第百二十二話 色蝋と約束
阿蘇の山には、もう秋の気配が濃くなっていた。
朝の風は少し冷たい。
山肌の緑も夏の勢いを失い、ところどころに薄い色を混ぜ始めている。
戦の報せ。
使者の往来。
評定の声。
文箱の音。
それらが絶えなかった阿蘇の館にも、この日はほんの少しだけ静けさがあった。
惟種は、久しぶりに自分の衣の乱れを気にしていた。
戦場へ出る時ではない。
大評定へ出る時でもない。
府内の政務へ戻る前に、少しだけ時間を取った。
加世に会うためである。
最後にゆっくり顔を合わせたのがいつだったか、すぐには思い出せない。
大友との戦。
府内入り。
旧大友家臣団の仕置。
府内復興。
肥前の戦の後始末。
島津貴久との密談。
気づけば、文では触れていても、まともに会って話す時間はほとんどなかった。
そのことを考えると、少しだけ胸のあたりが落ち着かない。
「若君」
廊の端で、新吉郎が声をかけた。
「何だ」
「その、緊張しておられますか」
「しておらぬ」
「そうですか」
「しておらぬ」
「はい」
新吉郎は、それ以上言わなかった。
言えば面倒になると知っていたからである。
惟種は咳払いを一つして、奥の小さな庭へ向かった。
◇
加世は、庭を見ていた。
薄い色の衣をまとい、縁に座っている。
まだ幼さは残る。
だが、以前より少し背筋が伸びたように見えた。
島津の姫として、阿蘇にいることの意味を、少しずつ知り始めているのだろう。
加世は足音に気づき、振り返った。
「惟種様」
その声に、惟種は少しだけ胸を突かれた。
「加世」
名を呼ぶと、加世は嬉しそうに笑った。
だが、その笑みはすぐに少しだけ曇る。
「お久しゅうございます」
「……うむ」
「本当に、お久しゅうございます」
同じ言葉を重ねられ、惟種は言葉に詰まった。
「すまぬ」
素直に頭を下げる。
加世は少し驚いた顔をした。
それから、困ったように笑った。
「責めているわけではありません」
「責めておるだろう」
「少しだけです」
その答えが、かえって胸に刺さった。
惟種は縁に腰を下ろした。
少し離れて座ろうとしたが、加世がちらりと見たので、少しだけ近づいた。
「府内が、忙しかったのですね」
「うむ」
「豊後の府内」
「そうだ」
「遠いところですか」
「阿蘇から見れば遠い。だが、海を持つには大事なところだ」
加世は頷いた。
全部を分かっているわけではなさそうだったが、聞こうとしている顔だった。
「危ないところですか」
「今は、まだ少し危うい」
惟種は正直に答えた。
「大友は残した。大友隼人も生きている。府内の町も焼き尽くしてはおらぬ。だが、だからこそ腹に火を抱える者もいる」
「また、戦になりますか」
「ならぬようにしている」
惟種は、庭の白砂を見た。
「だが、なる時はある」
加世の指が、膝の上で少し強く握られた。
惟種はそれを見て、少し声を柔らかくする。
「府内が安定したら、加世を呼ぶ」
「府内へ、ですか」
「うむ」
加世の目が、少し大きくなった。
「私が行っても、よいのですか」
「安定してからだ」
「今は駄目なのですね」
「今は駄目だ」
惟種は、すぐに言った。
「まだ見せたくないものが多い。焼け跡もある。腹の読めぬ者もいる。大友の者たちも、まだ阿蘇を測っている」
「それでも、いつか呼んでくださいますか」
「呼ぶ」
「約束ですか」
「約束だ」
加世は、それで少しだけ満足したように頷いた。
◇
惟種は、そこで小さな箱を取り出した。
きれいな箱ではない。
だが、丁寧に作られている。
中で折れぬよう、小さな仕切りも入れてあった。
加世が目を瞬かせる。
「それは?」
「土産だ」
「私に?」
「うむ」
惟種は、少しだけ目を逸らした。
「前から、作らせていた」
「作らせていた?」
「まあ、その……驚かせようと思って」
加世は箱を受け取った。
蓋を開ける。
中には、色のついた蝋の棒が並んでいた。
赤。
黄。
青。
黒。
白。
緑。
少し淡い桃色。
薄い茶。
どれも指ほどの長さで、小さな手でも握れるように作られている。
加世は、息を呑んだ。
「きれい……」
その一言で、惟種の胸の奥が少し軽くなった。
「色を塗れる蝋の棒だ」
「蝋、ですか」
「うむ。筆と違って、水も墨も要らぬ。こうして、紙や板に押しつければ色がつく」
惟種は、用意していた小さな板を一枚出した。
赤い棒を手に取り、簡単に花の形を描いてみせる。
線は少し太い。
だが、確かに赤い花になった。
加世の目が輝く。
「私も、使ってよいのですか」
「そのために作った」
加世は慎重に黄色の棒を取った。
花の真ん中へ、そっと色を置く。
黄色が乗った。
加世は、ぱっと顔を上げた。
「惟種様、色がつきました」
「うむ」
「本当に、色が」
「そうだな」
「すごいです」
その言葉に、惟種は少しだけ誇らしくなった。
だが、すぐに宗運の顔が頭をよぎる。
「あまり人に見せすぎるな」
「え?」
「宗運に怒られる」
加世は一瞬きょとんとした。
それから、口元を押さえて笑った。
「また、何か叱られたのですか」
「また、ではない」
「叱られたのですね」
「……二刻ほど」
「二刻も」
加世は今度こそ笑った。
惟種は少し不満だったが、加世が楽しそうなので黙った。
「何をそんなに叱られたのですか」
「これは、ただの絵の道具ではないらしい」
「違うのですか」
「色で場所や物を示せる。字を読めぬ者にも伝わる。だから、戦にも政にも使えると」
「まあ」
加世は手元の色蝋を見た。
「こんなにかわいいのに」
「わしもそう思った」
「宗運様は、違う見方をなさるのですね」
「違いすぎる」
加世は、赤い花に緑の葉を足しながら言った。
「でも、惟種様が作ってくださったのですね」
「うむ」
「私のために?」
惟種は、そこで少し黙った。
「……そうだ」
加世の手が止まった。
それから、花の横にもう一つ小さな花を描き始める。
「嬉しいです」
小さな声だった。
惟種は、庭の方を見た。
「そうか」
「はい」
加世は、花を見つめたまま頷いた。
「とても」
◇
しばらく、二人は板の上に色を置いていた。
加世は花を描いた。
次に山を描いた。
山はなぜか青くなり、空は少し緑になった。
惟種がそれを指摘すると、加世は少し頬を膨らませた。
「思った色でよいのです」
「そうなのか」
「はい」
「ならばよい」
惟種はそれ以上言わなかった。
やがて加世が、ふと思い出したように顔を上げる。
「惟種様」
「何だ」
「年の暮れに行った、あの会は、今年も行うのですか」
「あの会?」
「火がたくさん灯って、皆で食べて、歌って、変わったものをいただいた会です」
「ああ」
惟種は思い出した。
年末に行った、こちらの世では少し不思議に見える集まり。
寒い季節に灯を増やし、皆で食べ、子供へ少し贈り物をし、温かいものを分ける。
加世は、あれが気に入っていたらしい。
「また行う」
「本当ですか」
「うむ」
「では、あの鳥のものも?」
加世の声が、少しだけ弾んだ。
「あの、皮がぱりっとして、中が柔らかくて、香りが良くて」
「鳥の丸焼きか」
「はい。それです」
惟種は少し笑った。
「雉を取らせた時は、ずいぶん手間がかかった」
「雉」
「山に入らねばならぬ。数も安定せぬ。だから、今は鶏を増やそうとしている」
「鶏を」
「うむ。養鶏だ」
加世は、色蝋を持ったまま首を傾げた。
「鶏は、卵を産む鳥ですよね」
「そうだ。肉にもなる。卵も使える。安定して増やせれば、食が変わる」
「食が変わる」
「うむ」
惟種の目が、少し遠くを見始めた。
加世は、あ、と思った。
惟種が何かを語り始める時の顔である。
「鶏は、巣に卵が溜まると温める方へ気が向く」
「はい」
「温め始めると、卵を産むのを止める。だから、産んだ卵をこまめに取る」
「取るのですか」
「そうだ。巣を空に近くしておけば、しばらく産み続ける」
加世は、まばたきをした。
「鶏を、騙すのですか」
「騙すというか、習いを利用する」
「鶏の習いを」
「そうだ」
惟種は続ける。
「それに、餌も大事だ。糠、魚の残り、砕いた貝殻、青菜。腹と骨を保たねば、卵は続かぬ」
「貝殻も食べるのですか」
「砕けば食べる。卵の殻を作るには、そういうものが要る」
「まあ」
「産む場所も整える。暗くて狭く、獣に襲われにくい巣箱を作る。そこによく産む鶏を集める」
「鶏にも、よく産むものとそうでないものがいるのですね」
「いる。だから、よく産むものを残し、増やす。そうすれば、ただ山で鳥を追うより、ずっと安定する」
惟種は、少しだけ声に熱を帯びた。
「卵も肉も増える。祭りの時だけでなく、病人や子供にも使える。鶏糞も肥になる。無駄が少ない」
「……はい」
「加世?」
惟種は、そこでようやく気づいた。
加世の目が、少し泳いでいた。
「難しかったか」
加世は、正直に頷いた。
「少し」
「すまぬ」
「いえ」
加世は首を振った。
「惟種様が、すごいことをしているのは分かりました」
「そうか」
「でも、全部は分かりませんでした」
「うむ」
「つまり」
加世は真剣な顔で言った。
「あの美味しい鳥が、また食べられるのですね?」
惟種は一瞬、固まった。
それから、少し笑った。
「まあ、そうだ」
加世の顔がぱっと明るくなる。
「なら、よいです」
「よいのか」
「はい」
「今の話、ほとんどそこにまとめられたな」
「だって、美味しいものは大事です」
加世は胸を張った。
「惟種様も、いつも民を食わせるとおっしゃいます」
「……それはそうだが」
「なら、鳥も大事です」
惟種は、反論できなかった。
確かに、食は大事である。
◇
庭に、やわらかい風が通った。
加世は、色蝋で描いた花の横に、小さな鳥を描き足した。
丸い鳥だった。
足も短い。
鶏なのか雉なのか、惟種には分からない。
「これは、あの美味しい鳥か」
「はい」
「丸いな」
「美味しい鳥は、丸い方がよいと思います」
「そうか」
「はい」
加世は満足そうに頷いた。
惟種は、その絵を見ていた。
花。
山。
空。
丸い鳥。
戦の地図ではない。
府内の復興図でもない。
兵の配置でもない。
ただ、加世が楽しく描いた絵である。
これでよかったのだと思った。
宗運は、この色蝋筆に軍事や統治の価値を見た。
それは正しい。
惟種も、それを否定しない。
だが、最初に作ろうと思ったのは、この顔を見たかったからである。
加世が色を見て驚き、花を描き、笑う。
それだけで、作った意味はあった。
「惟種様」
「何だ」
「府内へ行ったら、これで府内を描いてもよいですか」
「うむ」
「海も」
「描けばよい」
「大友の旗も?」
惟種は少しだけ間を置いた。
「描けばよい」
「阿蘇の旗も?」
「うむ」
「では、二つ描きます」
加世は素直に言った。
「二つとも、ちゃんと」
惟種は、その言葉に少し胸を打たれた。
大友の旗。
阿蘇の旗。
府内では、その二つが並んでいる。
阿蘇の旗が少しだけ高い。
それは支配の形であり、繋ぐ縄の形でもある。
加世は、その重さを知らない。
知らないまま、二つとも描くと言った。
その無邪気さが、なぜか今はありがたかった。
◇
しばらくして、加世はふと静かになった。
「惟種様」
「うむ」
「また、遠くへ行かれますか」
惟種は、すぐには答えられなかった。
南。
肝付。
伊東。
島津貴久との約。
三年後。
加世との婚儀。
日向と大隅。
言えぬことが多すぎる。
嘘はつきたくない。
だが、すべてを話せる時でもない。
「行かねばならぬ時はある」
惟種は、そう答えた。
加世は、手元の色蝋を見た。
「危ないところへ?」
「そうだ」
「戦へ?」
「たぶん」
加世は黙った。
庭の向こうで、鳥が鳴いた。
本物の鳥である。
加世の描いた丸い鳥とは、ずいぶん違う声だった。
惟種は、加世の手元の絵を見る。
赤い花。
青い山。
緑の空。
丸い鳥。
それから、加世を見た。
「加世」
「はい」
「何があっても、お前は守る」
加世は顔を上げた。
惟種の目は、まっすぐだった。
国の話をする時、惟種は遠くを見る。
田を見る。
道を見る。
海を見る。
まだ手にしていない国まで見ている。
けれど今は、加世だけを見ていた。
「戦があっても」
「守る」
「遠くへ行っても」
「戻る」
「約束ですか」
「約束だ」
加世の胸の奥が、きゅっと熱くなった。
この人は、時々よく分からない。
鶏の卵の話をし始めれば止まらない。
色のついた蝋の棒を作って宗運に叱られる。
難しいことを、当たり前のように考える。
国を動かすようなことを、子供の贈り物と同じ顔で始めてしまう。
けれど。
今の言葉だけは、よく分かった。
守る、と言った。
何があっても、と言った。
その声に、嘘はなかった。
加世は、ゆっくり頷いた。
「では、私も」
「何だ」
「惟種様が戻られる場所を、ちゃんと守ります」
惟種は少し驚いた。
「加世が?」
「はい」
「何を守るのだ」
「まだ、分かりません」
加世は正直に言った。
「でも、きっと何かあります。惟種様が遠くを見るなら、私は近くを見るようにします」
惟種は、しばらく黙っていた。
そして、少しだけ笑った。
「それは助かる」
「はい」
「わしは、近くを見落とすことがあるからな」
「宗運様にも叱られますし」
「そこは言わなくてよい」
加世は小さく笑った。
◇
日が傾き始めた。
庭の白砂が、夕色を帯びる。
加世の描いた板にも、斜めの光が当たっていた。
赤い花。
黄色い花。
青い山。
緑の空。
丸い鳥。
どれも、上手とは言い難い。
けれど、色があった。
加世は、その板を大切そうに抱えた。
「これは、いただいてもよいですか」
「もちろんだ」
「色蝋も?」
「加世のために作った」
加世は嬉しそうに箱を閉じた。
「大事にします」
「使ってよいのだぞ」
「使います。でも、大事に使います」
「うむ」
惟種は頷いた。
加世は箱を抱え、少しだけ恥ずかしそうに言う。
「また、会いに来てください」
「来る」
「府内へ行く前にも」
「来る」
「府内へ行った後も」
「呼ぶ」
加世は、その答えに満足したように笑った。
その笑顔を見て、惟種は思った。
日向も、大隅も、府内も、肥前も、すべて遠い。
戦も、政も、火種も、まだいくらでもある。
それでも、自分が守りたいものは、案外こういう小さな場所にあるのかもしれない。
色のついた蝋の棒。
丸い鳥の絵。
年の暮れの灯。
美味しい鳥を楽しみにする声。
そして、約束を信じてこちらを見る目。
惟種は、胸の奥で静かに誓った。
何があっても守る。
それは、国への誓いとは少し違った。
けれど、国を守る理由の一つになるには、十分すぎるほど重かった。




