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火の山の若君は、未来を夢に見る ~阿蘇家嫡流の若君、名臣甲斐宗運と乱世を切り拓く~  作者: アトラス


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第百二十一話 南より来たる者

 南より、客が来ておる。


 惟豊のその一言に、惟種はすぐには返せなかった。


 南。


 その一語だけなら広い。


 島津か。

 日向か。

 肝付か。

 あるいは、もっと海の向こうを見てきた者か。


 宗運も黙っていた。

 ただし、その目はすでに細い。


 大評定は終わったばかりである。


 有馬、大村は敗れた。

 西郷、松浦は従属した。

 旧大友領は惟種に任され、宗運が補佐することも決まった。


 阿蘇は、戦の手をいったん止め、内政へ向かう。


 その場で、南からの客。


 ただの祝いの使者ではない。

 惟豊が惟種と宗運だけを残した時点で、それは分かっていた。


 惟種は、父を見た。


「どなたにございますか」


 惟豊は短く答えた。


「島津貴久殿だ」


 宗運の眉が、わずかに動いた。

 惟種も、思わず息を止める。


「貴久殿、御自らにございますか」


「うむ」


 惟豊は頷いた。


「使者では足りぬ話、ということだろう」


     ◇


 島津貴久は、派手な供を連れていなかった。


 もちろん、供が少ないわけではない。

 島津の当主が阿蘇へ来るのである。護衛も、礼も、体裁も要る。


 だが、兵を見せつけるような数ではなかった。


 脅しではない。

 媚びでもない。


 阿蘇に対し、島津の腹を見せるための来訪だった。


 通されたのは、広間ではない。


 奥寄りの一間。


 座にいるのは、阿蘇惟豊。

 その下に惟種。

 横に甲斐宗運。

 そして向かいに、島津貴久。


 貴久は深く礼を取った。


「此度は突然の来訪、失礼つかまつった」


 惟豊も礼を返す。


「貴久殿ほどの御方が自ら来られた。軽い話ではございますまい」


「軽ければ、使者で済ませました」


 貴久は静かに言った。


 その言葉だけで、座の空気が締まる。


 惟豊は促した。


「承ろう」


 貴久は懐から文を取り出し、両手で差し出した。


 宗運が受け取り、惟豊へ渡す。

 惟豊は文面へ目を落とした。


 しばらく、何も言わない。


 読み終えると、今度は惟種へ文を渡す。

 惟種も目を通した。


 文に書かれていたことは、単純だった。


 阿蘇は急に大きくなりすぎた。


 大友を降し、肥前を押さえ、筑後を飲み、海まで持った。

 だが、大きくなったばかりの国は、必ず内より揺れる。


 豊後の旧大友領には離反の兆しがある。

 肥前もまだ収まったばかり。

 有馬、大村の残党も散っている。


 阿蘇は戦乱の後始末に追われ、しばらく南を向けぬ。


 ならば、その間に動くべし。


 南より阿蘇を突けば、阿蘇は必ず割れる。


 誰が先手を取るとは、はっきり書かれていなかった。

 だが、肝付と伊東の名があった。


 宗運も文を読み終え、そっと畳の上に置く。


「なるほど」


 その声は静かだった。


「肝付と伊東は、島津を試しに来ましたな」


 貴久は宗運を見た。


「その通りだ」


 惟種は、文へ視線を落としたまま言う。


「阿蘇を討つ、というより」


「島津を阿蘇から引き剥がしたいのでしょう」


 宗運が継いだ。


「阿蘇と島津が結ぶ前に、南から割る。加世様のことがあるからこそ、今のうちに島津の腹を試す。そういう文にございます」


 貴久は、わずかに笑った。


「よく読まれる」


「読みやすい文にございます」


「そうか」


 貴久の笑みは、すぐに消えた。


「だが、笑って済む文でもない」


 惟豊は貴久を見た。


「貴久殿は、これに乗らぬと」


「乗る利がござらぬ」


 即答だった。


 貴久は姿勢を正す。


「まず、義を欠く」


 座が静まった。


「加世を、いずれ惟種殿の正室に入れる約がございます。その家を討つなど、島津の名を汚すだけにございます」


 惟種は、そこで少しだけ目を伏せた。


 加世。


 その名が出ると、どうにも腹の置き場が悪くなる。

 大筒や鉄砲の話なら平然としていられるのに、加世の名だけは違った。


 宗運は、その様子を横目で見た。

 何も言わない。

 だが、少しだけ面白そうだった。


 貴久は続ける。


「それに、利もない」


 惟豊が問う。


「利がない、と」


「はい」


 貴久の目が、静かに強くなった。


「島津が阿蘇を外から討つ。その先に何が残りましょうか。阿蘇を敵とし、加世の縁を壊し、北に大敵を作る。それで肝付と伊東が喜ぶだけなら、島津に得るものはござらぬ」


 惟豊は黙って聞いている。


「むしろ、島津は阿蘇の内に入った方がよい」


 その一言で、部屋の空気が変わった。


 惟種が顔を上げる。

 宗運の目が細くなる。

 惟豊だけは、表情を動かさない。


「阿蘇の内に、とは」


 惟豊が静かに問う。


 貴久は逃げずに答えた。


「島津は、三州を取るつもりにございます」


 薩摩。

 大隅。

 日向。


 三州。


「されど、ただ島津の名だけで三州を束ねられるとは、もはや思うておりませぬ」


 それは重い言葉だった。


 島津の当主が、自らそう言ったのである。


「阿蘇の国を見た者は、戻ってから黙りませぬ」


 貴久は言った。


「米の出し方。道の通し方。市の立て方。兵の締め方。戦の後に国を痩せさせぬ手。島津の者も、もう見てしまった」


 惟種は黙っていた。


「民は、名だけでは腹を満たさぬ」


 貴久の声は低い。


「島津である、というだけでは足りぬ時が来る。いや、もう来ておるのかもしれぬ」


 宗運が小さく息を吐いた。


 貴久は自家を卑下しているのではない。

 島津を残すために、島津だけでは足りぬと見ている。


 だからこそ、危うく、強い。


「ゆえに、三州を平らげた暁には」


 貴久は惟豊へ向き直った。


 あくまで、惟豊へである。


 阿蘇の当主は惟豊。

 惟種は次代と目される若君であって、今の当主ではない。


 貴久は、そこを違えなかった。


「島津を、阿蘇の外に立つ家ではなく、阿蘇の内に立つ家として遇していただきたい」


 座が静まり返った。


 惟豊は、すぐには答えない。


「それは」


 惟豊の声は低い。


「島津を、阿蘇の重臣として迎えよということか」


「重臣であり、外戚であり、南の押さえとして」


 貴久は答えた。


「島津は阿蘇に呑まれに来たのではござらぬ。島津を残すため、阿蘇の内で座を取る道を選びに来た」


 惟種は、その言葉をじっと聞いていた。


 外で刃を向けるより、内で座を取る。


 それは、単なる屈服ではない。

 現実を見たうえで、自分の家を最も高く残すための選択だった。


 名和がそうした。

 相良がそうした。

 龍造寺も、阿蘇の内で再び立った。

 大友もまた、隼人を残して阿蘇の下へ入った。


 島津も同じ道を求めている。


 ただし、その形は桁違いに大きかった。


     ◇


 惟豊は、ゆっくりと息を吐いた。


「重い話だ」


「承知しております」


「島津を内に入れるということは、南を得ると同時に、南の重さを背負うことになる」


「はい」


「貴久殿は、それを承知で来られたか」


「承知の上にございます」


 貴久の声は揺れなかった。


 惟豊はしばらく貴久を見ていた。


 やがて、惟種へ目を向ける。


「惟種」


「はっ」


「どう見る」


 問われた惟種は、すぐには答えなかった。


 貴久は惟豊に話を持ってきた。

 決めるのは、当主である惟豊だ。


 だが、加世を迎えるのは惟種である。

 そして島津が将来座を求める相手もまた、惟種の代の阿蘇であろう。


 だからこそ、惟豊は問うた。


 惟種は、文をもう一度見る。


 肝付。

 伊東。

 阿蘇を討つ文。

 旧大友領の火種。

 肥前の残党。

 府内の不安定。

 


 すべてが頭の中でつながっていく。


 惟種は言った。


「今すぐ、阿蘇は南へ兵を出せませぬ」


 貴久の目がわずかに動いた。


 惟種は続ける。


「阿蘇は勝ったばかりにございます。勝ちすぎた、と言ってもよい。豊後も、肥前も、筑後も、まだ根が浅い」


 宗運が静かに頷いた。


「ここで南へ兵を出せば、背に火がつきます。旧大友領で敵意あるものが動く。秋月も揺れる。肥前では大村、有馬の残党が息を吹き返す。松浦、西郷も、こちらの腹を測りましょう」


「うむ」


 惟豊が頷く。


「ならば、今は動けぬか」


「はい」


 惟種は、はっきり答えた。


「今は動けませぬ」


 貴久は、惟種をじっと見た。

 そして、少しだけ笑った。


「今すぐ出ると言われれば、かえって不安であった」


 惟種は顔を上げる。


「不安、にございますか」


「勝ったばかりの国を置いて南へ来る者は、背を見ておらぬ」


 貴久は言った。


「数年後と申す方が、よほど信じられる」


 惟種は、そこで少しだけ表情を緩めた。


「ただし」


 声を締め直す。


「約は違えませぬ」


 座が静まった。


「二年。遅くとも三年後」


 惟種は言った。


「阿蘇は伊東へ兵を出します」


 貴久の目が、静かに細くなった。


「島津は肝付を。阿蘇は伊東を、か」


「はい」


 惟種は頷く。


「肝付と伊東は、阿蘇を討てと島津に文を寄越した。こちらから火をつけたのではありませぬ。向こうが火を掲げたのです」


 宗運が言葉を添える。


「文とは、時に刀より重うございます。伊東は刀を抜く前に、敵意を書き残しました」


 貴久は文を見た。


「ならば、島津が肝付を討つは大隅の筋。阿蘇が伊東を討つは日向の筋」


「その通りにございます」


 宗運が頷いた。


 惟豊は、まだ黙っている。


 当主として、すべてを聞いていた。

 若君の大言を、そのまま許すわけではない。

 だが、止めもしない。


 惟種は、その沈黙を受けたうえで、さらに言った。


「その間、阿蘇は旧大友領を固めます。府内を太らせ、肥前を鎮め、松浦の船と西郷の道を使えるようにする。日向へ入る道も、港も、国衆も調べる」


「島津は」


 貴久が問う。


「肝付を押さえ、大隅を整えてください。伊東と肝付が手を結ばぬよう、南で締めていただきたい」


「なるほど」


 貴久は低く言った。


「今は兵を出さぬことが、南を取るための第一手か」


 宗運が答える。


「左様にございます」


     ◇


 そこで、惟種は少しだけ間を置いた。


 そして、貴久を見た。


「貴久殿」


「何か」


「昨年、加世と約しました」


 惟豊の眉が、わずかに動いた。

 宗運の目も動く。


 貴久は静かに惟種を見た。


「四年後に婚儀を上げると」


 惟種は続ける。


「ならば、あと三年にございます」


「うむ」


「その時、空の手で加世を迎えるわけには参りませぬ」


 宗運が、わずかに嫌な予感のする顔をした。


 惟種は言った。


「三年後、加世を迎える婚儀の引出物として」


 一拍。


「日向と大隅を、島津へ渡しましょう」


 部屋が、しんと静まり返った。


 惟豊が目を閉じる。

 宗運は、ほんのわずかに天井を見た。


 貴久だけが、惟種をまっすぐに見ている。


「ずいぶん大きな引出物だ」


 貴久の声には、驚きと、わずかな笑いが混じっていた。


 惟種は真顔で返す。


「加世を迎えるのです。小さなものでは釣り合いませぬ」


 宗運が、かすかに咳払いした。


「若君」


「何だ」


「言葉が大きゅうございます」


「今さらだ」


「開き直られても困ります」


 惟豊が、そこでようやく口を開いた。


「惟種」


「はっ」


「今、そなたが持ってもおらぬ日向と大隅を、渡すと言うたな」


「はい」


「その言葉の重さは分かっておるか」


「分かっております」


 惟種は、父へ向き直った。


「阿蘇が伊東を折り、島津が肝付を折る。その上で、日向と大隅を島津が治める形を、阿蘇が認める。阿蘇が支える。阿蘇の内に立つ南の重臣として、島津を立てる」


 貴久の目が、静かに強くなった。


「つまり、ただ地を渡すのではなく」


「はい」


 惟種は頷いた。


「島津が南を治める筋を、阿蘇が保証します」


 惟豊は黙った。


 長い沈黙だった。


 やがて、惟豊は貴久を見る。


「貴久殿」


「はっ」


「今の話、阿蘇の当主として、軽く受けることはできぬ」


「承知しております」


「だが、筋は見えた」


 惟豊の声は低い。


「島津は阿蘇を討たぬ。阿蘇もまた、島津を敵とはせぬ。加世殿を迎える縁を柱とし、三州の筋を共に整える」


「はい」


「今すぐではない」


「承知」


「二年、遅くとも三年。その間に、阿蘇は内を固める。島津は南を固める」


「はっ」


「その上で、阿蘇は伊東へ。島津は肝付へ」


 貴久は深く頭を下げた。


「ありがたき御裁定にございます」


 惟豊は、静かに返した。


「裁定ではない」


 貴久が顔を上げる。


「約だ」


 その一言は重かった。


 阿蘇の当主として、惟豊が約を認めたのである。


 惟種は深く頭を下げた。

 宗運もまた、頭を下げる。


     ◇


 貴久は、しばらくして静かに言った。


「肝付と伊東への返事は、どういたしましょう」


 惟豊は宗運を見た。


「宗運」


「はっ」


「文を整えよ」


「承りました」


 宗運は、すでに頭の中で文面を組み始めていた。


 島津は、肝付と伊東の誘いには乗らぬ。

 だが、ただ断るだけでは弱い。


 阿蘇へ文を見せた事実を、どう扱うか。

 相手にどこまで知らせ、どこまで隠すか。


 伊東には、阿蘇が敵意を知ったと匂わせるか。

 肝付には、島津が見限ったことを悟らせるか。


 返事は、刃より先に届く。

 それで相手の腹は揺れる。


 宗運にとって、文もまた戦だった。


 惟種は、貴久を見た。


「貴久殿」


「何か」


「加世には、まだ言わぬでください」


 貴久が少し眉を上げる。


「日向と大隅の話か」


「はい」


「なぜだ」


 惟種は、少しだけ目を逸らした。


「婚儀の時に、驚かせたいので」


 宗運は、額に手を当てかけた。


 貴久は一瞬黙り、それから低く笑う。


「なるほど」


 笑いは小さかった。

 だが、先ほどまでの重い座に、ほんの少しだけ人の温度が戻った。


「惟種殿」


「はい」


「加世は、ただの姫ではない」


「存じております」


「驚く前に、怒るやもしれぬぞ」


 惟種は、少しだけ困った顔をした。


「……それは、困ります」


 惟豊が、深く息を吐いた。


「惟種」


「はっ」


「加世殿に限らず、人を驚かせる前に、まず宗運へ相談せよ」


 宗運が、心から頷いた。


「まことに」


 惟種は、少し不満そうにした。


「またそれですか」


「またそれだ」


 惟豊の返しは早かった。


 貴久は、それを見てまた少し笑った。


 この若君は、大筒を作り、府内を降し、日向と大隅を引出物と言う。


 だが、加世のことで叱られると、年相応の顔をする。


 貴久はその顔を見て、少しだけ安堵した。


 島津が阿蘇の内へ入るということは、軽い道ではない。

 だが、この若者がただの怪物でないことは、悪いことではなかった。


     ◇


 密談は、長く続いた。


 すぐに兵を出さぬこと。

 阿蘇は旧大友領を固めること。

 島津は肝付へ備えること。

 伊東の動きを探ること。

 肝付と伊東からの文は、宗運が写しを取り、原本は阿蘇の奥に納めること。

 島津へは、鉄砲運用と兵站の一部を、段階を踏んで伝えること。

 加世の婚儀準備は、表向きゆるやかに進めること。

 だが、内々には三年後を一つの区切りとすること。


 すべてが、すぐに表へ出る話ではなかった。


 表では、阿蘇は戦を止め、内政へ向かう。

 島津は、南の国人衆と向き合う。

 肝付と伊東は、島津の返事を待つ。


 だが、この奥の一間で、すでに南九州の形は動き始めていた。


 やがて、貴久が深く頭を下げる。


「本日は、まことに」


 惟豊が頷いた。


「こちらこそ、よく来られた」


「使者では軽すぎると思い参りましたが、来た甲斐がございました」


「重い約となった」


「はい」


「違えるな」


 惟豊の声は、当主のものだった。


 貴久は、まっすぐに頭を下げる。


「島津の名にかけて」


 惟豊もまた、頷いた。


「阿蘇も、約は違えぬ」


 その言葉で、話は締まった。


     ◇


 貴久が下がった後、部屋には惟豊、惟種、宗運だけが残った。


 しばらく、誰も口を開かない。


 先に息を吐いたのは、惟豊だった。


「日向と大隅を引出物か」


 惟種は、少しだけ肩を縮めた。


「言いすぎましたか」


「言いすぎだ」


 惟豊は即答した。


 宗運も頷く。


「言いすぎにございます」


「二人で言わずとも」


「言わねば分からぬ顔をしておる」


 惟豊の声には、わずかに呆れがあった。


「だが」


 惟豊は表情を戻した。


「筋は悪くない」


 惟種が顔を上げる。


「島津を外に置けば、いずれ刃を向ける。内に入れれば、南を任せられる。大きすぎるが、阿蘇がここまで大きくなった以上、大きい手でなければ釣り合わぬ」


 宗運も静かに言った。


「問題は、二年、三年のうちに阿蘇の内をどこまで固められるかにございます」


「豊後」


「はい」


「肥前」


「はい」


「秋月や阿蘇を良く思っていない旧大友家臣」


「いずれ動きましょう」


 惟種は頷いた。


「ならば、まずはそこだ」


「はい」


 惟豊は、惟種を見る。


「惟種」


「はっ」


「南を見るのはよい。だが、足元を見ることを忘れるな」


「承知しております」


「足元を見ぬ者に、遠くは取れぬ」


「はっ」


 惟豊は、それでようやく頷いた。


「よい。府内へ戻れ。宗運、支えよ」


「はっ」


「そして」


 惟豊は少しだけ目を細めた。


「加世殿への隠し事は、ほどほどにせよ」


 惟種は、言葉に詰まった。


 宗運は、今度こそ袖で口元を隠した。


     ◇


 その夜、阿蘇の館には静かな風が吹いていた。


 表向き、何も変わっていない。


 大評定は終わった。

 肥前の仕置きも定まった。

 旧大友領の管理は惟種に任された。

 戦乱は、ひとまず終わった。


 だが、奥では新たな約が結ばれていた。


 島津は阿蘇を討たぬ。

 阿蘇は島津を敵とせぬ。


 島津は肝付へ。

 阿蘇は伊東へ。


 ただし、今ではない。


 二年。

 遅くとも三年後。


 その時、南は動く。


 宗運は、灯の下で文を整えていた。


 肝付と伊東への返事。

 島津へ渡す控え。

 阿蘇の奥に納める写し。


 どの言葉を残し、どの言葉を隠すか。

 それだけで、南の腹は揺れる。


 惟種は、別室で地図を見ていた。


 府内。

 肥前。

 筑後。

 日向。

 大隅。

 薩摩。


 遠い。


 だが、見えぬほどではない。


 昨年、加世と約した。

 四年後に婚儀。


 あと三年。


 その三年で、阿蘇はどこまで太れるか。

 島津はどこまで南を締められるか。

 そして自分は、何を持って加世を迎えるのか。


 惟種は、地図の南へ目を落とした。


 日向。

 大隅。


 大きすぎる引出物だと、父は言った。

 宗運も言った。


 だが、小さいとは思わなかった。


 加世を迎えるのだ。

 ならば、それくらいでちょうどよい。


 そう思ってしまうあたり、自分はやはり少しおかしいのだろう。


 惟種は、ひとり小さく笑った。


 その笑いは、すぐに消える。


 南の約は結ばれた。

 しかし、南へ行く前に、足元の火を消さねばならない。


 府内の闇。

 大友の残火。

 秋月の腹。

 肥前の残党。


 すべてを越えねば、日向へは届かない。


 惟種は地図を畳んだ。


 戦は、ひとまず終わった。


 だが、次の戦はもう、文の中で始まっていた。


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