第百十五話 謀臣、府内に入る
甲斐宗運は、海を見ていた。
陸ではない。
山でもない。
谷でもない。
海である。
肥後の山に生まれ、阿蘇の谷を知り尽くした男が、今は南蛮船の上にいる。
見据える先は、府内の港。
奇妙なものだ。
宗運はそう思った。
だが、奇妙だからよい。
戦とは、敵の思う形で始めてやる必要はない。
敵が山を見ているなら、海から行けばよい。
敵が城を固めているなら、港を焼けばよい。
敵が岩尾で勝敗を決めるつもりなら、府内を揺らせばよい。
宗運の後ろには、二千の兵がいた。
惟種が預けた兵である。
すべてが選り抜きとは言わぬ。
だが、海を渡っても騒がず、命が下るまで待てる。
それだけで十分だった。
惟種船――新型船の腹は、兵と大筒と火薬で重い。
船板が軋む。
帆が鳴る。
波が舷側を叩く。
兵の中には、海に慣れぬ者もいた。
顔を青くしている者もいる。
吐くなら吐けばよい。
怖いなら怖がればよい。
命じた時に動ければ、それでいい。
そばにいた親英が、港を見た。
「府内ですな」
「府内だ」
「大友の腹でございます」
「腹は、叩けばよく響く」
親英が、わずかに笑った。
「落とせますか」
「知らぬ」
宗運はあっさり答えた。
親英が片眉を上げる。
「知らぬ、でございますか」
「知らぬものは知らぬ。府内には兵も家臣もおる。こちらは二千。大筒はあるが、陸の奥まで食い込めば、逆に噛まれる」
「では、何をしに」
「揺らす」
宗運は、港を見たまま言った。
「府内を揺らす。大友の腹を冷やす。岩尾にいる者どもに、帰る場所が危ういと思わせる」
親英は黙った。
「若君は岩尾で刃を入れる。御屋形様は谷で大友を押さえる。ならば、こちらは府内に火を見せる」
「火を見せるだけで」
「十分な時もある」
宗運の目が細くなる。
「戦とは、斬った数で決まるものではない。敵が勝手に心を折れば、それが一番安い」
「降れば」
「儲けもの」
「降らねば」
「ゆっくりやる」
「反撃が来れば」
「逃げる」
即答だった。
「こちらには船がある。港を焼き、筒を積めるだけ積み、兵を戻せるだけ戻して逃げる。府内を落とせずとも、岩尾の大友が動けばそれでよい」
「潔いですな」
「年を取ると、退き口を残したくなる」
宗運は笑った。
だが、目は笑っていない。
府内港が近づく。
港の者たちが、ようやくこちらに気づき始めた。
指差す者。
叫ぶ者。
船を動かそうとする者。
遅い。
宗運は右手を上げた。
「撃て」
大筒が火を吐いた。
◇
港が砕けた。
最初の一撃で、桟橋の端が吹き飛んだ。
木片が宙を舞い、人が転がる。
二発目で、蔵の壁が抜けた。
俵が破れ、白い米が黒煙の中へ散る。
三発目で、小船が割れた。
船腹を裂かれた船が横倒しになり、悲鳴が港を走った。
府内の者は、まだ何が起きたか分かっていない。
敵が来た。
そう思う前に、港が壊れていた。
海から大筒が撃たれる。
それは、彼らの知る戦ではなかった。
宗運は船上から港を見下ろした。
「あまり撃ちすぎるな」
親英が振り返る。
「よろしいので」
「港を全部砕けば、こちらが降りにくい」
宗運は言った。
「使えるところは残せ。燃やす蔵と残す蔵を分けよ。船は逃がすな。ただし、入り江は塞ぐな」
「はっ」
「上陸」
命が下る。
阿蘇の兵が動いた。
小舟が降ろされる。
先手が乗る。
槍、弓、鉄砲が続く。
火縄は濡らさぬよう包まれ、楯持ちが先に立つ。
港へ上がると、抵抗はあった。
当然である。
府内は大友の本拠。
港を守る兵も、町の者も、ただ逃げるだけではない。
だが、形がなかった。
急すぎた。
海から砲声。
桟橋の破壊。
蔵の崩壊。
船の炎上。
その直後に、二千の兵が上がる。
槍を揃える前に、槍が来る。
弓を引く前に、楯が寄る。
門を閉じる前に、港の道を取られる。
阿蘇の兵は走りすぎなかった。
突っ込みすぎなかった。
港を押さえる。
道を押さえる。
火を広げすぎぬよう見る。
逃げる者を無駄に追わない。
すべて、宗運の命であった。
「府内は焼くな」
宗運は言った。
「焼けば、こちらが困る」
親英が低く笑う。
「降らせるための府内ですか」
「そうだ」
宗運は頷いた。
「灰に膝をつかせても、何も残らぬ」
◇
港の半ばを押さえると、宗運はすぐに次の命を出した。
「筒を上げよ」
新型船の腹から、大筒が一門ずつ降ろされていく。
小さきものから先に。
重きものは後に。
港の荷車が集められた。
牛馬が引き出された。
逃げ遅れた人足には、銭を見せ、米を見せ、時には槍を見せて働かせる。
道板が敷かれる。
縄がかけられる。
兵と人足が汗を流し、鉄の塊を押す。
大筒が、陸を進んだ。
親英がその様を見て言った。
「重いものですな」
「重いものが動いているのを見れば、人は逃げたくなる」
「撃つ前から、ですか」
「撃つ前からだ」
宗運は府内館の方角を見た。
館はまだ見えない。
町の屋根と煙の向こうにある。
だが、そこへ向かって大筒が動いている。
それだけでよい。
見せればよい。
近づければよい。
撃てると分からせればよい。
壊し尽くす必要はない。
壊せると思わせれば、人は考える。
考えれば迷う。
迷えば、遅れる。
遅れれば、折れる。
「まず、門の横を撃て」
宗運が言った。
「門そのものではなく、横でございますか」
「門は残せ」
「なぜ」
「降る者が出る」
親英は頷いた。
「門を壊して入れば、攻め落とした形になる。門を残して開けさせれば、降った形になる」
「左様」
宗運は笑った。
「形は大事だ。人は形に従う」
◇
府内の町には、声が走った。
「大友義鎮、討死!」
「岩尾にて阿蘇勝利!」
「降る者は助かる!」
最初に叫んだのは、阿蘇の兵である。
次に、港から逃げた者が叫んだ。
その次に、町人が叫んだ。
声は通りから通りへ移り、いつしか府内中を走った。
真か。
偽か。
誰も知らない。
宗運も、まだ知らなかった。
義鎮が本当に討たれたのか。
惟種が岩尾で勝ったのか。
惟豊が大友を押し切ったのか。
確かな報せは、まだ届いていない。
だが、宗運は言わせた。
真であればよし。
偽であっても、今この府内で真として働けばよい。
人は、噂だけでは折れない。
だが、噂の上に砲声が乗れば折れる。
港が燃えている。
阿蘇の兵が上がっている。
大筒が府内館へ向かっている。
そこで義鎮討死と聞けば、人は考える。
もし真なら。
もし本当に、岩尾で大友が負けたなら。
もし義鎮が帰らぬなら。
その「もし」が、槍を握る手を緩ませる。
「もっと言わせよ」
宗運は命じた。
「義鎮討死。阿蘇勝利。降る者は助かる。町を荒らすな。武を置けば助かる。繰り返せ」
「はっ」
「ただし、町人を斬るな。逃げる女、子供に手を出すな。乱妨した者は首を取る」
「はっ」
「府内を手に入れる前に、府内に恨まれてはつまらぬ」
◇
大筒が、府内館へ向けて撃たれた。
轟音。
町の上で、空気が震えた。
弾は門ではなく、門脇の壁を砕いた。
土と木片が舞い上がる。
館の方から悲鳴が聞こえた。
宗運は目を細める。
「近いな」
「次は門を撃ちますか」
「いや、まだ横だ」
「崩れますぞ」
「崩れかければよい」
親英は宗運を見た。
「なぜでございます」
「完全に崩れたものには、人は怒る。だが、まだ崩れきっていないものには、守れるかもしれぬと思う」
宗運は府内館を見据えた。
「守れるかもしれぬ。だが次で崩れるかもしれぬ。その間で、人は折れる」
親英が苦笑する。
「悪い御方だ」
「今さらだ」
宗運は涼しい顔で答えた。
その時、伝令が駆けてきた。
「申し上げます! 町の北より、小勢が動く気配!」
「大友か」
「おそらくは。数は多くありませぬ」
宗運は少し考えた。
「追うな」
「よろしいので」
「こちらへ向かうなら撃て。逃げるなら逃がせ。今欲しいのは府内館の心だ。小勢の首ではない」
「はっ」
また別の伝令が来る。
「東よりも、兵を集める動きあり!」
「見張れ」
「攻めてくれば」
「退け」
周囲の兵が、一瞬だけ宗運を見た。
宗運は平然としている。
「四方より本気で囲まれれば、港へ戻る。船に乗る。筒を積めるだけ積む。積めぬ筒は壊す。港に火を入れて去る」
親英が頷いた。
「退き口は」
「残してある」
宗運は府内館へ視線を戻した。
「もっとも」
一拍置く。
「そこまで大友が動けるなら、義鎮討死の声など効かぬ」
「動けぬと」
「動けぬだろうな」
宗運の声は低かった。
「府内の中だけで判断せねばならぬ者どもは、外が見えぬ。港は燃え、館は撃たれ、義鎮討死の声が走る。そこで四方をまとめて反撃せよなど、よほど腹が据わっておらねばできぬ」
「では、城代次第」
「そうだ」
宗運は言った。
「府内館を預かる者が、愚かなら戦う。賢ければ、降る」
◇
府内館の門脇は、さらに崩れていた。
宗運は三度目の砲撃を止めさせた。
まだ撃てる。
火薬もある。
弾もある。
だが、撃たない。
撃たぬ時間もまた、武器であった。
館の中の者は、次を待つ。
いつ鳴るか。
どこに落ちるか。
門か。
奥か。
隼人のいる方か。
その待つ時間が、人の腹を削る。
「撃ちませぬか」
親英が問う。
「待つ」
「何を」
「使者を」
宗運は短く答えた。
「来ますか」
「来る」
「なぜ分かります」
「今撃てば、門が崩れる。門が崩れれば、向こうは戦うしかなくなる」
宗運は言った。
「だが、門が残っている今なら、開けるという道がある」
親英は、ゆっくり頷いた。
「その道を、こちらが残している」
「そうだ」
宗運は笑った。
「向こうが選んだと思わせてな」
やがて、府内館の方から白い布が上がった。
門はまだ閉じている。
だが、門の上に白布が見える。
阿蘇の兵がざわめいた。
「白旗!」
宗運は手を上げた。
「騒ぐな」
兵たちが口を閉じる。
「撃つな。弓も引くな。使者を通せ」
「はっ」
門が、わずかに開いた。
一人の男が出てきた。
供は少ない。
武装はしている。
だが、刃は抜いていない。
吉岡長増であった。
宗運は目を細めた。
「城代が自ら来たか」
親英が言った。
「本気ですな」
宗運は姿勢を正した。
「失礼のないよう迎えよ」
◇
吉岡長増は、宗運の前に進み出た。
砲煙の匂いが濃い。
焦げた木と米と潮の匂いが混ざっている。
長増の顔は土埃で汚れていた。
だが、目は落ちていない。
宗運は内心で頷いた。
悪くない。
この男は、怖くて来たのではない。
怖さを分かったうえで来た。
「吉岡長増にございます」
長増は深く頭を下げた。
「府内館を預かる者として、甲斐宗運殿に申し入れたき儀がございます」
「聞きましょう」
宗運は答えた。
長増は顔を上げる。
「府内館は降伏します。しかし、大友家の存続を求めます」
親英の目が動いた。
周囲の阿蘇兵も、わずかにざわめく。
長増は続けた。
「大友は阿蘇の傘下に入る。兵を解き、府内館を開く。されど、大友の名を絶やすことなきよう、隼人様を大友の主として遇していただきたい」
宗運は答えなかった。
長増は、さらに頭を下げる。
「これを呑んでいただけるならば、府内館は武を解きます」
「呑まねば」
「最後まで抗いましょう」
宗運は長増を見た。
嘘ではない。
府内館は砕ける。
門も壁も持たぬ。
だが、最後まで抗うことはできる。
女も子も巻き込み、町を燃やし、大友の名を血で濡らして死ぬことはできる。
宗運は、それを望まない。
府内は灰にするより、残した方がよい。
大友は滅ぼすより、膝をつかせた方がよい。
隼人は殺すより、阿蘇の下で生かした方がよい。
答えは出ていた。
だが、すぐには言わない。
すぐに出した答えは、安くなる。
「すべてを某が決めることではござらぬ」
長増の顔がわずかに強張る。
「されど」
宗運は続けた。
「降るならば、館中の命は守りましょう。府内町への乱妨狼藉も禁じる。隼人様と御母堂にも無礼はさせぬ」
「大友家の存続は」
「御屋形様、若君へ取り次ぐ」
長増は黙った。
「ただし」
宗運の声が低くなる。
「府内館には、ただちに阿蘇の兵を入れます。武具は一所に集める。門は開く。隼人様の御座所には、こちらの兵も置く。吉岡殿には、館中を鎮めるため働いていただく」
「人質は」
「今は取らぬ」
長増の目が揺れた。
「今は、ですか」
「形は必要です」
宗運は言った。
「しかし、降りたばかりの家の心を、初手から折りすぎても扱いに困る。隼人様は大友の主として置く。だが、阿蘇の旗の下に置く」
長増は、その意味を理解した。
大友は残る。
ただし、阿蘇の下に。
「受け入れます」
長増は深く頭を下げた。
「府内館を、開きます」
宗運は頷いた。
「よろしい」
それから親英へ目を向ける。
「砲撃を止めよ」
「はっ」
「兵を整えよ。乱れるな。勝った顔をするな。府内館へ入るのは、奪いに行くのではない。受け取りに行くのだ」
「はっ」
「大友の者に無礼をした者は斬る」
兵たちの背が伸びた。
宗運は長増を見た。
「吉岡殿」
「はっ」
「ここから先は、そなたの仕事でもありますぞ」
「承知しております」
「館中を鎮めよ。阿蘇に降ったと告げよ。だが、大友は残るとも告げよ」
長増の喉が、かすかに動いた。
◇
府内館の門が開いた。
壊れかけた門であった。
門脇の壁は抉れ、土が崩れ、焦げた木の匂いが残っている。
だが、門は開いた。
砕かれて開いたのではない。
内より開かれたのである。
阿蘇の兵が入る。
足並みは揃っていた。
槍は持っている。
だが、刃は下げている。
府内館の者たちは、廊下の端や庭の隅からそれを見ていた。
怒り。
恐れ。
屈辱。
安堵。
そのすべてが入り混じった目である。
宗運は、ゆっくりと門をくぐった。
庭には、大友の旗がまだあった。
煤をかぶり、端が焦げている。
それでも、風に揺れていた。
親英が問うた。
「下ろしますか」
「下ろすな」
即答だった。
「よろしいので」
「下ろせば、家が滅びたように見える」
宗運は庭を見渡した。
「今は滅ぼしに来たのではない。降らせに来たのだ」
「では」
「阿蘇の旗を立てよ」
宗運は言った。
「大友の旗の横に」
「横に」
「ただし、少し高くな」
親英が低く笑った。
「承知」
阿蘇の兵が動いた。
旗竿が立てられる。
庭の土が掘られる。
縄が締められる。
やがて、阿蘇の旗が府内館の庭に立った。
大友の旗は下ろされなかった。
だが、その横に立つ阿蘇の旗は、わずかに高い。
それだけで十分だった。
大友は残る。
だが、もはや大友だけでは立てぬ。
館中の者たちは、それを見て理解した。
府内館は、落ちたのではない。
降ったのだ。
◇
宗運は、縁に腰を下ろした。
港の方では、まだ煙が上がっている。
だが、砲声は止んでいた。
兵は武具を集めている。
負傷者へ水を与えている。
女房衆のいる奥へは近づかぬよう命じられている。
吉岡長増は、館中を回っていた。
大友は残る。
武を解け。
阿蘇の命に従え。
隼人様は守られる。
町を荒らす者は許さぬ。
そう告げて回っている。
宗運は、それを見ていた。
使える男だ。
負けた者の中にも、使える者はいる。
むしろ、負けた時にどう動くかで、人の値は見える。
長増は、大友を残すために頭を下げた。
その顔を、宗運は覚えた。
親英が近づく。
「これで府内は押さえましたな」
「押さえた形にはなった」
「形、ですか」
「形が先だ。中身は後から入る」
宗運は言った。
「御屋形様が来る。若君も来る。その時、この旗が立っておればよい」
「必ず来ると」
「来る」
宗運は迷わず答えた。
「岩尾で、勝っていると」
「勝つ」
親英は宗運を見る。
宗運は、府内館の庭に立つ阿蘇の旗を見ていた。
「御屋形様は、勝ちきる御方だ。若君は、勝つ前から終わりを見ておられる」
宗運の声には、確信があった。
「ならば、来る。大友を退け、戸次を越え、府内へ来る」
「もしや、戸次も連れて来るやもしれませぬな」
親英が笑った。
宗運も薄く笑う。
「若君なら、やりかねぬ」
その笑みの奥には、わずかな温かさがあった。
信じている。
阿蘇惟豊を。
阿蘇惟種を。
この戦は勝てる。
ただ、勝つ場所が岩尾だけではなかったというだけである。
宗運は、海から吹く風を受けた。
府内館の上で、阿蘇の旗が揺れている。
「さて」
謀臣は、静かに呟いた。
「若君を待つとするか」
大友の旗の横で、阿蘇の旗がわずかに高く、風を受けていた。




