第百二十四話 灯と元服
天文十八年(一五四九年)十二月。
阿蘇の山は、すっかり冬の色になっていた。
朝の庭には白く霜が降り、吐く息は薄く煙る。
昼になっても風は冷たく、廊を渡る者は肩をすくめる。
それでも、その日の館には、いつもと違う匂いが満ちていた。
焼いた鶏の匂いである。
鶏の皮に薄く塩をすり、香草を腹へ詰め、ゆっくり火を入れる。
脂が落ちるたび、炭がじゅっと鳴り、香ばしい煙が上がる。
雉ではない。
山へ追い立てて、ようやく得る鳥ではない。
阿蘇で少しずつ増やし始めた、鶏であった。
主だった家臣たちへの振る舞いは、すでに済んでいた。
惟豊も、重臣たちも、戦勝と年の暮れを兼ねた膳を受け、灯を眺め、米と酒と鶏を味わった。
その後に、もう一つ小さな座が設けられた。
若い者たちのための座である。
◇
座敷には、灯が多く置かれていた。
蝋燭だけではない。
油皿もある。
小さな紙飾りもあり、火の光を受けて壁に淡い影を作っている。
冬の夜を少しだけ明るくするための、惟種の妙な趣向であった。
そこに集められた顔ぶれは、いささか奇妙だった。
加世姫。
鍋島種茂。
樋口。
田代宗傳。
北里政久。
新吉郎。
甲斐親英。
大友隼人。
万満丸。
そして惟種のそば仕えたち。
若者中心の座。
そう言われてはいた。
だが、北里政久は座に着くなり、隣の田代宗傳へ小声で言った。
「我らは、若者に入るのでしょうか」
宗傳は、真顔で膳を見ていた。
「若君が呼ばれたなら、入るのでしょう」
「都合のよい若者ですな」
「阿蘇では、働かされる者は皆若いのでございます」
北里は、少しだけ納得したような、していないような顔をした。
樋口もまた、落ち着かない顔で周囲を見ていた。
自分はそば仕えとして呼ばれている。
それは分かる。
だが、加世姫、大友隼人、万満丸と並ぶと、どうにも場違いな気がしてならない。
その時、廊の向こうから二つの影が近づいた。
甲斐宗運。
戸次鑑連。
宗運は、当然のような顔で座敷へ入ろうとした。
戸次もまた、傷の身を支えながら、静かにその後ろへ続こうとしている。
だが、入口の前に惟豊が立っていた。
「何をしておる」
宗運は、ぴたりと足を止めた。
「若者たちの座を、少し見守ろうかと」
「見守らずともよい」
「されど、若君もおられますゆえ」
「だからこそだ」
惟豊は短く言った。
「今日は、若い者が謳歌する場だ。老兵は去れ」
宗運の目が、わずかに動いた。
「御屋形様。某は、まだ老兵というほどでは」
「老兵だ」
「戸次殿は傷の身にて、静かに見るだけなら」
戸次鑑連が、無言で頷きかけた。
惟豊は言った。
「見るだけの者が一番うるさい。去れ」
宗運は、何か言おうとしてやめた。
戸次もまた、少しだけ目を伏せた。
そのまま二人が下がりかける。
だが、宗運は座敷の中を一度だけ見た。
加世、隼人、万満丸、新吉郎、種茂は分かる。
しかし、北里、宗傳、親英、樋口もいる。
宗運は、ぽつりと言った。
「若君の人選がわからん……」
惟豊が横目で見た。
「聞こえておるぞ」
「聞こえるように申しました」
「去れ」
「は」
宗運と戸次は、追い出されるように廊の奥へ消えていった。
座敷の中で、北里が小声で言う。
「やはり、我らも違うのでは」
親英が鶏の皿を見ながら答えた。
「今さら出て行くのは損です」
宗傳が頷く。
「鶏が冷めます」
北里は、そこで黙った。
◇
膳が運ばれた。
粥ではない。
戦場の飯でもない。
白い飯、汁、漬物、甘く煮た芋、焼いた鶏。
そして、小さな菓子のようなものまであった。
加世は、鶏の皿を見た瞬間、目を輝かせた。
「これです」
惟種が少し笑う。
「覚えていたか」
「もちろんです」
「今年は雉ではない。鶏だ」
「鶏でも、美味しそうです」
「味は悪くないはずだ」
加世は慎重に一口食べた。
皮が香ばしく、身はやわらかい。
目がさらに輝く。
「美味しいです」
惟種は、それだけで少し満足した。
隼人も、最初は遠慮がちだった。
だが一口食べると、驚いたように皿を見た。
府内で食べたものとは違う。
大友の膳とも違う。
豪奢ではないが、妙に温かい味だった。
万満丸は、新吉郎に切ってもらいながら、黙々と食べている。
相良の嫡男として控えめにしようとしているのだろうが、口の動きが正直だった。
種茂は、それを見て少し笑った。
「万満丸様、ゆっくり召し上がられよ」
万満丸は、はっとして背筋を伸ばした。
「ゆっくり食うておる」
新吉郎が小声で言う。
「先ほどより、少し早うございます」
万満丸は新吉郎を見た。
「言わずともよい」
座に小さな笑いが起きた。
◇
しばらくは、思い思いの話が続いた。
親英は、松浦の船の話をしていた。
海の者は扱いにくいが、使えれば面白いという話である。
北里は筑後の村戻しについて、まだ人手が足りぬとこぼした。
宗傳は、足りぬ人手より足りぬ帳面の方が困ると淡々と言った。
樋口は、それを聞きながら何やら真剣に頷いている。
加世は、色蝋で小さな板に鶏を描いていた。
以前描いた鳥より、また丸い。
惟種はそれを見て言った。
「加世の鳥は、丸くなるな」
「美味しい鳥は丸いのです」
「そうであったな」
隼人は、その横で阿蘇の灯を見ていた。
府内の灯とは違う。
こちらは、ずっと前からそこにあったように揺れている。
その時だった。
新吉郎が、ふと箸を置いた。
「若君」
声が、いつもより真面目だった。
座の空気が少し変わる。
「何だ」
惟種が見る。
新吉郎は、少し緊張した顔で言った。
「また、大きな戦になるのでしょう?」
加世の手が止まった。
種茂が新吉郎を見た。
樋口も、息を呑む。
惟種は、すぐには答えなかった。
南の約。
肝付。
伊東。
豊後の火種。
龍造寺の揺れ。
大友義武。
田原。
秋月。
口にはしないが、戦は終わっていない。
「なるかもしれぬ」
惟種は、正直に答えた。
新吉郎は頷いた。
「なら、その時には元服します」
座が、静まり返った。
樋口の目が大きく開く。
「新吉郎」
「若君の役に立ちます」
新吉郎は続けた。
「いつまでも、子供のまま後ろで見ているだけでは嫌です。若君のそばで見てきました。府内も、肥前の報せも、万満丸様のことも、色蝋のことも」
「最後は関係あるか?」
「あります」
新吉郎は、真剣だった。
「若君のそばにいると、何が起きるか分かりませぬ。だから、ちゃんと役に立てるようになりたいのです」
樋口が、そこで顔を覆った。
「新吉郎……」
声が震えている。
種茂が横から小声で言った。
「樋口殿、泣くのは早いのでは」
「早くありませぬ」
樋口は鼻をすすった。
「立派になって……」
北里が苦笑した。
「親のようですな」
「親のようなものです」
樋口は即答した。
新吉郎は少し恥ずかしそうにしたが、目は逸らさなかった。
惟種は、新吉郎をじっと見た。
「元服すれば、子供では済まぬぞ」
「はい」
「戦に出れば、死ぬこともある」
「はい」
「役に立つとは、死ぬことではない」
新吉郎は、深く頭を下げた。
「生きて、働きます」
惟種は、少しだけ目を細めた。
その答えなら、よい。
◇
「ならば、某も」
声を上げたのは、万満丸だった。
新吉郎の横で、背筋を伸ばしている。
「万満丸様」
新吉郎が慌てて見る。
万満丸は、真剣だった。
「新吉郎が元服するなら、某もいたす」
加世が少し驚いた顔をする。
隼人も、万満丸を見た。
惟種は即座に言った。
「早い」
「早くはございませぬ」
「早い。早すぎる」
万満丸は口を結んだ。
「若君は、五つの時には元服されたと聞きました」
その言葉に、座の空気が変わった。
惟種の表情が、ほんの少しだけ静かになる。
「あれは、兄が死んだからだ」
万満丸の目が揺れた。
「兄上が死に、跡取りがわししかおらなんだから、早く元服した。誇るようなことではない」
座は静まり返った。
「元服は、早ければよいものではない。背負わねばならぬものが、早く来ただけだ」
万満丸は、何も言えなくなった。
惟種の声は厳しい。
だが、冷たくはなかった。
「万満丸」
「……はい」
「お前は、今はよく見ろ。よく食え。よく学べ。相良を背負うのは、その後でよい」
「ですが」
「お前には、父がいる。相良晴広殿がいる。家もある。ならば、今急いで大人になるな」
万満丸は俯いた。
惟種は、少しだけ声を和らげた。
「背伸びはよい。だが、背負うのはまだ早い」
万満丸は、やがて小さく頷いた。
「……承知しました」
「よい」
新吉郎が、そっと万満丸の皿に鶏を足した。
万満丸はそれを見た。
「慰めか」
「はい」
「ならば食う」
少しだけ、座の空気が戻った。
◇
新吉郎は、改めて惟種の前に進み出た。
「若君」
「何だ」
「元服の折には、若君に烏帽子親になっていただきとうございます」
樋口が、また目元を押さえた。
惟種は、少し驚いた顔をした。
「わしが?」
「はい」
「樋口ではないのか?」
惟種は素直に言った。
樋口は、涙を拭きながら顔を上げた。
「若君」
「いや、樋口がずっと見ておるだろう」
「見ております」
「なら、樋口が烏帽子親となるのが自然ではないか」
新吉郎は、少しだけ樋口を見た。
樋口もまた、新吉郎を見た。
それから、深く頭を下げた。
「若君が烏帽子親になってくださるなら、それ以上のことはございませぬ」
「樋口」
「この者が若君を望むなら、某はそれを喜びます」
樋口の声は、少し震えていた。
「悔しくないか」
「悔しゅうございます」
即答だった。
座に小さな笑いが起きた。
樋口は涙目のまま続ける。
「ですが、それ以上に嬉しゅうございます」
新吉郎の目も、少し潤んだ。
惟種は、困ったように息を吐いた。
「お前たちは、こういう時に返しにくいことを言う」
種茂が笑った。
「若君が言わせておられるのでは」
「わしがか」
「はい」
「そうか?」
加世が小さく頷いた。
「そうだと思います」
惟種は、少しだけ不服そうにした。
◇
新吉郎は、さらに頭を下げた。
「それと、恐れながら」
「まだあるのか」
「はい」
「申せ」
「若君の一字を、賜りとうございます」
座が、また静かになった。
「一字」
「はい」
「種、か」
「はい」
新吉郎は、顔を上げない。
「もともとは、島清興と名乗ろうと思っておりました。ですが、若君に烏帽子親となっていただくならば、どうか、種の字を」
惟種は、しばらく黙った。
新吉郎。
まだ子供だと思っていた。
万満丸の面倒を見て、加世の絵を見て、慌てて、笑って、怒られて。
そんな姿ばかり見ていた。
だが、この子もまた、いつまでも子供ではない。
「種の字は、軽くないぞ」
「承知しております」
「わしの字だ」
「はい」
「阿蘇の字でもある」
「はい」
惟種は、少し考えた。
「清の字は残すのだな」
「はい」
「ならば」
惟種は言った。
「島種清」
新吉郎が顔を上げた。
「島、種清」
「うむ」
「種清……」
新吉郎は、その名を口の中で何度か転がした。
そして、深く頭を下げた。
「ありがたき幸せにございます」
樋口が、とうとう声を殺して泣いた。
北里が、そっと酒の椀を差し出す。
「飲まれますか」
「今飲めば、もっと泣きます」
「では、やめておきましょう」
田代宗傳は淡々と膳を動かしながら言った。
「元服の手配は、文と日取りが要りますな」
惟種が宗傳を見る。
「今ここで仕事に戻すな」
「こういうことは、早めに帳面へ入れねば漏れます」
「宗傳まで宗運のようなことを言う」
「宗運様ほどではございませぬ」
親英が笑った。
「それはどうでしょうな」
◇
新吉郎は、座に戻った後も少し浮ついていた。
万満丸が横から小声で言う。
「種清」
新吉郎が振り向く。
「まだ元服しておりませぬ」
「だが、もう名は決まった」
「はい」
「よい名だ」
新吉郎は、少し照れた。
「ありがとうございます」
「某も、いつかよい名をもらう」
「万満丸様は、まずよく食べてください」
「それはもうしておる」
そのやり取りを、隼人は静かに見ていた。
大友の館にも、こういう場はあった。
若い者が集まり、笑い、名を語り、将来を思う場。
だが、自分の周りでは、どこか早く大人になることばかり求められていた気がする。
ここでは、早く大人になりたい者を、若君が止めた。
まだ早いと言った。
食え、見ろ、学べと言った。
それが、隼人には少し不思議だった。
自分もまた、大友の主として早く大人にならねばならない。
だが、阿蘇の下で生かされている自分は、何を見て、何を学ぶべきなのか。
隼人は、皿の上の鶏を見た。
温かかった。
◇
座敷の外、少し離れた廊で、惟豊と宗運、戸次鑑連が立っていた。
追い出されたはずの老兵たちである。
宗運は、座敷の中から漏れる笑い声を聞き、少しだけ目を細めた。
「御屋形様」
「何だ」
「結局、見ておられるではございませぬか」
「中には入っておらぬ」
「理屈にございますな」
「老兵は去った。ここは廊だ」
宗運は、何とも言えぬ顔をした。
戸次鑑連は、静かに笑った。
「よい場にございますな」
惟豊は、座敷の中の明かりを見ていた。
「若い者は、よい」
宗運が言う。
「若い者の中に、北里や宗傳や親英も混じっておりますが」
「惟種が呼んだ」
「若君の人選がわからん……」
「二度目だぞ」
「何度でも申したくなります」
惟豊は、少しだけ笑った。
「だが、悪くはなかろう」
宗運は座敷の中を見た。
加世が笑っている。
新吉郎が、いや、まだ新吉郎である少年が、名を得て背筋を伸ばしている。
万満丸が鶏を食べている。
種茂がその様子を見ている。
隼人が静かに灯を見ている。
樋口が泣いている。
北里と宗傳が困ったように笑っている。
親英が鶏の焼き加減を真剣に見ている。
確かに、悪くはなかった。
宗運は、低く言った。
「元服したなら、新吉郎はどうなさるおつもりか」
惟豊ではなく、座敷の中の惟種が決めることではある。
だが、宗運は分かっている顔だった。
惟豊が答えた。
「宗運の下につけるつもりであろう」
「やはり」
「種茂と共に働かせる」
宗運は少しだけ空を仰いだ。
「若君は、わたくしを何だと思っておられるのか」
「便利な者だ」
「御屋形様まで」
戸次が小さく笑った。
宗運はため息をついた。
「島種清、ですか」
「よい名だ」
「重い名にございます」
「だから、そなたの下へ置く」
「また仕事が増えますな」
「若い者を育てるのも、老兵の務めだ」
宗運は、先ほど自分に向けられた言葉を思い出し、苦笑した。
「老兵扱いされると、こういう時に逃げ場がございませぬな」
◇
宴は、遅くまで続いた。
酒は少ない。
子供も多い。
だから騒ぎすぎることはない。
それでも、灯は明るく、声は温かかった。
加世は、色蝋で描いた鶏の絵を新吉郎に見せた。
新吉郎は、それを見て「立派な鶏にございます」と言った。
万満丸は「丸すぎる」と言った。
加世は「美味しい鳥は丸いのです」と返した。
惟種は、またその話かと思いながら、少し笑った。
種茂は、新吉郎を見ていた。
近いうちに元服する。
島種清となる。
宗運の下で、自分と共に働くことになる。
また一人、若君のそばに立つ者が増える。
それは心強くもあり、少しだけ怖くもあった。
若君のそばに立つということは、ただ近くにいることではない。
遠いものを見せられ、重いものを持たされ、時に宗運に絞られるということでもある。
種茂は、新吉郎に小声で言った。
「覚悟しておけ」
「何をですか」
「宗運様の下は、甘くない」
新吉郎は真面目に頷いた。
「はい」
「あと、若君のそばも甘くない」
「それは、もう少し分かっております」
「ならよい」
少し離れて、樋口がまた泣きそうな顔で二人を見ていた。
◇
夜が更けていく。
外は冷たい。
だが、座敷の中は温かい。
惟種は、皆を見渡した。
加世。
種茂。
新吉郎。
万満丸。
隼人。
樋口。
宗傳。
北里。
親英。
そば仕えたち。
奇妙な人選だと宗運は言った。
確かにそうかもしれない。
島津の姫。
鍋島の若者。
文官になろうとする者。
龍造寺や相良や大友につながる子ら。
水軍の者。
筑後を押さえる者。
府内を見た者。
だが、惟種にとっては、皆どこかで未来へつながる者たちだった。
戦は、また来る。
南も、豊後も、肥前も、まだ火を抱えている。
それでも今夜だけは、灯の下で笑っていた。
新吉郎は、まだ元服していない。
島種清という名も、まだ正式なものではない。
だが、子供のままでもいられなくなっていた。
惟種は、その願いを受けた。
いつか与える一字の重さを、胸の内で静かに量りながら。
灯が揺れる。
冬の夜、阿蘇の館には、若い者たちの笑い声がしばらく絶えなかった。




