
「隆信が乗ると?」
「乗ると決めてはおらぬ」
兼演は言った。
「だが、乗る可能性はある」
入来院重朝が、目を伏せる。
「若く、功を立て、地を得た。だが、上には阿蘇がいる」
「そうだ」
兼演は頷く。
「龍造寺がどれだけ働いても、最後に裁くのは阿蘇だ。地を与えるのも阿蘇。取り上げるのも阿蘇。若い隆信が、それをいつまでも呑めるか」
蒲生が腕を組む。
「しかし、信房が締める」
「だから、阿蘇を同時に揺らす」
兼演の声が低くなる。
「豊後で義武が動く。秋月が測る。肥前で残党が騒ぐ。南で伊東と肝付が構える。島津が阿蘇へ寄れば寄るほど、島津を嫌う者も動く」
義祐が続けた。
「その時、隆信に文を入れる」
「何と」
「龍造寺は、阿蘇の下で終わる家か、と」
座が静まった。
その言葉は毒である。
若い武将にとって、家の名を問う言葉ほど効くものはない。
しかも、隆信は働いた。
働いた者ほど、自分の器を測りたくなる。
「乗らぬかもしれぬ」
義祐は言った。
「だが、迷えばよい」
兼演が低く笑う。
「迷いは、兵の足を止める」
「そうだ」
義祐は頷いた。
「阿蘇を倒すには、一つの刃では足りぬ。足を止め、腹を割り、手を増やさせ、目を散らせる」
◇
入来院重朝は、そこでようやく深く息を吐いた。
「しかし、それでも阿蘇は強い」
誰も否定しなかった。
重朝は続ける。
「大友を折った。肥前を押さえた。府内を生かした。降る者を残し、従う者を働かせる。あれは、ただの戦上手ではない」
「分かっている」
義祐は言った。
「大筒が怖いのではない」
蒲生が顔を上げる。
「違うのか」
「怖い。だが、それだけではない」
義祐は低く言った。
「本当に怖いのは、勝った後だ。阿蘇は勝った国をすぐ食わぬ。先に食わせる」
兼演も頷いた。
「民は腹を見て動く」
「そうだ」
義祐は言った。
「大友の名が残っても、阿蘇の米で食うようになれば、民は阿蘇を見る」
「ならば」
重朝が言う。
「根を張る前に折る」
「その通りだ」
義祐は、庭の松へ目を戻した。
「阿蘇はまだ、急に太ったばかりだ。肥後、筑後、肥前、豊後。どこも完全には根づいていない。今なら、揺れる」
「数年」
兼演が言った。
「長くても、数年だ」
義祐は頷いた。
「阿蘇が府内を完全に治め、肥前を太らせ、島津まで内に入れれば、もう遅い」
蒲生の顔が険しくなる。
「その前に」
「その前にだ」
◇
夜が近づいていた。
庭の松の影が長くなる。
風が少し冷える。
座の者たちの顔にも、夕闇がかかり始めていた。
肝付兼演は、文を畳んだ。
「島津は、おそらくこちらには来ぬ」
「来ぬなら」
蒲生が言う。
「島津も、いずれ敵だ」
「そう急ぐな」
義祐が制した。
「島津は阿蘇へ寄る。ならば、島津が肝付を見ている間、こちらは阿蘇の腹へ手を入れる」
「伊東は」
重朝が問う。
義祐の目が、静かに鋭くなる。
「伊東は、日向を守る」
「守るだけでよろしいか」
「守るために、先に動くこともある」
その言葉で、座の者たちは理解した。
守るとは、待つことではない。
伊東が日向で立つためには、阿蘇が日向へ来る前に、阿蘇の足を鈍らせねばならない。
豊後へ火を入れる。
肥前へ毒を流す。
島津を測る。
肝付を動かす。
蒲生、入来院のような反島津の国人をつなぐ。
すべてが、阿蘇を南へ向かせないための手である。
義祐は、最後に言った。
「阿蘇を侮るな」
座の者たちが顔を上げる。
「あれは、ただの肥後の山家ではない。すでに大国だ。だが、大国になったばかりの家でもある」
義祐の声は低く、はっきりしていた。
「太ったばかりの獣は、まだ足元が定まらぬ。根を張りきる前に、腹を裂く」
兼演が、ゆっくり頷いた。
蒲生茂清も、入来院重朝も、それぞれに顔を引き締めた。
外の風が、松の枝を揺らした。
今度は、先ほどよりも大きく揺れた。
義祐は、その揺れを見ながら言った。
「ここ数年のうちに、阿蘇を倒す」
そして、文机の上に手を置いた。
「まず、豊後へ文を入れよ」
兼演の目が細くなる。
「大友義武へ、でございますな」
「そうだ」
義祐は頷いた。
「大友の名を残した阿蘇に、大友の名で火を返す」
座の空気が、静かに沈んだ。
誰も笑わなかった。
義祐は、低く告げた。
「火種には、己の名を思い出させてやれ」




