第百十話 餌を撒く者
天文十八年(一五四九年)六月。
肥後、岩尾城の東。
大友義鎮は、谷の向こうに翻る阿蘇家の旗を睨んでいた。
阿蘇惟豊の旗である。
その周囲には、およそ千の兵が布陣していた。
こちらは六千。数では圧倒しているというのに、目の前の阿蘇勢は退こうともせず、こちらを待ち受けている。
義鎮には、それが気に入らなかった。
「……あそこに惟豊がおるではないか」
陣幕の中で、義鎮が口を開いた。
「見えておるな?」
戸次鑑連、吉弘鑑理、臼杵鑑速の三人が、谷の向こうへ目を向けた。
惟豊の旗は、確かによく見える。
しかし、それこそが問題だった。
谷の底には川が流れ、兵を渡すには浅瀬を選ばねばならない。渡った先には坂があり、大軍を一度に展開することも難しい。
そのような場所で、わざわざ総大将の旗を見せているのである。
「若。あの渡りへは攻め込めませぬ」
戸次鑑連が静かに告げた。
義鎮の眉が動く。
「……何?」
「あそこへ正面から兵を進めれば、相当な損害が出ます」
「六千もおるのだぞ。惟豊の兵は千ほどであろう!」
「見えておるのは千にございます」
鑑連は、谷の向こうを指さした。
「惟豊ほどの将が、兵の数で劣ると承知しながら、あのような場所で待ち受けるでしょうか。しかも、わざわざ自らの旗を見せております」
「それがどうした!」
「我らを誘っておるのでしょう」
義鎮は、不愉快そうに顔をしかめた。
吉弘鑑理が地図を広げる。
「若。こちらをご覧くだされ」
鑑理は、川とその先の坂を指した。
「兵を渡せる場所は限られております。先頭が川を越えても、その先は狭い登り坂。そこで鉄砲を撃たれれば、後続も前へ進めなくなりましょう」
「ならば、楯を持たせればよい!」
「楯だけで防ぎ切れるものではございませぬ。阿蘇の鉄砲は数が多く、射撃の訓練も行き届いております。まして高所から撃たれれば、こちらは思うように応戦もできませぬ」
臼杵鑑速もうなずいた。
「それに、島津から新納忠元が五百の兵を率いて合流していると聞いております」
「……島津がどうした」
「その五百の姿も見えませぬ。おそらく、どこかに伏せておるのでしょう」
義鎮は三人を見渡した。
「つまり、おぬしらは何が言いたいのだ?」
鑑連が答えた。
「正面からは攻められぬ、ということにございます」
義鎮の顔が険しくなった。
「攻められぬだと?」
「はい。あの渡りへ六千を押し込めば、敵の思う壺にございます」
鑑連は、少しも表情を変えなかった。
「敵は、こちらが攻めてくるのを待っております。ならば、わざわざ望みどおりに動く必要はございませぬ」
「……では、どうすると申す!」
「迂回路を探すべきかと」
臼杵鑑速が答えた。
「岩尾の周囲は険しい地形が続きますが、通れる道があの渡りだけというわけではございませぬ。物見を出し、別の進路を確かめるべきでしょう」
吉弘鑑理も言葉を継いだ。
「必要であれば夜を待ち、別の浅瀬から少数を渡す手もございます。準備もなく正面から川へ入るよりは、よほど確実にございます」
「夜まで待てというのか!」
「今は、それが得策かと」
「……ふん!」
義鎮は、露骨に不満を示した。
「迂回だの、夜を待つだの……おぬしら、それでも大友の武将か!」
三人は黙って義鎮を見つめた。
「目の前に敵がおるのだぞ! それも、たかだか千の兵ではないか! なぜ攻めぬ!」
「若。敵が千しか見えぬからこそ、攻められぬのです」
吉弘鑑理が、再び口を開いた。
「残る兵がどこにおるかも分からぬまま、あの地形へ踏み込むことはできませぬ」
「六千をもってしてもか!」
「六千を失わぬために申し上げております」
その返答に、義鎮の顔が怒りで赤くなった。
「……もうよい!」
義鎮は勢いよく立ち上がった。
「今すぐ攻めろ! 腰抜けどもが!」
鑑連も、すぐに立ち上がる。
「若! あの渡りへ兵を進めれば、相当な損害が出ます! どうかお考え直しを!」
「黙れ!」
「黙れませぬ。勝てる戦を、わざわざ負ける形にする必要はございませぬ!」
義鎮は鑑連を睨みつけた。
「……戸次。おぬしは、わしの命に逆らうのか?」
「大友家の兵を無駄に失わせぬために、申し上げております」
「吉弘! おぬしも同じ考えか!」
「はっ。今ここで正面攻撃を仕掛けるのは、危険にございます」
「臼杵!」
「拙者も同じにございます。若、今は敵の策を見極めるべきかと」
義鎮は三人を順番に睨んだ。
三人の言葉は、義鎮には臆病者の言い訳にしか聞こえなかった。
惟豊は目の前にいる。
惟種と宗運は肥前で戦っている。
これ以上の好機などないと思っているのだ。
(……どいつもこいつも、わしを馬鹿にしおって)
しばらく黙っていた義鎮が、やがて何かを思いついたように笑った。
「……よいことを考えたぞ」
鑑連が、嫌な予感を覚えた。
「若?」
「おぬしらが攻めぬというのであれば、わしが惟豊を引きずり出してやる!」
「……いかがなさるおつもりで?」
義鎮は陣幕の外へ目を向けた。
「あの町を焼く」
三人の顔が一斉に変わった。
「……何を仰せですか?」
「聞こえなんだか? わしが町を焼く、と申したのだ」
義鎮は得意げに続ける。
「惟豊は、民を大切にしておると聞く。町を焼かれ、田を荒らされれば、黙って見てはおるまい」
そして三人へ顔を向けた。
「そうすれば、惟豊も出てくるやもしれん。おぬしらも、少しはやる気が出るであろう?」
鑑連は思わず一歩前へ出た。
「若! それは当主自らが行うことではござらん! どうか再考を!」
「兵を出すのであれば、我らが手配いたします!」
吉弘鑑理も、慌てて声を上げた。
「若が御自ら危険を冒す必要はございませぬ!」
だが、義鎮の耳には、ある一言だけが残っていた。
「…………若?」
義鎮の声が低くなった。
三人は、思わず口を閉じた。
「……若、だと?」
義鎮は、ゆっくりと鑑連へ顔を向けた。
「貴様、今、何と申した?」
「……若。どうかお考え直しを」
「若ではない!!」
義鎮が怒鳴った。
「わしは殿だ!! 大友の当主だ!!」
鑑連は、黙って義鎮を見つめた。
その反応が、義鎮にはますます気に入らなかった。
「貴様ら、いつまでわしを若と呼ぶつもりだ!」
声が、陣幕の外にまで響く。
「父はもうおらぬ! 弟もおらぬ! 今、大友家を率いておるのは誰だ!」
誰も答えなかった。
「わしであろうが!」
義鎮は怒りに任せて机を叩いた。
「貴様らは、心の底からわしを殿だと思っておらんのだ!!」
三人の表情がわずかに変わった。
義鎮は、それを見逃さなかった。
「……やはりな」
怒りに歪んだ顔に、薄い笑みが浮かぶ。
「父の方がよかったか? それとも、塩市丸の方がよかったか?」
「そのようなことは申しておりませぬ」
鑑理が答えた。
「ならば、なぜわしの命に従わぬ!」
「兵を無駄に失わせぬためにございます」
「またそれか!」
義鎮は吐き捨てた。
「もうよい! おぬしらには任せておれぬ!」
そして、三人を指さした。
「ならば、ここで示してやる!! わしが大友の当主よ!!」
義鎮は勢いよく陣幕の出口へ向かった。
「馬を引け! 旗本を集めよ!」
「若!」
鑑連がなおも呼び止める。
しかし、義鎮は振り返らなかった。
「わしが町を焼く! 惟豊を引きずり出してやる!」
そして肩越しに三人を睨んだ。
「貴様らは、阿蘇が出てきたときに仕留めよ! それくらいはできよう!」
「……若!」
「これ以上、口を出すな!」
義鎮は、それだけ言い残して陣幕を出ていった。
◇
残された三人は、しばらく口を開かなかった。
最初に息を吐いたのは、臼杵鑑速だった。
「……どうにもなりませぬな」
吉弘鑑理が、苦い顔でうなずいた。
「止めれば止めるほど、意固地になられる」
戸次鑑連は、義鎮が出ていった方角を見つめていた。
「……若が町へ出れば、惟豊はどう動くでしょうな」
鑑速が尋ねた。
「分からぬ」
鑑連は短く答えた。
「惟豊は、あの程度の挑発で動くような男ではない。すでに民を逃がし始めておるという報告もある」
「では、なおさら無駄なことを……」
「だが、若が自ら馬印を立てて出られるとなれば、阿蘇も何らかの動きを見せるやもしれぬ」
鑑連は地図へ目を落とした。
「若の周囲を守る。臼杵殿は引き続き迂回路を探してくだされ。吉弘殿は正面を。阿蘇が動いても、決してあの渡りへ入ってはならぬ」
「承知した」
「分かりました」
すでに義鎮を止めることができない以上、残された三人が手を尽くすしかなかった。
「……せめて、早くこの戦を終わらせねばなりませぬな」
鑑速が、ぽつりと言った。
鑑連は静かにうなずいた。
「うむ。これ以上長引けば、家中がどうなるか分からぬ」
「……動くぞ」
「はっ」
三人は、それぞれの持ち場へ向かった。
◇
しばらくして、岩尾城の東に広がる町から黒い煙が上がり始めた。
大友勢が、家々に火を放ち始めたのである。
阿蘇家が避難を進めていたため、町にはすでに人影が少なかった。
それでも、すべてを持ち出せたわけではない。商家や蔵には荷が残り、避難に遅れた者もわずかにいた。
大友の兵は、そうした町へ入り込んだ。
戸を破り、残された品々を持ち出し、家々に火を放つ。
乾いた木材や藁へ火が移ると、炎は瞬く間に広がっていった。
「火を放て!」
「蔵もだ! 残さず焼け!」
「阿蘇の者どもに見せつけてやれ!」
兵たちの怒号が響いた。
町を離れようとしていた者たちは、背後から上がる煙を見て足を速めた。
自分たちが暮らしていた家が燃えている。
長年かけて蓄えたものが失われていく。
それでも、振り返って戻ろうとする者はいなかった。
阿蘇の役人たちから、何より命を優先せよと命じられていたからである。
燃え上がる町を、義鎮は馬上から眺めていた。
周囲には旗本が控え、大友家の馬印が高く掲げられている。
「……ふん」
義鎮は満足そうに笑った。
「どうだ、惟豊」
遠くには岩尾城と阿蘇の旗が見える。
「おぬしが銭をかけて整えた町が、燃えておるぞ」
阿蘇が町へ多くの銭を注ぎ、民を大切にしてきたことは義鎮も知っていた。
だからこそ、焼けば惟豊は黙っていないと考えていた。
「はっはっは! どうした惟豊!」
義鎮は声を張り上げた。
「大切な町が燃えておるぞ! 民を守るというなら、出てきてみよ!」
当然、その声が惟豊へ届くはずもない。
しかし、大友家の馬印さえ見えれば、それでよかった。
自ら敵を誘い出す策を考え、そのために兵まで率いてきた。
家臣たちにできなかったことを、自分がやっている。
義鎮は、そう思うほど上機嫌になった。
「もっと火を放て!」
義鎮が命じた。
「惟豊に見せつけてやるのだ!」
兵たちが、さらに町の奥へ入っていく。
家の軒先へ松明が投げ込まれ、蔵の戸が破られる。
黒煙が立ち上り、風に乗って岩尾城の方角へ流れていった。
義鎮は腰の刀を抜き放った。
「出てこい、阿蘇惟豊!!」
燃え上がる町を背に叫ぶ。
「貴様の墓場はここよ!!」
義鎮は、谷の向こうを睨んだ。
惟豊が怒りに任せて兵を出せば、それでよい。
今度こそ、戸次と吉弘に討ち取らせる。
そうすれば、家臣たちも自分を大友家の当主として認めるはずだった。
義鎮は待った。
阿蘇の旗が動くのを。
だが、谷の向こうの旗は、ただ静かに風を受けていた。




