第百十八話 府内に灯るもの
天文十八年(一五四九年)八月。
府内には、まだ傷が残っていた。
港の端には、黒く焼けた杭が立っている。
砕けた桟橋の一部は取り払われたが、海へ突き出した骨のような木組みは、まだところどころに焦げを残していた。
蔵の壁にも、大筒で抉られた跡がある。
府内館の門脇も、土を盛り直し、板を当ててはいるが、傷そのものは隠しきれていない。
戦は終わった。
だが、終わったものがすぐ元へ戻るわけではない。
それでも府内は、死んでいなかった。
朝になれば、港で槌の音が鳴る。
町の辻には粥の湯気が立つ。
焼け残った店の戸が少しずつ開き、荷を背負った者が通りを行き交う。
阿蘇の兵は、槍を持って立っている。
だが、奪うためではない。
蔵を守り、道を守り、米を守り、人を守るために立っていた。
府内に残された阿蘇の常備兵は二千。
兵は港、府内館、蔵、辻、寺、そして大友隼人の御座所の周りへ置かれた。
乱妨は禁じられた。
勝手な徴発も禁じられた。
兵が町人の荷へ手を伸ばせば、その場で咎められる。
勝った家の兵とは思えぬ。
そう囁く者がいた。
だが、そう囁いた者も、粥の列から離れようとはしなかった。
◇
その朝、惟種のもとへ宗運が入ってきた。
場所は府内館の一室である。
大友の館であった場所。
今は阿蘇の政所としても使われている場所。
畳の上には、府内と周辺の見取り図が広げられていた。
港の船数。
焼けた蔵。
残った米。
逃げた商人。
戻った職人。
寺に集めた負傷者。
そして、周辺国衆の名。
樋口が少し離れて控えていた。
まだ正式に文官として役を持つわけではない。
だが、惟種のそばに呼ばれ、帳面の扱い、人の動かし方、文の出し方を見せられている。
新吉郎もまた控えていた。
ただし、こちらは少し落ち着かない。
そばには、相良から来た万満丸がいた。
相良晴広の嫡男である。
万満丸は、まだ幼い。
府内の広さも、阿蘇の兵の多さも、大友という名の重さも、すべてを理解しているわけではない。
それでも、自分がただ遊びに来たのではないことくらいは分かっているらしく、新吉郎の袖の近くで、じっと周りを見ていた。
宗運は座るなり、文を一つ置いた。
「肥後より報せにございます」
「父上は」
「客に呑まれておられますな」
宗運は、少しだけ楽しげに言った。
「戦勝祝いの使者、国人衆の挨拶、西郷からの起請、大村方の探り、ほかにも大小さまざま。阿蘇の館は、今ごろ足の踏み場もございませぬ」
惟種は、少しだけ顔をしかめた。
「父上は面倒だと思っておられるだろうな」
「思っておられましょう」
宗運は文を開いた。
「相良晴広殿が、よく補佐しておられます。客の序列、座の置き方、言葉の受け方。相良殿が間に入ることで、南の者どもも妙に落ち着いておりますな」
「晴広殿は、そういうところが上手い」
「ええ。あの御方は、刀より座で働く時の方が怖うございます」
惟種は頷いた。
「西郷は」
「起請も出すとのこと。ただし、どこまで所領を残すかで腹を探っております」
「松浦は」
「船を惜しんでおりますな。されど、海で阿蘇に逆らう怖さは分かっております。こちらが水先案内と船数の改めを求めれば、渋りつつも出すでしょう」
「大村、有馬は」
宗運の顔から笑みが薄れた。
「苛烈にございます」
惟種は目を伏せた。
「有馬晴純が死んだからか」
「はい。死んだ主の名は、時に生きた主よりも兵を縛りまする」
「大村も退かぬか」
「退きませぬ。龍造寺、鍋島に呑まれると見ております」
「龍造寺は」
「よく押しております」
宗運は別の文へ目を落とした。
「龍造寺隆信、働きが目立ちますな。若いが、槍の前へ出る。敵を押す。兵がそれを見てついていく」
惟種は少し笑った。
「隆信らしい」
「ただ、前へ出すぎるところはございます」
「そこは」
「鍋島信房殿が締めております」
「ならばよい」
惟種の声には、安堵があった。
鍋島清房は、もういない。
だが、鍋島の家は折れていない。
信房が締め、種茂がこちらにいる。
清房の死は痛い。
しかし、その遺した筋はまだ生きている。
「決着は近いか」
「近うございます」
宗運は言った。
「ただし、最後は荒れましょう。大村も有馬も、膝を折るなら早う折るべきでした。ここまで来れば、折れるにも血が要ります」
「そうか」
惟種は短く答えた。
それ以上は言わなかった。
府内には府内の仕事がある。
肥前の戦は、父と龍造寺と鍋島が受けている。
今、自分が見るべきものは、この町だった。
◇
惟種は立ち上がった。
「行く」
宗運が目を上げる。
「どちらへ」
「港と町を見る」
「誰を連れて」
「樋口、種茂、隼人、新吉郎、万満丸。戸次殿と吉岡殿にも来てもらう」
樋口の肩が、わずかに動いた。
新吉郎は目を瞬かせた。
万満丸は新吉郎の袖を見上げる。
宗運は頷いた。
◇
府内館の奥より、大友隼人が出てきた。
そばには吉岡長増がいる。
少し離れて、戸次鑑連の者も控えていた。
鑑連自身は、まだ傷の身である。
それでも今日は輿に乗り、惟種の求めに応じて出てきた。
隼人は、惟種を見ると少しだけ身を固くした。
無理もない。
この若君は、兄を討った者である。
府内に阿蘇の旗を立てた者である。
大友の政と兵を奪った者である。
だが同時に、母へ無礼をさせなかった者でもある。
大友の旗を下ろさなかった者でもある。
自分を殺さなかった者でもある。
隼人には、まだその二つを一つの形にできていない。
惟種は、その迷いをあえて見ないふりをした。
「隼人殿」
「……はい」
「府内を見るぞ」
隼人は、吉岡長増を見た。
長増が静かに頷く。
「見ておくべきにございます」
隼人は小さく頷いた。
戸次鑑連が輿の上から言った。
「若君」
「はい」
「某も、見てよろしいか」
「そのために呼びました」
惟種は答えた。
「府内は、大友の腹でもあります。戸次殿にも、吉岡殿にも、見ていただきたい」
鑑連は、しばらく惟種を見た。
「承知した」
◇
最初に向かったのは、港だった。
港はまだ完全には戻っていない。
焼け落ちた桟橋の一部は切り落とされ、新しい木材が積まれている。
海には、修理中の小舟が浮かんでいた。
職人たちが、汗を流しながら板を削り、縄を締め、杭を打っている。
そこに阿蘇の文官がいた。
腰に刀を差してはいるが、兵ではない。
手にしているのは帳面である。
そばには米俵と銭箱が置かれ、職人の名、働いた人数、使った材、直した船、明日必要な縄と鉄釘が書きつけられている。
樋口は、それをじっと見た。
惟種が言った。
「樋口」
「はっ」
「何を見る」
樋口は慌てて答えようとした。
だが、すぐには言葉が出なかった。
「船の数、でございましょうか」
「それも見る」
惟種は言った。
「だが、それだけでは足りぬ」
樋口は顔を上げた。
「船を見るな。船を直す者を見ろ」
「職人を」
「そうだ。職人が明日も来るかを見ろ。今日だけ銭を渡しても、明日来なければ港は戻らぬ」
惟種は、港の方へ目を向けた。
「木材を見るな。木材がどこから来たかを見ろ。縄を見るな。次の縄を誰が持ってくるかを見ろ。米を見るな。米を食わせたあと、その者が何を直すかを見ろ」
樋口は、息を呑んだ。
「……はい」
「帳面は、数字を書くものではない」
惟種は言った。
「明日を逃がさぬために書くものだ」
樋口は、深く頭を下げた。
種茂はその横で、黙って聞いていた。
戦ではない。
だが、命令の細かさは戦以上だった。
誰がどこへ動き、何を持ち、明日も来るのか。
若君は、そこまで見ている。
戸次鑑連は、輿の上で目を細めた。
これは施しではない。
鑑連はすぐにそう見た。
港を直す。
それは町人を助けるだけではない。
船を戻すことだ。
船が戻れば、米が来る。
米が来れば、兵が残れる。
兵が残れば、府内は乱れぬ。
府内が乱れねば、商人が戻る。
商人が戻れば、銭が巡る。
港の板一枚が、兵の腹へつながっている。
鑑連は、胸の奥で唸った。
戦を見ているようで、戦ではない。
だが、戦より深い。
◇
その後、一行は色々と見て回った。
その様子を吉岡長増は、黙って見ていた。
港。
蔵。
粥。
板札。
職人。
帳面。
阿蘇兵。
どれも一つ一つなら分かる。
米を出すことも、蔵を守ることも、職人を集めることも、大友でやらなかったわけではない。
だが、違う。
速い。
迷いが少ない。
銭を出すところにためらいがない。
そして、出した銭を逃がさぬ仕組みがある。
ただ施しているのではない。
ただ優しくしているのでもない。
府内の息を、民を握りに来ている。
長増は、そう感じた。
大友が残った。
隼人様も残った。
御母堂も無事である。
それはありがたい。
ありがたいはずだった。
だが、この光景を見ていると、胸の奥が冷えた。
府内の者は、いずれ知る。
阿蘇の下では、米が来る。
阿蘇の下では、道が直る。
阿蘇の下では、乱妨が罰せられる。
阿蘇の下では、商いが戻る。
その時、民は何を見る。
大友の名か。
阿蘇の統べか。
長増は、隼人を見た。
幼い主は、粥の列を見ている。
戸を開ける商人を見ている。
阿蘇の兵に頭を下げる大友兵を見ている。
これを見せ続けることは、大友にとって救いなのか。
それとも毒なのか。
だが、見せぬわけにはいかない。
隼人が阿蘇を敵とだけ見れば、いつか誰かがその心を使う。
義鎮様の仇と叫び、阿蘇を討てと吹き込む者が必ず出る。
その時、阿蘇はどうする。
長増には分かっていた。
阿蘇惟種は、隼人を殺さなかった。
大友の名も残した。
御母堂にも無礼をさせなかった。
府内も焼き尽くさなかった。
優しい。
そう言ってもよい。
だが、甘くはない。
次に大友の名で乱が起これば、阿蘇は大友を残す理由を失う。
その時、隼人も、大友の旗も、旧臣の誇りも、すべて消される。
長増の背中に、冷たい汗が流れた。
◇
戸次鑑連もまた、同じものを見ていた。
ただし、見る場所は少し違う。
鑑連は兵を見る。
兵の立ち位置を見る。
蔵の口を見る。
港から府内館へ通じる道を見る。
町の辻を押さえる番を見る。
粥の列に並ぶ者たちの目を見る。
阿蘇兵二千。
数だけなら、多くはない。
大友が本気で府内周辺を煽れば、足りぬほどである。
だが、その二千が、ただ固まっていない。
散っている。
散っているのに、切れていない。
蔵を押さえる兵。
港を押さえる兵。
道を見る兵。
館を守る兵。
隼人の近くにいる兵。
寺へ人を送る兵。
すべてが、何かに結ばれている。
鑑連は、戦場で感じたものを、今ここでも感じた。
列が乱れぬ。
火が切れぬ。
兵が勝手に走らぬ。
あの鉄砲の列と同じだ。
港を直す職人も、粥を配る者も、帳面をつける文官も、同じ列の中にいる。
これは、武だけの家ではない。
鑑連は奥歯を噛んだ。
大友は大きかった。
豊後、豊前、筑前、筑後。
名もあり、兵もあり、家臣もいた。
だが、勝ったあとにここまで早く国を縛る手を持っていたか。
分からない。
いや、分かっている。
なかった。
少なくとも、今ここにあるものほどには。
鑑連は、惟種の背を見た。
若い。
まだ若すぎる。
だが、この若さでこれを回している。
あるいは、この若さだからこそ、古いやり方に縛られず回せるのか。
どちらにせよ、勝てぬ。
今、槍を持って斬りかかれば討てるかもしれない。
戦場でなら、まだ隙はあるかもしれない。
だが、阿蘇という家には勝てぬ。
たとえ一度勝っても、国が戻らぬ。
民が戻らぬ。
蔵が戻らぬ。
市が戻らぬ。
城を奪い返すだけでは、もう足りない。
鑑連は、静かに息を吐いた。
隼人様を、乱の旗にしてはならぬ。
その思いが、胸の中で形を取った。
◇
町の外れに、新しい番所が作られていた。
粗末な小屋である。
だが、そこには阿蘇の兵と文官が一人ずついた。
町へ入る荷を改め、出ていく荷を書きつける。
奪うためではない。
流れを知るためである。
惟種はそこで足を止めた。
「ここはまだ仮だ」
樋口が頷く。
「はい」
「いずれ、きちんと作る。荷を止めすぎるな。だが、何が入って、何が出るかは見ろ」
「関銭は」
「軽くする。いづれ無くす」
吉岡長増が顔を上げた。
「軽く、でございますか」
「そうだ」
「府内を押さえたばかりなら、取るべきでは」
「取れば、商人は別の港へ行く」
惟種は言った。
「今ほしいのは銭ではない。荷だ。人だ。府内へ戻る流れだ」
長増は言葉を失った。
「流れが戻れば、銭は後から取れる。流れが戻らぬうちに取れば、痩せる」
惟種は、まるで田の水を見るように言った。
「港も市も水と同じだ。止めれば腐る。流せば太る」
戸次鑑連が、目を細めた。
水。
流れ。
戦ではない言葉で、国を語っている。
だが、その言葉の方が、戦の勝敗よりも重い。
吉岡長増は、深く頭を下げた。
「恐れ入りました」
惟種は少し不思議そうに見た。
「何がだ」
「いえ」
長増は顔を伏せた。
「府内を残された意味が、少し分かりました」
惟種は何も言わなかった。
◇
日が傾くころ、一行は府内館へ戻った。
隼人は疲れた顔をしていた。
だが、目は朝よりもよく動いていた。
新吉郎は、万満丸に今日見たものを小声で話している。
万満丸は、すべて分かっているわけではないが、何度も頷いていた。
樋口は、帳面を抱えたまま難しい顔をしている。
惟種が問うた。
「樋口」
「はっ」
「疲れたか」
「疲れました」
正直な答えだった。
惟種は少し笑った。
「よい」
「よいのでございますか」
「疲れぬ者は、見ていない」
樋口は、はっとした。
「今日見たものを、明日までに書け」
「すべて、でございますか」
「すべては無理だ。だから、何を見たかではなく、何がつながっていたかを書け」
樋口は深く頭を下げた。
「承知しました」
新吉郎が、おずおずと言った。
「若君」
「何だ」
「万満丸様にも、書かせますか」
万満丸が驚いた顔をした。
惟種は少し考えた。
「絵でよい」
「絵、ですか」
「今日見たものを描かせろ。港でも、粥でも、旗でもよい。丁度、色を塗れる蝋の棒を作った。試しに使ってみろ」
色を塗れる蝋の棒が何かはわからなかったが、新吉郎は頷いた。
「分かりました」
万満丸は、少しだけ目を輝かせた。
隼人が、それを横で見ていた。
自分も何かを言うべきか。
だが、何を言えばよいのか分からない。
惟種は隼人へ目を向けた。
「隼人殿」
「はい」
「疲れたか」
「……少し」
「それでよい」
隼人は目を瞬いた。
「府内を治めるとは、疲れることだ」
惟種は言った。
「人を見る。米を見る。道を見る。泣く者を見る。嘘をつく者も見る。すべて見て、それでも明日を少し良くする」
「明日を」
「そうだ」
隼人は、しばらく黙っていた。
「兄上は」
その言葉が出た瞬間、吉岡長増の肩が強張った。
だが、隼人は続けた。
「兄上は、こういうものを見ておられたのでしょうか」
惟種は、すぐには答えなかった。
戸次鑑連も、吉岡長増も、息を止めるようにして聞いていた。
「見ておられたかもしれぬ」
惟種は言った。
「見ておられなかったかもしれぬ」
隼人は顔を上げた。
「わしには分からぬ」
惟種の声は静かだった。
「だが、隼人殿は今日見た」
隼人の目が揺れた。
「見たなら、忘れるな」
それだけだった。
慰めではない。
責めでもない。
ただ、見たものを見たままにせよという言葉だった。
隼人は、小さく頷いた。
◇
その夜。
府内館の一室で、戸次鑑連と吉岡長増は向かい合っていた。
灯明の火は小さい。
外では阿蘇兵の夜番の声がする。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
先に口を開いたのは、長増であった。
「戸次殿」
「うむ」
「これは、いかが見られましたか」
鑑連は目を伏せた。
「戦ではない」
「はい」
「だが、戦より深く国を取っておる」
長増は、唇を結んだ。
「同じことを、某も思いました」
鑑連は続けた。
「港を押さえ、米を出し、商人を戻し、兵を散らし、町を荒らさぬ。あれは情けではない」
「はい」
「府内の息を握っておる」
長増は、深く息を吐いた。
「このままでは、民は阿蘇へ寄りましょう」
「寄る」
鑑連の返しは短かった。
「腹を満たされ、道を直され、荷を通されれば、人はそちらを見る」
「大友の名があっても」
「名だけでは腹は満ちぬ」
その言葉は、あまりに重かった。
長増は顔を歪めた。
「ならば、大友は」
「残すしかない」
鑑連は言った。
「阿蘇の下でな」
長増は目を閉じた。
悔しい。
あまりに悔しい。
だが、他に道がない。
「隼人様を、乱の旗にしてはなりませぬな」
長増が言った。
「ならぬ」
鑑連の声は硬かった。
「義鎮様の仇と叫ぶ者は出ましょう」
「出る」
「秋月、田原、義武殿……誰が動いてもおかしくはございませぬ」
「だからこそ、隼人様を渡してはならぬ」
鑑連は、灯明の火を見た。
「阿蘇惟種は、隼人様を殺さなかった。大友の旗も下ろさなかった。御母堂にも無礼をさせなかった」
「はい」
「だが、次はない」
長増の喉が鳴った。
「次に大友の名で乱が起これば、阿蘇は大友を残す理由を失う」
「……はい」
「若君は優しい」
鑑連は言った。
「されど、甘い方ではない」
長増は、深く頭を下げるように俯いた。
「隼人様を守らねばなりませぬ」
「うむ」
「阿蘇からも、反阿蘇の者からも」
「それが、我らの忠だ」
長増は、その言葉を胸に沈めた。
大友への忠。
それはもう、阿蘇に逆らうことではない。
大友を残すため、阿蘇の下で隼人を守ること。
屈辱である。
だが、屈辱を呑めぬ忠は、家を焼く。
長増は、そう知ってしまった。
◇
同じころ、宗運は惟種のもとへ戻っていた。
惟種はまだ起きていた。
机の上には、府内の帳面が積まれている。
米の数。
船の数。
戻った商人。
必要な木材。
足りぬ文官。
負傷者の名。
逃げた者の行方。
戦よりも、紙の方が多い。
宗運はそれを見て、少し笑った。
「若君」
「何だ」
「戸次殿と吉岡殿は、分かったようにございます」
「何をだ」
「大友が次に誤れば、名も残らぬことを」
惟種は筆を止めた。
「そうか」
「はい」
「大筒を見たからか」
「いいえ」
宗運は首を横に振った。
「粥の列と、戻り始めた市を見たからにございます」
惟種は、少しだけ笑った。
「筒より粥の方が怖いか」
「腹を満たされた者は、なかなか元の飢えへ戻りませぬ」
「そうだな」
惟種はまた筆を取った。
「ならば、もっと食わせねばならぬ」
「銭が飛びますな」
「飛ばす」
「蔵も減ります」
「減らす」
「文官も足りませぬ」
「増やす」
宗運は肩を揺らした。
「簡単におっしゃる」
「簡単ではない」
惟種は言った。
「だが、やらねば府内は痩せる。痩せた府内は、反乱の餌になる」
宗運の顔から笑みが薄れた。
「秋月、義武、田原」
「動きたければ動けばよい」
惟種の声は平らだった。
「だが、府内の民を向こうへ渡す気はない」
「民を」
「人が戻り、米が巡り、商いが立てば、乱の火は燃えにくい」
惟種は帳面へ目を落とした。
「火種を消すのは、刀だけではない」
宗運は、静かに頭を下げた。
「恐れ入りました」
「何がだ」
「若君は、やはり悪い御方にございます」
惟種は顔を上げる。
「褒めているのか」
「もちろん」
「ならばよい」
惟種は、また筆を走らせた。
◇
府内の夜に、灯が増え始めていた。
まだ阿蘇の谷ほどではない。
道の端には暗がりも多い。
焼けた蔵の影には、焦げた匂いも残っている。
それでも、昨日より一つ灯が増えた。
その明かりの下で、夜番が立つ。
その横を、粥を受け取った女が子を連れて帰っていく。
遠くの港では、明日の修理に使う木材が縄で縛られていた。
府内は、まだ阿蘇の国ではない。
だが、少しずつ阿蘇の手が入っていた。
米に。
道に。
港に。
蔵に。
人に。
夜に。
戸次鑑連は、その灯を見ていた。
吉岡長増も、同じ灯を見ていた。
大友隼人は、奥の部屋からその灯を眺めていた。
新吉郎は万満丸に、あの灯は阿蘇でよく見るものだと話していた。
種茂は、改めて惟種の凄さを感じ取った。
樋口は、今日見たものを必死に書きつけていた。
それぞれが、それぞれの形で理解し始めていた。
阿蘇は、大筒だけの家ではない。
鉄砲だけの家ではない。
戦だけの家ではない。
勝ったあとに、国の形を変える家である。
その夜、府内の町にともった灯は、まだ小さかった。
だが、その小さな灯を見た者たちは知った。
この灯が増えれば増えるほど、府内はもう、昔の府内には戻れなくなるのだと。




